第1話 アフリカへの前夜 | 第2話 いきなりの… | 第3話 ダカールは恐ろしい |
第4話 本当に8時発? Yes! | 第5話 野宿のターミナル | 第6話 もともとはアッラーのお恵み |
第2章 マリ | 第3章 セネガルに戻って |
序章
No.178
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「アルベルデルチ(さようなら)」 ホテルからの灯りの洩れる、入り口の路上に留まって、覚えて新しいイタリア語でそう見送ってくれたお嬢さん二人。 宿は同じ中央駅近くというので、見せ掛けだけの用心棒を気取って、一緒に歩いたミラノの夜。 成田からの機内では「スキを見せないよう、いつも怒った顔をしていなくちゃ」と、少々緊張気味にも見えたけれど、それぞれの宿を決めてからも、少しイタリアの人に慣れておくのも悪くはないと、立ち寄った喫茶店のレジでは、すっかりうちとけつつも、しっかりとおつりを確認する落ち着きよう。 既に彼女達は、「不安」が「課題」に具体化する、本番の舞台に立っているのだろう。 「じゃ、気をつけて」 そう言って手を振ったものの、次第に暗くなる宿の方に向かう私はまだ、勝手に膨らむスタート前の不安との、押し合いの中にいた。 『セネガル共和国におけるコレラの流行…2人の死亡を含む128人の感染者が報告されています。感染者数は今後更に拡大するおそれが…つきましては、セネガルに渡航、滞在予定の方は、関連情報の収集に努め、衛生面に十分注意してください…』 出発前、念のためにと開けた外務省のホームページは、まるで旅の計画に合わせたかのように、セネガルでの7年ぶりのコレラの流行を報じていた。 エジプトを除けば、アフリカに生まれた精神に、どんなものがあるのか、全くと言って良いほど馴染みのない私ではあるが、20年程前に読んだドゴン族の神話が、なんとも消化不良のままに残っている。 盲目の人オゴテメリがつむぎだす、ものの背後の世界は、ほとんど理解できなかったのだけれど、捨ててはいけない貴重品のように思えて、心の隅に持ち続けていた。 公用語はフランス語だというから、私にはそんな込み入った話は理解出来ないだろうけれど、アフリカと言えば、まず行って見たかったのは、そのドゴンの人たちの住むマリ共和国である。 そう思って、インターネットで航空券を探してみたら、マリへの便は、エアフランスしか見つからず、なんと価格は30万円を越える超高値。これではダメかと諦めかけたのだが、隣のセネガルへは、便も良く、価格も10数万円からある。おまけにビザも不要。
これなら何とかなると、セネガルからマリへは陸路にして、イタリアミラノ乗り継ぎのダカール行きを決めた。けれどやはりアジアのように身近ではなかった。 まず、使い慣れたガイドブック「地球の歩き方」がない。日本語のガイドブックは、「旅行人」くらいだが、網羅している範囲が広いこともあって、手取り足取りとはいかず、やむなく「Lonely Planet」に頼らざるを得ない。 ぎっしりと英語の詰まったこの本、はじめはなんともとっつきにくく思えたが、読んでみると意外にわかりやすく、それにとても詳しい。 バックパッカーのほしい情報を全て網羅しているといっても良いほどで、ガイドブックとしては申し分ないのだけれど、なんといっても初めての本、しかも外国人が書いた本となると、ホテルや町や交通手段に加えられる評価の、その物差しの見当がつけにくい。 背後の文化が異なると、同じ意味あいの言葉でも、具体的には、かなり違ってしまうことも少なくない。 初めてインドを旅した時、「luxurious,luxurious」を連発するので、少々疲れていたその時の私、これで少しはゆったりできるかと期待して、ガッカリしたことがある。 beautiful だの clean だの interesting だのと、いろいろ紹介されても、「これで?」と思うことも少なくない。 その点、同じ日本人の評だと、物差しがだいたいわかるので、そういった表現の意味するところも見当をつけやすい。けれど今回はそうもいかない。 それにマリでは黄熱病の予防接種が義務づけられているというから、それだけは検疫所まで行って、8,530円でうってもらって来た。 けれど、なんと言っても、油断ならないのはマラリア。体力があれば大丈夫と言う人もいるかもしれないが、私には悩みの種。その対策に、荷物がかさばるので迷いに迷ったものの、転ばぬ先の杖と自分に言い聞かせて蚊帳と虫除けスプレー4本をリュックに詰め込んで来た。 マラリアを媒介するハマダラ蚊は、日中は活動しないというから、それで何とか夜を防衛しようという作戦である。 けれど夏に庭へ出ると、どうあがいても、一つや二つは必ず食われてしまう私、はたしてそれが役に立つのかどうか、これまた行って見なければわからない不安の種。 それなのに、今度はこのコレラ騒動。そんなこと言われても、今さら仕方ありませんと、開き直って、出て来たのだが、このミラノのマルペンサ空港で、思わぬ不安がまた一つ持ち上がってしまった。 トラベラーズチェックの両替を拒否されたのである。 