第1話 静かなるかなラオス | 第2話 ビエンチャンの表情 | 第3話 ラオスの桂林 |
第4話 雨のルアンパバーン | 第5話 ルアンパバーンの托鉢 | 第6話 お土産 |
第7話 私のお気に入り | 第8話 道は悪くはないのだけれど | 第9話 でしゃばらない風景 |
第10話 ムアンシンの思い出 | 第11話 ルアンナムターのもののけ |
朝露がまだその風に残るような、しっとりと静かなラオスの国境。裾に文様の入った、紺のシン(巻きスカート)をなびかせて、ゆっくりと広場を過ぎるラオスの女性。
その先には、朝食の準備を整えた屋台が、お客を待っている。まだ7時の半ばを過ぎただけだからというわけでもないのだろう、あの騒然としたカンボジアの国境ポイペトからは、想像もつかないのどかさ。まるで人里離れた村に迷い込んでしまったかのよう。
タイとの国境のメコン川にかかる友好橋を同じバスで渡った15人ほども、入国の手続きを済ませて、皆それぞれ、そのラオスの静けさの中に吸い込まれていく。
先ほど挨拶をした彼は、ここでビザを取るらしく、まだ窓口で手続きをしていた。
私はその彼を待って、柱にリュックをもたせかけ、まだ着ていた薄でのセーターを脱いだ。
そう、バンコクは暑かったのだけれど、夜も深まるにつれ夜行列車の中はけっこう涼しくなっていた。
昨日の午後の4時、バンコクのカオサンからファランポーン駅へトクトク(自動3輪)で行こうと、ドライバーと交渉をしたのだが、なかなか交渉が成立しない。
宿の人は30バーツくらいだと言っていたが、40バーツ(\100)でも首を縦に振らなかった。どうもバンコクのトクトクは、はたしてそれが相場なのか、それともふっかけられているのか、いまだによくわからない。
結局、じゃやめるよとバスにしたのだが、そのバスもなかなかむつかしかった。
教えてくれた場所にいたつもりなのだが、少しずれていたのだろうか、目指す番号のバスが来ても止まってくれない。
2台目、あわてて飛び出したつもりだったが、リュックを担いでいる間だけ、道路に出るタイミングが送れたのか、惨めにもとり残されてしまう。
3台目、ようやくかなり早めに車道に飛び出し、手を振って、やっと止めることが出来た。
駅まで5バーツ(\15)。何ということはないのだけれど、トクトクのアンちゃんと掛け合った後では、少々愉快になる安さ。
バンコクの夕方は、例によってかなり渋滞していたけれど、駅で軽い食事をすませ、ホームに出たのは、出発予定の1時間も前であった。
けれどもう列車は8番線に停まっていて、私の車両は一番遠い先端。やっと歩いて乗り込んでみると、寝台は予想に反して縦方向。となると、上段は全く窓のない閉鎖空間になってしまう。
11月といっても日本の夏の暑さのバンコク、これはたまらないともう一度リュックを担いで切符売り場に戻り、下段のベッドに変えてくれと申し込んだのだが、残念にも「いっぱいです」と断られてしまう。
これは不快な1夜になるかと覚悟を決めたのだが、意外や意外、3時にトイレにおきた時は、少々寒くてリュックから薄いセーターを引っ張り出していた。
18:30バンコク発の列車は、翌朝ノーンカイ駅に着く。そこから40バーツのトクトクで国境へ。そこで手続きをすませ、タイを出国してから、10バーツのバスで、メコン川にかかる友好橋を渡り、ラオスに入国する。 |
その列車がタイ側の国境、ノーンカイに着いたのは、朝の7時10分。
出国手続きで意味不明の10バーツをとられ、そしてメコンを渡ったこちら側でも、これまた意味不明の10バーツをとられてしまう。「何?」と聞いても要領を得ない。
少々不満に手続きを済ませたのだが、この国境の柔らかい静けさにつつまれて、いっペンにラオスが好きになってしまう。
「ちょっと、休んでいきませんか?」
歳は40くらいであろうか、ビザの手続きを終えて出てきた彼と、広場の端の屋台に腰を下ろした。
ラオスにはビールを飲みに来たという彼、「今回はカンボジアに行こうと思って、バンコクまで来たのだけれど、やっぱりまたこちらに来てしまいました。」と笑っている。彼もラオスの魅力にとりつかれた一人なのだろう。
さっそくビールを注文し、「昨夜は寝台がとれなくて、座席で夜明かしというのはやっぱり疲れました。」と美味しそうに喉をならせた。
私は屋台の端で食べているラオスの人にならって、同じものを注文したのだが、そのご飯がまた気に入った。
聞くところによると、カオニャオという、もち米なのだそうだが、日本のジャポニカ米に似て、とても美味しい。
カオニャオ(右)は私のお気に入り。ティップカオと呼ばれる籠に入って出てくる。正面はラオスのビール。写真はルアンパバンのレストランにて。 |
それが、ティップカオという、直径12〜13cmの筒の籠に入れられて出てくる。みんなそれを片手で、ゴルフボール大に丸めて口に入れる。時にはおかずの煮汁にひたしたりして。
見よう見まねでやってみた。手に粘つくかと心配したのだが、不思議と手はさらっとして何もべとつかない。
ためしに日本で、スーパーで買ったもち米の赤飯を、同じように手で丸めて食べてみたら、大胆にぎゅっと握ると、これまた手に全然くっつかない。ちょっとした発見である。
そんな食べ方も含めて、私はすっかりこのカオニャオが気に入って、ラオスではどこの食堂でも、たいがい「カオニャオ」「カオニャオ」と言っていた。
「いいね、ラオスは。」
いいのはそのラオビールの味なのだろうか、それともこの、のどかさなのだろうか。目を細めて遠くを見る彼。
しかしこんなラオスに米軍は、あのベトナム戦争の時、なんと200万トンを越える爆弾を投下したという。それは第2次大戦で米軍が、欧州戦線と太平洋戦線に投下した総トン数に匹敵すると言うから驚きである。
ビエンチャンの子供達。右手の並木の向うはメコン川。街でも子供達は裸足が結構日常のよう。 |
タートルアン。
ビエンチャンのマーケット、タラート・サオを出て、北東へ3kmほどだろうか、1日10,000キープ(\100)で借りた自転車を、のんびり走らせると、これなら歩けたのではと思えるほどあっさり着いてしまう。
タートとは「塔」で、ルアンは「大きな」の意という、高さ45mの金色の大塔は、真っ青な空の下で、目にまぶしく輝いていた。
タートルアン。中央の大塔は一辺がほぼ60mの基壇の上に建つ。旧暦12月の満月の日を中心に行われるタートルアン大祭では、夜にもイルミネーションが灯され、多くの参拝者が家族連れで訪れるのだそうだ。 |
今を遡ること2,300年、インドで修行をした5人の僧が、持ち帰った仏舎利を納めたのがその起源というが、今の姿は、70年程前の再建のものとか。
けれど5,000キープをはじめ、各種お札の図柄にもなって、ビエンチャンのみか、ラオス全体のシンボル的寺院でもある。
1,000キープ(\10)の入場料を払って入った中の、塔の正面の仏像は、そんなに古くはなさそうであったが、じっと見ていると、その大きく山形をなす眉毛のせいだろうか、ちょっとおすましさんに見えてきてしまう。
といっても、ツンとしているわけではない。こちらからちょっかいを出したくなるような親しみを漂わせて。威圧的なところが全然ないのは、ほぼ等身大のせいでもあるのだろうか。
そんな表情は、自転車で戻ったメコン川のほとり、ワット・ホー・パケオの仏像にも感じてしまう。
あのバンコク、ワット・ポーのエメラルド仏が、1778年にシャム(タイ)の軍隊によって戦利品として持ち去られるまでの約200年、この寺に安置されていたといういわくつきの寺院。
なんだかその一事をとっても、ラオスとタイの、あまり友好的でない過去が見えてきそうであるが、それはさておき、こちらのテラスをとりまく仏像達の表情も、少しデフォルメされているようにも思えたが、同じようにちょっかいを出したくなるような親しみを漂わせていた。
こんな仏像の前で、毎日祈りを捧げていたら、どんな気持ちの世界に住むことになるのだろうと想像するのも楽しい。
仏像の顔を見るのは、私にはとても面白い。その国、その土地、その時代で、それぞれ微妙に違い、じっと見ていると、気持ちまで伝わってくる。 写真はビエンチャンのワット・ポー・パケオにて。 |
