第1話 馬車駆けるヨフの浜 | 第2話 買った奴隷は俺のもの?? |
第1章 セネガル | 第2章 マリ |
第3章 セネガルに戻って
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「料金は9,000フラン(\1,800)です。」
「えっ、9,000?」 「高いと思いますか?」 「ええ、ちょっと。」 セネガル・マリと、宿はだいたいそれくらいの相場ではあったけれど、ガイドブックは6,000フランとある。それにバマコの宿で話した彼もその値を言っていた。一、二週間でそんなに値上がりするのは腑に落ちない。 不満そうな私を見て宿の主人は「じゃ、8,000でいかがですか。」とあっさり値引きを提案した。 私には、ほとんど同じ地域に思えるダカールとヨフ、なのに、あのいつも鎧を着ていなければならなかったような、旅の始めのダカールとはずいぶんと肌触りが違う。
「じゃその8,000フランでお願いします。」
「他の人はみんな9,000フランで泊ってもらっていますので、あまり言わないで下さい。」
「わかりました。で今晩の夕食は頼めるでしょうか?」
「はい、だいじょうぶです。」
「いくらですか?」
「夕食込みで8,000フランです。」
「えっ」
そう、宿代はガイドブックのとおり朝食付きで6,000フランだったのだ。3,000フラン加算されていたのは夕食代。それなら何も高くはない。 なのに客の物差しに合わせて値引きを申し出た宿の主人、普段ならこりゃ値切り得とそのままにするのだけれど、誤解の上の主張のままでは、なんだかネコババに似た気持ちになって、「それなら高くはありませんから、9,000フランでOKです。」と言っていた。 幸運にも一つ前の便に乗って、セネガルの空港に降りたのは、まだ十分空も明るい6時前。バマコの宿に泊り合わせた彼と話した時、「ダカールは好きになれないのですよ。」と言うと、「じゃ、帰りはヨフに泊られては。」と教えてくれた。 そうだ、その手があったのだと、予定を変更した私、空港からはちょうどダカールと反対方向になる北の海岸の村ヨフを目指した。 例によってタクシーは6,000フランとふっかけてきたけれど、何とか押し戻して3,000フランに。けれど1,000フラン(\200)でも充分と思えるほどアッという間の距離。
おまけに宿を知らないと言って、1kmほど東に降ろされてしまう。やむなく居合わせた男の案内で、このカンプメン・プラグまで、砂に足を取られながら浜を歩かなければならなかった。
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ヨフの浜辺
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イスラムの信仰篤い人々が住んでいるというこのヨフの村、ガイドブックによると、かなりの自治が許されていて、国家の警察もいないのに、犯罪は皆無に等しいという。
確かにイスラムの信仰の篤さを物語るように、美しい砂浜があるにもかかわらず、海水浴やマリンスポーツを楽しむ水着姿の外人は、一人も見あたらない。 それに案内してくれた男も、宿の主人のように実直な感じで、国際都市ダカールと目と鼻の先でありながら、素朴なアフリカを守りとおしているようなのは嬉しくなってしまう。 けれど一つだけ誤算があった。それはマリをずっと回って来て、「静かな漁村」という言葉の向うに、あのさわやかなモプティやセグーの河岸の木陰をイメージしてしまっていたことである。 けれどあそこは乾燥の内陸、ここは大西洋の海岸べり。ベトベトに湿った海風が体を舐めて通る。日も沈むと、風自体は冷たいほどだけれど、湿気がたまらない。 日本の天気予報を思うに、天気と同じく気温の予報はされているけれど、湿度予報はあまり耳にしない。おそらく湿度は、出かける際の雨具やコートに、あまり関係ない為かとも思うけれど、人の感じる快適さという点では、湿度は一番にも影響する。 リュックから出した寝袋は、これまであれほどサラサラで気持ち良かったのに、まるで別物のように、ほんのわずかの間に、湿気を吸ってしまった。それにベッドも、シーツは洗濯されているとはいえ、全体はジトーッとしている。
椅子の上に出したノートの紙も、まるで生八橋の皮のようにシナッとし、汗を吸ったTシャツはいつまでも冷たい。
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漁師の女将さんたちでしょうか、浜ではずらりと並んで、獲りたての魚を捌いて売っている。
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それに漁村の宿命なのか、終えた洗濯を干そうと、庭に張られた黒い紐に近づくと、ワッと一斉にその黒が舞い散った。
