第1章 スペイン  《 第6部 スペイン・モロッコ 編 》
第1話 「ゲルニカ」第2話 石の城 石の水道 石の壁第3話 トレド第4話 丘の風車
第5話 花のコルドバ第6話 迫力のフラメンコ第3章 スペインに戻って
第1章 スペイン
第1話 「ゲルニカ」 No.084No.084
地図

 確かにすごい。

 幅は8m近くはあるだろう。、高さは背丈の2倍ほどか。ソフィア王妃芸術センター二階の、広々とした空間でその絵は、情景のみか炸裂音さえ、轟かせているようであった。

 山は山のように、川は川のように、人は人のように描いていただきたい。それがかねてからの私の思いであった。

 だから、例えば、部分のみを描いて、全体を想像させたり、敢えてモヤの中に印象のみを描くと言った手法は、好きではあったけれど、形そのものを崩してしまう抽象画というのは、どうも理解できず、好きにはなれなかった。

 おのずとそんな絵の大家、ピカソも、有名ではあったけれど、あまり興味がもてないでいた。だからこの彼の大作「ゲルニカ」も、せっかくスペインに来たのだからと寄ってみたまでで、あまり期待はしていなかった。

 ところが、ところが、やはり本物の迫力は違う。

 鋭角に交差した直線、白と黒の対比、叫びをあげる口、伸ばしきった手足。それらが伝えるのは、安らぎでも、温もりでも、愛でも、感激でも、笑いでもない。

 それらが伝えるのは、冷たく重い感触、切り裂く激音、緊張と混乱とやり場の無い怒り。

写真

 ゲルニカ(ピカソ)

【ソフィア王妃芸術センター
ポストカードより】

 1937年4月26日、月曜の昼下がり、フランコ反乱軍を支援したナチスドイツの空軍は、スペイン北部の町、人口約7,000のゲルニカに、3時間を越える絨毯爆撃を敢行した。人類史上初の、大規模無差別爆撃である。

 町の一割とも二割ともいわれる、男が、女が、子供が、老人が、爆風に吹き飛ばされ、瓦礫に埋もれ、焼夷弾に焼かれ、機銃掃射に打ち抜かれ、死んでいった、右往左往の混乱の中。

 この絵はそんな人々の恐怖と悲しみと絶望と怒りを、見る者に伝えている。ひょっとして、形を崩すということは、見ると同時にどうしても働いてしまう、意識の検閲を錯乱させ、直接人の感情に飛び込むためのテクニックなのかもしれない。

 絵の先生がどのようにおっしゃるのかは知らないけれど、この「ゲルニカ」は、そんな抽象画の極意を、私に披露してくれているかのようであった。

 ここソフィァ王妃芸術センターには、もう一つ私の印象に残る絵があった。それはダリの絵である。

写真

 窓際の少女(ダリ)

 「何をすればいいの?そう言って少女は、窓の外をじっと見つめた。窓の向こうの、まだ見ぬ町に行けば、その答えがあるとでも感じているのだろうか……」そんな話が作れそうな。

【ソフィア王妃芸術センター、ポストカードより】

 ゲルニカの緊張した絵の後で、彼の絵は、弛緩した淀みの中にあった。その淀みが故の不安、彼の作品の多くは、人生を包む途方もない無の淀みに、恐れおののいているかのようであった。

 マドリッドには、このソフィァ王妃芸術センターの他にも、沢山のすばらしい美術館がある。有名なプラド美術館には、グレコ、ゴヤ、ベラスケスと、教科書でもおなじみの人たちの絵が、ずらりと並んでいる。とても一日では見尽くせるものではない。

 そんな美術館が、日曜日は入場無料になる。こんな街で育ったら、自ずと感性も洗練されるのではないだろうか。私は、街そのものが、芸術的オブジェのように見えてしまうプラド通りを、ぐるりと回って、アラカラ通りの街並みを楽しんでいた。

 一昨日モスクワ経由でマドリッドの空港に降りた私は、バスでコロン広場へ、そこから地下鉄でソルまでと、夜の10時を過ぎていたが、とてもわかりやすく、何の苦労も感じなかった。「これぞ都会」私は初めての街で宿を探しながら、そんなことを思っていた。

 何をもって都会というかと問われたら、皆さんなら、どのように答えるであろう。

 どれだけその街が都会的であるかという度合いは、《初めてそこを訪れた人が、どれだけ分かりやすく行動できるかということだ》という定義はどうだろう。つまりどれだけ普遍的かということでもある。国内的に、更には国際的に。