それも、アメックスは受け付けませんと初めから断られたのならまだしも、初め見せた時には、OKと言った窓口の向こう、サインの前に渡したら、裏返したり、透かしたり、手でこすったりと、なんだか手間取っている。 初めは冗談混ざりで「本物だよ」と言っていたのだが、何処かへ電話をして、しばらくチェックを読みながら、確認した後、「これは受け取れません」と突っ返されてしまった。 そう言えばこのトラベラーズチェックは、かなり古い。それに今回の旅は2年ぶり。今まで疑ったこともなかったが、ひょっとしてデザインでも変わって、古いのはニセ物とでも疑われるのだろうか? 天下のイタリアの国際空港でそうなら、アフリカではなおさらのこと。それでなくてもあまり両替がスムーズでないというマリ、アメックスを両替出来ないのなら、非常時のお守り代わりに、いつもズボンに縫い込んで持っている300ドルを含めても、所持金は700ドルにしかならない。 その上そのドルの価値が、急速に下がっている。とりあえず財布にあった現金で両替をした100ドルは、たったの61ユーロにしかならない。 一晩だけのミラノ、100ドルも変えれば充分だと計算していたのだが、これでは頼りなくて、財布に残っていた10,000円札も両替した。実感するドル安は、頭で考えていたよりショック。セネガルに着いたら、もう一度予算を立て直さねばなるまい。 けれどそれもこれも、明日現地に立つまでは、心配の袋に詰め込んで、料理せぬまま持っていなければならないものの数々。 11月のミラノ、夜も11時が近づいて、今や人影もまばらな市電通り。上は薄くても風を通さないナイロンのヤッケを着ているけれど、夏の装いのズボンにしみる風が冷たい。 ワクワクする旅の始まりはいつも、ちょっと酸っぱい不安の味付け。
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第1章 セネガル
No.179
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えっ、そんなバカな…あれっ…。 人間、意表を突かれると、一瞬確信がもてないもののようだ。けれどそんなことは顔には出せない。声を太くして自信たっぷりに言い返す。 「この札じゃない、渡したのは5,000フラン(\1,000)だ!」 「これだよ! 」 いきなり唾を飛ばさんばかりの迫力で、怒鳴られた。 「これだよ!お前の渡したのは、この500フランだ。」 「何をいうか この野郎!」 とにかく負けてはいられない。タクシーの中は、まるで何かが爆発でもしたかのように、怒鳴り合いの声が一気に燃え上がる。まだセネガルの地を踏んでから、2時間とはたっていなかった。 空港からのタクシーは、6,000フラン(\1,200)とふっかけてきたが、何とか4,000まで押し返した。まあ、これでも高いのだけれど、深夜は3,500フランとガイドブックにあったから、何とか許せるところ。 ところが夜も10時を過ぎたダカールの繁華街、思っていた宿が見つからない。既に人影もまばらなポンティ(ポンピドウ)通りをさまよって、1人2人と尋ねてみたが、そのホテル名がフランス語読みなのか、なんともチンプンカンプン。 ダカールでもっとも危ないというポンティ通りの夜を、リュックを担いでうろうろと、通じぬ言葉をばら撒いていては、飢えたライオンの中に、はい食べて下さいと、顔に書いてさまよっているようなもの。 そんなあせりも手伝って、寄って来たタクシーに乗り込んだ。ガイドブックで覚えのあるプロビンシャルホテルまで2,000フラン(\400)で行くという。まだ皆目距離感はつかめなかったけれど、恐らく目と鼻の先だろう。1,000なら乗るとOKした。
ところがしばらく走った薄暗がりで、プロビンシャルホテルはやっていないからホテルマルシェに行こうと、電気のついてない建物を指差した。 嘘だろうとは思ったけれど、そのマルシェは、ダカールの宿の第二候補でもあったので、「じゃぁ、マルシェにしてくれ」とOKした。ところがあと1,000フランの追加だと言う。 この野郎とは思ったけれど、初めての街に来て、まだ右も左もわからぬうちにタクシーに乗るということは、場合によっては敵前での武装解除にも等しい。 唯一の地図と実際を結ぶポンティ通りが姿を消し、情報はドライバーの独占状態。早く自分の位置を地図上に定めたくて、その追加をOKした。けれどこれが、彼をつけ上がらせてしまったようだ。 「あそこがマルシェ」と止められたタクシーの、10mほど先の建物には、確かに灯りがついていた。けれどはたしてそうなのか、そのまま鵜呑みに出来ない。 500フラン札を突きつけられたのは、2、3人のたむろする、その入り口のぼんやりとした、Marche らしき文字に目を凝らし、なんとか読み取ろうとしていた時であった。 注意はきゅうきょ内に向かって、必死に記憶を遡る。 そう言えば渡す時、はっきりとは確認しなかった。確認しようとしてタクシーの天井の室内灯に手を伸ばしたのだが、電灯はつかなかった。 やむなく外からのかすかな灯りに札をかざそうとすると、「OK、OK」と体を捻って彼は、そのお札を受け取っていった。 ひょっとして…、いや、いや、まてよ…。空港の売店で、現金の100ドルをとりあえず両替した時、渡されたのは全て、真新しい5,000フランの紙幣であった。確かそれを10枚数えたのを覚えている。 それから街まで、タクシーのおつり1,000フランを紙幣で受け取ったが、私の使ったお金は、後にも先にもそれだけのはず。 おいおい、500フランなんて紙幣、持っているはずがないじゃないか。なんとえげつない!おつりをごまかそうとするのならまだしも、5,000を500にすり替えて、更なるお金をふんだくろうというのである。 それにいきなりのこの怒鳴り声は何なのだ。なめてもらっちゃ困る。
