第2章 マ リ
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あっ!
飛ばされた帽子が、後ろの入り口の、半開きのドアの下にひっかかる。集まる目。誰か、とってくれ! ガガーンバンバン、バババーン。 上に下に右に左に、トランポリンのように突き上げる床に重心を取られて、誰もそれに届かない。 ベンツ製の4トントラックの荷台に積まれた、使い古しの白いコンテナに、ガス切断で窓を切り、厚さ5cmはあろうかというゴッツイ板で、ぐるりに椅子を取り付けたトラックバスの中。 腰掛から放り出されないように、板に打ち付けられるお尻への衝撃を少しでも緩和するようにと、バランスとタイミングをとるのが精一杯。 あっ、落ちる、だれか! 願いもむなしく次の一瞬、もうもうたる砂煙の中へ、ヒラリと舞ったカーキ色の帽子は、着地と同時に二転三転、必死に我々を追いかけて、力尽きた。 「ストップ!ストップ!」そう叫ぶ私と同時に、バンバンバンとコンテナの壁を叩いて合図を送る車掌。 けれど土と石を噛みながら、猛烈に走るトラックの雄叫びは、なんなくそれを呑み込んで、運転席へは届けてくれない。
どうすれば…、帽子は既に砂煙の向うへ姿を消して。
今朝タンバクンダのニジホテルを出たのは、8時も回っていた。どうせまた待たされるのだろうと思って、移動日としてはかなりゆっくりの出発。 けれど町はまだ早朝の雰囲気。セネガルは夜明けとともにお祈りの始まるイスラムの国だけれど、町の活動が本格的に始まるのは、日本と大差ないようだ。 空が白み始めると同時に、ラッシュアワーのような活気を帯びたネパールのバクタプールを思い出すと、結構遅く感じてしまう。
そんなタンバクンダの朝を、タクシーを拾って東のターミナルへ向かった。料金は400フラン(\80)、昨日は歩いて下見に来たのだが、リュックを背負っては少々遠い。
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タンバクンダは馬車も大活躍でした。
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5、6分走って、何台かの車の駐車する広場に下りると、さっそく「キディラ?」と声をかけられた。
セネガル川を挟んだマリとの国境の町キディラへの186kmは、最近台湾の援助で完成した快適な道路で結ばれている。 「ウィ、プジョタクシー?」 皆さんご存知のように、プウジョーとはそもそもフランスの車メーカーの名前だと思うのだが、それがセネガルでは乗合タクシーの意味で使われているようだ。 タンバクンダまではバスでもたついたので、少々割高のようであったが、37,00フラン(¥740)と、それに荷物代の500フラン(¥100)を男に渡した。 何時発なのかハッキリしないのが、日本での感覚からすると、少々落ち着かないけれど、ダカールからのバスで待たされて、かなり図々しくなったようだ。 待っていたのはまだ3人に思えたので、満席になるにはまだまだだろうと、広場の隅の屋台まで行って、ゆっくりと朝食のサンドイッチを食べた。 まるで油の中に泳がせて焼くような、油たっぷりの卵焼きではあったが、パンに挟むと結構美味しい。 そのパンがお腹におさまって、尚しばらく待った午前10時、やっとプジョタクシーはタンバクンダのターミナルを出発した。 日本でならとうの昔に廃車になっているようなその車、けれど近くでガソリンを満タンにした後は、まるで日本の車検制度をあざ笑うかのように、東へ東へ、いたって快適に突っ走る。
セネガルの相乗りタクシーも、満席にして走るのだが、アジアのように1シート2人掛けというのがないのは嬉しい。 そんなドライブを約3時間、車はキディラの出入国管理所の前に止まった。ここから国境の向う、マリのカイまでは、2時間とガイドブックにあったから、暗くなるまでには時間は十分のはず。 入管を出て歩く私に、「タクシー?」という声がかかったが、国境の川セネガル川は橋を歩いて渡ることにした。 このキディラからの国境越えは、まださほど一般的でないのか、外人旅行者の姿は何処にも見あたらず、少々不安も漂ったけれど、橋のたもとのわかりやすい標識に一安心。 けれど川を越えたマリ側の町ディボリからカイまでが問題。 とは言っても、見渡す限りの地平線に、所々のバオバブの木が、まるでデザイン画のように枝を広げ、景色はいかにもアフリカに思えて、私はとても気に入っていた。 けれどその道のトラックバスはやはり少々大変。それにディボリでまたまた2時間余りも待たされて、既に陽が沈み始めているのも気がかりなこと。 その遅れを取り戻そうなんて考えは毛頭ないのだろうけれど、強力なベンツエンジンの駆るタイヤに巻き上げられた、砂埃のすさまじさ。 帽子を飛ばされた私を見て、隣の青年は、肩にかけた鞄から、朱色の布を出してくれた。顔に巻けというのである。 確かにこの砂埃、アフリカでは帽子より、布をターバンにして顔も覆った方が遥かに合理的のよう。有難うと受け取ろうとしたのだが、よく見ると着替え用のTシャツ。 既に口にあてていた白いタオルのハンカチは、裏も表も土埃で真っ赤の状態、着替え用の彼のTシャツを、同じ目に合わせては、なんだかご主人様気分のように思えて、有難い親切を遠慮することにした。 「これがアフリカです」 パンクで止まった道端の、巨大なバブバブの木の下で、乗り合わせた20人ほどを集めて、メッカの方への夕方の祈りを指揮していた男は、戻ってきて、真っ赤なハンカチの埃をはたいている私にそう言った。 またまた夜の宿探しかと、少々不機嫌な私の気持ちに、全てをアッラーにゆだねるという「ムスリム」の語源そのもののように、とても静かな表情であった。 | ||
セネガル側、タンバクンダ・キディラ間は舗装されていたけれど、マリ側、ディボリ・カイ間はごらんの赤土。あのカンボジアの道路に比べると、整えられている道路であっても、トラックでは振動がきつかった。黄色いかぶりものをしている人が、説教をし、お祈りを指揮していた。
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第2章 マ リ
