第1話 タンジェの洗礼 | 第2話 自由の条件 | 第3話 じだんだ | 第4話 ラマダン明け |
第5話 駱駝に揺られて | 第6話 あの目の輝きは | 第7話 インシャーラ | 第8話 値段 |
第9話 メルズーカ独り占め | 第10話 フェズ |
「こらぁっ〜!」
もう日本語である。猛ダッシュで坂を駆け上る。といっても、背と胸に大小のリュックを背負っている身。猛ダッシュは気持ちだけ。勝負は初めから決まったようなもの。逃げる彼の後ろ姿は、次の角で足のみになり、その次では音のみとなってしまう。
その昔、敵の侵入を防ぐため、わざと迷路のようにしたというモロッコのスーク、昨日着いたばかりの異邦人は、息をはずませ、悔しさをかみしめるよりすべがない。
私の剣幕に驚いていた、通りがかりの老人の、何か言いたそうな顔を残して、モロッコの海の玄関、タンジェの町は、早朝の静けさに戻っていた。
昨日、スペインの港町アルヘシラスを出た船が、ジブラルタル海峡を渡って我々を降ろしたここモロッコは、ちょうどラマダーンの最中であった。
夕方、明日の列車の確認もかねて出かけた駅で、日の沈むのを待って入った食堂は、客よりも自分達の食事をまず急ぐのか、なかなか人が出てこない。
おそらく、コカコーラと読むのでしょう。味は同じでも、なんとなく気分は違って…(マラケシュのホテルのテラスにて) |
聞くところによると、午後の6時がブレックファストだという。9時にもう一度食べ、深夜の1時に3度目を食べるという。結局ラマダンといえども、3度食事をするのである。ただそれが日没後に集中するだけだ。
これでは眠る時間もなく、昼間はおそらくボーッとしてしまうのではないだろうか。そう言えばここタンジェは、ガイド攻勢が凄まじく、もうここでモロッコがいやになってしまう人も多いというのに、港に着いた時は拍子抜けするほどもの静かであった。ひょっとしてそれは、このラマダンのおかげだったのだろうか。
そんなことを思ってはいたが、今朝7時半、まだ薄暗く人気のないスークの中を、駅へと歩いていた私に、この男が近づいてきた時は、やはりおいでなすったかと身構えた。
タンジェを案内しようというのだが、駅に向かっているのは見ればわかりそうなもの。「ノー」とつれなく断って、坂道を急いでいると、なにやら言いながら横にならんで歩いていた彼が、少し歩みを遅らせて、後ろに回ったかと思うと、ひょいと私の帽子をひったくって逃げたではないか。
「このやろう!」朝のスークにこだまする怒りの声。尻に火がついたようにスピードを加え逃げ去る彼。それにしても悔しい。まさか帽子にくるとは思ってもいなかった。
私には愛着のある帽子ではあっても、売ってお金になるような代物ではない。何か生活に困ってというより、遊びでやっているようで、よけい腹が立ってくる。
誰かに喜ばれて大事にされるのならまだしも、もう洗濯もされずに、そこらに捨てられるのかと思うと、なんだか立ち去りがたい名残惜しさを感じて……。
列車の切符はカサブランカまでしか買えず、2等で114ディラハム(12ドル)。ところがすべてコンパートメントで、座席も座り心地の良いソファー。日本の列車に慣れていると、コンパートメントは何故かデラックスに感じて、1等ではないのかと心配してしまう。
そんなコンパートメントに同席した2人の女性は、モロッコ語は勿論のこと、アラブ語、フランス語、スペイン語を話すという。英語は苦手だといいつつ、どうしてどうして、上手なものである。モロッコでは彼女のように何ヶ国語も自由に操る人に多く出会った。驚きである。
列車が動き出すとまもなく、ジュラバ姿の男が入って来た。ジュラバというのは三角のフードのついた袖以外は足首まで筒状に着るモロッコの服で、これを着るとちょうど「ゲゲゲの鬼太郎」の「ねずみ男」のような姿になり、フードで頭を覆うと誰が誰だかわからなくなってしまう。
そんな彼が、私に話し掛けてきた。なにげない会話から次第に話は次の町アシラの話に。アシラを見てからその切符で夜行に乗れば、明日の朝にはマラケシュに着ける。ここまで来てアシラに寄らない手はない、アシラで下りれば良い所に案内すると、誘うことしきり。
私は帽子事件の直後でもあって、彼の話に心動かされることなく、「ノー」を言い続けていると、アシラ近くで出て行った。
ジュラバを着て、フードをかぶると、人相風体がわからなくなる。ゲゲゲの鬼太郎に出てくる、ねずみ男を思い出してしまう。 |
やや心配そうに黙って私の方をちらちら見ていた隣の女性は、彼の出て行ったのを確認すると、「あの人よく喋ったね」と、少し安堵の表情を向けた。
後でガイドブックを読んでみると、タンジェのみならず、アシラにも要注意との投稿が載っていた。実際のところはわからないが、荷物も持たず、特急に乗って、さかんに初対面の旅人を誘っておいて、一駅で降りていくというのも妙な話である。うっかり誘いに乗っていたら、いいカモにされていたかもしれない。
私が迷うことなく断れたのは、帽子事件のおかげである。なんだか帽子が最後に、次に迫る危機の警告を残していってくれたように思えてしまう。あの帽子、何処でどうしていることか。
私はイスラム教徒ではないのだから、飲んでも食べてもかまわないはずだ。国によっては旅人もある程度規制する所もあるようだが、モロッコはそうではない。また、イスラム教徒でも、体調をこわしている人などには、コーランも断食を勧めていない。
けれど列車のコンパートメントで、バリッとクッキーをかじると、一斉にみんなの視線が集まる。別に非難の視線ではないのだろうが、こうなるとやはり食べづらい。今日は朝から食事抜きだ。食べようと思っても、町の食堂が開いていない。仕方なしのラマダーンである。
そんな思いの中、列車がカサブランカのカサ・ポール駅に着いたのは、午後の3時であった。マラケシュ行きは、別のヴォワイヤジュール駅からということで、タクシーの誘いがどっと押し寄せたが、映画で有名なカサブランカの街を、車で素通りするのも面白くなくて、リュックを背負って40分かけて歩いた。
ラマダーン期間中のためか、少々ガランとはしていたが、カサブランカには、近代的なビルが建ち並んでいた。 |
ところが、ヴォワイヤジュール駅に行ってみると、マラケシュ行きは6時半までないという。さてどうしたものか。カサブランカで一泊しようか、それともマラケシュまでもう少し頑張ろうかと思案するも、どうも空腹が気になって落ち着かない。
何処かに開いている食堂はないものかと、駅前をうろうろしてみても、食堂はあるものの、どこも椅子をテーブルの上に上げてしまって、客を受け入れていない。
皆は、夜中にたらふく食べているようなのだが、私は、いつもどおりの夕食であった。夕方近くまで食事抜きでは、目が回り、力も抜ける。これ以上歩き回りたくもなかったが、バスで行く手もありそうなので、すっかり重くなってしまったリュックを背に、タクシーを拾ってバスターミナルに行ってみた。
