第2章 マ リ
お茶ポット、コンロ、臼、瓢箪の容器… ジェンネの民家にて。
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「Thank you. Good by!」
そう叫んで、既に動き始めているバスに飛び乗った。 ドゴン最後の村ドゥロゥに迎えに来たのは、ホテルカンサイで顔なじみのドライバー。その彼のタクシーで、バンディアガラに戻った私は、まだバスがあるというので、急ぎホテルに預けてあった荷物をまとめて、その日のうちにモプティに戻ることにした。 どういうわけかマサドゥといると、バスの都合もトントン拍子。けれど彼と別れると、途端にそこは、フランス語の闇、またまた手探りの世界。 1時間半くらい乗ったであろうか、セバレが過ぎてすぐに、モプティと言って降ろされた。 セバレから妙に近すぎるように思ったのだが、確認すると「ウィ」と分かれ道の方向を指差す。「ありがとう」と歩き始めたのだが、いくら歩いても、いや、歩けば歩くほど、ますます街らしい雰囲気から遠ざかる。 不安に駆られ通りかかった自転車の男を止めて「モプティ?」と聞いたのだが、やはり「ウィ」と明るく同じ方向を指差す、《その通り問題ないよ》といった感じで。 けれど妙だ。あの先はきっと、この先はきっと、と歩き続けても、やはりそこも、その先も、また道。まるで幹線道路の真っ只中。
覚悟のドゴンのトレッキングは、拍子抜けするほどの楽な日が多かったのに、とんだ所で、とんだハードなトレッキング。あの時より倍は重い荷物に加え、先のわからない不安が、ずしりと重い。 たまりかねて、通りかかった一般のバイクを止めた。誰か助けてくれる人もいるだろう。 驚いたように止まったドライバー、「モプティ、1,000フラン?」と言って後ろの荷台を指差したら、意味が通じたのかOKしてくれた。 誠にありがたかった。誠にありがたかったけれど、よく見ると、日本でいう原付自転車のような華奢なボディに、幅15センチ程の弱々しい荷台。 後ろにしがみついて10分も走らないうちに、リュックで加重されたお尻が痛い。それに座りなおそうにも、足を乗せるペダルがないばかりか、下手に動けば重いリュックに重心を取られ、ゴロンと後ろに転がり落ちそう。 そのまま、そのまま、しびれるお尻もそのままに、じっと我慢の30分。やっと見慣れたモプティが見えて来た。 それにしても、1時間を越える歩きと合わせると、少々計算は多過ぎるのだけれど、ほとんどセバレで降ろされてしまったようだ。 それならそれと言ってくれれば、こんなに頑張らなくても済んだものを…。いや、フランス語で言ってくれていたでしょうか? で、そのモプティから、次の目的地ジェンネまではだいたい130km、正味で2〜3時間の距離。そう遠くはない上に、どうせまた待たされるだろうと思って、次の日はゆっくりホテルを出て、ターミナルに着いたのは朝の9時頃。 そう、やっぱり待たされました。今度はバンディアガラへ行った時とは少し離れたにぎやかなターミナル。ブッシュタクシー(乗合タクシー)の2,000フラン(\400)と荷物代500フラン(\100)を払って、屋台で朝食を済ませ、みんなのいる待合室の一角に陣取った。
そんな我々にいろんな売り子がやって来る。帽子やTシャツ、お菓子に果物、焼きいもは一個25フラン(\5)。靴磨きの男は、私の靴を指差して磨くポーズ。「ノー」と言ったら、ニコッと笑って去っていった。マリの人は、ガイドの売り込み以外は、皆ひかえめだ。
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モプティのターミナルで、バスを待っていることなど忘れているかのように…。
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ところで待ち時間というと我々は、どうしても無駄な時間と考えてしまうけれど、考えようによっては、そうでもないのかもしれない。 壁にかかったテレビのクンフー映画を楽しむ人々。将棋の駒の動き一つ一つに、一喜一憂の声を張り上げ、指し手以上にその勝負を楽しむ多くのギャラリー。考えてみればやっていることは楽しい余暇と変わりがない。 もしも、あれをしなければ、これをしなければ、といったストレスから解放されて、《 インシャーラ(神の思し召しあらば)》と全てを神にゆだねることが出来たなら、待ち時間はむしろ、人生の積極的なひと時になるのかも知れない。 朝私がここに来た頃、色々と準備をはじめた女将さんは、そんな人々のお昼を用意していたようだ。昼には私も、みんなにまじってソースご飯を注文。豪華煮魚を乗せて500フラン(\100)。 そんな昼食をゆっくり食べてもまだブッシュタクシーは動かない。
そう、やっとエンジンがかかったのは、午後の3時。それからも何度か故障するなど結構遠くて、ジェンネの手前のフェリーの渡しに着いた時太陽はもう、今日の仕事はこれまでと、地平線を枕に顔を赤らめていた。
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フェリーの渡し。これ以上近寄れないのでしょう、車体の低いタクシーは、運転手以外みんな降りて、踝の上まで水に浸かって歩いて乗り込む。
