それぞれの魂の表情を読み取ることが出来れば、貴方も私も、歴史上の偉大な思想家も、今に生きる楽しい友人。そんな時を超越した並立空間への、扉を見つける一つ試みです。 | ||
価値マンダラ
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仏教で言う曼陀羅とは神聖なる領域に諸仏・菩薩及び神々を配置した絵図で宇宙の真理を表したものであるという。価値マンダラという名称は、人が感じている価値の世界を、曼陀羅同様、時間と空間のなかの一定の配置形式のなかに表現出来るのではないかという発想に由来する。
人が感じている価値というのは、煎じ詰めれば「自分の価値」あるいは「自分の人生の意味」といったものにその根を持ち、他の価値はそこから派生したものとなっている。
この自分の価値(意味)を実感する主体、逆に言えばそういった人生を推進する主体を魂と呼ぶとすれば、価値マンダラとは魂の姿を見える形に映し出す一つの形式である。
本論はその形式モデルの構築を試みたものであり、第T部は、一般に絶対と思われているさまざまな価値もよくよく考えれば絶対性は無く、それ以上探究を進めることの出来ない根底で個人的魂に根を持つということに始まり、その魂は "己が特別" という衝動を持つということ、この衝動の表現形式が価値マンダラであるということ、そしてどのようなモデルが考えられるかということの考察である。
第U部はその一定の成果を踏まえ、その形式で、世界を眺めればどのような世界になるだろうという二三の例解である。よってT部とU部とではそれぞれ視線の方向は異なったものになっているけれど、主旨はどちらも価値マンダラという考え方の説明である。
従って本論は、読む人のかかえる何らかの間題に何らかの回答を与えようとしたものではない。答えを求められている方は恐らく失望されるであろう。この二三の例ではとてもとても流行遅れの上に品不足である。
本論で試みたことは、人々が己の魂と出会うための形式の提示である。もしそのことが少しでも出来ているとするなら、本論の中に読者自身を発見することが出来るであろう。そしてそのことは同時に他の人々の発見をも意味する。
人の魂というのは国境を越え世代を越え並立しているものであると私は信じている。だから自分自身の魂との出会いは一挙にこの並立する友人達の空間に立つことを可能とする。
遠い異国の人も、数千年前の人も、友人として同時的に並び立つ所、文化の呪縛から解放され、敵味方、優劣を競うことなき並立の空間、そこに立てば読者がかかえている問題も、その問題自身は歴然と有り続けるとしても、きっと違った景色に見えてくることであろう。
景色が異なれば違った道も見えてくるもの。それがどのような道になるか、そこから先は読者自身の歩むところ。
序
第1章 進歩する歴史と繰り返す歴史 -----------12
第2章 二つの糸の交叉 ----------------------17
第3章 魂の衝動 ----------------------------26
第4章 秩序の建設 --------------------------29
第5章 一から多か、多から一か ---------------33
第6章 価値マンダラの基本構造 ---------------38
第7章 個人型価値マンダラ -------------------54
第8章 個人型価値マンダラの同調 -------------61
第9章 全体型価値マンダラ -------------------65
第10章 価値と時間と非限定 ------------------71
第11章 〈我〉の危機……不一致の空間的対処--- 77
第12章 もう一つの道「無我」 ------------------81
第13章 価値マンダラの相対化 ----------------88
仕事を終えてからも帰らずにコンピューターに向かいしきりにマウスを動かしている友人がいた。
何をしているのかと覗き込めば、なんとトランプ占いである。それならなにもコンピューターを使わなくてもとその奇妙な取り合わせがとても愉快であった。
けれどこういった光景は、いたる所で見うけられる。近年の科学技術の進歩には目を見張るものがある。十年二十年前には夢のまた夢であったことも見事にやってのける。
この急速にして見事なる進歩に目を奪われ、なにかしら未来をバラ色に描いている人も多いことであろう。あるいは貴方はその急速さに焦りを感じる方であろうか。
しかし酔う前に、あるいは焦るまえに、少し立ち止まって考えていただきたい。「いったいそれを何に使おうというのか」「それにどんな意味があるのだろうか」と。
すると、案外ありふれた答え、使い古されたおなじみの答えしか出てこないことに気づく。
見事に洗練された世界となんとも素朴なる世界、かつて世界史を読んでいたときの強い印象を思い出す。
それは中国の漢の時代の「塩鉄論」というので、当時塩業と製鉄業がたいへん儲かるので、民から取り上げ、国の専売とし、利益を独り占めしようという意見をめぐっての論議であった。
ちょうど国会で、国営企業の民営化をめぐる議論がもち上がっている時で、「舞台は変わっても演じる題目は全く同じではないか」と漢の時代をとても身近に感じたものである。この印象は読み進むにつれ何度も繰り返された。
どうやら我々には日に日に変わり行く世界と、いっこうに変わらぬ二種類の世界があるようである。
そして科学技術の目ざましい発展は、その一方のみを急速に拡大させた。近代ビルの屋上にひっそりとお稲荷さんが祭られていたりするのを見ると、一種の安堵感と同時にそのギャップの大きさに少し考えさせられたりもする。
子供が棒切れでチャンバラごっこをするのはかわいらしいとしても真剣を振り回していたらゾッとする。
科学の体系がどれだけ完成されようとも、また科学技術の支配がどれだけ拡大されようとも、「それに何の意味があるのか」という価値の問題を解決するものではない。
なのに我々は既に真剣を振り回している。ボタン一つで世界が吹っ飛ぶ。もはやその意味はチャンバラごっこではない。
この急速に拡大する道具の世界を前にして我々は、その意味の世界を語る文化をそれ相応に豊かにし調和のとれたものにすることが問われているのではないだろうか。
第T部で魂の型、価値マンダラの基本構造が明らかになった。そこでこの第U部では二、三の思想を例に、価値マンダラの視点からそれらの再構成を試みてみることにしよう。
まずとり上げる具体例であるが、個人型の説明としては民主主義発祥の地ギリシャから、全体型は王朝政治の伝統をもつ中国から選ぶことにした。そして近年国際社会に影響すること大であると思われるイディオロギー(又は宗教)としてコーランと唯物史観を例に上げた。
また、最後の章で来るべき二十一世紀の一つの特徴となるであろう「閉鎖系としての世界」の中で、我々の存在意味にいての考え方に挑戦してみた。
最後の章を除いてはいずれも解説的に述べているけれど、主要なる意図は勿論解説ではない。解説を通して価値マンダラという考え方を説明しようとしているのである。
従って解説であるとすれば避けて通れない大問題、第一にそれが史実に忠実であるかという問題、第二に邦訳がどれほど原意を伝え得るかという問題を私が素通りしている点を少しは許していただけるだろうと思っている。
というのもその古典なり訳出なりを読む人あるいは読んだ人がいる以上、その人達はその書物上に描かれた人と交流したことになるのだから。
もっとも許さないと言われても私はどうすることもできないのであるけれど、解説としても全く無意味でも無かろうと思っている。
「井の中の蛙、大海を知らず」という諺がある。確かにそのとおりである。しかし、「大海の鯨、井の中を知らず」とも言える。
問題なのは、井の中を全世界と思い込むことで、もし彼が、井の中をしっかりと限定しさえすれば、それだけで井の中は全世界に不可欠な部分であるばかりか、井の中にも大海と共通する原理もあることであろう。
そういった意味でこの例を上げての考察は、価値マンダラという考え方の説明ではあるけれど、そこで描かれた絵そのものも全く無意味でもないことを期待している。