ところが残念、ちょうど5分前に出てしまったらしく、次は6時半までないという。結局列車と同じである。やむを得ずもう一度タクシーで駅に戻り、レストランが開店する、日没を待った。
テーブルを片付けてしまったカサブランカのレストラン。昼食はおあずけ。 |
食堂が開くと、ドッと客が集まる。私も彼らに混じって、パンとサラダとカバブとミントティと水にありつく。56ディラハム(6ドル)であった。
みんなで日暮れのブレックファストをほうばる人々の顔は、仲間と一仕事やり遂げた後のような、喜びに輝いているように思えたが、私は一人、少し恐ろしいものを感じてしまう。
というのも、一度みんなが同じことを信じ、同じことをやり始めてしまうと、そこに、別の価値観の別の行動を入れ込むのは、容易なことではないように思えたからである。
自由というのは、単に法律だけでは、守れないもののようだ。自由であるためには、普段から、実際にいろいろな現物がそこになければならない、現実が多様でなければ。
勿論、自由を保障する法律も必要である。けれど、実際にみんなが同じ方を向いて、動き出してしまうと、自由は容易に窒息させられてしまうだろう。私は昭和天皇が死んだ時の、あのテレビ放送を思い出していた。表現の自由を叫んでいた報道が、あれほど一斉に同じ映像を流し続けるとは、思ってもいなかった。
確かにラマダーンは、彼らに連帯感を生み、平等感を与えるようである。けれどそれは、自由の窒息でもある。日本もどちらかというと、一様性の強い国だと思う。外から見れば、同じような寒気を感じるのだろうか。
6時過ぎ、一斉に店は閉ざされ、迷路のようなスークの様相は一変してしまう。覚えていたはずの道順がわからなくなる。暗くなった広場では一斉に笑顔の食事が始まる。その一様性が、少々異様にも思えて… |
ともあれ、お腹は膨れ、ややこしい理屈が快い眠気に追い出される中、私を乗せた特急は、夜の10時、マラケシュ駅に到着した。夜もふけてからの宿探しを心配していたが、いざ着いてみると、なんのなんの、広大なフナ広場は、埋め尽くす人々でにぎわっていた。
まだまだこれかが食事の時間なのだろう。ずらりと並んだ屋台に、人々が群がっている。私もいそいで宿を決め、さっそくそのうちの一つに陣取り、パンとケバブとペプシを注文する。列車に揺られて少し余裕の出来たお腹は、喜んでそれを受け入れていた。
とても美味しいモロッコパン。作り方を教わりたかった。 |
ところで、モロッコのパンは、直径30cmほどに焼いたものを、ピザのように切って出されるのだが、これが実に美味しい。
味は違うが、ちょうど美味しいご飯を口にする時のような、飽きない美味しさなのである。これといって味付けをしているようでもないのだが、モグモグとパンだけを食べていてもとても美味しい。
私はグルメでもなく、そんなに食べ歩いてもいないのだが、モロッコのパンが世界一美味しかったと言いたい。日本のパン屋さんで、時々自慢のパンを買ったりもするが、それぞれ特徴のある美味しい味ではあるものの、私の舌にとっては、いまだかつて素朴なモロッコのパンに、勝る味を知らない。
茶色のパンツを、申し訳程度に腰につけただけの老人は、入ってくるなり、蒸気に包まれた薄暗い部屋の真ん中で、いきなり大理石の床に仰向けに寝転がった。
いったい何をするつもりか。
彼はその寝転がったままの体勢で、足を宙に上げ、その足先から徐々に石鹸を塗り始める。どうやら体を洗うつもりらしい。
石鹸を塗り終わると、今度は仰向けに天井を見上げて横たわったまま、足で足をこすり始めた。洗っているのである。その姿、まるでのたうち回る芋虫のよう。
目を丸くして見守る私の前で、今度は横になり、同じくくねくねと体をくねらせていたが、疲れたのか、ついにうつぶせになり、動かなくなってしまった。
驚いている私をよそに、周りの人はまったく無関心に、自分の体を洗っていた。マラケシュのハンマムでの出来事である。
マラケシュの町角。 |
ハンマムとはそもそもは、礼拝前に身を清める為のものだったのかもしれないが、まあ日本で言えば銭湯のようなものである。私はトルコでは入ったことがあったが、こちらのハンマムは10ディラハム(1ドル)と、いたって庶民的。
私の泊まっていたアリホテルは、シングル85ディラハム(9ドル)で、ホットシャワーもあったのだが、何といっても広々とした所で、ふんだんにお湯が使えるというのが魅力である。
ところでイスラムでは、下着をつけて風呂に入る。更衣室で大きな黒いゴムのバケツをもらい、褌姿でお湯の出る部屋に向かった。
余談になるが、私は若い時から褌を愛用している。いわゆる越中褌である。今様に言えばハイレグパンツとでも言おうか。実に気持ちが良いのだが、今は久しく仲間を見ない。この壮快な文化が廃れていくのは寂しい限りである。
が、まあそれはさておき、銭湯といっても湯船につかる習慣はない。バケツにお湯を汲んでそれで洗う。お湯はふんだんにあるのだが、日頃の習慣からか、下着をつけたままというのは、どうもさっぱりしない。
それでも褌は比較的洗い良いのだが、やはり腰にまとわりついていると、うざこい気分である。みんなほとんど申し訳程度につけているだけなのだから、裸の方が気持ちよかろうと思うのであるが、イスラムの信者にとっては、どうもそうはいかないらしい。
もう一つ、そうはいかないのが、風呂上りのビール。モロッコはやはりイスラムの国、高級ホテルは別かもしれないが、ハンマム帰りに町でキューっとというわけにはいかない。
私はその足でフナ広場に立ち寄り、生絞りのジュースを飲むことにした。屋台にはそれぞれ番号が付いているらしく、清算時には必ず自分の番号を言って、明日も来いと笑顔を見せる。
礼拝前には手・顔・足などを清める。これにも作法があるとのこと。大人も子供も、なれた手つきである。(フェズ、カラウィーン・モスクにて) |
かつては公開の処刑場だったというそのフナ広場では、アクロバットあり、踊りあり、演説あり、思いつく限りの大道芸が芸を競い、人々が輪になって覗き込む。
昼間そんなフナ広場で、ツアーの一人と赤い衣装の水売りとが、もめていた。写真を撮ったのだから、チップをよこせというのである。彼らはどうもみんな緊密な連携の中にあるようで、誰かが必ず観光客の一挙手一投足を見守っている。
私もスークの女性を撮りたくて、コンパクトカメラのシャッターをノーファインダーでさりげなく押していたら、レンズのかすかな駆動に気がついたのだろう、カメラを向けたのと全然違う方角から、写真を撮るなと抗議されてしまった。
フナ広場に日が暮れると、一斉に、その日初めての食事が始まる。 |
このフナ広場の芸の集大成が、マラケシュホテルで見られるというので、270ディラハム(28ドル)で予約をした。宿の食堂で出会った日本人女性に、その話をしたら、「私達も見たが、あんなバカバカしいものはないから、絶対にキャンセルした方がいい」とショーへの不満を爆発させた。
けれど、まあせっかく買ったのだからと、私は会場に出かけてみた。会場は、舞台のある大きな劇場レストランといった感じで、案内された席についていると、10皿近くの料理が運ばれてきた。