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シャワー室の鏡に映った男の頭から真っ赤な血が…、いやいや、まさにホラー映画のようなシーンではあったけれど、顔から胸へと流れ落ちているのは、真っ赤な血ならぬ、真っ赤な泥。 だんだん暗くなって良く見えなかったのだが、ディボリからカイへのトラックバスでは、みんな真っ赤な砂埃の化粧で乗っていたに違いない。 そう、またまた、そんな顔などまるで見えない闇の中であった。タンバクンダからでは、だいたい240kmほどのカイへの道のり、そんなに早くはないといえ、宿を出たのは、朝の8時だったのに。 まるでアフリカは、《 明るいうちに着いて、納得のいくまで宿を探す 》という私のこだわりを、鼻で笑っているかのよう。なんともイライラするほど移動のコツがつかめない。 それにまだ、8時を少し回っただけだというのにいやに暗く、ターミナルだというのにやけに人気が少ない。 「カイではうるさくつきまとわれる事はないだろう」というガイドブックの記事に喜んでいたのだが、こんな時には、そんなうるさい人も、かえってありがたいこともあるのだが…。 結局タクシーを、闇の中にやっと一台見つけて、街までの2km程を2,000フラン(\400)とこれまためっぽう高かったけれど、ホテルムニシパルを探してくれるというので、OKして乗り込んだ。 凸凹の路地をいくつも回って下ろされたのは、照明は暗かったけれど、確かに「MUNICIPAL」の文字の浮ぶ壁の前。 | ||||||
カイの街、塀の中は何処も綺麗に気を使っているようなのだけれど…。
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「ボンスワール ヴ・ザヴェ ン・シャープル?」 つぎはぎの私のカタカナ語、果たして通じたのかどうかはなはだ疑問だけれど、何か喋りたいというのは通じたはず。 で、リュックを担いで夜遅く、ホテルに来て喋りたそうにしていれば、それはもう泊りたいという言葉。その場へ入ればそれだけで、かなりの言葉は通じている。 「ウィ」 庭に椅子を出してテレビを見ていた男は、そう言って立ち上がると、受付から鍵を取り出し、中庭の端の丸い平屋の建物へ案内した。 中央の丸いロビーを中心に、ぐるりと部屋がとり囲むその建物、もともとは何か別の目的で建てられたものなのか、それともこれがモダンな設計とでも思ったのか、中は扇型の部屋に四角いベッドと、なんとも落ち着かない。 それにお世辞にも清潔とは言えないそのベッド、置かれている枕は、おそらくここに来て以来洗濯などされたことのない御様子。 「いくら?」 「4,000フラン(\800)、バスルームはあちら。」 彼にはそのベッドが至極普通に見えているのだろう。あまり気は進まなかったけれど、夜も遅いし、カイにはあまり宿の選択肢はないようなので、泊ることにした。 赤い砂埃を洗い流すそのシャワーは、少々冷たい水ではあったけれど、とにかくさっぱりして部屋に戻り、今夜の対策。まずは唯一の窓を覆う、ボロボロの網の修復。少しでも蚊が入らないように、大きく開いた敗れ口を、小さなおちょぼ口に。 次は蚊帳を如何に張るかだ。私は、リュックからビニールの荷物紐の束を取り出した。 この荷物紐、私のお勧めの旅グッズ、一つリュックに放り込んでおくと、何かと重宝する。洗濯物の紐にも贅沢に使えるし、荷造りにも便利物。それに今回の旅の蚊帳にはなくてはならない必需品。 ベッドの四隅に蚊帳張り用の棒を立ててくれてあるホテルもあったが、半分ほどは何もない。窓の端、ドアの蝶番、壁飾りの額を引っ掛けている釘、ありとあらゆる物を利用する。 けれどこの扇型の部屋、どうしても一角が引っ掛けられない。仕方がない奥の手だ、ダカールの宿で拾ってきた釘を打ち込もう。私は草履を脱いでベッドに足をかけた。 あれっ? その足は、スコンとベッドの下へ抜けて途中でひっかかる。バランスを崩して膝をついたが、その膝も半落ち状態。 えっと思ってマットをめくってみると、ベッドの下は隙間だらけ。ひょっとして上にしっかりしたマットを置けば、それが普通なのかもしれないが、このフニャフニャのスポンジマットでは、横になっても横木がゴツゴツと、なかなか寝つかれなかった。
そんなベッドの夜だったけれど、朝の中庭はなんとも壮快。いつもの習慣なのだろう、宿の人たちは木陰の芝生に椅子を並べ、朝のお茶を楽しんでいる。「ネスカフェどうですか?」と勧めると、皆笑顔でコップを空けた。 私も受付の部屋から椅子を借りて来て、前の店で買って来たオムレツサンドとコーヒーの朝食。庭がこんなに気持ちいいなら、部屋なんてどうでもいいと言いたくなりそう。 どうもアフリカもこのあたりでは、下手に室内で過ごすより、外でこうやって過ごすのが一番。屋外の木陰が、何物にも優る贅沢な空間。食べ終わってのんびりと、椅子いっぱいにもたれて見上げた空は、ホテルムニシパルの塀に囲まれて、静かに青くみずみずしかった。
けれど陽が昇り、10時11時となると、表通りはそんなみずみずしさも色あせる。頭上の太陽は容赦なくカイの大地を焼き焦がし、動き始めた人々の巻き上げる、砂埃や排気ガスに手加減はない。 Parisをパリと読むのに似て、Kayesと書いてカイと呼ぶこの街は、フランスがマリへの植民を始めた時、一番に建設された拠点でもあるらしい。街の北のセネガル川近くのマーケットあたりには、今もコロニアルの雰囲気漂う建物が残っていた。 そんな間を人々は、頭に大きな荷物を乗せ、上手にバランスをとって歩いている。彼らにまじって市場に入ると、人一人ようやく通れるほどの迷路をつくって、ところせましと出店が並ぶ。 みんなと肩をぶつけ合って歩いても、ダカールのように、しつこく売り込みにつきまとわれることはない。私もカイの人たちにまじってただの買い手。 その一画にいかにもアフリカチックな柄模様の布が、山と詰まれた店を見つけた。腰巻用の布は、小さくたためて、シャワー上がりに、リラックスした時の普段着にと、旅ではとても重宝する、もう一つの私のお勧めグッズ。 「セ、コンビエン?」 「メーター、サンサン」 コットン100%の美しい柄模様の布が、1メートル100円なのだ。安い!それにあの疲れる値段交渉もない。 そうだ、ここで帽子代わりのターバン用の布も買わなければ。
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第2章 マ リ
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あっ、かゆい!