黒く見えたのはハエの集団。カラッとしていると、ハエなど大して気にならない私だけれど、このベトベトの中では、ちょっと気になる。 そんな光景もよぎって、夕食に出された、大きな皿いっぱいの生野菜は、口に入れるのを躊躇してしまった。そういえば、日本を発つ時気になったコレラ騒動は、その後どうなったのだろう。
何度も口までもっていきかけたけれど、臆病第1と自分に言いきかせ、「生野菜はあまり好きでないから」と偽って、明日は煮るか炒めた物にしてくれないかと頼んだ。
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漁師達の、活気に満ちた、夜明け前のヨフの浜。
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次の朝は、6時半に起きて海岸に出てみた。まだ夜明け前の薄暗さの中、浜は漁師達でひしめいている。 もうみんな漁を終えた後なのかと思ったけれど、まだこれからの船も多いようで、胸までのゴムのズボンをはいた男の、せわしく動き回る船に積まれた、袋いっぱいの30cmほどの魚は、獲ってきた魚ではなく、これから漁に出る為の餌のよう。 2〜3cmにぶった切っては、一本のテグスにいくつもつけた針に刺していた。 準備を終えた船は、一隻、また一隻、一刻を争うかのように、砂に置いたコロの上を押されて、朝日に赤く染まり始めた海へと入る。 既に漁を終えた船から魚を運ぶのか、あちらこちらに鼻息荒く浜を駆ける馬車。馬というのはロバとは違って、時間のみか、そこの人を含めた空間そのものまで、その馬力を充満させるもののよう。 ヨフの浜辺は、すっかりアフリカのテンポになれた私に、驚きの新鮮さを感じさせるほど、活気に満ちていた。
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第3章 セネガルに戻って
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「夕食は何時にしますか?」宿の主人は、そう私に聞きに来た。
なんてやりとりがあったのだけれど、「何時でもあなたのお好みで」とは言うはずだ、何時と言おうが、結局はつくるが勝ちになるのだから。 海からの風が重く冷たいヨフの宿カンプメン・プラグの2階の食堂、7時45分になってもまだ夕食は出てこない。手持ち無沙汰なので一度部屋に戻ることにした。 そんな私を若者が呼びに来たのは、8時過ぎ。行くと少し離れたテーブルの端で黙々と食べているヨーロッパ人一人と、私の前に座った体格のガッチリしたオーストリア人。 話すと彼は、これからマリへ向かうのだと言う。ドゴンのトレッキングのことを知りたいらしく、私の話を聞き入っていたけれど、話がダカールになって、ゴレ島にはまだ行っていないのだと言うと、明日1日あれば、充分行けますよと私に勧めた。 印象の良くなかったダカールなので、このまま寄らずにヨフから日本へ帰ろうかとも思っていたけれど、奴隷の積出港だったとして知られる、ゴレ島に行かなかったのは少々心残りの私。 島の史実そのものは、観光用の宣伝とは少々違うようではあるけれど、西アフリカを訪れて、奴隷貿易の歴史は素通りしたくない。そう思って、アフリカでの最後の日、ゴレ島へ行くことにした。 宿の主人にダカールまでのタクシー代を聞くと、高くても1,500フランと言う。ヨフで止めたタクシーは、それでは渋い顔をしたけれど、それが現地の相場なのだろう、いやいやながらもOKした。 とはいえダカールまでは結構遠い。それに渋滞も加わって、今まで私の乗ってきた相場では、1,500では少々気の毒。 それに私は「ゴレ」と言ったのだが、現地の耳では「ガレ」に聞こえたのか、着いたのはタンバクンダへのバスですったもんだした、あのバスターミナル。「いやいや、ゴレ島、港、フェリー」と言うと、がっくりと肩を落とす運転手。 何も追加は要求されなかったけれど、降りる時2,000フラン(\500)を渡したら、「それならOK」といった表情で受け取った。 そんなわけで、少々遅れてしまい、港に着いたのは待合室もガランとした、ちょうどお昼の休憩時で、次のフェリーは12時30分しかないという。 仕方なく、私も港前のレストランで昼食をして1時間余りの時間をつぶしたのだけれど、間が悪いことに、20分ほどで着いたゴレ島でも、こんどは、当時の奴隷の集積場の姿を今に残すという建物「奴隷の家(La Maison des Esclaves)」が昼休み。またまた1時間余りを、島を歩いて過ごさねばならなかった。