これは豪勢と、出されたその美味しいパンも含め、みんな平らげてしまったのだが、何とそれは前菜だったようだ。次にデンデンと、肉を中心にしたメインディシュが運ばれてくる。
失敗!失敗!よだれは出るが、お腹はパンパン、もう入る余地がない。恨めしい気持ちで、眺めるのみ。それならそうと先に言ってくれればいいのに!おかずは全て、一度に並べられる日本の習慣に、どっぷりとつかってしまっている私であった。
ショーの方は伝統芸能なのだが、日本の劇場やテレビ等で見られる、洗練されたものを期待すると、とても野暮ったいものに思えてしまう。彼女達の不満はもっともである。アクロバットも蛇使いも、歌も踊りも、最後に行われた期待のベリーダンスも、ショーとしてはいまいちあか抜けしない。
けれどどういうわけか、妙に印象に残ったのも事実である。その意味はわからないのだが、「エッサレ、エサレ、エッサレ、エサレ…」と、掛け声というか、歌というか、いずれも太い女性達の、体をゆすって歌っていた声が、今でも耳に残っている。
「エッサレ、エサレ…」そんな掛け声が耳に残るマラケシュホテルのディナーショウ。 |
それにしても、面白い対比であった。女性はいずれも肉づき豊かな人達なのだが、それに比べると、一緒に歌い踊り演奏する、白いジュラバ姿の男性陣は、まるでマッチ棒のように細いのである。
そんな対比で、より太さを強調された女性達の踊りは、ただただひたすら、肩や胸や、その豊かなお腹を、ブルブルブルブル小刻みに震わせるのである。日本人から見れば、なんだそれはということになるのだが、イスラムの男性にとっては、その昔、それはとてもセクシーな踊りであったのかもしれない。
コーランには、「……うっかり地団太を踏んだりして、隠していた飾りを気づかれたりしないよう 《これはくるぶし飾りをさす。そのかちゃかちゃという音は、体の一部を見せるよりもっと男の性欲をそそるものだ、と古註解はかいている》。……」〔井筒俊彦訳コーラン24光〕とある。
あの踊りはそんな地団太だったのだろうか。
ヘッドライトに照らされた、わずかばかりの前方を残して、地上が無の闇に包まれ始めた頃、バスの運転手の横で、背をかがめ西の空をうかがっていた男が、笑顔で振り返った。
ドッとみんなが詰め寄り、窓の外に目を凝らす。ワッと歓声がわく。西の空に、かすかに糸のような月が見える。一ヶ月にわたるラマダンの終わりを告げる月である。
朝の8時、30分遅れでマラケシュのターミナルを出たバスは、雪をいただいたオートアトラスの雄大な山々を越え、目を見張る断崖絶壁の道をひたすら南へ南へと突っ走った。バスの窓に展開するパノラマは、思わず声が出るほどの感動の連続であったが、私は二度目のラマダンにつき合わされていた。
まさに絶景!オートアトラス越えの大スペクタクル。 |
というのも、朝の6時、ホテルを出る時は、昨夜の話とは違って、まだ誰も起きてきていないのである。仕方なく、朝食抜きでホテルを出たのだが、ホテルを出てしまうと、そこはもうムスリムの世界、日没までみんな食べ物はおろか、水も口にしない。
バスはトイレ休憩はするものの、ランチタイムなどはなく、ひたすら南へ南へと突っ走る。東へ伸びるカスバ街道への分岐点、ワルザザートまでは、バスに外人旅行者もいて、私もクッキーを少し口にしたのであるが、そこから先へは、外人は私一人、前後左右をムスリムに囲まれて、仕方なしのラマダンである。
そのラマダンも本日で終わり。糸のようなかすかな月に、みんなの表情も明るい。
ドラア川に沿った南への道が、砂漠へと消える終点の村マハミドに着いたのは、夜の10時半になっていた。アルジェリアとの国境まで45kmというここはもう、モロッコの南というより、サハラ砂漠の北端である。広場を中心にした小さなこの村にはホテルは2軒しかなく、その一つに宿をとった。一泊20ディラハム(2ドル)である。
ホテルのロビーの片隅で、やっとありついた本日の本格的食事、クスクスを食べていると、さっそく男がやってきて、砂漠ツアーの勧誘が始まった。
聞いてみると、ランドロバーで砂丘まで行き、そこから駱駝に乗る2泊3日のツアーが、1,900ディラハムだと言う。約200ドルである。目を丸くする。日本円で考えれば、それくらいはと思われるかもしれないが、何しろ2ドルの宿にとまっている身、モロッコでは途方もなく感じてしまう。
ところが、車の維持費や、駱駝の世話は決して安くはなく、1,900ディラハムはちっとも高くはないと強気である。たとえ高くはないとしても私には無理。
そう言っていると、明日なら、ドイツ人カップルも行くから、1,750ディラハムでよいと値下げした。それでも予算オーバーだ。断っていると、1日減らして、1泊2日で1,450ディラハムではどうかときた。
けれど、今までの経験からして、到着早々セカセカともの事を決めて、ろくなことはなかった。私はとりあえず全てお断りし、隅には舞い込んだ砂の積もる、家具はベッドのみの、素朴な部屋に戻った。
砂に埋もれそうなマハミドの家々。少し歩くとマハミドは、荒涼たる砂漠に出てしまう。 |
マハミドの村は、中心の広場から10分と歩かないうちに、集落の外に出てしまう。そこから先は、もうほとんど荒涼たる土漠の連続なのだが、村の南側は、川が流れていて、その向こうはナツメヤシの林になっていた。
翌日、川を越え、一人出かけてみた。ナツメヤシの林の中は、しばらくは、畑や、それが放棄された跡のようなところが続いたが、30分も歩いた頃、前方で子供達の遊ぶ声が聞こえてきた。近寄ってみるとサッカーに興じている。
「カスバは何処?」と聞くと、すぐ近くの日干しレンガの建物を教えてくれたが、家には人がすんでいるようで、中に入るわけにもいかず、更に南へ歩くことにした。ナツメヤシの下は、あたり一面白い砂である。きっと、林の向こうには、広大な砂丘が広がるに違いないと思って。
ところが、何処まで行っても、砂地にナツメヤシの林が続く。しかも歩くうちに次第に風が強くなってきた。はじめは「少し風が出てきたな」くらいに思っていたのであるが、見る見る砂塵を巻き上げ、容赦なく顔に叩きつける。
本当の砂嵐がどういうものか私は知らないが、もう目もまともに開けていられない。私はターバンで顔を覆う。このターバン伊達ではない。砂漠では必需品である。
もうこれでは帰るしかないかと、あたりを見渡してハッとした。右も左も同じ景色なのである。「あれっ」と思った瞬間、もう方向感覚に自信がなくなってしまう。
人の感覚というのは、結構頼りないものだ。いったん崩れると、もう基点がわからず断片すら残らない。コンパスは持っていたものの、少し歩く向きがずれれば、どうなるか確かなものではない。
次第に不安が恐怖に変わる頃、4人の子供達が砂塵の中から現れた。サッカーをしていた子供達である。心配で来てくれたのか、それとも、単なる好奇心で後を追って来たのか、いずれにせよ平静を装って、大人の態度で迎えたものの、彼らの顔を見て、ホッと胸をなでおろしていたのを白状せねばならない。