宿に帰ってから、夕陽がメコンを染めるまで、ぶらりと訪れた川沿いの3kmほどは、そんな想像への答えだったのだろうか。
バナナを焼いて売るおばさんも、夕方の祈りに出かける御婦人方も、少し恥ずかしそうに、けれど好奇心いっぱいに寄って来る子供達も、通りを横切るニワトリさえも、見知らぬ異国の私なのに、手の触れる距離までも近づけて、気持ちにも身構えるようすのないビエンチャンの人達。
カンボジアの女性のようにニコッと顔を崩す華やかさとは少し違って、どちらかというと、漢の女性を思わせる、少し沈んだ所があるように私には思えたが、決してあの固い角はなく、むしろその静けさがしっとりと心地良い肌触りのように感じてしまう。
そう、カンボジア女性が「にっこり」なら、ラオス女性は「しっとり」、ついでに数年前に訪れたベトナムの女性を同じ語呂合わせで言うと「しゃっきり」。それが私のつけたキャッチプレーズ。
勿論ほんの上辺を見ただけの私の印象だけれど、なんだか国民性の一端でもあるようで楽しい。
メコン川沿いの一画の子供達。満面の笑みで、通りかかった私をむかえてくれる。右端の女の子の指は、おしゃれなポーズなのでしょうか。やってみたいけど、恥ずかしいけど…。 |
次の日、途中でサンドイッチを買いこんで、タラート・サオのバスターミナルから、仏陀パーク行きのバスに乗り込んだ。
軽く焼いた30cmほどのプランスパンに、キューリ、ねぎ、玉ねぎ、パセリ、ハム、ベーコンがぎっしり詰まって、6,000キープ(\60)。
その少し多すぎる朝食を、混みはじめたバスの中で一人ムシャムシャ食べていた私も、ちょっと変わって見えたかもしれないが、前の女性が座席で日よけに傘を開けたのにも驚いた。
すし詰めというわけではなかったけれど、体触れ合うほどの混雑のバスなのに、誰も顔をしかめるでもなく、しばらく傘は開いていた。
そんなバスに1時間は揺られたと思う。3日前、タイから入った時も、ここは通ったはずなのに、国境の友好橋までは思ったより遠かった。そこから更に7km程過ぎた所が仏陀パーク、バスを降りるといやににぎやか。
青い空の下に、静かにとり残された仏像たちを想像して来たのだが、ちょうど何かのお祭りのようで、いろんな民族衣装で着飾った少年少女でにぎわっていた。
中に設けられた仮設ステージでは、歌と踊りのコンテストが催され、出番を待つ緊張の顔、終わってリラックスの顔、応援の顔、顔…。
ちょっと予想はずれの思いで園内をまわっていたのだが、むしろこの公園にはこんなにぎわいの方が似合うのかもしれない。
ちょっと予想と雰囲気の違った仏陀パーク。それでも右下の老人は4苦の一つ「老い」を現しているのでしょうか。中には、バッタの足を引っ張っているのやら、ひょうきんな顔のやら、とても愉快な雰囲気の公園。 |
仏像のある空間というと、どうしても静かな雰囲気をイメージしてしまうのは、どうも私のかってな思い込みのようだ。この公園はむしろその逆。まるで訪れる人を楽しませる為に、道化役まで引き受けてしまったような像もある。
そんなに伝統あるものとも思えなかったが、仏像をこんな愉快な世界の演出者にするとは、ちょっと私には思いもつかないこと。
ひょっとして私がその宗教的意味を知らないだけかも知らないけれど、こんな側面に出会ってしまうと、あの親しみあるワット・ホー・パケオの仏像の顔も、この世界に一脈通じるものがあるように思えてしまう。
出番はこれからだったのでしょうか?仏陀パークの可愛い演奏者。 |
バンビエン、ラオスの桂林。 |
別にそれぞれの楽しみ方があって良いのだけれど、なんとなく気に入らなかった。
ビエンチャンの北180km、ラオスの桂林といわれる切り立った山々の姿が美しいバンビエン。
朝の7時前、ビエンチャンの市場、タラート・サオのターミナルで、バンビエン行きのバスに乗り込んでいると、昨日メコンの川沿いのレストランで知り合った青年が乗り込んで来た。
もう一人の若者を加え、日本語文化の3人。バンビエンまでは7,000キープ(\70)、ほんの3時間半ほどだけれど、道連れがいると旅も楽しい。
「うん、意外に美味しい。」
ちょっとした山越えの後、休憩したバスに売りに来たスズメのはさみ焼を、5,000キープ(\50)で買って3人で食べた。はじめはその無惨な姿に、少々顔をしかめたものの、食べてみて口元を緩める。
おそらく一人では買わなかったであろうけれど、そんな味の挑戦をしてみたくなるのも、連れのいる旅の楽しさ。
10時半、バスは広々とした飛行場跡の広がる、バンビエンの停留所前に着いた。
少し黒っぽい砂利が堅く敷き詰められた広大な跡地。ベトナム戦争激しい70年代、このバンビエンが北部山岳地帯攻撃の拠点になったのだそうだ。
知らなかったのだが、ラオスでは勇猛なモン族の人達が、アメリカの身代わり兵として利用され、膨大な戦死者を出し、そして見捨てられたとか。
なんだかそんな過去を象徴するかのように、日本でなら飛びつきそうな広大な平地が、使い捨ての容器のように、ただ邪魔なだけと言わんばかりに見捨てられていた。
美しい山並みを背に広がる米軍の廃棄物、バンビエン飛行場跡。手前の黒っぽい道路のようなのが、滑走路の跡。 |
宿を求めてそんな広場の端に見える、白い建物に行ってみると、案内された部屋は4ドル。少々窓が小さいことを除いては、なかなかいい部屋で迷ったのだが、まだお昼前で時間もあることだしと、別のを探すことにした。
窓も大きく気に入った部屋は、5ドルで少し村の方に入ったところに見つけた。このあたり、清潔で泊り心地の良いゲストハウスが、けっこう増えてきているようだ。
バンビエンは、村の西、歩いて10分ほどのところにソン川が流れ、その向こうに、中国の桂林を思わせる美しい山々が、切り立った稜線を幾重にも重ねている。
宿の自転車で5分も乗ると、そのソン川にかかる竹の橋に出た。手作りで組み立てたのであろうその橋は、浅い川床を選んでいるのか、ぐにゃりと曲がって向こう岸へ。いかにもラオス。
その数十メートル川下を、車体近くまでジャバジャバと水に沈めたトラックが、唸りを上げている。この川にトラックの通れるような橋はない。
ドライバーは川底の起伏を熟知しているのか、私には同じ水面に見える川面を、ぐるり弧を描いて岸に向かう。
ソン川にかかる竹の橋。途中の小屋で通行料を払う。1,000キープとあったが、ラオスの人に習って500キープ(\5)を出したら、そのまま通してくれた。増水期だったのか、橋は途中で水没していた。 |
そんなバンビエンの素晴らしい景色を撮りたくて、もう一つの竹橋のある市場まで行ってみたのだが、美しい景色を楽しめそうな岸辺は、隙間なくレストランなどに占領されてしまっていて、川辺に下りることが出来ない。
ようやく市場からの道に出て、川岸に下りレストランの方を見れば、広々とした庭で、欧米の若者がリゾート気分を楽しんでいた。
今にもずり落ちそうな黒いズボンを腰にひっかけ、黒髪をなびかせながら、時ならぬ声を発してフリスビーの輪を追う上半身裸の若者。川に浮かべたタイヤの上で、キャーキャーと流れ過ぎる声。
何も私の口を出すことではないのだけれど、どうしても私には、ラオスを楽しんでいるようには見えなくて、少し気に入らない。
市場から帰る村の人 |
よく日本でも、何から何まで都会の便利さを運び込んで、アウトドアの生活をエンジョイなどと宣伝しているのを見かけるが、ついつい「インドアじゃん」と突っ込みを入れたくなる私。
彼らのリラックスぶりも、ラオスをではなく、ラオスに確保した欧米を楽しんでいるように私には見えてしまう。別にそれはそれで悪くはないのだが、どうも好きになれない。
そんなことを、ソン川沿いの彼らの姿に思ってしまったのだが、旅も終わる頃、チェンマイで再会した日本の若者は、「バンビエンはドラッグを楽しみに行くところですよ。誰もタイヤに乗っての川下りを楽しむだけに、あんな所まで行きませんよ。」と言っていた。
そう言えば、フリスビーの彼も、どことなく焦点の定まらない感じであったが、ひょっとしてそんな退廃的なムードが、美しい自然の中で、ちょっと腹立たしいような違和感を、私に感じさせたのだろうか。