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そんな船着場で待ち受けていた一人の若者が話し掛けてきた。まだ10代のように見えるその青年、ジェンネのガイドをするという。 ジェンネではガイドなど頼むつもりのなかった私、ムスリムもどきに「インシャーラ」と適当な生返事をしていたのだが、その彼、どう近道したのか、我々が車で、街の反対側からターミナルに着いた時、「カンプメン?」と言って近寄って来た。 歩いても5分とはかからないだろうそのホテル、けれどチップの相場も少々慣れて、じゃたのむとジェンネの薄暗がりを彼について宿に向かった。 別れ際、100フラン(\20)渡したら、明日の朝来るから絶対に他のガイドと契約してはダメだよと言い残して帰って行った。 その時もまだ、ジェンネでガイドを雇うつもりは毛頭なかった。けれど夕食のレストランで、次々に現れるガイド攻勢に、考えを変えた。 ガイドは何も、案内をすることのみが役どころではない。我々の方はわからなくても、彼らは町を訪れる旅行者をつぶさにチェックしているに違いない。一度彼らの誰かを受け入れ街を歩けば、それで他のガイドは寄ってこなくなるはず。
次の朝さっそくホテルの入り口で待ち受ける青年に、この町の中だけでいいということで、2000フラン(\400)に値切って合意した。おそらく最低の額だったと思うけれど、お昼過ぎまでかかって、結構丁寧に案内してくれた。私のジェンネデビューである。
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モプティのターミナルで、オレンジの鬼皮を器用に剥き、水を張った桶に次々と浮かべる女性。水に浸けると柔らかくなるのだろうか、注文すると、少し揉んでみて、適当なのを取り上げ、ヘタのところを丸くえぐり取り、薄皮との間に少し裂け目を入れて渡してくれる。客はそこに口をつけ、中味を吸う。一個25フラン(\5)。それにしても、そんなにも売れるのかと思うほど、行水も出来そうな大きな桶一杯に準備していた。
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第2章 マ リ
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まぶしい陽射しと静かな土壁、押し黙ったジェンネの午後の、人影もない通りまで、鳴き声けたたましく、仲間を追い回す一羽のニワトリ。
所詮生き延びたとしても、あと何日の命というのか。ひょっとしたら今夜のテーブルのスープの中。なのにそんなに何を争う。 13世紀から16世紀にかけて、サハラの南端のトンブクトと共に、西アフリカと地中海を結ぶ交易の拠点として、栄華を極めたジェンネの街。 ニジール河にバニ河が合流する中州に位置し、古き時代を伝える街並みは、広場にそびえる大モスクと共に、世界遺産にも登録され、マリ観光のハイライトの一つ。 けれどマーケットデイでない今日は、まだ眠り足らぬ朝のように、ものうげな表情を漂わせている。そんなジェンネに魅せられてもう一度、ぐるりと街を一回りしてみた。
既にガイドのジョロー君と一回りした効果だと思うのだが、それだけでも、ガイド料2,000フラン(\400)の価値は充分と思えるほど、誰も勧誘には寄って来ず、土壁のジェンネは素顔で私を受け入れてくれる。
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街の南の河原から見た古都ジェンネ。はるかに見える塔はジェンネの大モスク。
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地図では川の水に囲まれているように描かれていたけれど、乾季のせいかあまり水はなく、島の南の、所々池のように水の残った岸辺では、洗濯をする人、日干し煉瓦をつくる人。
そこからぶらりと、西の病院まで歩いて、島の北の道を泊っているカンプメン近くまで。そこからは、どこをどう歩いたのかわからないのだけれど、勘で歩いたら、広場に戻った。 ジェンネに照りつけていた太陽も、既に西に傾いて、あの大モスクは逆光の中。ちらほら行き交う人々にまじって、広場のポールの土台に腰を下ろした。 1280年、第26代のジェンネ首長、コイ・コンボの時代に建てられたというこの泥のモスク、それ以後延々と続いたのだそうだが、残念にも19世紀初頭に破壊されてしまい、今あるのは、1907年に再建されたものだそうだ。 床を支える椰子の木材の梁の一部なのだろう、ニョキニョキと壁から突き出るユニークな壁面の木は、毎年の雨期を前に修復される、泥塗りの時の足場の役もするという。
何しろ日干し煉瓦の建物としては、世界最大というこの大モスク、千人を越える人々の、共同作業となるのだそうだ。
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ジェンネの広場
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そんなモスクの見守る広場を子供が一人、愉快そうにタイヤを回して走り抜け、かわって大きな赤い布包みを頭に女性が、悠然と歩いて来る。
白い布でほとんど顔を覆った男が、ガタガタと自転車を鳴らせて通り過ぎ、一人の少年が、側転で得意げに前を横切る。その手も足も、服や顔さえも、砂まみれで白い。 けれどそれがどうしたと言うのか。ここでは砂まみれなんて、まるで意味がない。みんなみんな、砂まみれなんだから。 少女が一人、恥ずかしそうに寄ってきて、ボンボと言って私を見つめた。飴をくれる外人が多いのだろう。 あまり可愛いので、少し意地悪をしたくなって、なんの表情もつくらずにいたら、恥ずかしそうに去っていった。
放置された山羊は、土地を舐めるように食べ物をあさる。何か人のこぼした穀物でも、一粒一粒唇と舌で拾って食べているのだろう、おそらく砂も一緒に。 それにしても、首というのは、そうやって地べたの餌をあさるのに、ちょうど良い長さになっているものだ。
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月曜のマーケットデーを待つジェンネの広場