私を追って来てくれた少年達。ナツメヤシの林の中にもかかわらず、背景は真っ白。子供たちの髪の毛の中も、砂だらけ。 |
そんなうしろめたさがあったのか、少しばかりのくぼみに座って、持っていたチョコレートをみんなで分け、身振り手振りで親交を深めた。
ナツメヤシの林を抜け、川辺に戻ってみると、マハミドの村は、もうもうたる砂煙にかすんでいた。乾かしておいた洗濯物は、砂で台無しである。
夕食の時、30歳くらいの男が、遊牧民の服に身を包んで、缶ビールを片手にさっそうとロビーに入って来た。ラマダン開けのお祝いだと言って、ホテルの主人と歓談している。主人は食事を終えた私を呼び、彼を紹介した。軍人だという。握手する目がきらりと光る。
「ベルベルの人の目には力がある。信じるものを守り通している輝きだろうか。」
私は、その日の日記に、そう記していた。ところが、………。
砂煙にかすむ、マハミドの村。 |
♪ 月の〜砂漠を ♪ はある〜 ばると ♪ 旅の〜駱駝は… ♪
リズムは合っていた、ゆれる駱駝の背と。けれど景色は少し違う、私のイメージと。
というのも、砂漠というとどうしても、見渡す限り砂の、大海原を想像してしまうのだが、ここマハミドは、砂地の所が多いとはいうものの、あちらこちらに草や木が生えていたり、土と石ころのいわゆる土漠であるところも少なくない。
我々の休憩中、駱駝はかってに遊びに行く。けれど前足を足幅に縛られているため、遠くへはいけない。 |
そんな中、所々に風に吹かれた砂の堆積した、砂丘がある。それが私のイメージする砂漠である。英語では dune と言って、土や石ころの荒地 desert と区別している。
勿論、所々と言っても、そこに入ってしまえば人間のスケールからすると果てしない。砂漠ツアーとは、そんな砂丘まで行って、砂の中の生活を体験するというものである。
ランドロバーで行くツアーは、本物のサハラまで連れて行くとガイドは言っていた。けれど、1,900ディラハム(200ドル)は、残念ながら私には予算オーバー。
そこでさんざん交渉して、駱駝で行く一泊二日のツアーで手を打つことにした。砂漠ミニ体験といったところか。それでも600ディラハム(63ドル)である。
朝の九時、ガイドは二頭の駱駝を連れてやってきた。フランス語は話すようだが、英語はほとんど通じない。私は彼の手振りに促され、足を折って座り込む駱駝の背にまたがった。初めての駱駝体験である。
駱駝の足の裏。動物園などで駱駝を見たことはあったが、顔やコブばかりに気をとられ、足の裏をまじまじと見たことはなかった。 |
いくつかの発見があった。まず、駱駝の足の裏。直径15cm程の丸く平たいその足の裏は、まるで柔らかいスポンジの足袋を履いたようなのである。ちょうど犬や猫の足の裏の柔らかい部分が、足の裏全体に広がったような、まさに砂の上を歩くにぴったりに出来ている。
「こんなに砂漠にぴったりの足を、アッラーでなくて誰がつくろう」コーランの台詞になりそうなことを言いたくなる。
そんな駱駝をつなぐいわゆる手綱は、駱駝の下顎に縛り付けられる。それに駱駝は、実際の気性は知らないけれど、とてもやさしい顔立ちをしている。その目がとても愛らしい。
また馬とは違ってコブがあるので、お尻の方に座ったのだが、これが結構不安定。特に小山を登ったり降りたりするときの、バランスが取れるようになるには、少しの慣れが必要であった。
よく見ると、とても可愛い駱駝の顔。ロープはアゴに縛られる。 |
昼時、砂嵐でなぎ倒されたのか、横にうねうねと伸びる、木の木陰でキャンプとなった。そこらで枯れ枝を拾って来た彼は、それに火をつけ燃えるに任せておいて、サラダ作りにとりかかる。
玉ねぎとトマト、それに緑の野菜を刻み、鰯の缶詰とオイルを加え、鍋に蓋して待つこと10分、20分…、どうやら料理はそれだけで完了のようである。時々蓋を開けて中を調べて彼は、またおもむろに蓋をする。
私がお腹をすかすまでじらすつもりか、それとも味の染まるのを待っているのか、キャンプを始めて一時間は過ぎたろう、ようやく食事にありついた。
ところが、それが実に美味しいのである。果してその美味しさは、一時間を越えるおあずけのせいだったのだろうか、それとも、あの美味しいモロッコパンとの取り合わせのためか。あるいは、あの広大な大地のせいか、それとも料理に何か秘密の技でもあったのだろうか。日本に帰ってまねをしてみたが、ついぞこの時の味は再現できなかった。
食事が終わると、ちょうど灰になった燃カスの上に、小さなポットを座らせる。灰だと座りが悪いということはない。その上結構これでお湯が沸く。お茶にはドカドカと砂糖の塊を入れ、とても甘くして飲む。
そんなに甘くしてはと眉をしかめたのだが、どういうわけか、砂漠で飲むにはぴったりの味なのである。口直しのお茶なり水が欲しくならなかったのは不思議である。
灰になってから、ポットを置く。かまどを作らずとも座り良く、煤もなく、そしてけっこう沸く。 |
終わると食器は砂で洗う。私の住んでいる所は海の近くで、白い砂浜は結構親しんでいるのだが、その砂は、例え乾いていても手や足によくくっつく。そんな砂で食べ終わった弁当箱など洗ったものなら、黒い雲母がべっとりくっついて、取るのに一苦労であろう。
ところがここの砂は実にサラサラ、砂糖でべとべとのコップも、二度ほど砂を入れて指でこすりコップを傾ければ、サラサラと砂が落ち、後はピカピカのコップが手に残っている。実に気持ちの良い砂なのである。
だから、服や敷いた毛布が、砂にまみれても、パンパンと払うだけで、全て落ちる。ゾロッと全身を布で覆ったような遊牧民の服装も、この点、実に合理的である。いくら砂まるけになったとしても、立っただけで砂は、衣服の中に残ることなく、さらりと落ちる。
ところが一つ問題があった。それはそんな砂がどうしても風に吹かれて、食べ物の中に入ってしまうのである。午後の4時頃、たどりついた広大な砂丘の端で、作ってくれた夕食のタジンは、食べるとジャリッと音がするものになっていた。
けれど粉のような砂、いちいち出すわけには行かない。そのまま食べたのだが、どういうわけか、お腹はいたって快調であった。これまたサハラの不思議である。
砂丘の麓には、そこがいつものコースになっているのだろう、立てっぱなしのテントがあった。夜はそのテントで眠る。毛布4枚で砂の上に私の寝床を作ってくれた。
4枚あれば寒くはないだろうと、もぐりこんだのだが、寒くはないものの、時々息苦しくなるほどの重たさ。
翌朝、日の出前に起き、水筒を肩に、一人砂丘に登った。前方には、見渡す限りうねうねと、砂丘の稜線が続く。
これこそまさにあの "月の砂漠" の世界。その砂漠の斜面が、朝日とともに赤く染まる、生まれたての風紋をキラキラと輝かせて。
これぞまさにイメージにあった砂漠の風景。 |
"Would you like to make love to me?"