楽しい学校の休憩時間。どこの国でもゴム飛びは、女の子の人気の遊び。そういえば、あまり男の子がゴム飛びで遊んでいるのを見かけません。どうして女の子なのでしょう? |
確かに「ヤサホーン」とある。けれどここは見るからに一流のホテル。彼女は確か1泊50,000キープ(¥500)のゲストハウスと言っていたのだが…。
「アニヨンハセヨ」残念ながらそれが唯一の私の韓国語。
バンビエンの同じゲストハウスのテラスで、ハングル文字のノートをとっていた彼女、お隣の国なのに、やむなく話が英語になってしまうのはちょっと寂しい。
けれどここ数年で日本人の韓国観がゴロッと変わったのは、とても嬉しいところ。やはり一見ソフトタッチに見えても、社会の力の本体は、軍事でも政治でもなく、文化なのだろう。もっとも、それを支えるのは、政治だ、経済だ、という議論は聞こえてきそうだけれど…。
「宿はどうでしたか?」
ルアンパバーンから来たという彼女にそう聞くと、そのサヤホーンゲストハウスがお勧めだと地図を書いてくれた。確かそのあたりを歩いているはずなのだが…、どう見てもそれがこのホテルとは思えない。
仕方がない。この辺で安そうなホテルを行き当たりばったりに探してみよう。
雲に覆われるバンビエンの山々 |
朝の9時、バンビエンの飛行場跡のバス停を出たルアンパバーン行きは、低く垂れ込めた雲に切り立った山々という、墨絵のような幻想的な景色を窓の外に展開していたが、やがて綿の中のような、ほとんど視界ゼロの中に突入してしまった。
その中を右に左に蛇行するバス、片側の断崖。心配したらきりがないのだが、席が後方ということもあって、皆が安心しきっていると妙に落ち着いていられたのは、ひょっとして危険な心理だったのだろうか。
途中昼食の休憩をとり、やがて高度も下ったのか次第に視界は開けたものの、今度はポツポツと小雨の降り始めた午後の4時、バスはルアンパバーンの南ターミナルに着いた。
バスは途中の村にて昼食の休憩。この頃は、少し高度も下がったのか、視界は開けたものの、雨が降り出す。 |
さてどうしようと考える間もなく、男が来て、ゲストハウスまでバイクで案内すると言う。
空模様も怪しいこともあり、とりあえずそれも良かろうと、バイクの後ろにまたがったのだが、案内された宿は、部屋は良かったものの、どうも王宮のある中心から遠いのか、そのあたりを聞いても言葉を濁している。
下手に妥協して、いちいち乗り物に乗らなければ観光できないというのもいただけない。バイク代のみを払って、丁重にお断りし、自分で探すことにして外に出た。
ところが雨はかろうじてやんではいたものの、バスターミナルからバイクに乗ってしまったため、現在地がどこなのかさっぱり見当がつかない。
とりあえず目印になる王宮まで行こうと、メコン川を目指して、北西へ北西へと歩いている間に、すっかり遅くなってしまった。
高さ150mの丘プーシー、「仙人の山」の意味だそうである。王宮前から328段の階段を登る。向うに流れるのは、メコン川。 |
あのベトナムが南北を統一し、カンボジアをポルポトが制圧した同じ1975年、ラオス愛国戦線が全土を制圧し国王が退位するまで、途中ビエンチャンに首都が移ることはあっても、600年を越えてラオス王朝の中心的都市であったここルアンパバーン。
4時過ぎ街に入った時は、かなり大きな街に思えたが、夕闇と共に急に人影も少なくなってしまったようだ。
私は、建物の密集している方にホテルもあるだろうと見当をつけ、王宮のあるシーサワンウオン通りを曲がった。
再び雨の降り始めた古都ルアンパバーン、その避けようもなくぬかるむ道に、急激に暗さをました空が、所々の小さな灯りさえも、押しつぶしそうにのしかかる。早く探さねば、ホテルなのか一般の建物なのか、見分けがつかなくなってしまう。
それに特別の行事期間ではないと思うのだが、手ごろなゲストハウスはもう3軒満員で断られてしまっていた。
次の一軒、やっと空き部屋があるというが、見せられた部屋は、8ドルと高い上に、窓が小さく、なんだか圧迫されそう。妥協しようかとかなり迷ったのだが、頑張ってもう少し探すことにした。
ところが、次の一軒はまたも満員、そしてその隣も。ラオスの夜はとても暗い。これは失敗したかなと後悔し始め、次に空き部屋が見つかれば、もう文句は言うまいと心に決めた7軒目、なんと部屋の2面が大きな窓で、ホットシャワー付き6ドルの部屋が見つかった。宿が気に入ると、その町が楽しい。
道路整備の労働者。大通り以外は、雨でぬかるむ道が多かった。 |
ところで安心するとお腹の虫も元気になる。そう言えば夕食はまだ食べていない。
宿のあたりは静まり返って入るものの、王宮近くへ行けば、まだ開いているレストランもあるだろう。もしなくても、どこかで、食料を仕入れてこようと、懐中電灯を持って、外に出た。
11月、小雨ちらつくルアンパバーン、気温は18℃湿度80%、カッパ代わりにゴーテックスのコートを着ていても、少々肌寒い。
幸いシーサワンウォン通りに出て、そんなに遠くない所に、旅行者向けのレストランが開いていた。例の私のお気に入りのカオニャオ3,000キープ(\30)、野菜炒め12,000キープ(\120)、お茶2,000キープ(\20)。
すっかり満腹し外に出ると、今度はかなりの雨。そんな中を、リュックを背負ったヨーロッパ人3人が、宿を探してさまよっていた。さぞかし心細いだろうと近づくと、バンビエンで見かけた彼。
「私も少し前に来たばかりですが、見つけた宿は、6ドルでホッとシャワー付き。来てみますか?」
「ありがとう」
後ろの女性2人の、まるで天の助けに出会ったような安堵の表情に、思わず、「空き部屋があるかどうか、確かなことは言えませんけれど…。多分大丈夫だと思いますよ。」と付け加える私。
それは虫の知らせだったのだろうか。10分ほど、大通りをそれて右に左に、着いたホテルは、「満席です」と彼らを断ってしまった。
「いいです、いいです、他を探しますから。」
と言ってはくれたものの、雨の闇に消える彼らの後姿を見送って、なんだか親切ぶってよけい面倒な所に連れて来てしまったようで、声をかけたことを後悔していた。
世の中、裏目に出ることもあるのです。
王宮博物館。この王宮は、1909年、当時ラオスを植民地支配していたフランスが、ルアンパバーン王朝を保護していることを印象付ける為に建てたのだそうです。 |
考えてみれば我々の毎日は、闇の中を大股で歩いているようなものである。
果してその踏み出す足の下が、確かな大地なのか、それとも奈落の底なのか、明日からの情報は何もない。なのに容赦なく明日はやって来る。
自ずと明かりは、こちらから照らさざるを得ない。踏み出すその足の下に虚像を投じて、それが確かに道であると信じて。そう、「信仰」である。
その形が何であれ、その名前が何であれ、意識していてもいなくても、人は「信仰」なしには生きていけない。日本人に多い『まわりも皆そうしているから』という安心も、一見信仰などには見えなくても、そんな形の一つといえよう。
まだ夜も明けきらぬルアンパバーン、少し肌寒い薄暗がりの古都、何処からともなく現れたお母さんたちは、持参した布を地面に敷き、喜捨の食べ物の入った鉢を脇に、脱いだ履物をきちんとそろえ、あちらに、こちらに、正座を始める。
1975年、政権を握った人民革命政府は、一切の生産活動に参加しないテラワダ仏教(上座部仏教)の出家僧を、生産活動こそ人の本質とするマルクスの社会観では理解出来なかったのだろう、この朝の托鉢を禁止し、仏教の弾圧を始めたという。
けれど托鉢が禁じられて困るのは、何も僧だけではなかった。いや、むしろ不安に駆られたのは、在家の人達だったのかも知れない。
ひたすら戒律を守る出家僧に対して、物質的支援をすることこそ在家の衆の信仰の形。明日を照らし、それへと続く今日に意味を与える形。
その手段を奪われては、額に汗する今日の労働に何の価値を感じえよう。手に入れる「物」に何の未来を実感しえよう。
僧のみならぬ、多くの民衆からの強い抵抗に、やむなく政府は托鉢の禁止を撤廃し、仏教との共存の道を模索し始めたのだそうだ。