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近寄ってきた少年は、一人紙ピストルで、アクション俳優のように格好をつけ、さまざまなポーズで私を撃って、そのままに固まってギョロリと白く大きな目をむいた。
その目、ハリウッド映画ラッシュアワーでジャッキーチェンと競演した、クリス・タッカーの目を見ているよう。生まれつきのコメディアン、思わず吹き出さずにはいられない。 と、突然、餌をあさっていた山羊が、黒いビニールの袋をかぶったまま、狂ったように首を振り、あたりかまわず暴れ出す。餌に夢中で、首を突っ込んだ袋が角にひっかかってしまったのだ。突然襲った暗黒に、さぞびっくりしたことだろう。 いやいや、突然準備の道具を蹴散らされた男の方が、もっと驚いたのかもしれない。その山羊を取り押さえようとする彼の、山羊にも劣らぬあわてよう。見ていて飽きない夕方の、ジェンネ広場のエンタテインメントショウ。 先ほどの少女がまた現れて、じっと私を見つめている。今度はニコッと笑いかけたら、嬉しそうな笑顔が返ってきた。 明日は月曜マーケットデイ。売る人買う人一杯に、この広場はひしめき合うはず。ぼちぼち準備の人もやって来て、まるで嵐の前の静けさのように、期待と熱気が充満をはじめる、日曜の日暮れのジェンネ広場。
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第2章 マ リ
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トタン屋根を叩く強い夕立のように、止めどなく弾き出される強烈な太鼓のリズム、小粒で、しかもピチピチ跳ねる生きの良さで、レストランババの中庭から、ジェンネの夜空へと駆け上る。
先ほどから座りながらも、体を動かしていたダンサーが、たまりかねたように、みんなの前に進み出た。1人、2人、また1人。 ダンサーといっても、まだ少女に近い彼女達、Tシャツにいつもの巻きスカートと、日本でなら普段着でちょっと盆踊りに、といった姿ではあったが、さすがに抜群のリズム感。灯りのわずかしかない中庭の闇で、踊るにつれ酔いしれていく彼女達。 やがて太鼓の男達に背を向けると、グイとお尻を突き出して、中腰になったその腰を、まるで何かに憑かれたように、一心不乱に振り始めた。激しくそしてセクシーに。 あたかも彼女達を乗っ取った太鼓のリズムが、全てそこに集まって、行き場を無くして暴れ回っているかのよう。 人は踊りの文化をいろいろ豊かにして来たけれど、そもそも踊りというものの原点は、オスがメスを、メスがオスを引きつけるための、性のディスプレイだったのではないだろうか。 理性はそうは言わないかも知れないけれど、少なくとも人も、そんな進化の昔の遺伝子を持っていてもおかしくはない。 なんだか彼女達、踊っているというより、踊らされているかのよう。こみ上げる意識の下からの何ものかに。 やがて彼女達は、止めていた息の限界でもきたかのように、フゥッと吾に返って動きをゆるめると、急に恥ずかしさに気づいたと言わんばかりに、少女のはにかみに戻って、もといた椅子に駆け寄った。 するとまた、代わりの女が進み出て、再び荒々しさを増した男達の太鼓が、待ってましたとその彼女達に襲いかかる。ジェンネの夜のアフリカンダンス。 夜の9時、ショーも終わって、レストランババを後にした。料金はチキンソースライスと紅茶で3,100フラン(\620)。ダンスは途中カンパの籠が回ってきたから、レストランはただ場所を提供しているだけなのかもしれない。 このダンス、日曜と月曜の週2日というから、やはり市の日とあわせているのだろう。
そう、明日は週に一度のマーケットデー。モスクの前のジェンネの広場には、そこで夜明かしをするのだろう、明日の商品を地面に並べて、ちらほらと人が見える。そんな広場を横に見て、ひっそりと闇に静まり返った、カンプメンのホテルに戻った。
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市の日の、ジェンネの朝の8時半。
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翌朝7時に目が覚めてみると、何がいけなかったのか、今回の旅で初めての下痢。幸い腹痛はなかったものの、体がだるくもう少しベッドに横たわっていたかったけれど、週に一度のマーケットデーなので、頑張って見に出かけた。
さぞ活気にあふれているだろうと広場に出ると、8時半だというのに、まだ広場を占めるのは半分ほどで、大半は準備中。 人の背より少々高いほどの、曲がりくねった木を柱にしようと、地面に棒で穴を明けている手伝いの少年。硬い地面、そこらで拾って来たような棒では、なかなか柱がしっかりするほども掘れやしないのに。 何とか形をなした柱では男が、黒いテントを結んでいる。日除けの用はなすけれど、どうも「ちゃんと」とは言い難い。 それにセネガルもそうだったけれど、マリでも活動開始の時間は一般に遅いようだ。下痢で気分が乗らないこともあって、少々期待はずれで、一通りに写真を撮っては見たものの、一度ホテルに戻ることにした。 で、ホテルに戻ってベッドに横たわると、体が沈んでいくのではと思えるほど重く、動くのがとても気だるくて、そのままお昼過ぎまで寝込んでしまった。マーケットデーのジェンネを充分楽しむつもりの余裕の日程が、とんだダウンの一日に。
それでも午後、再び広場に行ってみた。するとさすがに広場は活況。どこからこんなに人が集まったのかと思うほどの人、人、人、物、物、物。