夜の9時、そんなには明るくないホテルの、2人だけの一室でのこと。私は英語圏で生活したことはないが、この言葉は結構生々しい。
「抱いてっ…」そう言って、ベッドに誘われるような響きがある。
ゾクッとするものを背筋に感じ、口ごもった。
"Make love? To you? But man and man."
"Yes, man and man." 彼は平然とそう言い放った。
そう、彼なのである。あの彼、マハミドの宿で軍人として紹介された彼、「目に力がある」などと私が評していた彼。「信じるものを守り通している輝きだろうか…」、そんなことを、その日の日記に書いてしまったが、どうもあの輝きは別のものだったようだ。
"No! Get out of here." ついつい語気は強くなる。
この彼、久しぶりのハンマムで、マハミド以来の砂を落とし、さっぱりした気持ちで、夕食に出たところ、ホテルの前で、ばったりと出会ってしまった。仕事でここワルザザートまで来たのだという。
既にアルコールが少し入っているようであった。どうやらイスラムの国でも、ここモロッコは、メッカから遠く離れて、いろいろと自由なところもあるようである。
ワルザザード。マラケシュから来て、東へのカスバ街道の分岐点でもあり、軍事的にも重要な拠点である。 |
「これはきっとアッラーの思し召しに違いない」と、喜ぶことしきり。飲みに行こう飲みに行こうとさかんに誘う。私は呈よく断って、その代りにと食事に誘った。
「私が奢るから」と彼は言っていたが、借りをつくっても後々厄介になりそうな気がして、私が払った。ところがそのお釣りで彼は、店の人にチップの大盤振る舞い。大喜びの店の人を前に、微笑んではいたものの、「おいおい人の金で」と言いたい所。
その彼、食堂を出てからも、飲みに行こう飲みに行こうと、しつこいこと、しつこいこと。かってにタクシーを止めて、乗り込もうとしたが、少し嫌気がさしていた私は、ご自由にどうぞと、彼を無視してホテルに歩いた。そんな私を追って、彼もついてくる。まずいことに同じホテルなのである。
少々そのしつこさに、辟易してはいたものの、そのうち諦めるだろうと、私について部屋に入って来た彼と、雑談をしていたところであった。
こうなると、あやふやな返事はしていられない。"Get out!" 私は彼を追い立て、ドアを開けた。侮辱されたとでも思ったのか、毒気を含む捨て台詞を残して彼は、ドアを閉めた。むしろ怒って行った方が、跡腐れなくていい。
やれやれと胸をなで下ろしはしたものの、部屋に残る生々しさの余韻は、彼の去った後も、なかなか出て行ってはくれない。
おじさんにとっては楽しい冗談も、セクハラと訴えられるのは、ひょっとして女性をこんな気持ちにさせているのだろうか…。
翌朝、アイト・ベン・ハッドゥに行きたがっている旅人がいると、宿の人が知らせに来てくれた。
アイト・ベン・ハッドゥ。要塞の村、クサルである。 |
モロッコと言えば、土壁の要塞カスバを思い浮かべる方も多いことだろうが、オートアトラスの南には、同じように日干し煉瓦の城壁で囲まれた要塞、クサルがある。カスバはあくまで司令官など支配者の館であったのに対し、クサルは、要塞化した村で、いくつもの家族が、その中で暮らしている。
そのクサルの代表格、アイト・ベン・ハッドゥは、このワルザザートから車で30分程の所にある。ところが、交通の便が悪く、どうも車を一台、チャーターしなければならないらしい。昨日交渉したら、一人で250ディラハム(26ドル)だと言う。とても高い。私は誰か仲間がいそうなら教えてくれとたのんでおいたのであった。
町のカフェで談笑するモロッコの男達。けっこう暇そうに見える。 |
モロッコの人達は、町全体で、家族のように緊密に、連絡しあっているように思えてしまうところがある。おそらく、イスラムの団結が与える印象なのだろうが、そんな彼らは、町のあちこちにたむろしていて、よそ者が通ると、一斉に見つめる。
我々外国人は、そんな視線を一身に浴びて町を歩かなければならない。なんだかいつも監視されているような気になってしまうのであるが、逆にこういったときは都合が良い。
私は彼がいるという向かいのホテルに行った。ドアのノックに出てきた彼は、洗濯中のワイシャツを絞りながら、チェコ人だと自己紹介した。話を持ちかけると、2人でも予算オーバーだから、もう2人探し出せないものかと言う。私よりシビアー。
仕方なく通りに出たのであるが、幸運にも、町を貫くメインストリートを、ジュラバ姿で歩いている、2人の日本人に出会った。フランスに留学中とのこと、フランス語が話せれば何かと交渉にも心強い。さっそくドライバーを探し、4人で250ディラハムとの話をつけ、その車に乗り込んだ。
丘全体を、日干し煉瓦の巨大な城壁が、あたかも入り口を隠すかのように取り囲むその村は、まるで今でも砦であり続けているかのよう。その土壁に囲まれた迷路のような小道を、荷を積んだロバにまたがった老人が、ゆっくりと通り過ぎて行った。
帰り道、も一つの日干し煉瓦の要塞、ティフルトゥトに立ち寄った。こちらはその昔、司令官の住んだカスバである。
ティフルトゥトからワルザザートを眺めて。 |
美しい姿の城壁で囲まれたそのカスバの屋上に上ると、夕陽で染まった土壁の塔の向こうに、モロッコの平原が広がる。ここはあのデヴィッド・リーン監督の名画、「アラビアのロレンス」に登場したカスバだそうだ。
あっ、そう言えば、あの映画も、友情を超えた男と男の関係を描いていると評する評論家がいたような。昨夜の事、まれに見る出来事だと思っていたが、ひょっとして、そんなにめずらしくも……。
「ああ、インシャーラね」
彼はボソリとそう言って、私を見た。色あせた緑のターバンに包まれた顔が笑っている。了解とも諦めとも取れる口元である。その口元に、ゆっくりとグラスを近づけると、うまそうにお茶をすすった。ホウダホテル二階の小さなテラスでのこと、少々傾いたテーブルが、ふりそそぐモロッコの太陽の下、暖かくまぶしい。
ティネリールにて。山と積まれたオレンジの前で。 |
ワルザザートから、カスバ街道を東へバスで約4時間、ここティネリールのターミナルで下りた私に、声をかけてきた彼は、私をこのホテルに案内した。
てっきりホテルの関係者かと思っていたのだが、どうもそうではないらしい。通りの反対側で、土産物屋をやっているから、是非来いとしきりに誘うのである。
まだ旅も途中、荷物になる土産を買うのは、もう少し後にしたいと思っていた私は、きっぱり断るのも少々角が立つように思えて生返事をしていた。日本語が使えれば、「考えときます」と関西流に言いたい所だ。
そんな思いで、「明日行くよ」と逃げた所、「本当か」と返ってきた。本当だと言っておいて、後で言い訳してもいいのだが、ここは正直に「may be」と付け加えた。
「インシャーラ」それが彼の返事である。
「インシャーラ?何それ?」そう聞く私に、彼は、「神の思し召しあらば」という意味だと説明した。
コーランには、