お隣の国のように、「古い考えの染み付いた人は、皆殺しにしてしまえ」とならなかったことは、一見あたりまえのように思えても、カンボジアを旅した後では、胸を撫で下ろしたくなる安堵の光景に見えてくる。
僧の差し出す鉢に、うやうやしく食べ物を入れる女性達。 |
3人、5人、10人…、ルアンパバーンの中心シーサワンウォン通りをワット・シェントーンの方角から音もなく近づく朱色の僧達。生まれたばかりの朝は、まだ夜を引きずってはいたけれど、その衣の色は、まるで闇を照らす灯火のように鮮やか。
カオニャオ(もち米ご飯)だろう、持って来た鉢から、一握り一握り、うやうやしく差し出す彼女達。
衣の下の肩から、朱色の布紐で吊るした金属製の丸い鉢の蓋を開けて、それを無言で受け取る僧。裸足のその足を、ほとんど止めることなく、隣へ隣へ。
黙々と喜捨を受ける托鉢の僧。 |
彼らの食事は、一日二回で、午後はお茶以外は口にしないという。街の人々の手によってその鉢に入れられた食物が、その日のすべてなのだろう。
次から次へ、次から次へ、朱色の衣が目の前を過ぎて、気がつけば僧は、40人にも50人にもなって、通りの先へと続いていた。
その大集団が通り過ぎると、おもむろに立ち上がりかたづけ始めた彼女達、何の合図もなかったけれど、もう托鉢の列が終わったことを知っているのだろう、三々五々家路へと消える。
見渡せば古都ルアンパバーンは、彼女達の喜捨によって灯された一つ一つの明かりで、街全体が照らされたかのように、夜明け前の薄明かりから、明るい今日に変わって、くっきりとその姿を描き上げていた。
ようやく空も明るくなった7時頃、托鉢を終えた大集団は寺への帰途につく。 |
支度を始めた食堂で、朝食にうどんを食べてから、ラオス寺院の中でもっとも美しいという、ワット・シェントーンまで行ってみた。王宮からちょうど1kmほど、メコン川とカーン川に挟まれた行き止まり。
世界遺産ルアンパバーンの象徴ともいえるワット・シェントーンは、さすがに優雅。幾重にも重なった屋根が、大きく裾を広げている。
ルアンパバーン様式と呼ばれるそうだが、タイの寺院にもあったような天への突起は一部ついているものの、むしろこちらは穏やかに感じてしまうのは、屋根の曲線のせいだろうか。
ラオス一その姿が美しいと評価される、ワット・シェントーンの雄姿。幾重もの屋根のカーブがとても優雅。 |
本堂の中の仏像の表情も、宇宙の真理を諭すというより、柔らかくおとなしい心の世界を表現しているように私には思えた。
そんな仏像を眺めて、誰もいないお堂で、ひとり時を過ごし、出口へと振り返れば、堂内の暗さがまるで額縁のように縁取った眩しい軒先で、一人の青年僧が、若い女性の質問に答えていた。
他に人の姿のない静かな寺の片隅では、ちょっとロマンチックにも見えるそんな光景。失礼ながら「禁断のロマンス」などという写真の表題を想像してしまっていた。
ところで、テラワダ仏教の僧達は、生産活動には参加しないと聞いていたが、大々的に寺院の外回りの草刈をしたり、寺院の下水路の工事を総出でしていたりと、自分の寺周りとはいえ、結構奉仕活動のようなのを見かけた。
また、南のワット・タートルアンでは、衣を着た僧が、軒下に机を並べた教室で、2人の女の子に英語を教えていた。
大乗仏教では何ともない光景だが、テラワダ仏教の僧達も、古くからそういう活動はしていたのだろうか。それとも社会主義政権との、妥協の姿なのだろうか。
ワット・タートルアンの片隅で、子供に英語を教える僧。黒板には、What is number seven? It is a doll…など、質問と答えが書かれていた。持っている教科書には絵が載っているのでしょう。 |
「ヘイ、ヘイ、」
台の上に座り込んだ女性が、並べられた美しい布に囲まれて、手招きをしている。
王宮から数百メートル南西に下った郵便局斜め前、町の小さな公園ほどの広場に、モン族の人達が店を出している。
店といっても、角材を柱に、トタン屋根をつけた程度の簡単なもの。主にルアンパバーンを訪れる旅行者を相手の店である。
一般に静かな印象のラオス女性ではあるけれど、さすがにここは海千山千のつわものぞろい。錦糸が織り込まれた美しい文様の布が20ドルだと言う。
ラオスの布は外国での評価も良く、かつて日本の小渕首相も、ここラオスを訪れた時、記念品に送られたのだとか。
はじめ20ドルと言っていたのと同じ布。中央の赤い布はモンの広場では8ドルまでまけると言ったシン(ラオスの巻きスカート)用の布。 |
幅1m長さ1.8mくらいの、幾何学模様も美しい布を、ひらりと店先に開けてみせる彼女、20ドルといえば国際価格では安いのかもしれないが、ラオスの相場ではかなり高いような気がする。
「高いよ」いかにも相場の値段を知っているようなふりをして立ち去ろうとしたら、離すものかと呼び止められてしまった。
歳の頃は40を過ぎたあたりだろうか、そう言って笑顔を見せる。その笑顔の向うの、駆け引きの顔を想像しながらねばるのも、楽しい交流。
15ドルなら、良いかなと心動かされたけれど、本当に絹かどうかが心配で、布を見るふりをして手にとりながら、布の縁をぐるりと飾る房の糸を一本引きちぎって指に隠した。
そもそも何処が発祥の地かは知らないのだけれど、インドから東南アジアにかけて、巻スカートが広く分布している。
各国で微妙にやり方や、男女の別はあるものの、インドでは男性が、ミャンマーでは、男も女もかなりの人が常用していた。
左から、インド、ミャンマー、ラオス、ラオス、そしてインドネシアバリ島の絵画(現在は?)。ラオス女性のは祭り用なのでしょう、街で見かけるのより、鮮やかなシン。 |
他にインドから東南アジアにかけて共通する文化に、何があるだろうと考えると、第一に思いつくのは仏教やヒンドゥーの神々。
とすると、その同じ流れに乗っかって広まった、インド発祥のファッションではなかろうかと、怪しい想像を楽しんでいるのだが、ここラオスでも、女性のほとんどが、シンと呼ばれる巻スカートを愛用している。
ひょっとして、ラオス女性が「しっとり」と思えたのも、その踝まである落ち着いた色調のシンが一役買っていたのかもしれないが、なんだかそれ以上に、ラオスの伝統までもそこに凝縮させているように思えてしまう。
そのシン用の布は8ドルまでまけるという。正直かなり迷ったけれど、土産はこの布にしようとは決めたものの、商売熱心な彼女のこと、明日いないということもあるまいと、呼び止める声を振り切って、モンの広場を出た、抜き取った糸を握り締めて。
その糸を宿でよく見たところ、端が無数の細い糸にほつれている。ライターで燃やしてみると、チリッと一瞬にして燃え上がった。
確か以前に絹で試してみた時も、こんな感じだったように思うが、あの蛋白を燃やした時の臭い匂いを感じない。
とはいうものの、あまりにも少量過ぎて、自信のもてないまま、翌日ラオスの人たちでにぎわう市場タラート・ダーラに、昨日とまったく同じ布がどっさりと積まれている布屋を見つけた。
ルアンナムターの市場タラート・ダーラの布屋さん。 |
さっそく入って「絹ですか?」と聞くと、「ミックス」とあっさり宣言されてしまう。
ラオス語はよくわからなかったけれど、シルクとコットンを英語で言ってくれた。ほぼ半々のミックスらしい。しかも値段は何の交渉の労もなく、60,000キープ(\600)を電卓に表示して見せた。
それに裾に文様の入ったシン用の布は、模様部分が少ないせいか、シルク100%で35,000キープ(\350)だという。モンの広場で値切りに値切った値段の、約半分。
それになによりも、綿と絹の混合とはっきり言ってくれるところが嬉しい。
世の中、良いことばかりでは出来ていないのだから、良い面・悪い面、両方明示してくれる人に私は安心する。
どちらかというとぶっきらぼうな女将さんではあったが、すっかり気に入って、ラオス土産をしっかりと彼女から買い込んでいた。
そのタラート・ダーラからぐるりと回って、帰る途中、ちょうどおにぎりを平たく押しつぶしたようなご飯が、幾つも木の枠にきちんと乗せられて路面に置かれていた。
よく見るとカチカチに干からびている。それに人が食べるにしては、通りすがりの人の靴の泥もひっかかりそうな置き方である。