 ふと思いついたそんな「都会度」の定義に、少々愉快になって、日本の街を思ってみた。

 やたら横文字の名前は多いのだが、肝心の案内となると、東京でも、アルファベット表記は小さくて、ほとんど申し訳程度に思える。もし私が外人旅行者なら、かなり苦労するのではないだろうか。

 数年前に、関空から南海電鉄の急行電車に乗った時も、英語案内が全然なかった。土地の利用者が多かったとはいえ、やせてもかれても国際空港に出入りする電車である。なんとなく寂しい。

 私の定義に従うとすると、日本の大都会も、世界から見れば、都会度はそう高いとは言えないようである。

 そんなことを思っていると、マドリッドの紋章、熊とイワナシの像が見えてきた。私の泊まっているオスタルはもう近くである。今夜は、その宿に長く滞在しているという日本人が、安くて美味しいレストランに連れて行ってくれるという。

写真  スペインの街は、まずはじめに、中心の広場があり、そこからだんだん広がっていったのだと、宿の日本人が教えてくれた。とすると、ここマヨール広場は、マドリッドのヘソということか。
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第1章 スペイン
第2話 石の城 石の水道 石の壁 No.085No.085

 「あっ、そう、もう頼まないよ!さいなら。」

 そう言って私は、リュックを担ぐと外に出た。登山のことを思えば2時間や3時間担いで歩いたとて、どうということはない。まったく意地悪な女将である。荷物を預からないというのだ。

 少し前、この受付には、人のよさそうな旦那がいた。宿代を払いながら彼に聞いたら、バスの出発までの数時間、リュックを預かってくれるという。その旦那、何処へ行ったのか、姿が見えない。

 そう言えば、昨日彼女は一日2,300ペセタ(約16ドル)と言っていたが、今朝その旦那に請求された額は2,200ペセタであった。100ペセタポケットに入れる算段だったのか。

 なんか交渉するのもめんどうになり、ぷいと出てはみたものの、次第にリュックは肩に食い込み、息が弾む。

 一月のセゴビアはヒューヒューと風が吹き寒かった。どういうわけか、スペインというと、太陽いっぱいの国をイメージしてしまい、冬だというのに、日本の十一月くらいの格好で来てしまった。

 裏地のないジャケットの下は、薄手のセーターのみで、秋用の綿パンからは、スースーと足首に風が入る。

 けれどこの時ばかりは、まるでジョギングの後のように、たどり着いた丘の上で、寒いはずのセゴビアの風を心地よく受け、川の向こうのアルカサル(城)の雄姿を眺めていた。

写真  美しい姿のセゴビアのお城。14世紀にお城が築かれる以前は、見張りのための要塞だったとか。塔上からはカスティリァの平原が見渡せる。

 デズニーの「白雪姫」のお城の、モデルにもなったというこの城は、正面からより、この裏からのほうが素晴らしい。

 空がどんよりと曇って、まばゆい太陽の下と行かなかったのは、少々残念ではあったけれど、誰もいない丘の上で、一人眺めていると、箒に乗った黒服の魔女が、空の彼方から舞い降りてきそうで、これはこれでまた趣のある空のように思えてくる。どういうわけかその魔女の顔、先ほどの女将に似てたりして…。

 ここセゴビアは、あのイザベラ一世が、異母兄の後を継ぎ、カスティーレャの王として即位した所である。その式典は、このお城で行われたのであろうか。

 当時既に、かつてこのイベリア半島の大半を支配したイスラム勢力は、南のグラナダ王国を残すのみとなっていた。誰もがレコンキスタの終焉を予感していたことであろう。

 けれど、その18年後、コロンブスが新大陸の知らせを持ち帰り、今度は彼らがそこへのコンキスタ(征服)を始めようとは、まだ誰も知らなかった時である。

写真  全長728mという、ローマ時代の水道橋。なんと百数十年前まで、実際に水を供給し続けていたという。今もその跡に水道管が設置され、ある意味では現役である。

 セゴビアはまた、ローマ時代の水道橋が残る所としても有名である。丘を降りた私は、冬の寂しさを漂わせるマヨール広場の石畳を抜け、その全長728mという水道橋を眺め、西のバスターミナルに向かった。