便座に座った右のお尻に、しっかりと喰らいついた蚊の一匹。 シマッタ! ピシャリと仕留めはしたけれど、その手につぶれた赤い斑点、残るかゆみ。不覚不覚! マラリアを媒介するハマダラ蚊が、まだ活発に活躍するという午前の五時。顔に首に手に足にと、少々寝ぼけてはいたけれど、しっかり防虫スプレイを塗って部屋を出たのに、便所ではお尻を出すことを、ころっと忘れてしまっていた。まるで耳なし芳一だ。 ここアフリカに来てからは、乾季のせいか思ったより蚊も少なく、ダカールのコンピューターカフェで一度、少々配置の違うキーボードに気をとられ、いやというほど腕の血を吸われたが、あれは昼間であったので、別の種類だろうと自分に言いきかせて安心した。 けれどこいつはジャスト、ハマダラ蚊御活躍の御時間。たった一匹ではと思いつつ、どうなんだろう、感染するのもそのたった一匹からなのだろうか。知識が無いという事は何事も、時には危ないほどの無頓着に、けれど一転すると、くっついて離れない心配へと、人の心を投げ込んでしまう。 けれど幸か不幸か、その日の午後の「大問題」は、そんな心配を、舞台の袖へと追いやってしまった。
買った店に教えられたやり方で、ターバンを頭にさっそうと出かけたカイの駅、市場の近くの宿からの、3、40分を歩いて着くと、ホームは人々でにぎわっていた。 列車の窓から上半身を乗り出す人、重そうな荷物を運び入れる人、何かしらせわしく動き回る人。出発前の列車を待たせて、いずこも変わらぬあわただしさ。 このカイから、首都バマコへのバスは、ニオロという所を経由すれば、乗り継いで行けなくもないらしいが、なんだかとてもガイドブックの歯切れが悪い。要するに、あまり勧められないというのが趣旨のようなのだ。
比較的直線に近い列車でも10〜14時間はかかるというその距離、バスでは早くても2日がかりにはなりそうで、フランス語のままならぬ私には、ちょっと無理なルートのよう。
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カイの街にて
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となると、頼りは列車しかない。幸い何らかの列車は、毎日出ているようで、好きな日を選ぶことが出来そうだ。
そう思って窓口を探したのだが、閉まっているのだろうか、やっぱり誰かに聞くしかなさそう。 近くで荷物の世話をしている男に、例の私のカタカナ語で、バマコまでの列車を予約したいと言ってみると、バマコというのが聞き取れたのか、一人の男を大声で呼んだ。 けれどダカールでは、こういう人から切符を買って失敗している。出来ることなら窓口で買いたい。 「いや、窓口を探しているのだ」と、彼から離れてあちらこちらへ。けれど空いている窓口はやはり見つからない。 もう一度別の男に聞くと、やはり彼も、先の男の所へ私を連れて行った。よく見るとその男、私服のようではあったけれど、首からちょうど車掌の持つような鞄をさげている。ひょっとして駅員なのかもしれない。 「バマコまで予約したい」と言うと、「ファーストクラス、11,500フラン(\2,300)」と言って、その鞄から立派な一枚の切符を取り出した。 あれ、いやに用意が…。カレンダーを出して日付を確認すると、「いや、これだ」と、よりあわただしさを増す人々で群がる、ホームの列車を指差した。
「今日じゃなくて、明日の予約をしたいのだ。」そう言うと、「ノー」と首を横に振る。
何を言っているのやら?果して通じているのか通じていないのか…、誰か英語の通じる人はいないものかと、その切符を断ってもう一度駅の外に出た。 けれどやはり同じこと。表示も窓口も見つからない。ぐるりと回って、もう一度戻ると、先ほどの列車はもう出発し、建物の扉も閉まったホームは、ただ一人荷物を調べている男を残して、がらんと寂しく静まり返っていた。 言葉が喋れないというのは、なんともストレスのたまるもの。けれど何とか切符は手に入れなければならない。 黙々と仕事を続ける彼に近づき、カレンダーを見せながら、「バマコ、予約」と言うと、不審そうに耳を傾けた後で、 samedi を指差した。 土曜というと、4日後である。そんなことはないはずと、ヘンなカタカナ語を振りまいていると、"Do you speak english?" と声がかかった。ホッとして振り返ると、30半ばの男が、少々くたびれてはいたけれど、きちっと洗った白いワイシャツを着て立っていた。 彼も半分ほどしか通じなかったけれど、それよりも何よりも、彼の言っていることがなかなか信じられなかった。バマコ行きの次の列車は4日先の土曜日の夜行だと言うのである。
「けれど明日の水曜にはダカールからの国際列車があるだろう?」
"In practice this is crap" ガイドブック・ロンリープラネットの著者が、この列車の時間のことで、そうはき捨てていた言葉が耳に聞こえてくるかのよう。「crap(糞)」とは、こういうことだったのだ。 時間に遅れるというのはよく経験するけれど、運行そのものも、あったりなかったりということか。
「じゃバスはどう?」 おいおい、じゃあと四日も、あのベッドで眠れと言うのかぃ?まあ、それは良いとしても、航空券は1ヶ月FIXだし…。 やれやれ、ほいほいと来てしまったけれど、タイミングを外すと、何とも抜けられない蟻地獄のような所だったようだ、このカイは。 | ||
カイの住宅街
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第2章 マ リ
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あっ、このやろう、人が買ったミネラルウオーターで、おちんちんを洗いよるとは!