けれど、その並べ方といい、いつも使っているような木枠といい、何かの目的で並べられているには違いない。
何だろうと思って、しゃがみ込んで見ていると、「ドライフード」と後ろから声がした。みると中年の4人連れ、高級なビデオやカメラを首からさげ、土産らしい包みを手に、通りを過ぎていく。
ラオスのドライフード |
顔かたちからは、ラオスの人のようであったが、少々服装も違って、観光客のようでもある。そんな不思議を彼も知っているのか、「我々はアメリカから来ました」と言って、急ぎ足で仲間を追った。
1975年の革命で、30万を越える人々が、国外へ難民となって脱出したという。
身につけた彼らの豊かさは、今のラオスを否定しているようではあったけれど、ついついラオス文化を説明したくなるところに、心の底の隠しきれないラオスへの愛着を感じてしまう。
ひょっとして彼らも、そんな難民の一員だったのだろうか。
ところで後で知ったのだが、ラオスの人たちは、朝夕二回モチ米(カオニャオ)を蒸して食べ、余った分は天日に干して保存食にするらしい。
昔はそれを長旅や戦争に持っていったとか。口に入れてしばらくすると、蒸したてと変わらない状態になるのだそうだ。一度試してみたいものである。
つづく
椅子では低過ぎて、小さな体に合わないのでしょうか。可愛いお尻を垣根にちょこんとひっかけて、夢中で何かのお勉強中。 |
ルアンパバーンの夜店。一般にラオスでは夜の屋台はほとんど見かけなかったけれど、ルアンパバーンでは、少々遅くまで明かりを灯しているところも。 |
ムッとする蒸気に包まれて、人息が聞こえる。確かに間近に人がいる。けれど全く見えない、何も、真っ暗である。
いや、手の届く少し先あたりに、2cmほどの赤いものが頼りなく宙に浮かんではいる。けれどそれは明かりというより、単なる赤い糸。
それでも目が慣れれば、少しはその役をするのだろうか、皆がおとなしく座っているのだから。
「これは真っ暗だぁ」
誰も日本語はわからないだろう。けれどその一言で、外人が入ってきたことはわかるはず。あたりかまわず手探りしたかったけれど、ちょっと遠慮していた。
お互い腰に布を巻いただけの身、相手の何処に触るかわからない。それによくわからなかったのだが、ひょっとして蒸気室は男女共同かもしれない。
手を少し前に出した状態で固まっていると、誰かがその手をつかんで、腰掛の木の板に触らせてくれた。
「コープチャイ(ありがとう)」
広さは畳3畳もあるのだろうか、床板の下から、モウモウと蒸気の立ち込める、ルアンパバーンの薬草サウナ。
「とても気持ち良いですよ。見つけたら是非行ってみて下さい。」
ビエンチャンで出会った日本の青年にそう勧められて初めて、ラオスの薬草サウナがガイドブックに紹介されているのに気がついた。
多くの日本人はそうだと思うのだが、私も風呂は好きな方。山の中のペルーの温泉、モロッコのハンマム、そう、それにトルコのトルコ風呂、けれどいつも頭を悩ませることがある。
それは、貴重品をどうするかである。立派なホテルに泊っていると、貴重品はロビーにというのが常識なのだろうが、私の泊るようなホテルでは、ロビーにはいろんな人がかなり自由に出入りしている。
それに責任を負わされるのを嫌ってか、預かるのをぐずるところも少なくない。パスポートとお金、それに帰りの航空券は、いつも腹巻で持ち歩いているのだが、風呂ではそうはいかない。
果して持っていったほうがいいものやら、部屋のどこかへ置いていった方がいいものやら、要は確率の問題、いや、むしろ私の心理の問題か。
けれど特に夜道を暗く感じるラオスではあったけれど、そう言えば街の様子にあまり治安の不安を感じない。
時々見かける、僧の落ち着いた歩き方がそうさせるのか、それともガチャガチャと派手な音楽の鳴り響かない静けさのせいか、或いは、物乞いの人を一人も見かけない街の様子がそうさせるのだろうか。
ルアンパバーンのメインストリート、けれどなんだか静かなシーサワンウォン通り。 |
なんとなく、風呂の受付に預かってもらっても大丈夫のような気がして、そっくりそのまま持ってホテルを出た。
入浴料は8,000キープ(\80)、マッサージは26,000キープ(\260)。お金を払って「貴重品を」というと、「大丈夫、ここに全部入れて下さい」と、一頃日本でゴミ袋に使っていたような、黒いビニールの袋を渡された。
いつも肌身離さず持っている習慣から、一抹の頼りなさは感じたものの、かわりに渡された布を腰に巻き、そっくりそのままそのビニール袋に詰め込んで、ロビーの片隅に置いた。
「さて、何処が?」そうロビーの男に目を向ければ、階段の方を手で示す。
上にお風呂?少し妙に思いつつ登った二階は、なつかしい小学校の窓辺を思い出させる木枠のガラス窓。ほとんど部屋一杯に置かれたテーブルには、ヤカンにコップのお茶セット。
けれど、いったい何処に風呂場などあるというのか?
キョロキョロあたりを見渡す私に、休んでいた男が右手の戸口を指差してくれた。
サウナというから、タイルで覆われ、水やお湯のドードーと流れる洗い場を想像していたのだが、そんなものは一切なく、普通の木造の家の一室が、ただモウモウと蒸気に包まれているだけのこと。
高床式のその床の下で、薬草を入れたドラム缶を煮立てているのだそうだ。果してそれが、蒸気で蒸されたその家の匂いなのか、それとも薬草の香りなのか、私にはわからなかったけれど、確かにムンムンとする中でも、気持ちよさの漂う蒸気。
はじめはただ汗をかくだけで体を流せないのでは、さっぱりしないなと思ったのだが、なんのなんの、その赤いニクロム線で、何とかそこに人らしきのがいそうだとわかるほど目がなれてから、なおしばらく頑張って出てくると、体は意外にサラッとして気持ち良い。
汗だけでこんなにさらっとするのは、やはり薬草のせいだろうか。私はすっかりこのラオスの薬草サウナのファンになり、次の移動先ムアンシンにもサウナがあるだろうかと、地図を追っていた。
高床式住宅。ここはサウナではないけれど、だいたいこんな建物のサウナが多かった。床の下に置いたドラム缶で薬草を煮立てるのだとか。外見からでは見分けられない。昔はこの床の下に必ず機織機があり、自給自足で布を織っていたそうだ。 |
そのムアンシンに向かったのは、翌々日の朝。ルアンパバーンより北への交通手段は、主にピックアップトラックになる。
乗合に直行はなく、まず100kmほど北のウドムサイまで行き、そこからまた50km程北のルアンナムターへ、さらに50km程北のムアンシンへと乗り継ぐ。
果して途中のウドムサイで泊ることになるのやら、それとも、次のルアンナムターまで行けるのやら。成り行き次第というわけだ。それならとにかく早いにこしたことはないと、しっかりかさばる土産の布をビニールに包んでリュックの外にくくりつけ、朝の6時半、宿を出た。
ルアンパバーン北のターミナルは、周りを家々の取り囲む土の広場。その所々に建てられた立て札を追うと、ウドムサイとアルファベットで書かれたところに、ピックアップトラックが停まっていた。
ルアンパバーンのターミナル。ピックアップトラックは客が集まった時間が出発の時間。店でゆっくり、それを待つ。 |
屋根に積み上げられた荷物は、もう6〜7割の客がいそうで、出発までにそんなに待たされずに済みそうだ。
さっそく22,000キープ(\220)のチケットを買い、上で荷造りをしていた男にリュックを預けて、近くの店で一休み。ラオス語で喋っているアニメ『あられちゃん』のテレビを見ながら、一杯2,000キープ(\20)の暖かい朝のネスカフェタイム。
半時間ほどそうして過ごした7時40分、荷台に大人13人、子供1人を詰め込んだピックアップトラックは、一際高くエンジン音を唸らせ、広場を出た。
ウドムサイまで約5時間、ラオスの道は、カンボジアを体験した後では、すべるように快適なはずだ。
ルアンパバーンのワット・マイで。右の女の子は、とても無邪気な笑顔だったのだけれど、カメラを向けたら急にかしこまってしまって…。 |
翌日のムアンシンまでの道。右手前が店のようでした。 |
そう、確かにカンボジアのあの道路に比べると、はるかに快適なラオスの道。けれどどうもいけない。