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午後はさすがに活況の、ジェンネのマーケット。
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そんな混雑もよく見ると、自然と秩序が出来るのか、よく似たものはある程度集中している。布に毛布にTシャツに下着や帽子。バナナにスイカにオレンジに、穀物のいろいろ。
さまざまな大きさの瓢箪を切って、桶やボウルや食器に仕立てた古来よりの容器に、ちょっと味気ないけれど便利な工業製品の、バケツにザルに食器の数々。 それに何かの処理をしたのか、真っ黒くなった、手の平ほどの大きさの干し魚の、胸の高さほどにも積まれた山。ありとあらゆるものが所狭しと並び、見ていて飽きないマリの素顔。栄華を極めたジェンネの偲ばれる市場の活況。 けれど陽が西に傾きはじめるともう、そろそろ片付けを始める人もいる。果して商品は完売したのだろうかと心配するのだが、見たところそういう人ばかりでもなさそう。
おそらくそんなことにあせることなく、また来週か、或いはどこかで開かれるマーケットに移動するのだろう。流通のリズムは、あのダンスのリズムと違って、逆に日本の方が何かにとり憑かれているのかも知れない。
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第2章 マ リ
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朝の8時12分、なんとバスは動き出した。驚きと感動の体験。今までいつも、昼を過ぎて2時3時と待たされたのに、8時のバスが8時12分に動き出したのである…。
昨日は、歩くのもままならぬ混雑であったジェンネの広場も、朝の7時に来てみると、まるであれが歴史の彼方の出来事ででもあったかのように、ガランと寂しく、夜明け前の冷たさをまだ残して、角の小屋近くに、出発を待つミニバスが見えた。 近寄って「セグー」と言うと「ウィ」とのこと。運賃の4,500フラン(\900)と荷物代1,000フラン(\200)を払って、男の横のベンチに座った。 朝食なのだろう、足先に置いたコンロの上のお粥が煮立つのを待つ彼、フランス語で話し掛けてきたけれど、何を言っているのかわからないので、「セグー」と言って両手を顔の横に眠る仕草をしたら、セグー宿泊が通じたのだろう、ニコッと笑ってリュックを屋根に上げてくれた。 どうやら車掌さんだったよう。これは心強いと安心したのだが、まさか時間通りに出発するとは思っていなかった。しかも、私の横の席は、まだ空席のままなのにである。 窓の外では、見送りの老人が、声をいっそうはりあげて、バスの親子との別れを惜しんでいる。 セグーへは、二百数十キロ程度でバマコまでの約半分。旅の途中の私には、小刻みな移動のつもりなのだが、やはり別れには変わりないのか、それともセグーは遥かに遠い世界なのか、見ているとまるで永久の別れのよう。 そんな思いを引き裂いて、バスはジェンネの土壁を後に、一路河原を突っ走って、フェリーの渡しで皆を降ろした。ここはジェンネを発つ車の全てが必ず通る所。バスをつかまえるにも絶好の地点。 岸辺で待っていた男の山羊2頭を、手足を輪に縛り上げ、運転手は屋根の荷台に放り上げる。広々とした河辺の空に響く、2頭の山羊の怒りの叫び。
やがて向こう岸から戻ったフェリーが、乗せていた車を吐き出すと、我々のミニバスは皆を残して、ひとり水しぶきを上げて、そのフェリーに乗り込む。 客を乗せてでは、輪が砂に埋もれるのだろう。来る時は戸惑ったけれど、みなも裸足になってジャブジャブと、靴を手に船に乗り込む。 9時20分、来る時ジェンネの街への入場料を払ったチェックポイントに着いて、幹線道路に入ったバスは快調に走って、州境なのか11時20分、検問のブロックに停められた。 何も言わずに無愛想な顔で乗り込んで来たポリスは、みんなのID証のチェックを始める。私はパスポートを見せるだけで、簡単にOKであったけれど、皆にはけっこう厳しい。 ID証がない人は、いちいち名前をいわされるのだが、みんなとてもうさんくさそうに、ぶっきらぼうな答え方。けれどポリスも負けてやしない。 でもちょっと面白い。喧嘩腰で聞き出した名前を、ポリスはもったいぶって書き止めていくのだが、その紙は、そこらでビリッと破いてきた、切れっ端のボール紙。 かなり時間をかけて聞き出して、それで終わりかと思ったら、そのメモを元に近くの小屋まで呼びつけられ、長い時間をかけて何かの登録をさせられていた。マリでは何をチェックしているのか、よくポリスの検問で止められる。 再びバスは動き出して、ガンガンと太陽の照りつける屋根からは、しゃっくりのように間歇的な、山羊の叫びが絶え間ない。 しっかりと毛皮を着込んでいては、さぞ暑かろうと同情するのだが、この期に及んでもその声が、「メェ〜 メェ〜」という日本語で馴染みの、か細く悲しげな声ではなく、太く濁って、まるで怒りに任せて怒鳴り散らしているように聞こえるのは、場違いの空威張りを演じるコメディのよう。 けれど市の開かれている町に着いた時、悲しくも肉と化した姿で、ミニバスの窓越しに再会した。首から血を滴らせて。 その血の周りにも飛び交っていたが、街に市が立つところ人が集まり、人の集まるところハエも集まるのだろう、出発合図の警笛を一つ鳴らせて、バスがゆっくり動き出すと、外で一息入れていた皆がドット乗り込んで、ハエの大群もワッとバスの中に。 これはたまらんと思ったけれど、バスがスピードを上げるにつれ、ビュービュー入る窓からの風に、1匹2匹と吹き飛ばされ、次第にいなくなった午後の2時半、バスはとある町で止まり、みなは礼拝に近くのモスクへと消えた。