 バスの出発時刻は14時、次の目的地は城壁の町アビラ、約1時間半、4ドルの行程である。

 そのアビラは、ちらつく雪の中であった。といってもそんなに空は暗くなく、ほんの一時的なもののようであったが、それでも寒かった。

 この寒いアビラで、冬でも素足にサンダルだけで過ごした聖女が居たという。テレサ・デ・ヘスス、16世紀の女性である。多くの宗教書を著し、戒律厳しい「裸足のカルメル会」を創設し、死後に聖者の一人に加えられたという。

 「苦行」と「聖者」、どうやら両者は、密接な関係にあるようである。というのも、世界中で神につかえる苦行者の話をよく聞く。

 おそらく、我々凡人には計り知れないものがあるのだろうが、その凡人が思うに、苦行は、人の心をその「苦」に集中させてしまい、ほかの欲望や心配をかき消し、心を安定させるものなのかもしれない。

 どのような形に安定させるかは、例えばその人の宗教観などによるのだろうが、日本の「お百度参り」なども、似たような心理なのではないだろうか。もし心千路に乱れて、何も手につかないというようなことにでもなったら、試してみても悪くはないかも……。

 とはいうものの、やはり凡人には、苦行より温もりの方が良い。私は暖かい部屋を求めて、アビラの見事な城門をくぐっていた。

写真  アヴィラの旧市街は、この見事な城壁の中にある。この城壁は、11世紀の初め頃、イスラム教徒からの防衛の為に築いたとか。当時の緊張がどれほどのものであったか、窺い知れるようである。

 宿はカテドラル正面の、オスタルコンティネンタルに決めた。広々とした内部は、木の床で、歩くたびに所々きしむ音は、なんともクラッシックな趣。二階のシングルは、2,200ペセタ(約15ドル)で、シャワーからはふんだんにお湯が出、白いカーテンの大きな窓もさることながら、部屋を柔らかく暖めているスチームが嬉しかった。

 翌日は青空、なんだかそれだけで嬉しくなる。城壁で囲まれたアビラで、その昔、砦の役目もしたというカテドラルでは、赤い斑点の美しい石材や、青いステンドグラスに見とれて、正面に進むと、ペトロ・デ・ベルゲーテ作という、見事なキリストの生涯を描いたレリーフが出迎えてくれた。

 これはぜひとも一枚と、おもむろにカメラを取り出し、あの角度この角度と、ファインダーを覗いてシャッターを押していると、なんだか鋭い声をあびせられているよう。

 なんだろうといぶかしげに目を向けると、柵の向こうから牧師さんが顔を赤らめ叫んでいた。写真はダメだというのである。おそらくはじめはやさしく言っていたのであろうが、それに気づかず無視する私に、牧師に似合わぬ御立腹。

 私は、入り口に大きく掲げられていた、撮影禁止の表示を、見落としてしまっていたのだ。もし知っていたなら、こうも大胆にはいかなかったろうに、知らぬが仏の強さである。おかげで、堂々と写真を撮らさせていただいた次第であった。

 セゴビアもそうであったが、このアビラにも、コウノトリが、まるで日本のカラスを思い出させるほどたくさんいた。鶴を小ぶりにしたような姿で、木や塔のてっぺんに巣をつくっている。

 けれど、カラスと違って、静かに巣に舞い降りるその姿が、かえってこの城の経て来た時の流れを、際立たせるように思えたのは、旅人の勝手な想像だろうか。厳寒のアビラに、まぶしくスペインの冬の太陽が、コウノトリのとまる石壁を暖めていた。

写真  アビラの城壁に舞うコウノトリ。塔や木のてっぺんに巣を造る習性のようだ。

 午後は、裸足のテレサが、その若き日を過ごしたという、エンカルナシオン修道院に行ってみよう。

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第1章 スペイン
第3話 とれど No.086No.086

 1936年の夏、ここアルカサルは、完全に包囲されていた。トレドを見おろすこの城は、政府軍の爆撃で無惨に崩れてはいたが、地下には家族を含め約千人が立てこもり、フランコ軍を支持して、必死の戦いを続けていた。

写真  トレドの丘に、ドシンと鎮座する、迫力のアルカサル。中には、1936年の内戦当時の、無惨に破壊された写真が残されていた。

 そんな中、指揮をとるモスカルド大佐の部屋の黒い電話が鳴る。受話器をとる彼の耳に飛び込んできたのは、マドリッドにいる息子の声であった。降伏しないと自分が殺されるという。政府軍が彼を人質に、アルカサルの明渡しを要求してきたのである。