「何事によらず、『私は明日これこれをする』と言い放ってはならない。必ず、『もしアッラーの御心あらば』と付け加えるように…」〔井筒俊彦訳 コーラン18〕
という教えがある。インド編でも紹介したのを、覚えておられるだろうか。
何と無責任なと思われるかもしれないが、私にはとても意味深い一節のように思えている。
というのも、世の宗教や賢人の教えは、全てといって良いほど、「おれが…」「私が…」と、しゃしゃり出る人の我(ガ)を問題にしているのであるが、コーランはこの点、徹底的に我(ガ)の主権を取り上げてしまう。全てアラーの成せることであると。お前らはその意に従っているだけではないかと。
こういう心の形、けっこう魅力でもある。権利は取り上げられるが、同時に責任も負わされない。結果にクヨクヨすることも、現状を妬むことも、明日にオドオドすることもない、平安の日々が約束される。
但し、もしも貴方が、全てをアッラーに委ねることが出来ればの話ではあるけれど。
実はこれがなかなかむつかしい。「ええ呪われよ…」と、コーラン初期に度々現れるこの苛立ちの表現は、ムハンマド(マホメット)自身、なかなかそうはいかなかったことを物語っているのではないだろうか。※
ともあれ、この「インシャーラ」、イスラムの国を旅する時、けっこう便利な言葉でもある。ちょっと信者の人には申し訳ない使い方かもしれないが、約束したくないけれど、角も立てたくない時に、そう言って断ると、親しみを感じてくれるのか、その後の展開が柔らかくなる。
そのインシャーラよろしく、翌朝私は、彼の店ではなく、カスバ街道きっての観光地、町から15kmほどの、トドラ渓谷を目指して歩いていた。
「オアシスの道は素晴らしい」そんなガイドブックの体験談に乗せられて、あらゆるガイドの申し出も断り、一人歩くことにしたのであるが、決して歩くことの嫌いでない私でも、だんだんうんざりしてくる。
オアシスの道。といっても、連なった一本の道というより、畑仕事のための道。 |
道は村の人が、畑仕事に利用するためのもののようで、多岐に分かれ、少し太い道だと思って安心していると、土壁の家で囲まれた村に入って、抜けられなくなってしまう。
また後戻りして歩いていると、今度は川を渡らねばならなくなる。途中出会った人に道を尋ねても、上流を指差し「ウィ、ウィ」と言うのみで、なんともならない。
まさにインシャーラなのだが、気持ちは平安どころかイライラ。もうどうにでもなれとやけっぱちになってくる頃、ようやく車の走る道路に辿り着いた。
そこからも、果たしてどのくらい歩いたであろう、もういいかげんいやになった頃、やっとトドラ渓谷の入り口に着く。9時半に歩き始めたのだから、4時間近く歩いたことになる。時刻は午後の2時近くになっていた。
しかしさすがに凄かった。天を突く岩壁が、ほぼ垂直に切り立ったトドラの渓谷は。見上げると、あまりにも空を仰ぐその姿勢に、思わず足元のバランスを崩してふらついてしまう。
岩壁が重苦しく両側に押し迫る狭間を歩いていると、長い道のりで汗ばんだ肌に、冷たく気持ちよい谷底の風が、霊気さえ漂わせているように思えてくる。
さすがに息を呑むトドラ渓谷の絶景。あまりの見上げた姿勢に、めまいがしそう。 |
ところで、帰りもオアシスの道に入ってまた迷ってしまった。見覚えのある道だと思って、歩いていたのだが、全然違う方向に進んでしまい、途方にくれているとき、後ろからやってくる老人に出会った。
これ幸いと、町への道を聞くと、ついて来いという。やれやれと歩き始めたのであるが、この長身の老人、ジュラバの下に隠れた足は特別長いのか、とても早足。まるで私は、遅れまいと小走りに後を追いかける子供のよう。
彼は車の音の聞こえる道の下まで私を連れてくると、渡そうとしたお礼のチップを受け取ろうともせず、握手をして悠然と去っていった。
我々の金銭感覚とは違って、喜捨はイスラム教徒の義務。単に好意を受けたつもりが、その喜捨を期待されて、どぎまぎしてしまうこともあるこのモロッコで、たんたんと去り行く彼の後姿に、一期一会にも似た、東アジア的インシャーラを感じてしまったのは、気持ちまで歩き疲れていたのだろうか。
「レッツゴー!」
後ろの席で叫ぶそんな女性の声に意を決したのか、重い音を残してバスは、トラックの横をぎりぎりですり抜け、渋滞の先頭に出た。
その先は一面を覆う茶色の濁流が、右手彼方の藪に向かって、われ先にともぐり込んでいる。昨夜からの雨で、川が氾濫したのである。濁流の深さもさることながら、そこにあるはずの橋を踏み外しでもすれば、そこから先は映画の一シーンになろう。
運転手はその見えぬ道筋を読むかのように、しばらく前方をじっと見つめていたが、やがて二度三度アクセルを踏み込むと、ゆっくりとその濁流の中にバスの前輪をもぐらせていった。
降りしきる雨が、顔を寄せる窓のガラスを叩いている。まさか、サハラの北のカスバ街道で、洪水に遭おうとは思ってもいなかった。
ティネリールのはずれの川の氾濫で、行く手を阻まれて立ち往生。まさか砂漠のイメージのモロッコで洪水にあおうとは… |
「リッサニーまで行けば、4WDは安い。」そうポツリともらしたあの緑ターバンの男の言葉に賭けてみることにした私は、とにかくエルフードまで行こうとバスに乗りこんでいた。
そのエルフードまでのバスは、ガイドブックにも詳しく書かれていたが、そこから先がどうもはっきりしない。どうやらバスは定期には無いようで、車をチャーターしなければならないらしい。
ところが、このモロッコ、チャーターとなると値段の交渉が一苦労なのである。慣れない私などは、その交渉だけでもう疲れてしまう。
例えば町で、ちょっと面白いものを見つけても、値段がわからない。いくらだと聞けば、たいがいは途方もない高値を言われてしまう。「それは高い」というと、必ず「じゃあ、いくらなら買う?」と返ってくる。
日本人なら、例えば千円と言われたら、いくら頑張っても五百円にまけさせるのが精一杯ではないだろうか。まさか、百円にせよとは言いづらい。もうその時点で、こちらの負けである。「五百円」とでも言おうものなら、顔は渋っていても、心では、しめしめと思っているに違いない。
マラケシュのスークで、150ディラハムと言われたターバンを、頑張って頑張って、70ディラハムで買った。
半値以下だからまあまあの金額かと思っていたが、やっと聞き出したモロッコ人の相場をもとにワルザザートで、こちらから値を言って交渉してみたら、すんなり40ディラハムまで値を下げた。
そのワルザザートで、お茶のポットの値を聞いたら、250ディラハムだと言う。これも頑張って頑張って、180ディラハムで買ったのだが、フェズで交渉してみたら、40ディラハムになった。
いずれも後の祭り、悔しいけれどモロッコでは連敗である。
スークには興味をそそられるものが山とあるが、値段を聞き出すのが大変。(マラケシュにて) |
値段というと我々はどうしても、材料がいくらで、手間がいくらで…というように足し算で考えてしまう。けれどここでは少し違うようだ。