けれど乗客の1人と車掌だけは、モスクへは行かず悠然と近くの木陰で腰を下ろしている。ムスリムではないのだろう。 その彼らの、少数でも当たり前のような振る舞いに、なんだかホッとする。たとえそれが何であれ、社会が一色に染まるのを、私はあまり好きではない。 礼拝から戻った皆を乗せて、再び動き出したバスは、道端に薪の束を並べた民家の横で停まった。誰か降りるのかと思ったがそうではなく、運転手はその薪の束をいくつも仕入れてバスの屋根に積み上げる。
その様子、どうやらいつものパターンのよう。してみると、この種のミニバスは、単に客を運ぶというより、物流の一端をも担っているのかもしれない。
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左端で、女将さんと何かを交渉しているのが運転手。
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ひょっとして、マリの庶民のバスは、街々で開かれる市をめぐっての、人と物の流れにリズムを合わせているのだろうか。 そういえば、バンディアガラからドゴンへのマサドゥに付いて乗ったバスも、時間どおりで驚いたのだが、あれはカニコンボレあたりの市に合わせたバスであった。 だとしたら、そんなリズムを無視して距離や日時を、旅人の気まぐれなプランで動こうとすると、一台丸ごとチャーターでもしない限り、1日待ってやっと一台動き出すといったことにもなりかねない。 旅も終わりに近づいて、あまり試す機会はなかったけれど、これが、さんざん苦労をさせられた、バス移動のコツだったのだろうか。 ジェンネを時間どおりに出たミニバスは、これまた宿を探すのにちょうど良い午後の4時、砂埃り舞うセグーのターミナルに着いた。 「グルッとあちら!」 屋根の上から私のリュックを降ろしてくれた車掌は、私の話した宿の方角を、そんな仕草で指差して、朝私がした眠るポーズをして笑った。 | ||||
元気なセグーの子供達
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第2章 マ リ
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ポォーッ ポァポァ、ポォーッ ポァポァ…
遠くで名も知らぬ鳥が鳴き、目の前のまぶしい庭に、追いかけっこをする2羽のスズメが現れては消え、消えては現れる。 テラスの垣根に植えられて、その眩しさの大半を遮ってくれる木の緑の中には、ブラブラといくつもぶら下がるマンゴの実。 その幹を、忍者のように駆け上り、ピタリと止まって身構える一匹のヤモリ。カンボジアではよく「ベッポー」と鳴いていたのだが、マリではまだ一度もその声を耳にしない。
火曜のバスはセグーまでしかないというので、逆らわずに立ち寄った予定外のこの街、けれど来てみると、ニジール側の南岸に位置し、静かで旅行者ズレもなく、何日でも居たくなる魅力的な街。 午後の4時に着いたバスターミナルから30分程、メインストリートの独立通りを西に歩いたこの平屋建てのモテル・サバンナ、8,000フラン(\1,600)のシングルルームは、広く清潔な上、シャワーはお湯も出て嬉しくなってしまう。 ジェンネを発つ時心配した下痢も治まり、すっかりリラックスして今朝は、目が覚めたら9時になってしまっていた。 気温26℃湿度44%、そんなテラスでクッキーとナツメヤシの実、それに先ほど沸かしたお湯で入れたネスカフェの朝食を楽しんでいると、始まったばかりの夏休みの、いつも目にする草木さえ、なぜか私に話しかけているように感じた、あの不思議な朝の瑞々しさを思い出してしまう。 テレビやコンピューターなどなくても、1日の始まりはそれ自体でエキサイティングなのだけれど、もしもここで延々と暮らすとしたら、人はこの素晴らしさも退屈と思うようになるのだろうか。
そんな退屈を感じた日本人がいたのだろうか、いやいやその逆で、暇つぶしの小説など不要になったに違いない。 朝食の後ぶらり歩いた独立通りで「ジャパニーズブック!」と言って呼び止められた。見ると歩道の半分ほどを占領して、敷いたビニールに積まれた古本の数々。 旅では結構やることがあって、いつもあまり読み進めないのだけれど、だいたいサスペンス小説の一冊を持ち歩いて、宿でのコーヒータイムなどに楽しんでいる私、勿論、日本語の方が読みやすいのだが、現地で買った英語の小説で、異国の気分の格好をつけている。 けれどセネガルでもマリでも、あるのはフランス語ばかりで、英語の小説は見つけることは出来なかった。もう旅も大半は終わったのだけれど、まだ帰りの便の乗り継ぎの、結構長い待ち時間がある。 だったらこの際、日本のでもと思って立ち止まると、主人はひっくり返した本の中から、日に焼けた一冊の単行本を取り出した。 見ると、イスラムの国には不似合いな好色文学。そんなことを知ってか知らずか、3,000フラン(\600)でどうかという。 その小説自体には、あまり興味はもてなかったけれど、その本の辿ったであろう数奇な運命に想像が膨らむ。 いったい誰にはるばるこんな異国まで連れてこられたのだろう。旅人か、ビジネスマンか。そしてここで捨てられて、それを誰かに拾われて、この男に売り飛ばされ、埃にまみれて陽に焼けて、誰も読めないこの国で…。 なんだか日本につれて帰ってやりたくなって、「500フラン(\100)!」と言ったら、丸儲けといった笑みが返ってきた。 セグーは宿も街も気に入って、もっとゆっくりしていたかったけれど、セネガルへ戻る手段が決まらないので、3日目にバマコに発つことにした。 長距離バスはセグーも、それぞれの会社のオフィスから出発する。比較的宿から近いビターバスのオフィスでバマコ行きを確認したら、始発は6時で2番目は7時発とのこと。 6時は少々早過ぎるので、7時を予約しようとしたら、予約はないから明日の朝出発の1時間前に来いと言う。 | ||||