島はヨフとは違って、桟橋近くの砂浜では、水着姿のヨーロッパ人観光客が海水浴を楽しみ、土産物屋やレストランなども並んで、賑やかな観光地であったけれど、少し中に入ると、静かでのどかな島の雰囲気。 けれど時間がきて入った、入場料500フラン(\100)の「奴隷の家」は、一挙に雰囲気を殺伐とした数世紀の昔に引きずり戻す。 左右に別れて昇る階段の上が、アフリカの明るい太陽をいっぱいに浴びた主人達の希望の空間なら、階段の間に口を開ける倉庫への闇は、そこへ入れられた人々にとって絶望の空間。 入ると土牢のような闇に、湿気を帯びた海の空気が忍び込んでいる。ひとたびここに入れられた人達にとって、開く扉は唯一、海に面した積み出し口。 中央の通路の先にその扉は、目が眩むほど明るい光を吸い込んで、大西洋に向かって開け放たれていた。
当時この闇に、肌すり合わせて押し込められていた人々は、この扉が開かれた時、そのエメラルド色に輝く波の煌めきに、むしろ希望の光を見たのであろうか。 そう思えるほど、その四角い出口の向うの大西洋は、場違いに美しく眩しかった。けれどそれは、この地に2度と戻れない地獄への門。 ある推計によると、17世紀に200万、18世紀に600万、19世紀に300万のアフリカ人が、伝染病や虐殺で人口の激減したアメリカ大陸に向けて、奴隷船に積み込まれたという。売ったり買ったり廃棄したり、自由に出来る商品として。 そう、大枚をはたいて手に入れた奴隷だから、誰に売ろうが、どうあつかおうが、それは私の権利ではないか。 もしもそう開き直られたら、あなたならどう答えるのだろう。「買ったからといって権利は生じるものではない」と言われるのだろうか。 そう、そのとおり、けれどちょっと立ち止まって考えるに、そもそも所有権というものは、いったいどこから生まれるのだろう。 例えばあなたの所有するという、狭いとはいえ地球の一画、そんな大それたものの所有権なんて、いったいどこから生まれたのだろう。買ったからといって権利そのものが生じないのは、既に先ほどの同意したこと。 だとするとひょっとして、その昔誰か腕力の強いやからが、ここは俺の土地だと宣言したことが、そもそもの根拠なのだろうか。 いやいやそんな大きなものばかりではない。あなたが作ったり育てたりしたものだって、神の目から見れば、あなたのやったことは、ほんの少し条件を変えただけなのではないのだろうか。 なんだか、「天にあるもの地にあるもの、すべては挙げてアッラーに属す」(井筒俊彦訳 31章)というコーランの一説が、心地良く響いてしまう。 はたしてそれが、アッラーに属するのかどうかは私は知らないけれど、所有権なるものの根拠には、絶対的なものなどどこにもなく、それは時代や地域によって揺れ動く、人々の合意の上に立っているだけのもののようだ。 いやいやそもそも権利というもの自体が、そういうものなのかもしれない。 「当時の当然」と、「今の当然」、それを支えるその土台は、神から授かった絶対とか、永遠不変の真理などではなく、ゆらゆら揺れる人の心、油断すればすぐに崩れる人の心。 なんだか頼りないけれど、だからこそそこに、我々の夢と創意の花を咲かせることが出来るのかもしれない。 けれど立場を変えれば、使いようによっては抑圧の道具。そんな声が聞こえたように思えたのは、当時と変わらぬ波の音だったのだろうか。
午後の3時、まぶしい光のあふれる桟橋に戻って、ダカールへの船に乗った。今夜の便で日本に帰る。
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元気なヨフの子供達。置かれた船は結構不安定で、子供達に合わせてゆらゆらと、倒れるのではないかと心配したのですが、彼らにはそれがたまらなく楽しいらしくて…
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【余談】
「只今、検疫の強化を行っております。海外でお求めになった、肉やハムソーセージなども、検査を受けて下さるようお願いします。」 成田のターンテーブルに、私のリュックが顔を出すのを待つ間に、聞こえてきた館内放送。 留守中世話になった一人の、喜んでくれそうな土産がアフリカでは見つからなくて、仕方なく乗り継ぎのミラノの空港で、それをつまみに一杯やってもらおうと、余ったユーロをはたいて買ったサラミソーセージ。 リュックは空港で預けた後なので、そのままのビニール袋でブラブラと持って歩いていた。今まで検疫の必要なものなど買ってきた覚えのない私、フッと心を過ぎる、〈このサラミソーセージはどうなんだ?〉 行く時に、コレラの情報の流れていたセネガルのものなら問題かもしれないが、これはイタリアの国際空港で買ったもの、それに真空パックできちっと包装されている。 まさか検疫の必要はないと思うけれど、まあ少々正直者ぶって、行って見るかとそのコーナーを探した。あったあった、広いホールの片隅の、誰も訪れそうにない一角に、申し訳程度のカウンターが寂しくあった。
「これ、ミラノの空港で買ったのですけれど。」
【後の祭り】 「じゃ、ここでいただきます」と、あのカウンターをテーブルに、食べてやるという手を思いつかなかったのは残念! 《 第11部 セネガル & マリ 編 》 おわり |