「ポリース!」 バケツの水をぶちまけるように、彼のその顔に怒鳴りつけてやった。腰が浮くほどお腹に力が入った。恐らく近所の家でも聞こえたに違いない。 娼婦だったのだろう、マルシェのあたりから親しげによってきて窓を覗き込もうとしていた女性は、目線をそらせて去って行った。 警察に行ったところでフランス語の世界、はたしてどうなるのかは自信がなかったけれど、渡したのが5,000フランであることの自信は今や完璧。なのになんと図々しい。変わらぬ勢いで、渡されたのはこの500フラン紙幣だと唾を飛ばしている。 こうなったら、通じようが通じまいが関係ない。勝負は迫力。彼が何をいおうとも、彼の目先に人差し指を突きつけて「ポリース」「ポリース」「ポリース」の大声のみ。 「OK、ポリース」 そう言って、タクシーは動き出した。これでわけのわからない所へ連れてでも行かれたら、これまた問題だなとは思ったけれど、「GO!」と彼の後ろですごんで見せた。 右に左に1、2分走っただろうか。数人ほどのたむろする一角にタクシーを止め、ドライバーは、ちょっと待てといった仕草で出て行った。少なくともここはポリースではない。 いったいなんの用かと、2、3分待ったけれど、いっこうに戻ってこない。業を煮やして運転席に手を伸ばし、ハンドルの中央を押さえつける。 「ビィ――――ビッビ――――ッ」 静まり返っていたダカールの夜に、すさまじい警笛が響く。これには彼もあわてて飛んできて、待て待てと両手で制したのだが、その手に5,000フラン札が握られていた。 どうやら私の勝ち。彼は両替してくれる人を探しているようであった。 別れ際、皮肉たっぷりに微笑んで、「メルシー」と言ってやったのだが、彼はブスッと何も言わずに去って行った。あくまで私の想像の世界だが、インドでなら、けろっと陽気に Thank you とウインクでもされそうなのに。 ミラノとは違って、生温かいダカールの風が、去り行くタクシーを追いかけて行った。
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第1章 セネガル
No.180
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とは言っても、テロだの誘拐だのといった話ではない。内戦のニュースの絶えないアフリカの国々、そんな中、セネガルの首都ダカールは、いたって平和であった。恐ろしいというのはあくまで、旅人の懐をめぐってのお話。 いきなりのトラブルで、すっかり警戒モードになってしまった私であったが、次の日の出来事も、更にそれに拍車をかける。 それは午後の4時ごろのこと、例によって、いくら断っても離れない、土産売りに辟易しながらさしかかった、ダカールの独立広場(プラス)。横切っていると、前からも2人組みの土産売りがやって来た。 おやおやこれで3人に囲まれるのかと思っていると、そのうちの一人が、何かを言いながら、ぐるりと私の背後に回り、右足のそばに身をかがめた。 いったい何をしているのだろうと思っていると、ズボンの膝下をつかんで、ガンガンガンと下に引っ張る。それでも何かの冗談かと思っていた。 けれどあまり強く引っ張るので、夏用の薄手のズボン、破れでもしたら大変と、身をかがめその手を止めようとしたその瞬間、左側にいたもう一人の男のごっつい手が、グイッと私のズボンのポケットに突っ込まれる。 アッ! 反射的に腰を捻って、その手を払いのけたのだが、何かをつかもうとする、力の入った手の感触の生々しさ。 「何すんだ、この野郎!」 とっさの日本語。けれどそう怒鳴る私に、ただへらへらと笑って見ている彼ら。 これまでインドではトラベラーズチェックを盗られ、インドネシアでは愛用のカメラを盗られた。スペインでバッグのチャックを開けられ、ベトナムでは腰のカメラを引っ張り出された。 けれどどの国でも、一応みんな人目をはばかっていた。成功にせよ失敗にせよ、事が終われば、あるいは見破られれば、そそくさと姿を消した。 ところが彼らは、日中人中で、へらへらと笑っている。姿を消さなければならないのは私の方なのだ。急ぎ立ち去ったのだが、以前からついて来ていた土産屋が、再び寄って来て、「ダカールは恐ろしいよ」と話し掛けて来た。 なんだかテレビなどで見る、ライオンの狩の光景を思い出していた。そこに獲物が来た以上、捕って食べるのはあたりまえ。食べられるシマウマも、別にそのライオンを、仲間殺しの罪で咎めたりはしない。 勿論そんなことはないのだけれど、なんだかこれが「アフリカの原理」のように思えてしまう。