13人が隙間なく座り込んだピックアップトラックの荷台、先ほどから酔う直前のような胃の収縮を、必死に紛らわそうとしていた。なんともこの屋根がうっとうしい。
カンボジアのピックアップトラックは、荷台に荷物を積み上げ、その上に人が乗っかる。
とても大きな商売上の荷物も、そのトラックで運ぶ為、自ずとそうなるのかと思うが、足場は窮屈でも、頭上は壮快である。
ルアンパバーンを出発するピックアップトラック。 |
けれどラオスのピックアップトラックは、雨でも多いのか、荷台は屋根つきで、一見体裁は良いものの、その屋根、私の胴が特別長いというわけでもないと思うのだが、荷台の両側の簡単な腰掛に座ると、頭に触れてしまう。
ほんの少しだけれど、背をかがめていなければならない。しかもその屋根のおかげで、視界が遮られ、目線の先は、ほんの数十センチで行き止まり。
そんな姿勢で、右に左に揺られていると、たまらない衝動がこみ上げてくる。エエィとばかり背筋を伸ばし、遠くに視線を解放したい。
けれどままならぬはトラックの中。仕方なく我慢をしていると、次第に目が回るような、ムカツキの一歩手前の胃袋が気になり始める。
これは大変と、体を捻って屋根を支える鉄パイプの間から、少しでも遠くの景色にと視線を集中していた。
目の前に顔の迫る荷台の中。でもまだ私は良い方。正面の体の大きいオーストリア人はお気の毒。 |
「ゲポッ」
かわいそうに荷台の大人達に囲まれて、おとなしく後ろで外を見ていた4歳くらいの女の子が、もどしてしまったようだ。
ムッムッこれは…と、連鎖反応を必死にこらえる私ではあったが、風呂の椅子ほどの腰掛に座って、私の膝を、行き場のない手の肘掛代わりに、先ほどからトラックの中の会話をリードしていた若いお母さんが、ポケットから布を取り出して、あいよっ、とばかりに子供の横のおばさんに渡した。
実はこの人がその子のお母さんのようなのだ。子供は景色を見たいとでもいうのか、かなり前からお母さんと離れて、後ろでよそのおばさんと仲良くしていた。
こんなことは慣れているのか、男2人ほどの肩越しに、子供に笑いかけるだけ。その子供も、笑顔こそ見せなかったものの、別にお母さんに泣き寄って来ることはしない。なんだか親も子も、とても逞しい。
そんな若いお母さんを中心に、トラックの中は、みんな古くからの知り合いのよう。
「旅は道連れ」という言葉が日本にも残っているけれど、今の日本で、こんな気さくな雰囲気が、ちょっと味わえそうにないのは、快適さと引き換えに、何処かへ置いて来てしまったことなのだろうか。
朝のニワトリの「コケー」と裏返る時のような声が、時々混ざるラオスの言葉、何を話しているのかわからないのは残念であったけれど、時々その笑いとともに、乗せた手で膝を叩かれて、私まで思わずもらい笑い。そんなムードにも助けられて、何とか無事のトラックの5時間。
行く人来る人、途中の休憩所は、旅人にとって生の情報を得る所。後ろは少し大きなトラックバス。 |
ようやくウドムサイに着いたのは、ちょうどお昼時の12:40。まだ日が高く、運がよければ次のルアンナムターまで行けるのだがと広場を見渡せば、ちょうど屋根に荷物を積んでいたバスがルアンナムター行き。
喜んで18,000キープ(\180)のチケットを買い、いつ出発するかわからないし、席の確保もしたいので、揚げパン2個と水を4,000キープ(\40)で買って乗り込んだ。
そのウドムサイから、次のルアンナムターまでは、ほとんど舗装はなかったけれど、さすがにバス。高い天井は気分までリラックスさせるのか、とても楽。
けれど、ぐるりと回り道をしているのだろう、地図ではルアンパバーンからよりもかなり近いはずなのに、ほとんど同じ5時間近くかかかって、ルアンナムターに着いたのは、既に6時の闇の中。自ずと次は今夜の宿探しである。
「安くてきれいな宿があるよ。」
なんとか地図の見える明かりの漏れる店の軒先で、ガイドブックを開けていると、呼び込みの女性が声をかけてきた。
「ノー」
一応首を横に振っては見たものの、話は続くつもりであった。ほいほいと乗っかっても、値引き交渉がやりづらい。値段を聞いてみるのはその次でも遅くはない。
と、ところが、その女性、何も言わずにさっさと引き下がってしまう。あれっ、とは思ったが、「もう行っちゃうの」とも言い出せず、黙って見送っていた。
断っても断っても押してくるインドなどの気分でいると、あてがはずれるラオスのつつましさ。
けれどルアンナムターには宿もたくさんある。心配することもないのだが、どうもいまいち地図と実際の距離感が一致しない。
「郵便局は何処でしょうか?」
偶然通りかかったヨーロッパ人にこれ幸いと聞いてみた。手ぶらで歩いているのだから、私よりはこの町の先輩だ。それに彼なら英語も通じるだろう。
「確かではありませんが、おそらくあの赤い光の下あたりでしょう。」
ゆっくりとした正確な英語で、高さ数十メートルほどの闇に浮ぶ、赤い光を指差してくれた。そこに通信タワーでもあるのだろう。郵便局まで行けば、安いホテルが3つほどかたまっているはず。
私はその光目指して歩き始めていた。まだ人出もあり所々に店の明かりが漏れてはいたけれど、日本の町の感覚では、かなり暗い闇の中であった。
「さっさと歩きなさい!」力関係とは妙なもの。翌日のムアンシン目抜き通りにて。 |
どうといって珍しい景色ではないのだけれど、妙に心くすぐられるのはなぜだろう。
とりわけ美しいというわけではないのだけれど、なぜか心地良いのはどうしてだろう。
宿の裏手に広がる、家と畑と草地の緑に魅せられて、さっそくカメラバッグを肩に出てきてしまったムアンシンの昼下がり。
近くの川で水浴びを済ませての帰りだろう、4歳くらいの女の子は、服を小脇に、テッテッと確かな足取りで、我が家へとお母さんを先導している。既にお姉ちゃんの自負からか、シャンと伸ばした背が、一人前気取りで可愛いらしい。
朝の8時半、ルアンナムターのターミナルに直行した私は、ムアンシンとフェイサーを間違えていた。
どうも昨日からウドゥムサイだのルアンナムターだのと、カタカナ地名を乗り継いで、一晩眠ったら頭の中でこんがらがってしまったようだ。黒板の字が6,000キープと見えて、10,000キープを出したところ、60,000キープ(\600)と言われてしまう。
ルアンナムターバスターミナルの切符売り場 |
えっと思って、チョークの文字を確かめると、おっしゃる通り確かにゼロは4つ。仕方なく6万キープを払ったものの、えらく高いように思えって、ガイドブックを読み返していて、ドキッとした。
フェイサーはタイとの国境の町。そのまま乗り込んでいたら、再び戻るのは大変面倒なこと。
あわててチケットを買った小屋に戻ったのだが、あいよっとばかりに台帳を書き直し、はいOK。なんだかとても心地良い。
ルアンパバーンからこのムアンシンまで、乗り継ぎの予定が立たないという不便さはあったけれど、人がやりくりするシステムは、それだけ人にやさしくもあり得るのだろう。
おそらく便利さを求める価値観に、人は抗し得ないのだろうけれど、不便さの中にこそ同居しえた輝きも、捨てるにせよ拾うにせよ、意識に留めておきたいものである。
そんな魅力の一つなのだろうか、この風景のやさしさは。なんだかここにいると、角張ったビルの乱立する、快適な都会の風景が、自然に歯向かう人間の、傲慢さそのものの姿のように思えてきてしまう。
ひょっとして一般に、ラオスの景色が居心地良いのは、人が自然に対して、でしゃばり過ぎていないからなのかもしれない。
休耕中の畑の畦道の、土の塊に足をとられながら、遥か遠くで草を食む牛の方へと、そんな景色を楽しんでいた。
そう、景色はとてもやさしい。けれど人はどうも…。
いや、いや、これは失礼、この表現は間違いである。正確には、みんなとっても素朴で親切、たとえ言葉は通じなくても、にこやかな気持ちを向けてくれる。
ただ、カメラを持ったよそ者が、やたらバチバチ人を撮るのを、あまり歓迎してはくれない。
でもこれは、ごもっともなこと。我々だって、見ず知らずの男に、やたらカメラを向けられたら、いい気がしないばかりか、腹も立ってこよう。