私の想像だが、その昔、駱駝に乗った商人は、そんなふうには考えなかったのだろう。東の珍しい品を、西の金持ちがいくらで買うかこそが、問題であったのではないだろうか。つまり、客の払った値段こそが、その商品の正当な値段ということだ。
この点を呑みこめないと、モロッコ人はみんな悪い人になってしまう。よくホテルには、旅人の書き込みノートがある。そんな中、この人はいい人だとか、あの人は要注意と、あとから来る人の為に、日本人の覚書が残されている。
同じような価値観をもつ私としては、大いに助かる情報なのだが、それをモロッコの人に言っても、おそらくきょとんとされるのではないだろうか。
ティネリールで、トドラめざして歩いていた時、ガイドはどうかと、男がノートを手に近づいて来た。見ると、日本人の残したそのメモには、「この男は、不誠実だから、ぼられないように気をつけろ」と書かれていた。
よもやそんなことが書かれていようとはつゆ知らぬ彼、それを見せて得意げである。おそらく彼は、客の払った金額の多さは、その満足度を示していると喜んだのではないだろうか。ところが日本人は、その多さを、ぼられたと悔しがる。
「払ったのは貴方でしょう。何が不満なの。」そんな声が聞こえてきそうであるが、我々がこの考え方に慣れるのは一苦労である。
そんなモロッコの人を相手に、メルズーカまでの車の交渉をしてみたら、800ディラハムだの、500ディラハムだのとのたまう。
どうしたものかと、あのインシャーラの彼に話を持ちかけた所、ボソリともらしたのが、その「リッサニーまで行けば安い」という 一言であった。
その言葉に希望をたくし、今朝まだ暗い六時前、このバスに乗り込んだのであるが、町の出口のこの川でUターンしてしまい、もう11時に近い。雨脚は少し弱まることはあっても、川の水かさは減りそうもない。
もう1泊ティネリールかと思っていた時、対岸から強行突破してきたバスがあるのを知ったヨーロッパ人が、我々も行こうとさかんに言い始める。その彼らに煽られて、バスの運転手はやっと待機の広場から動き出したのであった。
バスが濁流の中ほどまで進むと、対岸からその進路に指示を与えようと、やんやの合図。やっと陸に乗り上げた時、バスの中からも、思わず拍手がわきあがる。やった!なんだかともに難関を突破した、仲間同士のような、そんな快い連帯感を乗せ、バスは一路エルフードへと突っ走った。
午後の2時前、車掌がなにやら言ってきた。乗り合わせた旅行者に通訳をしてもらうと、どうやらリッサニーまで行きたいのかと聞いているらしい。そうだというと、17ディラハムよこせと言う。
腑に落ちないまま、その17ディラハムを彼に渡したのだが、なんと下ろされたのは、そのリッサニーなのである。確かこのバスは20km手前のエルフードまでだったのに…。
何がどうなっているのかさっぱりわからなかったが、とにかく結果オーライで私には好都合。おまけに、そのリッサニーで例のアイト・ベン・ハッドゥに同行したチェコ人が、メルズーカまでのミニバスの同乗者を探していた。
これまた望むところと、なんだかよくわからないまま、トントンとことは運んでしまい、午後の4時半、私は肌色に輝くメルズーカの大砂丘の真ん前にある、ホテルチョビに宿をとっていた。
前方に見えるのが、メルズーカの大砂丘。ミニバスは雨でゆるんだ砂地にはまり込んで… |
最低でも500ディラハム(52ドル)くらいはかかるのかと覚悟していたこの移動が、何と71ディラハム(7.5ドル)で来てしまう。まさにインシャーラである。
ちなみにスペインであった若者は、この移動に1000ディラハムかけたという。勿論もっと快適な車ではあったろうが…。それも値段、これも値段。値段は客が決めるもの。
ところで、バスの腹の荷物入れに預けてあった私のリュックは、あの川渡りで、茶色の泥水にぐっしょりと濡れていた。あんまり拍手している場合でもなかったのである。
砂丘の稜線の上は… |
けっこう足元がすくむものだ、砂丘の稜線を歩くというのは。何しろ、足元が確かでない。何しろ、稜線に幅がない。何しろ、目線に相手がない。何しろ、つかむ物がない。
高さ300mはあるという、メルズーカの最高峰、そんな山が、サラサラの砂のみで積み上げられている。しかも風の吹きつける側は、布を引いたような大スロープが、可能な限りの急角度で、目もくらまんばかりに滑り落ちている。
しかもそのスロープの頂上は、両の斜面の交差した、幅のない稜線。その線が、踏みしめた足の、めり込んだ分だけ幅になる。もしバランスを崩しても、しがみつく物もない。ここから転げ落ちでもすれば、楽しい砂遊びでは済まされまい。
後ろが300mはあるという、メルズーカ最高峰の大スロープ。砂山の中は、けっこう水を蓄えるのか、下には椰子が数本生えていた。 |
人というのは、平気な時は平気なものだが、一度恐怖に襲われてしまうと、もう平気には戻れないようだ。私はその稜線が、目の前から急角度で下っているのに恐れをなし、もとのなだらかな所に戻ることにした。
風の穏やかな方にまわると、丘の形はいたって優しい。その柔らかな女性のような曲線の上で、大の字に寝転がり、空を見る。天地の間に我独り、メルズーカ独り占めの壮快さ。
であるのだけれど先ほどから、メメクソほどの邪魔をする奴がいる。ハエである。せっかくいい気分で空を見ているのに、どこからかぴたっと冷たく顔に止まる。こんな砂ばかりの所に居るというのも、妙な話だ。
どうして私がわかるのか、追っても追ってもまとわりつく、ひょっとしてホテルから付いて来たのだろうか。エエイッわずらわしい!とは思ったが、吸い込まれそうな静けさの中で、ふと思った事がある。
私は近くにホテルがあるのを知っているから、そうは思わないけれど、もし見渡す限りのこんな砂丘に、ポツリと一人迷い込みでもしたら、人はきっとこのハエにさえ、親しみを感じてしまうのではないだろうか。
なんだか少し、仲間のようにも思えて、殺すのをやめにした。
家路に向かうラクダ達。それにしても空が広い。 |
そんな広々としたモロッコで、いやはやなんとも狭いことか。メルズーカでの三晩を過ごし、フェズに向かった時である。
朝の7時過ぎ、ホテルの前に迎えに来た赤いワゴンは、途中二人の旅人を拾い、1時間ほどで、エルフードに我々を下ろした。そこからフェズ行きの長距離バスの出るエルラシディアまでは、相乗りタクシーである。
エルフードのタクシー乗り場。この中の一つに詰め込まれて…。 |
ターミナルの一角の、ずらりと並ぶベンツの列に行ってみると、そのエルラシディアまで、荷物込みで25ディラハム(2.6ドル)との呼び込み。誘われるままに白いベンツに乗り込んでみると、既に2人座っていた。
一番端で、デンと構えた、とても体格豊かな中年の女性と、旦那であろうか、同じくらいの年齢の男性である。私が座るとそれでもう後ろの座席は一杯になる。ところが、運転手は、もう一人を詰め込んで、バンとドアを押し閉めた。
乗客は、後ろ4人、前2人である。比較的、体の小さい人の多いアジアでは、よく見かける光景であるが、ここではいくらベンツといえど、かなりきつい。