そんな危険を孕むから、あまり人は寄って来てほしくない。けれどここダカールの街は、決して旅人姿の通行人を、一人に放置はしてくれない。ひょっとして、そのハッスルぶりは、世界で一、二を争うのかも。 それにどうもやりづらかったのは、道や場所を尋ねると、決まって親切に、そこまで案内してくれることである。めったに「あちらです」とは答えてくれない。ついて来いと合図をして、さっさと先を歩き出す。 勿論、それだけ労力を注ぐのだから、その分のチップを要求される。案内を頼んだのなら、それも良かろうが、ちょっと道を尋ねたくらいで、いちいちお金をとられては、なんとも腑に落ちない。 けれど実は今日、そんな1人に大いに助けられていた。それはここダカールで、なんとしても解決しなければならないトラベラーズチェックの両替の件。 まだリュックの荷物もそのままの残る、セネガル第1日目の今日、何はさておき朝一番で銀行を目指した。何とかアメックスのT/Cを両替しなければ旅は続けられない。 ところが、ガイドブックに手続きがもっともスピーディと書いてあった、独立広場西のCBAO銀行に入って、窓口で「これ替えられますか?」とアメックスの1枚を見せた所、案の定、首は横に振られた。 けれど一抹の救いは、T/C全般がダメといった素振りであったこと。それじゃと、10m程南の角の、シティバンクを目指した。ガードマンにチェックされ入った銀行の中は、エアコンも快適に、こじんまりと静まり返って、何処となくアフリカチックではない雰囲気。 やはり世界に展開するシティバンク、しかもここは国際都市ダカール、両替してくれないはずはなかろうと、おとなしく順番を待っていた。 ところがところが、ここでも拒否されたのである。 「すみませんが、向かいのBICIS銀行に行ってくれませんか。」英語での丁寧な応対ではあったが、私の心中は穏やかではない。 さっそくその向かいの銀行に行ってみると、なんとなんと、ここでも拒否された。しかもフランス語でまくし立てられ、次にどうすれば良いのかの手がかりもなくして外に出た。 容赦ないダカールの太陽に照らされて、歩道の石も目がくらむほどに眩しい。 さあ、大変。 身長190cmはありそうな、細身の男が、白っぽいTシャツ姿で近づいて来たのは、そんな途方にくれていた時であった。 いつもなら相手にしないのに、藁をもつかむ思いからか、T/Cの両替をしたいのだと、ついつい本音を洩らす私。 すると彼、例によって「ついて来い」と歩きはじめる。どうせ、いかがわしい闇両替所にでも連れて行かれるのだろうとは思ったが、この際頭からは拒否出来ない。 おとなしくついて行ってみると、ポンティ通りを少し西に進んだ北側の、銀行のようにきちっとしたたたずまいの両替所に案内された。 中に入り、祈る思いでカウンターの女性にT/Cの一枚を見せると、それをもって扉の向うへ。またか…と心配したのだが、出て来た彼女はOKといってコンピューターの前に座った。やれやれである。
ここ西アフリカの8カ国は、共通通貨セーファーフランを使っている。けれどその交換レートは各国それぞれ違うようで、ガイドブックは、マリでは両替事情の悪さから、隣国での両替を勧めていた。 それに加えてこのT/Cの両替不安。1ドル480セーファフランと、ガイドブック当時の7割ほどにしかならず、率はかなり悪そうに思えたけれど、マリで最低必要と見積もっていた総額を両替した。不足はドル現金の両替で何とかなるだろう。 これではトラベラーズチェックを持って来た意味をなさないけれど、この際そんなことは言っていられない。 ところでホッとして建物を出ると、何処からともなく先ほどの彼が現れた。しっかり出てくるのを待っていたのである、勿論、お茶代がほしいと、チップの要求。 「メルシー」 そう言って500フラン(¥100)を渡すと、OKと笑顔で去って行った。このときばかりは、ダカールの「おせっかい」に、感謝感謝の私であった。
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第1章 セネガル
No.181
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あれほど念を押したのに…。 どうも最近は、1時間くらいの遅れなら、なんだか当たり前のように思えてしまう私なのだが、乗り込んでから、2時間たっても3時間たっても、全然その気配がないと、さすがにイライラも頂点に達する。 ほぼアフリカ最西端のダカールから、隣国マリの首都バマコまでは、国際列車が出ていて、一般にマリへの旅人は、その列車を利用するらしいのだが、どうもおびただしい泥棒さんの、お仕事の場でもあるらしい。 ガイドブックを読んで、いやだなぁと思っていたのだが、初日から続く「事件」で、すっかりビビッてしまった。 それに、公式には35時間となっているのだが、40時間ででも着けば、それは幸運らしい。だとすると、到着はまたまた真夜中。もう夜中の宿探しはごめんしてもらいたい。 それに、列車は水曜・土曜の2本しかなく、おまけに寝台だと51,390フラン(約1万円)もする。それなら最近、国境近くまで良い道路が出来たという陸路を利用しない手はない。 バスを乗り継いでいけば、安全で快適で、しかも途中の町や村も楽しめて、その宿泊費を入れてもかなりの安上がり…のはずだが…いったいどうなっているのだこのバスは!