と、心で叫んではいたけれど、腹が立つというよりむしろ、漫画の中に入り込んだようで、思わず笑ってしまっていた。 大平原にポツリとひとり建つ、小さな朱色の空港ビルが、赤みを帯びたカイの夜明けの下で、もうそろそろ目覚めても良さそうなものと、入り口の扉の開くのを待っていた時のことである。 そう、結局カイからバマコへは、飛行機にした。列車が4日後しかないと知って、ホームのベンチでため息をつきながら、未練たらしくバスのルートのニオロの位置を確かめていて、目に飛び込んできた、地図に書かれた小さな飛行機の絵が。 そうだ、飛行機という手がある、蜂に変身できれば、蟻地獄もなんのそのだ。それまで眼中になかったのだが、カイの空路の項を急ぎさがしてみると、「取材時点で新空港建設中」とある。とするともう完成しているはず。 さっそくメモ帳に飛行機の絵を書いて、もう一度男の所へ行ってみた。さすがに絵は万国共通の文字、「アザンサ」と言って駅前の通りを北へ行けと教えてくれる。 いったいアザンサが何を意味しているのかさっぱりわからなかったけれど、とにかく道々「アザンサ、アザンサ」と言って飛行機の絵を見せると、不思議とそれだけで通じて、北へ北へと指差してくれた。 そうして1kmほど戻ったであろうか、飛行機の絵の書かれた事務所を見つけた。見ると、AGENCEとあったから、アザンサとはひょっとして、英語のエージェンシーだったのだろうか、とにかく中に入ると、堂々とした体格の男が迎えてくれた。 さすがに英語も通じて駅でのストレスがほっとゆるむ。その彼が太い声で言うには、バマコへのフライトは、明後日の朝9時発とのこと。 料金は60,000フランで、日本円ではだいたい一万二千円ほどだ。私にはちょっと大きな臨時出費、それに、困ったことはお金で解決というのも、なんだかいかにも「金満日本人」を象徴するようで、少々苦々しくはあったけれど、4日のロスを考えると、ここはそんな日本人を演じることにした。 けれど、中味はそんなに金満でない私、両替済みのフランの予算を、ポンとオーバーしてしまい、臨時の追加に、昨日は銀行に直行しなければならなかった。 で、その銀行、レートがわからないといって1時間ほど待たされた上、1ドルが、なんと418フランにしかならない。これまでセネガルの空港では500フラン、ダカールの街では480フランだったから、やはり「マリは両替事情が良くない」とガイドブックのおっしゃっていたとおりだ。 とはいえ、何とかそれで予算は確保と安心し、今朝の6過ぎホテルを出たのだが、街は暗く不気味に人の気配など全くない静けさ。 | ||||
タクシーなんてどこにもいそうにない、未明のカイの町。自分の足音だけ聞いて一人歩くのは、少々不気味でした。
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こんな所にタクシーなど走っているとはとても思えなかったが、メインストリートへ出れば、少しは車も走っていることを願って道を急いだ。
果して通りにも走る車はなかったのだけれど、昨日夕食を食べたレストランエクロッションの方角で、人が動いていた。近づいてタクシーかと聞くと、耳に近づけていたラジオを離し、「ウイ」と答える。やれやれである。 空港までは5,000フラン(\1,000)と、他にタクシーがいれば値切るところだが、昨日、例のアザンサの男の言っていた額とも一致するので、言い値でOKした。 けれどそれが、決して高くはないと納得するほど空港までは遠かった。人里離れた平原をかなり走って、着いたのは夜も明けた7時。
「その水、少しもらえませんか?」 顔を出した太陽のぬくもりを感じながら、コンクリートの塀にもたれて待つ私に、人の良さそうな男が、父親なのだろうか老人を一人連れて、にこにことやって来た。 きっとそこに無造作に置いていたボトルを見て、何処かの水道で汲んできたものと思ったのだろう。 「どうぞ」 少々ケチりたい思いは隠して、差し出した青いプラスチックのヤカンに、ドボドボと気前良く注ぐ。 ところでこのヤカン、マリの人達にとって旅の必需品でもあるようだ。乾燥している西アフリカ、水なしではいられないのだろう。 けれどその水、飲むばかりではない、トイレの後にも使う。どうも見ていて、水に対する上下の差別感情がほとんどない。 バスは時々止まって黒く油で汚れたポリ容器からエンジンの冷却用に給水するのだが、そのポリ容器に口をつけ、彼らはゴクゴクと飲んでいる。 休憩に止まった街で、バスを降りた男は、窓の外から顔を入れ、床に捨て置かれていたボトルを拾ってくれと言う。ゴミ箱にでも捨てるのかと渡すと、それに水を汲んできて飲んでいた。 最近はそうでもなくなったけれど、以前はトイレの水道で口をすすぐのも、抵抗のあった私の感情とは、かなりの別世界。 そう、そんな別世界だったのだ、私の注いだそのヤカンの水も、飲み水でもあり、後始末の水でもありの。 彼はそれを老人に渡すと、老人は10m程先の荒地にしゃがんで小便をし、事後処理に洗っている。イスラムの教えなのだろう、彼らはいわゆる「立小便」もしゃがんでする。 そればかりか、見たわけではないが、どうもその仕草から、小便の後も洗っているようなのだ。 例えばバスでの移動時など、皆が一斉にトイレに散る時、手ぶらで向かう私に、先に済ませた人から、ヤカンをどうぞと差し出されることがある。 そんな時いつもの習慣で「いらないよ」と断るのだが、水の上下だなんて言っているけれど、彼らから見れば、なんと不潔な日本人と映っていたかもしれない。 老人はゆっくりと立ち上がると、私の目線など気づく素振りすらなく、ヤカンを手に悠然と息子の所へ戻って行った。
ところで、朝早くて何も食べられなかったので、機内でのサービスを期待したのだが、どうやらそれは甘かったよう、滑走路で待っていたのは、パイロットと乗客の間はカーテンのみという素朴なプロペラ機。 当然、スチュワーデスもいなければ、サービスもない。けれどこれでバマコへ行ける。そんな安堵を乗せて、9時14分、機体はふわりとカイの大地を離れた。 次第に高度を増す眼下には、北の砂漠と、南の熱帯雨林の間で、東西に広がる広大な西アフリカのサバンナ地帯。その赤っぽいベージュ色の大地に、まるで蛇のように這うセネガル川。 700年ほど前には、サハラの砂漠を越え、北からもたらされる岩塩や武器や奢侈品と、南の森林地帯の豊富な金との交易で全盛を極めたというマリ帝国には、こんな逸話が残されている。 それはマリの第3代皇帝カンカン・ムーサが、1324年にメッカ巡礼に向かった時のこと。途中立ち寄ったエジプトのカイロで、湯水のように黄金をばら撒き、そのためカイロでは10年以上も金の価格が暴落したという。 運んだ金は、135キロを積んだ駱駝100頭、2.7キロを持った奴隷500人というから、驚きである。 このときの言い伝えが、後にヨーロッパ人の欲を、アフリカへと掻き立てる一因にもなったのだろう。