ガイドブックにも「ムアンシンの旅行者が、いきなりカメラを向けるなどマナーの悪さが問題になっている」と指摘があったが、おそらくこの地を訪れた旅人が、私と同じように魅せられて、やたらシャッターを押したのだろう。
また色とりどりの民族衣装を着て現れる、少数民族の女性達を見ると、写真好きでなくても撮りたくなってしまう。
何族の人でしょう。その美しい飾りに、ついつい私も1枚 |
私も大いにそのうちの一人なのだが、マナーに関しては、むしろ単なるモラルというより、よい写真を撮るための、必須条件のように思っている。
もっとも、何をとるかによって違ってはくるが、人は相手との関係の中で表情をつくっている。
だから例えば、お母さんの撮った子供の写真に優る笑顔は、どう頑張っても私には撮れないだろう。
つまり、人を撮る秘訣は、なまじっかのテクニックよりも、いかにその場の邪魔にならないか、いやむしろ歓迎される存在であるかだと思っている。この点私は、あまり成功しているとは言えないが、それでも気は使っている。
ところがムアンシンでは、カメラをバッグから出しているだけで、拒否される場合が少なくなかった。特にアカ族やヤオ族といった少数民族の間では。
この日も、遥か畑の畦道を、歩いて抜け出た大通り、遠くに薪拾いの仕事を終えて帰る娘さん達を見つけ、ムアンシンの景色にピッタリと、さっそくカメラを取り出し、ちょうど格好の場所に近づくのを待っていると、彼女達はピタリと歩くのをやめてしまう。
遠くでよくは見えなかったが、恥ずかしいといった感情ではなく、むしろ嫌悪の雰囲気が漂っていた。
薪集めから帰る少女達。 |
また、後日、ムアンシンの南、歩いて30分くらいのところの川に架かる橋で、カメラの露出を合わせていると、「ノー、ノー、ノー」と叫ぶ声が聞こえてきた。
何だろうと思って、カメラから目を離すと、自転車に乗った男が、手で自分の顔を隠しながら通り過ぎている。
確か空の青さを測光していて、まだカメラは橋には向けていなかったはずだ。それなのにいい男が…とその時は思ったのだけれど、どうもそれは、恥ずかしいとかプライバシーの侵害といったものではなく、むしろ「怖れ」に似た感情の現れだったのではと思えてしまう。
日本でもその昔、写真を撮られると魂を吸い取られると恐れたという話を聞いたことがあるが、ひょっとしてそれに似た感情でもあるのだろうか。
だとすると、マナーをもって接しているつもりでも、そのマナーそのものが違っていることになる。
もしかして彼らは、自然を単に足下に従えるべき「物」としてしか見ない我々が、既に絶滅させてしまった《「もの」の精》とも、日々付き合っているのかもしれない。
だとしたら、彼らのマナーは、単に人に対するだけのものではなく、そんな「自然」をも含めた付き合い方ということになる。当然自然に対して、でしゃばることも控えよう。
居心地の良い風景と写真嫌い、果してそれが、当たっているかどうかは怪しいけれど、私はムアンシンの景色を、そんな絵の中に描いていた。
ムアンシン |
「国境までどのくらい?」
「あと10分、もうそこだよ!」
明るい声を残して、若い白人女性は、自転車のこぐ足を止めたまま、髪を躍らせ、愉快そうに坂を下っていく。
「登りは20分!」
声を張り上げて男性が、ガタガタと自転車を鳴らせて、彼女を追う。
カタカタキーキー、カタカタキーキー、騒がしい私の自転車は、上り坂にもまして、意地悪をしているかのように重たい。
ラオスの北ここムアンシンは、三つの国境線が交わるあたりで、ミャンマーへのルートは近くにないけれど、中国への国境は、メインの通りを10kmほど北へ行った峠の上にある。
残念ながら外国人には解放されてないけれど、そのすぐ北に、あの水かけ祭りで有名なガンランバや景洪(ジンホン)がある。
果して道がどうなっているのかは知らないけれど、直線距離ではおそらく七、八十キロしか離れていないだろう。
中国を成都、昆明、景洪と南へ下ったときは、1月でも水かけ合って平気なほど暖かく、太陽一杯の印象が残っているのだが、そのつもりで朝目が覚めると、外は一面灰色の世界。
テラスの梁に張った蜘蛛の巣は、朝露のビーズでキラキラと飾られ、冷たい空気がシットリと肌を撫でる。
喜んだせっかくの南向きの窓だったけれど、地形のせいかムアンシンの午前中は、毎日が濃い霧に包まれていた。
今朝はそんな町の北で、自転車を借りようと、店に寄ったのだが、もうみんなとっくに活動している時間なのに、まだ扉は閉まったまま。
どうしたのかと、ドアを叩いていると、通りがかりの人が、家のはずれで脱穀をしている男を呼んで来てくれた。
自転車を借りたいというと、好きなのを持っていけと、軒先の数台を指差した。けれど良いのは既に誰かが借りてしまっているのか、残されたのはどれもパッとしない。
仕方がないので、少々音はするものの、サドルにスプリングがあってお尻に柔らかく、私の足に合う高さのを選んだのだが、その音がだんだん騒がしくなるばかりか、なんだかいやに重い。
霧のムアンシン、国境への道。 |
ムアンシンの町から国境までは、大半がなだらかではあったがわずかばかりの上り坂。
百メートルくらい前を行く、自転車の女性を追い越してやろうと、必死に追いかけたのだが、やっと近くまで追いついて、一息入れていると、瞬く間に距離を離されてしまう。
山の少数民族の人達は、いつも市場までを歩くというこの道、彼女の足が強いのか、私の足が柔なのか、それとも自転車のせいにしておこうか。
結局国境までは、彼の方が正しくて、着いたのは、20分はゆうに超えた9時40分、ムアンシンからは1時間と半かかったことになる。
峠の上の国境は、少し大きな木の小屋が建っているといった感じで、閑散としていたが、中国側からは、雲南ナンバーのトラックが、重そうに車体を傾け、何台か入って来ていた。私はそれ以上進めないので、頭の中でその先にガンランバの景色を繋げて、帰ることにした。
国境。トラックは中国からの入国。右が、出入国管理事務所。 |
帰りはらくちん下り坂。けれど少数民族の村にも行ってみたくて、途中左にそれ、アディマのゲストハウスに居合わせた、ドイツ人観光客に教えてもらい、近くのアカ族の村に向かった。
5分ほど自転車を引いて上った山の中、木陰の森がまるでトンネルの出口のようにぽっかりと口を開けたその先に、高床式の住宅が山の斜面にへばりついている。
いつものように午後になってすっかり晴れ渡たり、あのガンランバを思い出すパッと明るい青空の下で、草葺の屋根が黄金色にポカポカと眩しい。
自転車を置いてはいろうとすると、入り口に妙な木枠が、門をなすかに幾重にも組まれている。
けれど誰もその下を通った形跡はなく、踏みしめられた道は、それを右に迂回している。何だろうと思って近寄ると”Don't touch. Spiritual Gate."と英文の板。ここから先は、彼らアカ族の精霊が守る領域ということか。
アカ族の Spiritual Gate の一つ。 |
村の入ると、2、3子供達は寄ってきたものの、カメラを持っているのを見ると走り去ってしまい、あたりはまるで生活音のない静けさに包まれる。
「ヘーィ」
忌み嫌らわれるカメラはバッグにしまって歩いていると、上半身裸のアカ族のおばさんが、たれたおっぱいをプラプラ揺らせて近づいて来た。
そのけげんな表情に、入ってくるなと文句を言われるのかと待ち受けると、怪しげな包みを取り出す。
町の所々に張ってあった注意書きなどから察すると、どうもアヘンか何かの麻薬のよう。勿論断ったのだが、だったら用はないと、再び私は静けさの中。
アカ族の村 |
そんな村の斜面を突っ切って、森の小道を下った先の平地に、今度はヤオ族の村があった。
こちらにはあの"Spiritual Gate"はないようで、ちょっとした店もあり人々も行き交って、子供達も私を無視して遊んではいたけれど、気のせいかやはりあまり歓迎されていない警戒の視線。
ヤオ族の村にて。小さい子の多くはすっぱんぽんで。 |
そんな雰囲気に、少々臆病になってはいたが、次の日、今度は南に、寄り道しながら歩いた2時間。道路沿いに広がる村に、遠慮しながら足を踏み入れてみると、そんなに硬い視線が向けられない。