昨日予約のチケットを買ったのが、窓口ではなかったのが、どうも気になっていた。ダカールの街を北へ40分、見物がてらに歩いてたどり着いたルティエールのバスターミナル。 そこまでは良かったのだが、そこからがなんとももどかしい。バスやミニバスのひしめくその広場、一般に想像する、チケット売り場の窓口が見あたらない。 そこらにたむろする男に聞くと、例によって「はい、あちらです」とは答えてくれない。やっぱり「ついて来い」と歩き出す。けれど行き先は、窓口ではなくいわゆるトート(日本語で言えば、ダフ屋と言ったところでしょうか)。 行きたいのは窓口だと言っても、通じぬフランス語のせいでもないと思うのだが、なんともくっついて離れない。仕方ないので、一度外に出て振り切って、もう一度広場に戻ってみた。 けれど所詮無駄なあがき、どだい無理なのだ。人や車でごった返すはじめてのターミナル、案内の看板も何もなければ、誰かに聞くしかない。 で、聞くと、待ってましたとトートの網にひっかかり、そこから先には進めない。 気が進まなかったけれど、そのうちの一人の後について、タンバクンダ行きだという大型のバスまで行ってみた。 ガイドブックにあるバス会社の名前が見あたらないのが気になったが、彼について乗り込んでみると、「ここはダメ、ここは空いている…」と、一つ一つの席を指差しながら、どこがいいかと聞いてきた。 なんだか記憶が良すぎて、いんちき臭くも思えたが、その昔、東京の荒川区で、定食屋の娘さんは、いつも15人ほどで賑わう朝食時、瞬時に客の注文したものをすべて記憶し、「お勘定!」の声に、間髪を入れずに答えていた。 いつもその記憶力に唖然としていたのだが、人間熟練の域に達すると、驚くべき能力を発揮することがある。その彼も、そんな一人かと思ったのだが、どうやらいっぱい食わされたようだ。 なんだか7時半に乗り込んだ時にいた、十人程の乗客も、外で待っているのかもしれないが、半減してしまったように見える。こうしていても埒があかない。私は前の座席の鎖に縛り付けてあったリュックを外して、外に下りた。 皆同じような顔に見えたけれど、近くで何をするともなく集まっている男達の中にいるのは、確か乗り込むときに私のチケットをチェックした男。 よし、あいつだ。 近寄って、「このバスはやめる。お金を返してくれ。」と、バスのチケットを突きつけた。 けれどその男、そのただの紙っぺらのような切符の下のほうを指で叩いて、涼しい顔をしているだけ。おそらく『払い戻しは出来ません』とでも書いてあるのだろう。 〈そうだとしても、これは8時発のバスチケットだ、そんなバス何処にも無いじゃないか。あれほど8時と確認した時、横にいたではないか。〉 そう詰め寄りたかったけれど、唯一英語の通じるあのトートは、8時前にふらりと現れ、リュックを楽におけるように後への席変えの便を図ってやったからと、私から500フラン(¥100)の朝食をせしめ、悠々とどこかへ消えてしまっていた。
ええい、どうしたものか! このバスの4,200フラン(¥840)を捨てて、相乗りタクシーを捜そうか…、けれど今からでは、もはや明るい内の到着は望めまい。だったらもう1日ダカールに泊まって、明日仕切りなおしといこうか…、けれどそれでは、お金のみか時間まで2重の無駄のような気がするし…。 そんなイライラも頂点を越え、なげやりな諦めの漂い始めた11時過ぎ、1台の白いミニバスが横に止った。ざわめきだす人々。どうやらそのバスに変更のよう。 けれどそれからももたついていた。運転手が一人ずつ行き先を聞くのだが、何人かの客の言う行き先を、その運転手はOKしない。けれど乗客もバスを降りようとしない。いろんな客を集めた為か、行き先がなんだかまとまらないようなのだ。 セネガルの交渉はまず喧嘩から始まるのだろうか、唾を飛ばしての言い合いが続く。運転手も負けなければ乗客だって負けてやしない。結局動き出したのは、12時15分。これでは明るい内の到着はとても無理な話、いやいや、そんななまやさしい話ではなかったのだ。
ところで一つ驚いたのだが、ゴミなどはポイポイ捨てる彼等なのに、喫煙マナーはとても良かった。 満員の車内で、タバコを取り出した前の席の男、この中で吸うのかと思って見ていたが、そうではなく、彼は町が近づいたのを知っていただけなのだ。止まったバスの外に出てゆっくりと燻らせていた。 奥の一人も、窓から体を半分乗り出した状態でタバコを吸っている。この自制は何処から来るのだろう。好ましいことなのだが、何処となくアンバランスにも思える、不思議な光景に見えていた。