そんなマリの現在の首都バマコまでは、1時間半ほどだ。
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カイのマーケット北の、セネガル川の渡し
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第2章 マ リ
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あれっ、彼女の肌は黒かったんだ。
初めて気づいたような新鮮さを伴って、美しいお母さんの笑顔は、ファインダーの上で焦点を結んだ。 そう言えばいつの間にか、みんなの顔から色が消えている。 あのダカールのターミナルで、まんまと朝飯をせしめていったトートからも、楽しさの塊のような笑顔で歓迎してくれたタンバクンダの子供達からも、朝の中庭で一緒にお茶を楽しんだカイの男達からも、確かに記憶そのものを辿れば黒くはあるのだけれど…。 何とも不思議な気分であった。 あのイタリアの空港で、ダカール行きの便に集まった、真っ黒い人たちの風貌に、威圧されるものを感じていた私は、いったい何処へ行ってしまったのだろう。もしも家族に彼らがいても、何の違和感も感じそうにない。 やっぱり人はその目で、顔というより表情を、表情というよりその心を追っているということなのだろうか。 と、そんな不思議に気をとられていて、不覚にもシャッターチャンスを逃してしまった。それまで機嫌よかった坊やだったのに、抱かれた膝の上で急に泣き出してしまう。 目の前に迫る一眼レフに驚いたのか、それともあの時の私のように、異なる肌の色に、威圧でもされたのだろうか。 9時も回り、暑くなり始めたバマコのバスターミナルで、となりの坊やの、お母さんにしがみつくその手の可愛さに魅せられて、ついついあつかましくも、写真を撮らせてくれとたのんだ時の事であった。 話は余談になるけれど、世の人々の差別感情というものは、自分達のアイデンティティを、より強いコントラストで際立たせたいがために、他の人達のを影で描いた、虚像の中に棲んでいるのではないだろうか。 そりゃ世の中、気に食わないやつというのは、どこにでもいるものだ。けれどそれが、民族だの肌の色だので、ひとからげに出来ようはずがない。 アフリカを旅してもう何日になるのだろう、ふと気づいたこの同化は、むしろ差別が、それを社会的に一生懸命再生産しなければ、棲む所を失うものであることを、暗示しているとはいえないだろうか。 もしそうだとすると、なくならない差別というのは、どこかで我々が、その再生産を担っているということになるのだが…。 | ||||
モプティ行きのバスを待つ、バマコのソマトラバスターミナル
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「オーイ、モプティ行き出発だ!」
10時になって、ソマトラバスの事務所から書類を手に男が現れ、ベンチに待つ皆はざわめき始めた。私もリュックを肩に、荷物を預けるべく、バスの横へと皆に混じる。 それにしても、今朝から少々熱っぽいのが気になる。確かマラリアの潜伏期間は5日から1ヶ月とあったから、4日目のこの熱がまさかとは思いつつ、あのカイで叩き潰した蚊の心配が、再び息を吹き返えす。 けれど風邪だろうと自分に言い聞かせる根拠はあった。どうも、昨夜の宿のエアコンが良くなかったようなのだ。 夏はどうなのか知らないけれど、冬はとても快適なマリの気候、わざわざクーラー付きのホテルに宿をとることはないのだけれど、「マスターは英語を話す」というガイドブックの紹介に、17,500フラン(\3,500)を奮発した。 というのも、今まで手探りでここまで来たような感じで、これから向かうドゴンへの情報の基本的なところを、どこかできちっと現地の人に確認しておきたかったのである。そのガイド料も含むと思えば止むを得ないところ。 勿論、部屋は清潔で、あのカイのベッドの後ということもあり、とても快適であったけれど、部屋代をポンと跳ね上げているのは、エアコンにテレビといった電化製品のようだ。 国際価格の輸入品は、そのまま部屋代に上乗せされるというのだろうか。いずれにせよ私には、あまり必要のない豪華さ。目が覚めてもう1日ゆっくり休みたように思ったけれど、少々予算オーバーでもあり、バマコはまた帰りに寄るとして、一晩でモプティへと先を急ぐことにしたのである。
「ミルフラン(1,000フラン\200)」 モプティと言ってリュックを渡すと、そう言って料金を請求された。今回はきちっと窓口で買ったモプティへの切符、どうやらその都度、別途に荷物代を払うのがマリの流儀のようだ。 それにもう一つ、変わったマリの流儀があった。 というのは、みんな荷物を預けてもバスの入り口に群がって、そこから中へは乗り込もうとしない。 なぜだろうと思いつつも、みんなの真似をして私も待っていると、今度は一人の女性がこれまた書類を手にやってきて、バスの入り口に立ち、大声で名前を呼び始める。 三番目にたどたどしい発音で、私の名が呼ばれた。窓口で切符を買う時に、名前を聞かれて、いったい何のために名乗らなければならないのかと不審に思いつつ、とりあえず言っておいたのだが、こういうことだったようだ。 座席は指定ではないけれど、切符を買った順にバスに乗り込み、好きな席に座るというわけだ。 陽の当たり方やシートの調子で、かなり違ってしまうバスの快適さ、考えようによっては、座席指定よりもここでは合理的なやり方のよう。 けれどイランでも経験したノンエアコンの密閉バス、私はせっかく3番に乗り込んだのに、外での荷物の出し入れに目の届く位置などと考えて、陽のガンガン当たる後方の座席にしてしまい、なんとも大失敗。 前のほうならまだ景色も楽しめたろうけれど、カーテンを閉めれば、見えるのはただ前の人の頭のみ。 で、まじまじとその頭を見るはめになったのだが、その女性のヘアースタイルは、きちっと地肌にくっつけて、数え切れないほどの畝を、三つ編みでつくるとても手の込んだいわゆるアフロヘアー。強い巻き毛を手なづけるための術なのだろう。 たいがいはおしゃれな布を巻くのがファッションのようだけれど、おそらくその下は、ほとんどの女性がこのヘアースタイルのようだ。 でも、よけいな心配だが、少しのびたら、この無数とも思える三つ編みを、ひとすじひとすじ、すべて誰かに編みなおしてもらうのだろうか。 想像すると私など、少々気が遠くなりそう。きっと大変な苦労だろうなとは思ったのだけれど、ひょっとしてそれが、我々には希薄になりつつある、親子や家族の間のコミュニケーションの一端を、担っているなんてこともあるのかもしれない。 まあ、いずれにせよ、女性のおしゃれの選択肢を広げるには、ちょっと手強い相手のようだ。