 受話器を握り締めたモスカルドはその時、実の息子にこう言ったという。「スペイン万歳を唱えて、立派に死になさい。」と。

 すっかり修復されたトレドの王城アルカサルの、当時の様子を再現したモスカルドの部屋で私は、そんな説明を複雑な気持ちで眺めていた。

 ファシズム、アナキズム、マルキシズム…、スペインの内戦では、さまざまなイディオロギーが武器を取った。

 イディオロギーというのは、科学でいえば仮説のようなもので、出来事を一定の必然の物語の中に見る。あくまで事実があっての説明なのだが、その物語の魅力に惚れ込んでしまうと、事態は逆転してしまう。イディオロギーが事実で、出来事はあたかもその応援者であるかのように。

 こうなると収拾がつかない。実験無しに仮説を闘わせているようなものだ。白黒をつけるには、力でねじ伏せるしかない。スペインの内戦では、共にフランコ軍と戦っている人民戦線内でも、内戦の中の内戦が演じられたという。イディオロギーは悲劇も英雄物語に変える。墓場もゆりかごに描く。

 「立派に死になさい」。そう言い切る、モスカルド大佐の心中は、計り知れない苦悩にさいなまれていたのであろうが、にもかかわらず、その苦悩を押しのけ、その役を演じ切らせる怪物イディオロギーのしたり顔が、そこに見え隠れしているとは言えないだろうか。

 そんな気分で見たせいだろうか、サント・トメ教会で見たグレコの絵も、なんとなく砂上の楼閣のような不安を感じてしまう。

写真

 黒の縁取りを多用した、独特のエル・グレコの絵(聖三位一体)。なんとなく私は、不安を感じてしまう絵が多かった。

【マドリッド プラド美術館】

 1542年ギリシャのクレタ島で生まれた彼は、イタリア、スペインと渡り、このトレドに住んだ。白と黒、明と暗を太い線で描く独特の彼の絵は、明るい地中海の人には似合わず、どことなく暗く重たい印象を見る者に与える。

 その上、目線を縦に導く構図が多く、そのぶん地に足が付いていないような不安定な印象を受けてしまう。

 彼の意図がどこにあったのかは私は知らないけれど、人がものごとを頭で考えるようになり、以来追放されてしまったエデンの園から、考えれば考えるほど遠ざかってしまう不安が、図らずも描かれているように思えてならなかった。

 日だまりでまどろむ猫の、あずかり知らぬ世界である。

写真  狭い道に建物が迫るトレドの街並み。象嵌細工と刃物が特産だそうで、ナイフを売る店も多かった。そんな中、何故か日本刀のおもちゃも、必ずといって良いほど参加していた。

 トレドには目印になる塔や建物は多いのだが、狭い道に建物が立て込んでいて、それらが見えず、けっこう道に迷った。

 おまけに、シェスタの時間になってしまうと、人通りもめっきりと減り、道を聞こうにも誰にも出会わず、時にはイライラしてしまう。

 このシェスタの習慣、とてもよいと思うのだが、観光客の、いろいろ見てやろうという立場からすると、あまり嬉しくない。

 というのも、さあこれからという時、博物館や店など、あらゆる所がシェスタ休憩に入ってしまい、おあずけにあう。何しろ1時過ぎあたりから4時近くまで、せっかちな日本人から見れば、昼休みというより午後休みである。だからやっと午後の活動が始まっても、あっという間に夕方になってしまう。

 そんな日暮れ前、サンフアマン近くの公園で一休みしていた時である。母親に連れられて遊びに来た3歳くらいの女の子が、私を見つけ、何か不思議なものでも見てしまったかのように、ぴたりと視線を止めている。

 その目を点にした可愛い表情を壊してやりたくて、笑って手を振ってみたら、母親の所へ駆けて行き、こちらを振り返って恥ずかしそう。その彼女を一枚撮りたくて、カメラを取り出し母親に声をかけたら、「ノオ」とつれない返事。