で、バスの皆は、話されるのがフランス語というのが、なんとももどかしかったけれど、ダカールでの第一印象とは全然違って、とても素朴で親切。 運転手との行き先確認を代行してくれたり、私もタンバクンダまで行くから安心せよと教えてくれたり、そんな皆に囲まれて、居心地は良かったものの、ハイウエイバスのようには走らない。 陽が西に沈みかけても、まだ1/3程度のカオラックあたりを走っている。もはや望みは、「暗くなる前」ではなく、「街が寝静まる前に」にトーンダウン。けれど既にそんな時間の夜の11時前、クバンダムと言うところで降ろされた。 おそらくあとで地図で確認する所の、"Koumpoutoum" だったのだろう。10分くらいで来た、同じようなミニバスに乗り換えたのだが、後に横にと大きく開いたその窓に入る風が、昼間は暑かったワイシャツの背中に寒い。 イタリアで着ていたナイロンのヤッケはリュックに詰めて屋根の上。仕方なく、カメラバックを背にしょって上着代わり。
そんなバスがタンバクンダのターミナルに着いたのは、な、なんと午前の2時45分。 所々を裸電球の灯りの照らすその広場の闇は、次なる地へと、急ぎ走り去るミニバスのエンジン音を、またたく間に呑み込むと、再び重い静けさに包まれた。 かって知ったるホームタウンなのだろう、立ち去る男達の靴音は、次第に遠のくのだけれど、いったい私はどうすれば…。 |
第1章 セネガル
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ちょっと驚きの発見であった。《 暗がりは危ない! 》それが私の常識であったのに、闇は私の味方でもあったのだ。 夜中の2時45分、ひっそりと静まり返ったタンバクンダのターミナルは、所々に電灯はあるものの、ミニバスや車が駐車しているだけの単なる広場。 ただ道路をはさんだいくつかの家の軒先に、昼間はそこで屋台が出ていたのであろう日除けの屋根と、片付けられた縁台が残されていた。 その一画に、バスを降りた男達の何人かは、当然のことのように、ごろりと横になる。明日のバスをそこで待つのだろう。 そう、ここで眠れば良いのである。何をごたごた心配していたのであろう。11月のセネガルは、昼間の暑さに比べると、夜は少々冷え込むけれど、上着を着れば星空の下はむしろ快適。 私はリュックからナイロンのヤッケを取り出し体を通していた。折りたためば厚手の手帳ほどに小さくなるこの防風着、日本の作業着屋で買ったのは数百円であったけれど、結構役に立つ。 ついているフードですっぽり顔の半分も覆えば、この闇の中、何処の誰だかそう簡単にはわかるまい。それに、蚊からも身を守れ、まさに一石二鳥。 そんなに蚊は居そうではなかったけれど、顔と手と足首に、しっかりと防虫スプレーを塗って、ひきずり出した縁台の一つに横になった。リュックの陰に置いた大事なカメラバックは紐で体に結んで。勿論、切られればそれまでのことなのだが、私の気づく確率がそれだけ高くなるだろうという気休めで。 で、実際に闇の中に横になってみると、これが不思議に落ち着く。 もっとも鼻先がむず痒くなるほどの、全くの闇なら話はまた別かもしれないが、ほんのかすかな月明かり程度の物陰は、こちらからは見えるけれど、あちらからは見えないように思えて、なんだかとても安心する。 キジも鳴かずば打たれまいという諺があるが、話せぬ言葉を振り撒きながら訪ね歩くと、はい獲物が来ましたよと宣伝しているようなもの。 けれどこのほとんどの闇に包まれて動かずにいると、闇はむしろ私の強い味方でもあったのである。 少々背中が寒かったけれど、結構しっかり眠ってしまったようだ。5時半に目が覚めて、東南の空に輝くシリウスの青白さが、とても美しかったのを覚えてはいるが、次に目が覚めたのは、夜も白みかけた6時半であった。 実際には寝不足であったのかも知れないけれど、気分はいたって壮快な朝。いや、壮快なのはこの朝の気分だけではなかった。ダカールでの印象とはうって変わって、タンバクンダは、街も人も、とても感じが良かった。まるで都会ずれすることのない、セネガル本来の姿を、そこに見せてくれているかのよう。 空も明るくなった7時、まずは地図の中に入りたくて、街の目印となるガソリンスタンドに行こうとタクシーを止めた。
「ペトロステーション、コンビエン?」
通じたのは言葉だったのか、それとも、開いて見せたガイドブックの地図だったのか、とにかく気持ち良いOKの返事。まあ、結果的には、私には歩く距離ではあったけれど、ダカールを経験した後では、「あいよ」といった受け答えがとても壮快に感じてしまう。