セグーのメインストリートBlvd de I'Independance、朝の6時はまだ暗い。
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それで、翌朝は4時に起き、荷造りを済ませて6時前に宿を出た。宿が静かで快適であった分、街の中心へはちょっと遠い。 遅れても困るので、暗がりの中でタクシーを捜していると、前からそれらしい車が一台、やれやれと思って手を上げたのだが、客を乗せていたのかスピードを緩めることなく走り去ってしまう。 けれど5分と歩かないうちに、猛スピードで戻ってきて、私の横でブレーキを踏んだ。乗り込んで7時のビターバスでバマコまで行くのだと言うと、それならスマトラバスだと言い張る。 以前なら信用せず、自分の予定を通していたのだが、《バスは人に乗って》と方針を変更した後なので、その運転手に従ってみた。 塀に囲まれたまだ薄暗いスマトラバスのターミナルには、大型のバスが一台、出発の時を待って、まわりを荷物を置いた10人程の乗客が取り囲んでいる。 中の家族連れの紳士が着ているのは、おそらく新調の服なのだろう。不自然に残る横の折り目に、バマコまでの旅の気合の入れようがにじんでいる。 そんな人々の待つバスだから、人の波に乗っているとは思ったが、本当に7時に動き出すものか、実はまだ半信半疑であった。 けれどこのバスも、30分程待った7時15分、当たり前のように動き出し、昼前の11時、見覚えのあるバマコのスマトラバスターミナルに滑り込んだ。
これまでのバス移動の苦労に比べると、なんともトントン拍子の展開。どうやらこの半日ほどの移動距離というのも、人々とリズムを合わせる目安のようだ。
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セグーの陶器屋さん
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第2章 マ リ
歯を磨く女性 歯ブラシは木の枝を噛んで(バマコにて)
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「あっぱれ籐吉郎。褒美を取らすぞ。好きなものを言ってみい。」
「ははっ、もったいないお言葉。この籐吉郎、何もいりませぬ。ただ時々、殿のお耳の匂いを嗅がせていただければ、それで充分でございます。」 こう言って、利口な籐吉郎はその許しを得たそうな。覚えているのも不思議なのだが、ほぼ半世紀も昔に、何度も聞かされた祖母の昔話である。 で、その籐吉郎、家来が一同に集まる前ではいつも、誰か一人の顔をじっと見つめては、殿様の耳に鼻を寄せたという。 そうするとその家来、何か良からぬことを告げ口されているのではと不安になり、決まって後日、貢物を持って籐吉郎の所に参上したのだそうだ。かくして、籐吉郎の家は宝の山、めでたしめでたし。 「それって、賄賂じゃん!」ということに今ならなるのだが、むしろテーマは、にらまれた家来の心理の方にあったようだ。薄暗いレストラン・ラ・カサで一人私は、そんな家来になってしまっていた。 | ||
正面方向がレストラン・ラ・カサへ。左方向歩いて5分ほどがホテル。 ところでバマコを歩いていると、背の高い部族がまざているのか、男性の半分以上が、身長180cm〜190cmのように思えました。中には2mを越えそうな人も悠々と歩いて。
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セグーからすんなりと着いた2度目のバマコ、前はエアコン付きのホテルに泊まったのだが、今回は探す時間も充分あって、少々安いオウベルグ・ラフィアに落ち着いた。 そこで荷を解き一息入れた夕方、さっそく20分程歩いて、ミッションカソリック正面のレストラン・ラ・カサに夕食に出かけた。 ミッションカソリックは、先ほど尋ねた時も、予約いっぱいで断られてしまった人気の宿で、多くの欧米人バックパッカーが泊まっている。 主にその人達を相手のこのレストラン、軒先のテーブル2つを、長椅子で囲った程度の小さな店だが、外人旅行者の喜びそうな味の料理を出す。 私も前回食べたモロッコのタジンに似た、ラグット・ドベルジン(Ragout Daubergines)なる野菜たっぷりの料理が気に入って、楽しみにやって来たのだが、入ると既にそこにいた一人のマリの若者に、日本人かと英語で尋ねられた。 そうだと言うと大喜びで、日本の友人に出す手紙を、日本で出してくれないかという。〈おいおい切手代は誰が持つのだ〉などとは言わないで、フレンドシップいっぱいに「いいよ」とOKした。 けれど考えてみると、人の良さそうな若者とはいえ初対面の相手、思わぬトラブルに巻き込まれてもいやだから、「手紙の中は紙だけだよ」と念を押す。 OKと準備を始めた彼、よく見ると持っているのは赤と青の縞模様で縁取られたエアメール専用の封筒。 問題ないとは思うけれど、もしも国内郵便として受け付けてもらえなかったりしたら対応に困るから「普通の白い封筒の方が良いと思うけれど」と言うと、「じゃ、明日手紙を取りに来てくれ」と言う。 えっ、わざわざまた歩いてここまで私が?そこまではねぇ…と思いつつ「明日は来れないよ」と言うと、知り合いなのか、隣でバスケットに入れた子供をあやしながら、ポテトチップとビールを楽しんでいた白人女性に頼んで、白い封筒を手に入れた。