 仕方がない、あきらめてベンチに座っていると、その母親が、英語で話し掛けてきた。だいたいお決まりの旅の会話から、話は主人のことへ。

 少し聞き取れなかったが、聞き返すのもめんどうに思って、生返事をしていたら、「Do you understand me?」と、しっかり突っ込まれてしまう。

 なんとなく心の秘密を、不意に覗かれたようで、一瞬ドキッ。

 取り立てて意味のない行きずりの会話にもかかわらず、自分の言っていることは、はっきりと伝えたいらしい。その気迫に少々たじたじ。

 私の耳は、まるで英語の面接のような緊張。

写真  三方をホタ川に囲まれ、丘の上にへばりつくトレドの町。数々の歴史を重ね、変わらぬ姿を今にとどめる。
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第1章 スペイン
第4話 丘の風車 No.087No.087
「巨人がどこに」とサンチョ
「それ、あそこの見える長腕のやつらじゃ」
「おめえ様、待っておくんなせい。あそこに見えるは巨人でねえ、粉挽場の風車でがす。腕と見えるは羽根だあよ。」
「おまえに冒険なるものの心得がないこと、それでも知れるぞ。あれはいずれも巨人じゃ。恐ろしかったら、わきへのいてお祈りでも唱えておれ。」

 そう言い残しドン・キホーテ、長槍を脇にたくわえ、ロシナンテに拍車をくれると、風車目指して突進して行った。【※】

写真  ラ・マンチャの平原を静かに見おろすコンスエグラの風車。なんとなく、平原の彼方から、あのニガリ顔の男が、とぼとぼとやってくるような…。

 そんな風車が丘の上に並んでいた。ラ・マンチャの平原をバスで約1時間、今朝トレドを出る時は、濃い霧の中であったが、30分程走ると、その霧が地表を低く這う幻想的な景色に変わり、ここコンスエグラでは、すっかり晴れ上がり、ヒバリを思わせる鳥の声が、青い空に響いていた。

 セコビア、アビラと寒い日々であったので、この春を思わせる陽気が、叫びたくなるほど嬉しい。私は町の建物の間から、裏に回り、斜面に出、そこを登り丘の上に立った。

 今は使われなくなった風車が、観光用に化粧直しされ、丘の上から、ラ・マンチャの平原を見下ろしている。やせ馬にまたがった、にがり顔の騎士、ドン・キホーテ・デ・ラマンチャに、仲間が巨人呼ばわりされた日を、むしろ楽しく思い出してでもいるかのように。

 騎士物語の空想と現実の区別がつかなくなり、世の邪悪を除くべく、遍歴の旅に出たというドン・キホーテ・デ・ラマンチャ。

 彼の空想(あるいは、理想と言うべきか)が描き上げる、意味津々たる「現実」と、従士サンチョの描く、素朴な現実。人は皆、この2人を心に住まわせて、生きているのではないだろうか。

 ドン・キホーテさかんなるバラ色の青春が過ぎる頃、次第に、ひょっとして 《サンチョの方が正しいかな》 などと疑い始める。けれど、この小説のように、いつもサンチョの方がふり回されて、なのにいつも正しくて……。

 斜面のはるか下から、老人と少女が楽しそうに登って来ていた。

  午後再び丘に登った。夕陽に赤く染まった風車の写真を撮りたかったのである。ところが、かなり陽が傾いてもなかなか空が赤くならない。三脚を持っていない私はもうだめかと思った6時頃、ようやく風車が赤く染まり始める。

 風景写真というのは、スポーツ写真などより、はるかにシャッターチャンスは楽なように思えるが、それでも結構忙しい。

 丘の反対側からも撮りたくて、息を切らせて走ったのだが、思う地点に着いたときは、残念ながら、手持ちでは既に難しい暗さになってしまっていた。結構地球の回る速度は速いものだ。

写真  夕陽に染まる、丘の風車。苦労の一枚。

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 翌朝、目が覚めたのは、9時半であった。8時半にかけておいたはずの目覚ましを、まったく気付かないという不覚。

 トレドで聞いたバスの時刻は10時半、私は急いで荷造りをし、チェックアウトを済ませて停留所まで小走りに急いだ。

 ここ、コンスエグラから、次の目的地コルドバまでは、一度トレドに戻るとわかり良いのだが、また1時間もバスに乗って後戻りするというのも、なんとなくしゃくで、そのまま南下することにしていた。

 ところが、10時半を過ぎてもなかなかバスは現れないばかりか、乗客も集まってこない。どうやらトレドの案内で教えられた時刻は、トレド発の時刻のようである。考えて見れば、他の町の発車時刻を知っているというのも出来すぎである。とするとそれが到着するのは11時半頃ということか。

 やはりそのとうりであった。12時前にやっとバスが来た。結局2時間近くも待ったことになる。なのに、目的のマドリットエホスへは、なんと、ほんの10分程で着いてしまう。それはないよと言いたくなる。