で、地図と現在地さえ一致すれば、あとはだいたい、歩いて行けるタンバクンダの街、ガイドブックから私の第一候補としていたニジホテルも、土壁に囲まれてすぐに見つかった。 まだ閉まっている扉を自分で開けて中に入ると、掃除中の男が、片言の英語で迎えてくれる。シングルは11,800フラン(¥2300)と、アジアなどの感覚でいるとかなり高いけれど、ほぼ同じ額だったダカールの宿と比らべると、格段に清潔な上、南にはテラスもついて一気に旅の気分を盛り上げてくれる。 それになりよりも、カメラを持って歩いた街の西の住宅地で、出迎えてくれた子供たちの笑顔が忘れられない。 言葉はほとんど通じないのだけれど、何の警戒心もなく、何の下心も無いような笑顔というのは、心に触れるものがある。カメラを向けたときに応えてくれた瞳の輝きは、まるでその生活の素朴さにこそ反比例しているかのよう。なんだか、理屈ぬきに大人を元気にしてくれる力を宿していた。 | ||
最高の笑顔で歓迎してくれた、タンバクンダの子供達。
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ところで、海に近かったダカールとは違って、内陸のタンバクンダの、そのサラッと乾いた空気も、そんな壮快さを後押ししていたに違いない。 昼間のホテルの室温は28℃でも、湿度は30%。日本の夏はクーラーで、もっと冷やしている所も多いようだが、乾燥さえしていれば、28℃は暑くもなく寒くもなくまさに快適。 肌もシャツもベッドも、サラッと乾いてとても気持ちが良い。はたして体にどうなのかは知らないのだけれど、どこかに川が流れていて、地を潤していさえすれば、乾燥した所ほど、住みやすい所はないように私は思う。 外はどうなのだろうと、テラスに温湿計を置いてみたら、気温は36℃まで上がっても、湿度は逆に20%まで下がった。皮膚温を超える暑さなのに、かえってその温もりが気分をリラックスさる。 バスルームの洗面台に水を張り、洗濯物を入れて持ってきた粉石鹸をふりかける。以前は固形石鹸を持ち歩いていたのだが、漂白剤が入っているのか、日本の粉石鹸だと手洗いでもかなりきれいになる。 面倒だけど、下着はほぼ毎日洗うのが私の日課。終えるといつも、気になる懸案事項をやっと片付けたときのような、リラックスした気分になる。ビーチサンダルを引っ掛け、ぶらりと下の食堂へ降りた。 街の屋台の10倍はするのだけれど、一度は試しにと、レストランの「豪華」4,500フラン(\900)の、前菜付きのチキン料理に舌鼓を打つ。 テレビからのフランス語のみの響く、そのガランと誰もいない食堂で、ノートをつけながら満腹の一時を楽しみ、部屋に戻ってみると、テラスに干したワイシャツはもう乾いていた。 ここに干してからまだほんの1時間ほどなのに。一年を通じてはどうなのか知らないけれど、この気候は、実に羨ましい。
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第1章 セネガル
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手を胸に組んだ子供に、物乞いの表情でじっと見上げられたら、皆さんはどうするのだろう。 ポケットから取り出したなにがしかを与えて、これで一件落着と心を落ち着かせるのだろうか。それとも、私には関係ありませんよと、はなから目をそらせるのだろうか。 或いはそれとも〈この子は実は親に操られているのに決まっている、私はだまされないぞ〉と「悪人」を仕立てて、内に疼く何かを黙らせるのだろうか。 確かに安易に与えても、物乞いの道を教えるだけだろう。確かに第一の責任は、あなたではなく、親に、社会に、或いは国にあるのかもしれない。それに例えあなたが、手の平こぼれんばかりを与えたとしても、何ら事態を解決しはしないだろう。 けれどそんな人生論や社会批判が、今日のパンより意味があるのだろうか。私には答えが見つからない。 とはいえ、現実は容赦なくやってくるから、いろいろ屁理屈を集めて、気持ち良く挨拶は交わすけれど、何も与えない冷たい男を演じている。 けれどそれも、ボールペンをくれだの飴をくれだのと、子供っぽい要求なら何ともないが、この目はいけない。彼よりもなによりも、私の方が悲しくなってしまう。今日の飢えにというよりも、そういうふうに育ってしまった彼の心情に。 せめてインドで感じたように、《 お前に情を請うているんではない、神に惠を請うているのだ 》と、気持ちだけは堂々としていてもらいたいもの。 西はダカール、東はマリ共和国へと通じるタンバクンダの大通り、彼らがやって来たのは、そのちょうど市場の反対側あたりに建ち並ぶレストランの一つで、先に出されたコーラを飲んでいた時であった。 けれど一般に、セネガルもマリも、いわゆる乞食の人はあまり見かけなかった。もっとも「あまり」と言っても、それはその人の物差しにもよるが、土産売りやガイドのしつこさに比べると、ほとんどなしに等しい印象である。 たとえ見かけはどうであれ、その堂々とした風貌に、圧倒されることも少なくなかった。昨日の子供達もそうだった。決して豊かそうではなかったけれど、あの目は輝いていた。 | ||