で、手紙の出来るのを待ちながらフッと思った。普通の封筒で、消印が日本で中味がアフリカというのでは、受け取った人は不審に思うかもしれない。 そう思って、「手紙の最後にでも『この手紙は、日本人旅行者に、日本からの投函を頼みました。』といった旨を追記しといてくれ。」と言うと、何故だか急に、強い語調でダメだと言い張り始める。 当然OKだと思っていた私、ダメの意味が呑み込めず「どうして?」と聞いたのだが、「友達は私を信用している!」「タイプで打つのだからダメだ!」「今までそんなことは書いたことはない!」と意味不明の拒絶。 「余白にでもちょっと書き加えるのが、どうしてそんなにいけないの?」と聞き返すと、何故か「Never Never! You are too much complicated!」と怒り出してしまう。白くて大きな目が、薄暗い軒先の店内に灯る一本の蛍光灯に照らされて、さも憎らしそうに私をにらみつけて。 どうして?私は悪者?と戸惑ったのだが、まあそれだけならまだ良かった。けれどその彼、今度は封筒をもらった女性の横へ行って、こちらをにらみつけては、何かをフランス語で話し掛ける。 そのたびに「ウィ」と答える彼女、いかにも「日本人はこんなに悪いんだよ。」「へーそうなんだ。」と言っているように思えてしまう。 そればかりか、テーブルの反対側で談笑していた、白人と少々浅黒い外人にも、同じように時々こちらをにらんでは、何かを話し掛けている。 冷静に見れば、女性も2人組みも、私の方を見るわけではなかったから、全然別の話をしていたのかもしれない。けれどわからないフランス語が、私の妄想を膨らませる。完全に籐吉郎の術中にはまった家来の心境。 よく「積もり積もったいがみ合いから事件に…」なんてニュースを耳にするが、こんな膨れ上がった妄想の雪だるまに押し潰されるのだろう。 かといって、何を話しているかわからないのに、「私は何も悪くはない」などと説明に入るわけにもいかず、料理は期待どおり美味しかったけれど、消化不良のモヤモヤを胃の中に残して店を出た。 でも幸いにも、そんなフランス語のストレスから、その夜は一気に解放された。 偶然宿に、日本人バックパッカーが泊りに来たのである。モロッコからモウリタリア、セネガルと回って来たという彼、今回の旅で初めての日本語の世界。 喋るということは、窓を開け放って、部屋の空気を入れ替えるにも似て、なんだか気分の風通しを良くするものでもあるようだ。 お互いの旅のあれやこれやを話して、食堂の事件のモヤモヤも、カラッと乾いた笑い話になっていた。 つづく
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【バマコの武道場】 バマコでの夕方、小学生くらいの子供が柔道着を着て歩いて来た。日本では良く見かける光景。「柔道?」と投げる格好をしたら、空手の格好をし、ついて来いと手招きをする。行くとマットが敷かれた広間に、男女10人ほどの子供が集まっている。やがて背の高い先生が現れ、体操の後、受身の練習が始まった。子供達にとって柔道も空手も同じなのだろう。みんなとても神妙で、ニコニコと私に視線を送って楽しそう。外では、青年達の空手の練習が始まっていた。話したかったけれど、残念、みんなフランス語。
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第2章 マ リ
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"インディゴブルー" 藍染の青だが、どういうわけか私はこの言葉の響きが好きである。勿論、藍染の布も美しい。その藍染の布は、西アフリカの特産でもあるという。バマコでも染めたてのようなのが干してあったり、売っていたりするのをしばしば見かける。
ある時歩いていると、トントン トントン、小さな小屋からハイピッチな音が聞こえてきた。 その音に引かれて入口から覗くと、薄暗い小屋の中で、男が向かい合って座り、前に置いた木の上の、たたんで置かれた布を、力まかせに木槌で叩いている。 まるで息のあった餅つきのようにリズミカルに、そんなに叩いては布が傷むのではと心配するほど力まかせに。 何をしているのかわからず、アイロンの代わりのシワ延ばしだろうかなどと思って、そのめずらしさに写真を撮らせてもらったのだが、そろそろ土産の品を決めなければと、ガイドブックをめくっていて発見した、「インディゴ染めの布は、色に艶を出すために、木槌で叩かれることがある。」という記事を。 叩いていた布の色は、インディゴの青ではなかったけれど、あれも艶を出す作業だったに違いない。 そんな労力も伴うインディゴ染めだから、一般の布より値段は高い。バマコの東の市場、そもそもの起源は靴屋の集まりだったというマルシェローズで、1.5m程の布をいくらかと聞いたら、男が横からしゃしゃり出て来て、10,000フラン(\2,000)だと言う。 そりゃ高いと、問答無用に去ろうとすると、もういけない、いくらなら買うかと、付いて歩いて離れない。 彼を諦めさすために、欲しいのはインディゴではなく布なのだと装って、近くの布屋で一般の布の値を聞いたら、それもいけなかった。今度はそこの女性に、どこまでもどこまでもついて来られる。 マリの人は、ガイドの売り込み以外は、皆遠慮がちのように思ったが、さすがにここは首都バマコ、彼らを振り切るには、やむなく一度市場を脱出せねばならなかった。 けれど土産も買いたいので、もう一度再挑戦。なるべく先ほどの一角には近寄らないようにと思ったのだが、布屋は布屋で集まっていて、他の場所にはインディゴはない。 仕方ないかと覚悟を決めかけた時、偶然仕立屋の一角に出た。見るとそこにもインディゴの布が軒先に。 さっそく値段を聞くと、1枚4,500フラン(\900)と言う。先ほどの彼より遥かに安い。けれどここはアフリカ、言い値では買えない。少々の値段の押し合いをして、4枚15,000フラン(\3,000)で手を打った。 |