 ところが、そのマドリッドエホスのバスターミナルでは、日曜日の上、シェスタの時間になってしまい、老人がのんびり日向ぼっこを楽しんでいるのみで、職員はおろか、乗客もだれもいず、どこで何に乗るのやら、さっぱり見当がつかない。

写真  私の定義に従えば、田舎度100点。途方にくれたマドリッドエホスのバスターミナル。

 マドリッドでの都会度の定義に従えば、ここは、田舎度満点といったところだろうか。仕方なく唯一活動していた、バル(スペインの軽食喫茶)で紅茶をたのみ、店の人に聞いてみた。

 ところが、スペイン語しか通じない。その上、このルートはガイドブックになく予備知識をまったく持ち合わせていなかった。分からない言葉は、何度聞いても、いくらゆっくり話されても、やはり、わからないものは、わからない。

 結局奥の手、メモ帳を出し、絵と数字と、聞いた地名と少しの単語を並べて、イエス、ノオの返事を引き出せる質問に組みなおす。「Si」「No」なら私でも聞き取れる。

 そんな私に辛抱強く教えてくれた答えは、どうやら、マンサナーレスまでバスで行き、そこからシダトレアルまで列車、そこからコルドバまでは特急があり、今日中には着くだろうというのであった。

 「OK」と、やっと通じたことに喜んだのであったが、ここを出るバスは、2時半までないという。まだ1時にもなってはいない。

 仕方ない、サンドイッチを注文し、バスを待つことにした。のんびりと静かなシェスタの昼下がり、せわしない日本人が一人、しきりに時計を気にしていた。

 結局、シダドレアルからコルドバへの特急アヴェに乗ったのは、夜の9時であった。日本の新幹線を思わせるこの特急列車は、乗るとすぐ飛行機のような車内食が配られた。

 シダドレアルからコルトバまでは、わずか54分のはずである。この区間の運賃には食事代が加算されているのだろうか。少し戸惑ったが、あたりの様子に従って、私も夕食を済ませる。

 別に料金の請求もなく、お腹もふくれて、そのままうとうととしたく思った頃、列車はコルトバに着いてしまった。時計は夜の10時を指している。けれどもう一仕事せねばならない、本日の宿探しを。

 【※】 ドン・キホーテ(永田寛定訳・岩波文庫)を要約

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第1章 スペイン
第5話 花のコルドバ No.088No.088
写真  セルバンテスも泊まったという旅籠屋ポトロ。ドンキホーテにも登場する。

 大きな足音をさせて隣の奴が帰って来た。うつらうつらと気持ちよく眠っていた私は、バンと響くドアの音に完全に目が覚めてしまう。隣の部屋は図体のでかい黒人である。あのやろうと思っていると、テレビから大きな声が聞こえて来た。

 コルドバのオスタル、アルマンソルは、広々としたWベッドにテレビがついて2,000ペセタ(約14ドル)と大変気に入ったのであるが、こうなるとテレビというのも、くせものである。ろくにスペイン語の番組は見ないのだから、何もないほうが静かでよいのかもしれない。

 壁も見た目はしっかりしているものの、中は筒抜けなのか、テレビの声がでかい音で聞こえてくる。真夜中だというのに、まったくこの野放図な神経にも困ったものだ。次第にイライラがつのる。

 ところが、そんな私の耳に、次に聞こえてきたのは、何と特大のいびきではないか、テレビはガンガン鳴りっ放しであるというのに。時計は2時を回っていた。もうたまらん。

 私はズボンをはいて、外に出た。不思議と廊下の方が、音は少し小さかったけれど、それでもテレビといびきが響いている。私はその部屋のドアをノックした。返事がない。完全に眠り込んでいるようだ。

 もう一度ノックする。やっと中から声がした。まだ30歳前であろうか、私より頭一つ上の位置で男が顔を出した。

 「テレビの音が大きいのだけれど…」身構えた気持ちでそう言うと、一瞬、つけっぱなしのテレビに目をやり、いかにもすまなさそうな顔で「ソーリー」と肩をすぼめた。あっけない展開である。

 旅をしていると、「人の迷惑を考えろ」と言いたくなるような人に結構出会う。習慣が違うのだからと、我慢をするのだが、それでもたまりかねると抗議に行く。

 少し肩に力を入れていくのだが、抗議すると決して感情的にならずに話が通る場合がほとんどである。一度だけインドの列車で、頑として一歩も譲ろうともしない女性に、ほとほと手を焼いたことがあったが、それはまたそのときの話として、この彼も、「ソーリー」を連発して、握手を求めてきた。