村の一角で葉で縄を編む若者達に近寄ってみても、「やあ」といった感じでこちらを見て作業をしている。
けれどその編み方、どうも締まりない。固そうな葉なので、荒縄のようにはやり辛かろうと、昔覚えた三つ編みをして見せたら、ああだこうだとみんなが集まって来た。
様子からして、旅人など訪れることもなさそうなこの村、寄ってきた子供に恐る恐る写真のポーズをしてみたら、少々緊張の表情ではあったが、弟を抱きなおしニコッと笑ってくれた。
それにさきほどからしつこく私を誘う若者は、どうも一緒に飲もうと言っているよう。
あんまり酒の強くない私、帰りの長い道のりを、酔っ払って歩くのも辛いとは思いつつ、ちょっとだけと彼について家に入った。
高床式ではなく床は地べたの彼の家、その一角でお母さんがモウモウと煙を上げてご飯を炊き始め、お父さんと兄弟2人、それに歳の離れた妹2人が集まってきてくれた。
私を歓迎してくれた一家の居間。この村の家は、すべて高床式ではなく、床は土間。右下の火の上で、すべての煮炊きをしているようでした。お父さんの赤いネックレス、なかなかおしゃれでしたが、宗教的意味があったのでしょうか? |
言葉は全然通じないのに、なんだか気持ちはほのぼのと、もっとそこに居たかったけれど、日が暮れては帰れなくなるので、食事の前に別れを告げた。
写真を送るからと、絵で説明して住所を聞いた時、ラオスの文字で書かれたアメリカからの手紙を持ってきたから、ひょっとして、アメリカに10万を越えて移住しているというモン族の人達だったのだろうか。
お礼の気持ちを乗せて写真を送ったのだが、返って来なかったところを見ると、楽しんでくれているのだろう。思いがけないムアンシンの楽しい思い出である。
それにしても、村によるこの雰囲気の違い、我々はその奥に、何を見るべきなのだろう。
何が違うのでしょう。その村の近くは、写真も歓迎してくれて…。 |
皆さんの中に「もののけ」を見たことがある方はおられるだろうか。私は、幸いといおうか、残念ながらといおうか、いまだかつて見たことがない。
けれど、震え上がったことがある。大の大人が自慢できる話ではないが、数秒間心臓が高鳴っていた。
ムアンシンからトラックで2時間半、旅も終わりに近づいたラオスの、名残を惜しんだルアンナムターは、飛行場もあり中国へ通じる国境ボーテンへのゲートウェイでもあるのだけれど、少し町を離れると、感動の静けさに包まれていた。
「静かだね」
通りかかった見ず知らずの旅人なのに、思わずそう声をかけてしまった私。
「ワンダフル!」
感激の声を弾ませて自転車を駆る若いカップル。
ルアンナムターの稲刈り |
12月といえども、まだまだ動けば汗ばむ午後の日差しの中で、黄金色にまぶしい稲穂の海に、刈り入れの人々が忙しく動いていた。集団労働なのか、多い所では20人ほどがかたまって、皆働き者だ。
日除けなのだろう、大きなスクリーンのように布を張り、籾殻を飛ばしているのだろう、大きな団扇であおぐ人。その間を、埋もれんばかりの藁を棒の両側に担ぐ人。
子供は田の所々に建つ高床式の小屋の縁側で勝手に遊び、牛がそこらで草を食み、アヒルや合鴨がせわしく歩いて、水の中の餌をあさる。
時々トラクターが人を乗せて過ぎるのだけれど、ルアンナムターの静けさは、その音さえも瞬く間に押さえ込んでしまう。
日本でもおなじみの稲刈りの風景だけど、この静けさが違っていた。運動会のような人出が違っていた。
静けさが、トラクターの音もたちまち呑み込むルアンナムター。 |
それにもう一つ、ルアンナムターには日本と違ったことがあった。それは夜の暗さ。
ムアンシンでもそうであったが、ここルアンナムターでも、電気が来るのは、夜の6時から9時の3時間だけ。確かラオスは、電力をタイに輸出している国と聞いたが、どうも庶民には行き届いていないようだ。
稲刈りの皆が家路につく頃、私も町に戻って、6,000キープ(\60)で借りた自転車を返し、レストランで夕食を楽しんでいると、次第にその暗さがあたりを包み始める。
ルアンナムターのメインストリート |
12月のラオスは、5時も半ばを過ぎたあたりには、黄昏は闇に負け始める。もう少し、まだ少し、と思っているうちに、テーブルの上は、全くの闇に沈んでしまった。
お皿が見えない、コップが見えない、野菜炒めが見えない、全くの闇。食べるのを止めるしかない。
そうこうするうちに、店の奥からゴトゴトと音がし始め、火のついたローソクを持ってきてくれた。
ローソクの下の食事も悪いものではない。いや、むしろよけいなものが見えなくてロマンチックでもある。10分ほどして、そんな食事が終わった頃、パッと店に明かりが灯る。
とは言っても、パッと明るくなったのは、店の中の電灯の近くだけ。店を出ると、昼間は静けさが音を押しつぶしたように、今度は闇が、所々の家から洩れる明かりを押しつぶす。
けれど今や馴染みのルアンナムター、いつもの道を宿に向かったのだが、次第に遠くの明かりも見あたらなくなってくる。
ルアンナムターの道路工事 |
あれっと思ったその瞬間、あたりが真っ暗な闇であることにハッとする。右も左も、いや、そればかりではない、足の下までも、まるで宙に浮いているような不気味さで。
ご存知だろうか、全くの闇というのが、妖気うごめく生き物に転ずるその時を。
人の意識というのは、結構脆いものだ。もうかなり昔のことになるが、その脆さを体験したことがある。
私の故郷には、観海流という古式泳法が残っている。まあ、言うなれば首を上げての平泳ぎだが、海ではとても楽な泳ぎ方である。
スピードは出ないけれど何時間でも泳げると、試してもいないのに怪しい自信をもっていた若い頃、里帰りした夏の日の、気味悪いほど静かな海で、いつものように沖に出て、そろそろ帰ろうかと陸に向かったその時、今まで波を静め、私の背を押してくれていた西風が、今度は私の鼻先に波をつくり、息をさせない。
それは初めての体験、初めての海。もがいても、もがいても、何故かちっとも進まない私の泳ぎ。
これは大変!と思った瞬間、いつもの陸の風景が、気の遠くなるほどのかなたに思え、自信は一気に吹っ飛んだ。
パニックの中の言い知れぬ恐怖が、まるでダムを決壊させたように、バクバクと心臓を高鳴らせる。
膝ほどの水溜りでも溺れることがあると聞くが、こんなパニックになるのなら、それも充分ありえること。
結局その時は、沈むに任せて一度気を落ち着け、声を出して自分に掛け声をかけ、陸のことは思わず、ただただ、その掛け声に合わせて手足を動かすことと、首を捻って息をすることのみに専念し、どうにか切り抜けたのであるが、掛け声が、崩れた意識をなんとか保つ呪文の役目をしていたのだと思う。
この日も、宿への道という思い込みが、あれっと崩れたその瞬間、闇は意識のガードを突破して、直接私の意識下の魑魅魍魎を呼び覚ましてしまったようだ。
海とは違って溺れる心配がないだけ、少し余裕はあったけれど、そんな意識とは関係なく、逃げ出す私の左胸は、あの日のように高鳴って痛かった。
おそらく近くの森に迷い込んだのだろう。もののけのざわめきに聞こえたのは、葉のすれ合う音だったのだろう。宙から降りてきたように思えたかすかな影は、坂を下りてくる人影だったのだろう。
けれど科学への「信仰」が、そう否定しなかったら、私はもののけに出会ったと、自信を持って言いはっていたに違いない。
おそらく何を大げさなと思われる人も多いだろう。けれど意識は、未経験の中に予期せず放り込まれると、ぞんがい脆いものである。
だのに前にも書いたが「明日」は誰にとっても未体験。ただ何らかの「信仰」が、いろんな形で意識をパニックから守っているだけのこと。
それはそれで不可欠でもあり、大事なことではあるけれど、その「信仰」を、万人共通の事実と混同してはいないだろうか。それを力で押し付けることを、善意と勘違いしている人を見かけないだろうか。
21世紀の地球は閉鎖系。当然思想も、閉鎖系での共存を受け入れずしては、成り立たないはずだ。
私を震え上がらせたルアンナムターのもののけを思う時、そんな意識の限界を、あらためて気づかされたような気がしている。
第10部 タイ・カンボジア・ラオス編 おわり