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第2章 マ リ
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「それ、ちょうだいよ」
バマコからモプティへの途中の町で、パンの入ったビニール袋を、指に鈴なりに引っ掛けて、威勢良くバスに乗り込んできた少女は、手振りでそう言って私を見つめる。 バスが着くと、だいたいどこの町でも、こういった人達が待ち構えていて、先を競って、パンだのお菓子だの果物だのを売りに来る。競争になってしまうのか、まだ動いているバスに駆け寄るその姿は、殺気だってさえ見える。 「いいよ」 席の横に置いてあったそのパン、先ほどの町で、同じように売りに来た女性から150フラン(\30)で買ったのであるが、残念ながら細かい砂がまじっているのか、噛んでいるとほんの少しだけれどジャリつくような気がする。 けれど我慢できないというほどでもないし、それに何よりも私の大好きなモロッコのパンの味。 こんな味はセネガルでもマリでも初めてで、二度とは出会えそうになく、どうぞと言うには少し未練があったけれど、そんな気前の良いおじさんを演じてしまったのは、パン売りがパンをくれというその愉快さもさることながら、昼食時の出来事の、後味の悪さが残っていたせいなのかも知れない。 というのも、走った距離からしてそこはセグーだったのだろうか、バマコから3時間半ほどで到着したバスターミナル、乗っていたほとんどの乗客が下りて行った後、運転手達はゆっくりと食堂に入って行った。 という事は、昼を食べる時間があるということのよう。後を追って私も食堂に入った。彼らと一緒にいれば、置いていかれる心配はないはず。
ちょうど日本の立ち食いそば屋に似た雰囲気のその店、大きな鍋に用意されていたのは、肉と野菜の煮込みであった。肉は少々固く、油ギトギトではあったけれど、その油の染みたジャガイモはとても美味しい。 で、お腹もふくれて、給仕をしている若者に、お金を払ったのだが、なかなかお釣りを持ってこない。仕方がないので彼の所まで行って催促すると、女将さんの所から持ってきた釣銭は50フランのコイン。 そんなはずはない、確か煮込みは250フラン、コーラとあわせても450フランにしかならないはず。1,000フランの札を渡したのだから、お釣りは550フランなければならない。 そう詰め寄ると、困った顔をして首を横に振っている。まだ、ダカールの後遺症を引きずる私、女将さんのところへ行ってもめていると、バス会社の人だろう、仲裁に入ってきた。 私が事情を話すと、鶴の一声、女将さんは500フランの札を渋々私に渡した。いつもならここで、私の勝ちとゲームに勝ったときのように愉快になるのだが、目の合ったその若者の表情がどうも気になってしまう。 いつもそうだとは言えないけれど、後ろめたさを隠した表情というのは、なんとなくわかるような気がする。けれど彼にはそれがない。 そう言えば、手にしたお釣りの旧500フラン、ほおかぶりした顔が大きく右側に描かれているそのデザインは、少々緑っぽくはあるけれど、渡した記憶の1,000フランと、似ているといえば似ている。 ひょっとして間違えたのは私の方だったのだろうか?もしそうだとすると、ただ食いをした上に、50フランまでふんだくったことになる。 出来れば確かめてスッキリしたかったけれど、今さらそのすべもなく、そのままバスに戻ったのだが、500フランを頑張ってしまった私に、なんだか後味の悪いものを覚えていた。日本円にすれば100円なのである。
そう、どうしてもついつい頑張ってしまうのだけれど、彼らの生活に入り込むと、だいたい一つが日本円では数十円の世界。 それでもそこで馴染んでしまうと、ちょうど100フランが100円くらいに感じてしまい、日本での値段の感覚と、それほどギャップを感じなくなる。 で、そのままの気持ちで、例えば旅行者の立ち寄りそうなレストランなどに入ってしまうと、3,000フランだの5,000フランだのといった世界にポンと跳ね上がる。皆が食べている食事のおおよその10倍だ。なんだか5,000円の昼食を食べるようで、注文するには気合がいる。 更にホテルともなると、あまり現地の人は泊らないのか、いっそうの高値の世界に突入する。 一般にトイレ共同でも一部屋だと10,000フラン(\2,000)は下らない。バマコでは、エアコンが付いているだけで、17,500フランだった。私の物差しでは、だいたい国際相場の倍である。勿論、それとて私の見つけるホテル、底辺のクラスである。 いったい30円のパンをいくつ売れば、この宿代を稼げるというのだろう。街ではピカピカのバイクが売られ、1分150フラン(\30)の携帯電話を使う人々。 大いに喜ばしいことなのだが、あたかも天と地ほども離れた全然別の経済が、相容れない平行線で並存している世界を、体験しているような気がしてしまう。 一つがアフリカに根を張る経済だとしたら、もう一つは一体どこに根を持つのだろう。ひょっとして、ひょっとしてそれは、世界から集まる援助経済なのだろうか。 ガイドブックの拾い読みだが、2002年にマリで行われたサッカーのアフリカンカップには、日本円にすると、だいたい150億円ほどが投じられたという。 勿論、そのほとんどが外国からの援助というのだが、その額はマリの教育部門と厚生部門を合わせた国家予算にも相当するらしい。何の文句もないのだけれど、なんだか少々腑に落ちない。 かつてこのアフリカから奴隷として、アメリカの大陸は連れて行かれた人達は、17世紀から19世紀の間で、1,000万〜1,500万人に及ぶという。途中で死んだ人や奴隷狩戦争で死んだ人を含めると、その数は計り知れないだろう。 当然、彼らの多くは働き盛りの年頃であったはず。アフリカの自立経済は、その後に続く植民地の時代も含めて、すっかり破壊されたということなのだろう。 一般に命あるものは、一度その息の根を止めてしまうと、その後でいくら栄養を与えても、はいそれではと、もとの姿で蘇りはしない。経済もいってみればある種の生き物。アフリカはそんな困難に、今なおあえがなければならないのだろうか。 とはいえ、たとえそうだとしても、そんな不都合もそのままを足場に、次へと展開するのもこれまた自然の逞しさ。 バマコからバスに揺られて11時間、マリ観光の拠点でもあるモプティでは、そんな高値の世界に根を伸ばし、濡れ手に粟の外人マネーを、たっぷり吸い取ってやろうと待ち受ける、元気なガイドさん達に悩まされることになる。 | ||||
モプティへのバスの車窓から