 口を利かなかった昼間は、少々うさんくさい奴のように思っていたが、こうやって実際に話してみると、とんだ誤解のようである。私は何も握手まではと思いつつ、思わず再開した友のように手を差し伸べていた。

 そんな見知らぬもの同士の交流が、いたるところで行われたに違いない。今から千数十年前、ここコルドバは世界文明の一大集結地点であった。

写真  ローマ橋を渡ったラ・カラオーラから、対岸のコルドバの町を眺める。右手の一際大きな建物が、メスキータ。

 929年、アブデルラアーフマン三世が、カリフを名乗り、東のバグダッドから完全に分離すると、首都コルドバの文化は、それまでのバグダッドの模倣から解き放たれ、それを超えはじめる。

 開設された翻訳学校では、アリストテレスやプトレマイオスといったギリシャ・ローマの知的遺産が、次々にアラビア語に翻訳され、それを学ぶべく、人々はここコルドバを訪れ、学び、語らい、交流を深めた。当時の人口は、50万であったという記録もあるという。

 それから数百年後、そのアラビア語文献が、今度はラテン語に翻訳され、そしてイタリアルネッサンスへと引き継がれて行ったのは、皆さん良くご存知の所であろう。

 ギリシャ・ローマの文化は、そのままストレートにヨーロッパへと引き継がれたのではないのである。一度アラビア世界に引き継がれ、そして再びヨーロッパへと引き継がれた。ここコルドバは、その引継ぎ劇の主役を演じた所といえよう。

 そんな昔を物語るかのように、町には、アラブ時代にモスクとして建てられ、一部カテドラルに改装されたメスキータ、花の小道で知られる白壁の迷路のようなユダヤ人街など、アラブ、ユダヤの伝統入り混じるたたずまいが多く残されていた。

写真  19世紀コルドバに生まれたトーレスの作品を集めた美術館がポトロ広場にあった。この人の絵は、ここではじめて見たのだが、その異国的な表情に、スペインの魅力の根源があるようで、すっかり気に入ってしまう。

 翌朝私は、アラブ農業の名残りと思われるグアダルキビールの水車を横に、川に沿って歩きアルカサルに行った。ここはアラブとは違ってキリスト教時代の宮殿である。

 人につられて歩いていて、うっかり見ずに帰るところであったが、隣に素晴らしい庭園があった。その手の入れようは、目を見張るものがある。けれど私にはなんだか庭の木が、少々可哀相に思えてしまう。

 というのも、その立ち木は、極めて綺麗にではあるのだが、なんとも不自然に整えられている。例えば、長方形の池の両側の木は、全て緑の円柱のように刈り込まれていた。

 「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ」旧約聖書創世記第6日目の一節である。「地を従わせよ」…、輪廻思想の中で、基本的にはそれらを同列に感じる仏教的思想との違いが興味深い。

 人はどんなに奇麗事を並べても、動物であれ、植物であれ、生あるものを殺し、それを食べて生きているという点には、変わりはないのだが、地を従わせることを快とするか、地に従うことを快とするかは、ある程度文化の問題であろう。

 私は、自然そのままの中に、美の形を見出そうとしているように思える、日本の庭園と比べずにはいられなかった。

写真  アルカサルの庭園。キリスト教時代の王の宮殿のあった所である。綺麗に手入れされてはいるのだが…。
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第1章 スペイン
第6話 迫力のフラメンコ No.089No.089

 カチャッ!

 内開きのドアは、軽く押しただけで、気持ちよく閉まった。こういったトイレのドアは、建てつけの悪いものが多いものだが、妙に軽快な響きである。どんなノブが付いて……あれっ?

 ノブがない。ドアの取っ手がない。どうやって開けるのだ??大変!ノブが取れている。そんな!どうすれば?

 私は、セビリアからバスで2時間弱、白い町として有名な、アルコス・デ・ラ・フロンテーラのバスターミナルで、トイレの個室に閉じ込められていた。

 出発の午前8時、1月のセビリアはまだ暗く寒かったが、日が昇るにつれ、バスの中はポカポカとした温室になり、美しい牧草地の景色を眺めていて、ついついうとうとする中、ここアルコス・デ・ラ・フロンテーラに着いた。

 乗客はそれぞれの目的地に去り、ガランとしてしまったターミナルで、町歩きの前に体調を整えておこうと、ここに立ち寄ったのであるが、まったく世の中、何が起きるかわからないものだ。