宿の近くで、にぎやかな音楽が聞こえてきた。つられて行ってみると、綺麗に着飾ったご婦人たちばかり、踊ったり話したり、何かのセレモニーのよう。やっと片言の英語を話す人を見つけて聞いてみたら、子供が生まれたお祝いだという。この家が特別裕福なのか、それともこれが一般的なのか、残念ながらそこまでは聞き出せなかったが、みんなのなれた様子からすると、それほど特別でもないようであった。一般に子供は大事にされているように思えた。
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もしかしてこれは、当事者を離れた景色なのかもしれないが、私は、人の幸不幸というのは、決して絶対的な序列の中にあるのではないと思っている。 あくまでそれは、その人固有の基準値をゼロとした、プラス・マイナスの中にあるのではないだろうか。 だから、私一人の基準の中では、あの人この人を比較することは出来るとしても、その基準そのものの異なる、具体的なあなたと私では、まるで《 白いと甘いは、どちらがやかましい?》と聞くような、物差しのない比較のように私は思う。 だから、「頑張れ!」という応援は好きだけれど、「可哀相」という同情は、するのもされるのも好きではない。なんだかどちらも、バカにしバカにされているような、対等でないものを感じてしまう。 「じゃぁ、モデルになってくれ。」 勿論そんな英語は通じなかったろうけれど、このコインが決して「お恵み」ではなく、労働の対価だと自分に言いきかせたかったのは、ひょっとして勤勉を価値とする日本的なものだったのだろうか。 もしかして全てをアッラーの恵みと信じる人たちからは、《 ええい、いいかげんにせよ、この不信心者、そのコインも元々は、アッラーのお恵みではないか、それをお前からのお恵みだなどと、自惚れもはなはだしい!》と、井筒氏訳のコーランの口調で一喝されるのかもしれない。 彼らの去った後、一人口にするサンドイッチは、なんだか舌にざらついていた。 ところで、このデンバ・ディォプ通りをうろついていたのは、ほかでもない、タンバクンダの列車駅を確かめたかったのである。 別にここまで来て今さら列車に乗るつもりもなかったが、駅は一応、タンバクンダの目印の一つ。 ところがそれがなかなか見つからない。あちらだと言われて、しばらく歩いても、それらしきのは見あたらず、だんだん街から離れていく。地図はもっと近いはず。 通りかかった人をつかまえて「パルドン ウエ ラガール?」(駅は何処と聞いたつもり)と聞いてみる。と、今度は逆の方を指差された。通り過ぎてしまったようだ。 そんなはずはないともう一度戻る。でも、ない。利用するわけではないのだから、諦めればよいものを、簡単なことが出来ないと、どうも意地になって抜けられない。 なんで無いのだ! また戻る。 そんなイライラが治まったのは、いったり来たりを2度3度繰り返したあとであった。 分らないはずである。駅は大通りを背にして建っていたのだ。妙な建て方だ。予期せぬ大通りが後からでも出来たのだろうか。駅の入り口は線路の側のみで、通りの側からは、まるでアパートか何かの建物の裏側のように、駅表示もなければ入り口もない。 もっとも線路側といっても、大半はだだっ広い広場。その広場では、若者達が喚声と砂煙の中、ボールを蹴ってあちらにこちらに走り回る。 | ||
駅付近は、線路というより、だだっ広い広場。若者達がボールを蹴って走り回る。正面に見えるのが駅かと思って行って見たのだが、どうも車庫のようだった。
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やはりサッカーはここでも大の人気のよう。けれどホテルに帰って立ち寄った食堂のテレビで、従業員もついつい手を休めて見入っていたものも、エキサイティングであった。 広いグランドの上につくられた、直径25mほどの大きく丸い「土俵」の上で、ガッチリしたレスラーのような体格の男2人が、組み合って相手を倒そうと必死になっている。 アッ、相撲だ! 四つに組んだその格好、ちょうど日本の大相撲。けれど突如としてその一方が、組み手を振りほどいたかと思うと、急に激しい拳の殴り合いが始まった。 日本の相撲にも時おり張り手の応酬というのがあるが、あれが拳で行われている。Lutte(ルゥトゥ)と呼ばれる格闘技らしい。 押し出しはないけれど、肘や膝が地面についたら負けだと説明してくれたから、その点は相撲に似ている。けれどなんだか、とても殺気立っていた。 プロレスには、どうしても双方了解のショー的オーバーアクションを感じて、興醒めしてしまう私ではあるが、目が血走っているような感じのこの格闘技の、少々危ない迫力に、始めて見たせいか、思わず魅入ってしまっていた。
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