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第2章 マ リ
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「これ見てくれ。私がガイドした日本人の推薦状だ」
そう言って、青いボールペンで書かれたノートの切れ端を見せられた。 「ああ」 気乗りのしない返事で受け取り、歩きながら目を通してみる。 〈 …彼が、良いのか悪いのか、安いのか高いのか、わからないけれど、ガイド選びに疲れたら、彼にしてもいいんじゃない。〉 と、少々なげやりなその文章、なんだか筆者のガイド攻勢にうんざりした気持ちがにじみ出ているようで、とても親しみを感じたけれど、残念ながらガイド料金が書かれていない。実はそれが一番知りたい所なのである。 というのも、このマリの国、だいたいどこの町へも一人で行けるようなのだが、壮大な神話の村々を、数日かけて歩いて巡る、ドゴンのトレッキングだけは、道もさることながら、色々な仕来たりもあり、どうもガイドなしでは不可能なようなのだ。 で、必ず皆が雇うので、そこのうまい汁を吸おうと、ガイドと称して人々が群がるわけである。 中にはなんともお粗末なガイドもいるようで、ひどい目にあったという報告も多いのだろう、〈 ドゴンのガイドはくれぐれもドゴンで選ぶこと 〉と、再三にわたってガイドブックは警告していた。 私もその忠告に従って、このモプティで決めるつもりは毛頭なかったのだけれど、年々上がり続けているというガイド料が気にかかる。 数年前の取材時点では、宿泊込みのパックで一日が10,000〜20,000フラン(\2,000〜4,000)というから、これまでのホテル代の上がり具合からしても、おそらくそれよりかなり跳ね上がっているに違いない。 果して相場はどのあたりなのか、はたまた英語を話すガイドは充分居るのか、リアルタイムな情報は喉から手が出るほど欲しいところである。 けれどその一言を切り出してしまうと、おそらくこの彼、今日一日は私から離れないだろう。口まで出かかっているその質問を呑み込んで、全然感心のない素振りでそれを返した。 右手を流れるバニ川のせいか、強い陽射しのモプティの朝も、並木のつくる影の中はヒンヤリと気持ち良い。 頭に乗せた桶一杯に洗濯物を積み上げて、まるでファッションモデルのように、背筋をピンと伸ばした女性の一群が、川辺へと前を横切る。
立ち木の間に見え隠れするまぶしい岸辺からは、洗濯に余念のない女達の明るい話し声が、キラキラ光る川面の煌めきに混ざってかすかに聞こえている。
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とても壮快な、バニ川に沿いの並木道。
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またまた暗闇の到着となった昨日の夜も、この道をホテル・ル・フルーブへと歩いていた。幸運にもターミナルを出てとにかくバニ河の方に向かったら、この河沿いの道で中年のフランス人夫婦に出会った。
同じ方向なので、ひょっとしてル・フルーブに泊っているのかと聞いてみたところ、どうも知らないらしい。けれど彼らと一緒に歩いていたガイドが地図を見てうなずいてくれた。 150mというガイドブックの注記は、その地図の端からという意味だったのか、もう1kmは過ぎたと思ってもなかなか着かない。もしも彼らに出会わなかったら、闇の中を完全に途方に暮れていたことであろう。 けれどおかげで、少々リュックは重かったけれど、夜風に吹かれて日本のことフランスのこと。そんな散歩を楽しんで、2、30分は歩いたように思う。 彼らのガイドは、煌々と明かりの付く高級ホテルの角で、そこにいた数人の若者に、私を案内するように指示して、広い庭に囲まれたホテルカナガの門へと消えた。 ホテル・ル・フルーブはそこから河を背に200mほど奥まった所、あたりには全く明かりがなく、足先も分らないほどで、このまま袋叩きにされても誰も朝まで気づかないだろうななどと思いながら、彼らの後をついて行ったのだが、その中にこの彼も居たのである。 いや、暗くてよく覚えていないのだが、彼の言うところによるとそうらしいのである。 その彼には、結局そっけない態度を続けて諦めてもらったのだが、まるで彼が私から離れるのをどこかで待っていたかのように、次の挑戦者が現れた。 私にとってはうるさいかぎりなのだが、彼ら一人一人は、結構「紳士的」であったことも付け加えておかなければ不公平かもしれない。 熱心なガイドの売込みはするものの、レストランやインターネットの出来るところへ案内してくれたり、マーケットやターミナルを教えてくれたり、レストランまでついては来るものの、食事がテーブルに並ぶと「ごゆっくり」と自ら席を立ち、終わるまでどこかに消えていたり…。 けれどそういう人に2人、3人と休みなくアタックされると、たいがいうんざりしてしまう。とは言うものの、そんな彼らも街の中心から離れると、さすがそこまでは付いては来なかった。 昼食の後、両側を池に囲まれた一本道を歩いて30分ほど、コーラの実を買いがてらモプティの旧市街に足を伸ばしてみた。
コーラの実というのは、南の森林地帯に生息するコーラノキ(学名 Cola acuminate)という高さ10m以上にもなるという木の実で、あのお馴染みのコーラの原料でもあるそうなのだが、どうもかすかに興奮作用があるらしい。 とは言っても、実際に食べてみた所、苦いような渋いような味がするだけで、どうということもなかったけれど、昔からサバンナ地帯の人々に嗜好品として尊ばれ、ドゴンの村を訪れるには、それを村の老人や宿の主人にお土産として持っていくのが古くからの礼儀らしい。 ところが乾燥に弱いらしくあまり店先に並べられていない。そんなこととはつゆ知らず、実は朝方、黒いビニール袋で覆って、私に声をかけてきた男がいたのだが、どこでも買えるだろうと思って断ってしまった。 けれどその後、港の周りをぐるりと回ってみても、売っているところを見つけることが出来ないのである。 果して旧市街の市場でも、コーラの実は売っていなかった。町見物は楽しんだのだけれど、目的は達せられず新市街に戻ると、またまた出会ってしまった、やっと振り切った朝の彼と。 「コーラの実を買いたいんだよ」 そう言うと、待ってましたとばかり、私をガランとした市場の前の建物へ案内した。すっかりガイド気取りで交渉してくれる彼、1kgが5,000フラン(\1,000)だという。結構高い。 なのに1kgと言っても、両手に一杯くらいしかない。だいたいみんな2kgは持っていくというので、仕方なく10,000フラン(\2,000)を支払った。 けれどその値段、いかにも誠実そうに交渉してくれていた彼だったけれど、後日ドゴンで聞いてみたら、「ツーリストプライス」とあっさり言われてしまった。 どうやら1kg2,000フランが相場のよう。果してその差額、ガイドの方に渡ったのだろうか、それともコーラ売りの方か、或いはしてやったりと2人で分け合ったのだろうか。 まあ、そんなことは知る由もないが、これでドゴンへの準備も完了と、その日は風邪薬を呑んで早くベッドに横たわった。まだ気になる微熱は下がってはいなかった。 | ||