 外からなら、指二本で軽く開けられるドアも、ノブの取れた中からでは、なすすべがない、助けを呼ぶしか。

 私は恥も外聞もなく、平手でバンバンとトイレのドアを叩きながら叫んでいた。ターミナルにはあまり人気はなかったようだが、誰かに聞こえるだろう。

 幸いなことに、5分もしないうちに、人の気配がし、老人が何かブツブツと言いながら開けてくれた。やれやれである。一時はどうなるものかと思ったその胸をなで下ろす。

写真  『白い村』、アルコス・デ・ラ・フロンテーラ。国の史跡に指定されているという。

 白壁で統一されたアルコスの町は、アラブ支配の名残りを残し、迷路のように入り組んで、ただ歩いているだけでも、何かに出会いそうな異国の情緒を漂わせる。

 そんな町の一角に、サンペドロ教会はあった。セビリアなどのカテドラルに比べると、規模はかなり小さいものの、内にはちゃんと、そろうべきものはそろっている。その一つに、例の残酷な姿のキリスト像があった。

 じっと見ていて、また一つ気づいたことがある。それは、「あくまでこれはただの肉なのだ」といった気持ちにさせられることである。なんだか精神が、肉の束縛から解き放たれ、自由に羽ばたいているもののように思えてくる。だとしたらそこにこそ意味があるのだと言わんばかりに。

 私の理解するところ、東洋はむしろ両者の融合した所に、真理を求めたように思うのだけれど、ひょっとして、こんな所に、「もの」を「物」としてみることにより、発展させてきた西洋物質文明の原点があったのかも知れない。

写真  窓辺の猫

 そんなことを思いながら、白壁をめぐり、町をぐるりと一周した後、坂を下り、アルコスの町を一望出来る北の丘に行ってみた。

 建ち並ぶ住宅の間をぬって登った丘の上は、もう菜の花が咲き、ぽかぽかした春の日和であった。コートを脱ぎ、セーターを脱ぎ、ワイシャツで日向ぼっこを楽しんだのだが、寒かったセゴビアやアビラの日々とは違って、なんだか鼻歌でも歌いたくなっているのに気がついた。

写真  柔らかい日差しの中で、男達はカードに熱中。木曜日だったけれど結構のんびり。

 よく変なことを言い始める仲間に、「陽気のせいか?」等と冗談を言ったものだが、陽気のせいでどうのこうのなるというのも、まんざら作り事でもないようである。

 人も動物、春は恋の季節なのかもしれない。冷たい精神はすましていても、熱き肉は、文明以前からの、いや、ひょっとして人以前からの情念を、忘れてはいないようだ。

 精神を理想化してしまうと、その情念に悪さをする小悪魔を見るのかもしれないが、見方によっては、そこにこそ精神のエネルギーがあるのかもしれない。

 そんな情念のほとばしる芸術を、次の日の夜、私は目撃した。フラメンコである。

 その昔、インドへのイスラムの侵入を嫌って、先祖伝来の地を離れたいわば難民のジプシーは、時を経、西に流れて、スペイン南部のアンダルシアに辿り着いたのだが、その彼らも、ようやくイベリア半島からアラブを追い出し、カトリックへの統一を図るスペインに、歓迎されようはずはなかった。

 迫害の中、イベリア半島での放浪が続いたことであろう。そこから形つくられてきたのが、フラメンコだそうだ。決して、安らぎの中から生まれたものでも、喜びの中から生まれたものでもない。それを生んだのは、むしろ、怒りに近い情念ではなかったのだろうか。

 まるで精神に、グイと首根っこを押さえつけられた肉が、その不当な扱いに、怒り、猛り、それを振りほどき、己の存在を主張しようと、もがき苦しむかのよう。

写真  迫力のフラメンコ。まさに情熱の爆発である。汗が飛び散ってきそう。ただただ圧倒され、息を呑むのみ。

 床を踏み鳴らすステップは、そんじょそこらの柔なステップではない。男性の踊り手は勿論のこと、一見優雅に見える女性の踊り手も、いざステップを踏み始めると、その響きはまるで野獣の雄叫び。かき鳴らすギターは、飛び散る血しぶき。カンテの歌い手の指先からは、稲妻がほとばしり出る。

 テレビなどで、フラメンコの踊りは見たことがあったが、この迫力は知らなかった。私は、ただただ圧倒され、魅了されていた。

続いて話の舞台はモロッコへ、そして再びスペインに戻って

第2章モロッコ へ  Top 旅・写真集 Arcos de la Frontera