しかも、右端の女性は、何とかしろよと横目でにらんでも、黒いベールの隙間の目も無表情に、豊か過ぎる体を、動かそうともしない。気の毒に、最後に入った男は、中腰のまま尻が座席に着いていない。
とその時、窓の隙間から、覗き込んだドライバーは、手を突っ込んで運賃を集め始めた。みんなそれぞれ、手に握り締めていたお金を渡す。ところが私は、お金はズボンのポケットである。そんなものこの状態で出せようはずがない。
仕方がない、前の背もたれを持つ手に力を入れ、エイッと腰を浮かせた。と、お金はそれで取り出せたのだが、同時に、ストンと隣の男の尻が座席に落ちた。
さあ大変。今度は私の尻が、座に着かない。上半身は何とかねじって、お互い肩と肩を斜めに重ねることは出来ても、太ももを左右から、しっかりと固定しあった状態では、骨盤の幅は骨盤の幅、どうしようもない。
その骨盤が、両の男の骨盤に引っかかって、宙ぶらりん。なんとも、なんとも、万事休す。そのまま、固まっているしか。
さすがにベンツ、走り心地は良かったけれど、一時間余り、右の尻が次第にしびれる中、じっと我慢の中腰で……。
「ネジャーリン広場は、こちらからです。ちょっとガイドブックの地図では、わかりません。」
「ほんとうだ。これじゃあ、わからないは。助かります。」
その古い街並みにも似た、少しくたびれた姿の男は、人々で込み合う、狭いフェズの路地の、通路とも建物の一部とも見まがう、店と店の間へと、若い3人組の男女を連れて消えた。
路地と建物が一体になったようなフェズのメディナ。 |
フェズ・エル・バリ、モロッコ最古の都、世界一入り組んだ迷路の街。
旅行者は、ひとたびその美しいブー・ジュルード門をくぐるともう、迷わずにはいられないという。その為、多くのジュラバ姿のガイド達が、旅行者を持ちうける、その青いモザイクタイルも美しいブー・ジュルード門の入り口で。それは、混沌たるメディナへの入り口。それは、はるか中世イスラムへと連なる、時の迷路への入り口。
ブー・ジュルード門。それは混沌たるメディナへの入り口。それは時の迷路への入り口。 |
789年、ムハンマド(マホメット)の娘婿アリーの子孫、イドリース一世がバグダッドの弾圧を逃れ、ここに都を建設したのは、ムハンマドが世を去って、まだほんの150年ほどしかたっていない時であった。
そんな頃から、ほとんど変わってはいないのではと思える街並みは、狭い路地の両側に、ぎっしりと商店をはめ込まれ、まるで蟻の行列のような人々の往来とともに、昔ながらの活気に満ちていた。
「カラウィーン・モスクは、この突き当りです。その隣のアッタリーン・メデルサを背に、何処までも道なりに歩けば、あのブー・ジュルード門に出られます。」
「ありがとう。ガイドが出来ますね。」
「ええ、少し歩きましたから。では、私はこれで。」
男は、少々得意げな後姿を残して、嬉しそうに去っていった。
私はいたって上機嫌であった、なんだかフェズを制覇したような気分で。そう、得意げにガイド役を買って出ていたのは、ほかならぬ私なのである。制覇したといっても、わかったのはほんの一部なのだが、それでもメディナの主だった所は、スラスラと行けるようになった。
人生もそうだが、自分の歩いている位置がわかるようになると、心の余裕に、格段の差を生むもののようだ。フェズ初日とはうってかわて、人ごみの中から私をよび止めた土産売りを相手に、駱駝の皮を張ったミニ太鼓の値段交渉をむしろ私は楽しんでいた。
磨り減った壁が、その過ぎ去った年月と、人々の思いを物語る、メディナのムーレイ・イドリス廟。 |
一昨日フェズの初日は、メディナの中で完全に迷ってしまった。なんだかそれがとても悔しかった、フェズに鼻で笑われたようで。
それで昨日、気合を入れてブー・ジュルード門をくぐった。フェズ再挑戦である。ところが昨日は金曜日、イスラムの世界の休日である。ほとんどの店は閉まっていて、モスクに向かう人以外、人通りもまばらではないか。
がっかりしたけれど、ふと思いなおした。フェズ制覇のチャンスではないかと。そこで、コンパスとメモ帳を手に、一日中歩き回った。1,2,3、…、51、52、53、…、歩数を数えて、あちらからこちらへ、こちらからあちらへ。
ガイドブックの地図を役に立たなくしている最大の原因がわかった。メディナのメインストリート、セギーラ通りは、道なりに歩いていくともう一つのメインストリート、ケビーラ通りと、Tの字に合流してしまうのだが、地図では二つは交わらないように描かれていた。
だからセギーラ通りを歩いていたはずなのに、いつのまにかケビーラ通りを歩いていて、何がなんだかさっぱりわからなくなってしまう。
ところが「なあ〜んだ」とそれがわかってしまうと、次々にちんぷんかんぷんだった位置関係の謎が解け始める。やった!
「ガイドブックの関係者かい?」
何度となく顔を合わせたジュラバ姿の男が、まるでフェズの神秘が色あせるのを心配するかのように近づいてきた。
「いやいや、そんなんではないのだけれど…」
どういうわけか秘密には蜜の味がひそむもの。私は「他の人には絶対言ってはダメ」と前置きしてささやかれる内緒話のように、このフェズの秘密を、誰かに話したくて話したくて、ウズウズしていた。
ちなみに、この時の地図は、「地球の歩き方」に投稿し、スタッフの人によって補強され、より完全に、よりわかりやすくなって載っている。どういうわけかちょっぴり嬉しい。
フェズの4日目、モロッコ最後の1日、私はちょっと贅沢をしてみた。宿を新市街の駅前、青い壁も美しいモウサフィアホテルに変えたのである。三ツ星である。
料金は256ディラハム(約27ドル)。なんだそんなに贅沢ではないではないかと、思われるかもしれないが、何しろそれまで泊まっていた旧市街のジャルディンホテルは、1泊40ディラハム(約4ドル)である。だから、ここは一晩で6日分ということだ。そう思うと高い。
ジャルディンホテルも気に入っていたのだが、さすがに三ツ星は違う。ちょうど日本のビジネスホテルと同じで、テレビやバスタブ付きの設備の良さ。それに日当りバッチリの点は日本のビジネスホテルより条件は良い。
市場経済というのは案外うまく働くもののようで、多少の格差はあるけれど、まあそれらを大目に見ると、同じくらいのお金を払えば、だいたいどこの国でも同じくらいのサービスを期待できる。
私は久しぶりのバスタブに身も心もリラックスし、テレビのリモートスイッチを手に、ベッドに横たわった。明日は再び、居住まい正しいヨーロッパスペインである。
なんだかホッとする反面、少々寂しい気がしてくる、この整えられたホテルの一室が、モロッコのごちゃごちゃとのお別れが。
雑然、それは決して褒められたものではないかもしれない。けれどそこには、人が主人の楽しさもあるもの、ルールが主人の息苦しさとは違って。
続いて「第3章スペインに戻って」 再び話の舞台はスペインへ
歩くも、止まるも、ぶつかる人と押し合いせずにはいられない、フェズメディナのスーク。 |