モプティの旧市街にて
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第2章 マ リ
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トントンカンカン トントンカンカン
あたりにこだまする、乾いた金属音のみが、短調なリズムを刻んで、時を一つ一つ運び去っている。 トントンカンカン トントンカンカン 炎天下のモプティの通りは、目が痛くなるほどまぶしいけれど、バスの出発を待つ屋根の下は、ただ待つだけのその時間さえ、むしろ楽しくしてくれるほど心地良い。 トントンカンカン トントンカンカン となりの屋根の下は、喫茶店なのだろうか。人が2人座れるほどの背の低い木の椅子と、ちょうどこれも腰掛になりそうな平らな石が一つ、それに車の何処かの部品なのだろう、穴の開いたぶ厚い鉄のリブが、何のつもりか無造作に一つ。 そんな土間に腰を下ろした男は、両の手の平で包めそうな小さな青いヤカンを、数個の炭火の上に乗せ、煮立てている。
朝方2人のご婦人が、そこでお茶を飲んでいたのだが、いつの間にか何処かへ去った後は、誰も訪れる人はない。なのに、炭を継ぎ足し、茶の葉を入れ直し、相変らず煮立てている。 そんな所在無さが原因かどうかは知らないけれど、30半ばのその男、えらく不機嫌で、不思議なその光景を、一枚写真に撮ってやろうと、それとなくコンパクトカメラをノーファインダーで用意したら、目ざとく見つけて、眉間にシワを寄せ、食って掛かられてしまった。 トントンカンカン トントンカンカン このバス停に来たのは、朝の7時45分。バスの集まるターミナルで、客の呼び込みをしていた男に、バンディアガラと言ったら、少し奥まったこのバス停を教えられた。 荒い波トタンに切り抜かれた窓口で、行き先を言うと、イエスと機嫌良く招き入れられ、バス代の1,500フラン(\300)と、荷物料金1,000フラン(\200)を要求される。 けれど、例によってまだ乗客は集まっていないようなので、座っていた男に、朝食を食べられる所を聞いたら、案内すると立ち上った。旅のはじめの頃は、こういう申し出を断っていたのだが、少しチップを出すだけで、場合によってはお互いハッピー。 彼の後について入った店の中は、膝の高さほどの大きな細長いテーブルを、15人ほどがぎっしりととり囲み、中央の男が、フランスパンを裂いてバターをたっぷりと塗りつけ、忙しく配っている。 案内の彼にコーラをご馳走したら、サンドイッチと紅茶の注文を手伝ってくれた。てっきりバスの乗客かと思っていたのだが、実はドゴンへ行く客を目当てのガイドさん。 けれど、ガイドはバンディアガラで探すと、ガンとして言い続けた私の情報が、既に流されていたのか、2言3言勧められはしたものの、朝食の面倒を見てくれるだけであの熱心な勧誘は無い。 おかげでゆったりと朝食の時を過ごして来たのだが、この分では、あそこで昼食までいても、大丈夫だったようだ。 トントンカンカン トントンカンカン 私がここに来た時、既に待っていた女性も、同じく隣で待ち続けているのだから、特別私が、バスの乗り方も知らぬ、間抜けな男を演じているというわけではないと思うのだけれど、一体マリのバスはどうなっているというのだろう。もう12時も回ったというのに…。 トントンカンカン トントンカンカン 大きな荷物を持った男が、小屋の入り口に顔を出した。 アオ、セオ、ウオ…、わけのわからない言葉で、お互い声をかけ合い、握手をしながらの挨拶が始まる。終わるとまた次の人、終わるとまた次の人…。 はじめはみんな知り合いだから挨拶するのかと思っていた。けれどどうもそうではないらしい。ある時、関係ないと目をそらす私にも、「ボンジュール」と声をかけられた。 あわてて挨拶を返したのだが、どうやらこういう場に入る時は、一人一人に挨拶するのが、マリの習慣のようなのである。 日本のバス停の待合室に入って、そこに待つみんなに握手して回るというのは、ちょっと想像できないけれど、なんだかこの光景は羨ましい。 一年に一度断食を共にするイスラムの同胞意識がそうさせるのだろうか、それとも、待つのが一仕事になるから自然とそうなるのだろうか。或いは、古よりのマリ固有の伝統なのか。 ずっと以前、ギリシャの船で、同室になった人たちと、日本語でなら「宜しく」と言うところを、なんと言ってよいかわからず、気まずい思いをしながら、ただ黙ってやり過ごしたのを思い出すが、今から思えば、気持ちさえあれば、日本語でも良かったのかもしれない。 「ボンジュール」「ボンジュール」 ちょいと手を上げて私と挨拶を交わした見ず知らずの彼、ただそれだけで不思議とその場の空気が和らぐ。マリの空気がさわやかなのは、何もその乾燥した気候のせいだけではないのかもしれない。 トントンカンカン トントンカンカン バスはまだ動き出しそうにないので、音のする方へ歩いてみた。ここらあたりは金物屋が集まっているのか、あちらからこちらから、鉄板を叩く音がする。 近寄ってみると、屋根の下の土間に腰を下ろした男が、丸い平らな鉄板に金槌を打ち付けて、ちょうど中華なべのような丸みをつけている。
同じように作ったのだろう、金槌の跡、鏨の跡、そのままの、鉄のコンロも積み重ねられていた。平らな円盤からこの鍋になるには、いったい何回金槌を振り下ろせばいいのだろう。 せっかちな現代日本人には、ちょっと我慢できないかもしれないけれど、そんな時間で測ったら、朝からバスを待つこの時間も、少々違ったものになるのかもしれない。 トントンカンカン トントンカンカン やっと乗客が定員に達し、白いベンツのミニバスにエンジンがかかったのは午後の2時で、バンディアガラに着いたのは、幸いまだ明るかったとはいえ、すでに陽の西に傾いた午後の4時。 モプティからバンディアガラまで、わずか75kmの道のりが、まるっと一日がかり。もうかなり慣れっこになったとはいえ、やはりどこか間違えているようで、どうも腑に落ちないマリのバス。 | ||||
モプティ発バンディアガラ行きミニバス。所要時間2時間、待ち時間6時間15分。
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