バマコの市場にて。右にかかっているのが、インディゴ染めの布。
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これで一件落着ではあったが、もう一つ解決せねばならないことが残っている。それは、セネガルへの移動手段。昨夜宿で話した彼によると、バマコまでの国際列車は、ダカールで5日ほど待たされたという。 帰りのフライトはフィックスの私、途中まで行ったは良いが、カイでのように、進むも戻るも出来ないとでもなったら大変なので、大事を取ってダカールへはスケジュールの確かな飛行機に決めた。 で、そのチケットを手に入れるべく、市場からそう遠くない旅行会社ESPのドアを開けた。 ヒンヤリと気持ちの良いオフィスに、通じる英語、まるで混沌から秩序に戻ったような安堵を感じたが、ダカールまでは混んでいて、予定の日には夜の10時発しか空席がないという。 そうなると着くのは深夜、あの初日のダカールを思い出さずにはいられない。けれど日日をずらすのも日程の無駄になるので、最後の難関とそれに覚悟を決めた。 そんなわけで、その日は明るいうちに空港に行っても早すぎるのだけれど、宿のチェックアウトも済んで、部屋ではくつろげないので、街を一回りして帰った午後の2時、空港に向かうことにした。 ところが偶然、空港に着いたのは、満席だと断られた先の便の、チェックインの時間。暇をつぶそうと思った、レストランや売店などどこにも見あたらないので、ひょっとしたらチェックインの先にベンチでもあるかと思って、乗客の並ぶカウンターへと行ってみた。 ロープの張られた入口で、私のチケットに目を通したセキュリティーの女性、これはこのあとだと丁寧に断る。
やっぱりだめかと立ち去ろうとすると、「このフライトで行きたいか?」と尋ねてきた。勿論それにこしたことはない。「出来れば」と答えると、空きがあれば乗れるようにするから、ここで待っていろと私のチケットを持って消えた。
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バマコからセネガルのダカールへ。セネガルのヨフの海岸は、空港のすぐそばで、離着陸する飛行機が手に取るように見える。
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チケットを手放してしまって少々不安であったけれど、しばらく待っていると、カウンターの前の客がすっかりいなくなった後、ヨーロッパ人のカップルの名が呼ばれる。飛び上がって喜ぶ彼ら、さっそくチェックインを済ませて小走りに先へと消えた。 その後にもう一人呼ばれたのだが、私は呼ばれない。どうしたものかとカウンターのほうを見ていると、あのセキュリティーの女性がやってきて、早くチェックインをせよと言う。 あわてて荷物を集めていると、男が一人カウンターの前を占領してしまった。そればかりか、何か文句を言い始める彼、対応の女性がいくら説明しても、なんだかんだとカウンターを離れない。 チェックインが済んでも、手荷物検査やパスポートコントロールなど、まだまだ手続きの残る私、イライラして待っていたのだが、業を煮やしたカウンターの女性、男を無視して、顔を横に出し、私の名前を呼んでくれた。 やれやれと手続きを終え、気をもみながら横で見守っていたセキュリティーの彼女に、お礼のチップを渡そうとすると、とんでもないと受け取らず、あせった仕草で「急いで!」と私を促す。 見ればあたりに乗客はすっかりいなくなっているばかりか、カウンターの人達も、なんだか片付けに入っているよう。これは大変と急いだのだが、パスポートコントロールではなかなかOKが出ない。 それもそのはず、出国時にカードなど書いた記憶のない私、少々妙には思ったけれど、待っている時に渡されたカードを、てっきりダカールの入国カードだと思ってしまい、宿泊予定地や日時など、何から何までチンプンカンプンのはず。 何度も何度も首をかしげていた係官であったが、しまいにもうめんどうになったのか、私の訂正の説明途中で、どうでもいいやといった感じでOKしてくれた。 カードが不備でも、乗ってしまえばこちらのもの。急ぎゲートを出ると、バスなどは初めからないのか、それとももう出てしまったのか、ただあちらにこちらに飛行機が見えるだけ。 振り向くとゲートの出口の係官が、一つ向うのジェット機を指差す。見ると、その尾翼の後方に係官がいて、こちらに手を振っているよう。 急ぎ走り寄ったのだが、近づくにつれ左へ左へと合図を送っている。「迂回せよ」なのか「この機は違う」という意味なのかわからなかったけれど、とにかく飛行場に見える人間は私と彼だけなので、息を切らせて走りよる。 どうやら既にエンジンもかかって、吐き出すジェットが危ないから、迂回せよということだったようだ。 ぐるりと回ると、まだそのままのタラップ、あせって駆け上って、既にみんなの座っている通路を急いで、見つけた座席19E、とにもかくにもシートベルトを締め、まだ手に持ったままだったパスポートなどをしまっていると、もう飛行機は滑走路へと動き出す。私が乗り込むのをしびれを切らして待ちかねていたかのように。 次第にスピードを出す離陸の揺れの中、右の窓側には、コーランを念じるように読む男、左の通路側には、私とその男越しに、走り去る窓の外を覗き込む女。前の席には、ちっとも親のいうことを聞かずはしゃぐ子供3人。 そんな人々を乗せたエアアフリカ761便は、午後の四時、ふわりとマリの大地を離れた。セネガルのダカールへは1時間半、十分明るい時間に着けるはず。なんとも感謝感謝。 次章へつづく |