第1話 凍る北京の景色の中で | 第2話 ウルムチの夜 | 第3話 デンファーカー | 第4話 嘉峪関の見守るは |
第5話 快適「特快70次」 | 第6話 西安小姐 | 第7話 洛陽、人いろいろ | 第8話 もう、小姐は嫌いじゃ |
第9話 石を積んだ人達は |
歩いても何とかなるだろう。ガイドブックの地図を見てそう直感したのだが、どうも今までの街とは勝手が違うようだ。やけに広い。
空港からのエアバスでは、「東直門」とメモを見せたのだが、通じなかったのか、わけのわからないところで下ろされてしまった。
先ほど、緑色の軍服のような、膝まである綿入れの外套を着た男に指差された方向に、かなり歩いたはずなのに、いっこうに門らしきところに出ない。
夜の闇が駆け足で迫る北京の12月、−3℃と言っていた機内放送どおり、次第にズボンの裾から寒さが上に昇る。寒いというのは、どうも人を気分まで、萎えさせるようだ。
次第に地図も見づらくなる、着いたばかりの北京。肩に食い込むリュックを背に、旅人などそ知らぬ顔のようなその街の大きさに、少々心細くさへなり始めていた。
こうなったら、奥の手、タクシーにしよう。
ところが、3台止めても、めざす侶松園飯店を知らないと言う。侶松園飯店は空港でも紹介されていたホテルで、それなりにれっきとしたホテルのはずだ。いやむしろ私には立派過ぎるかもとも思えたが、地図にも場所が明記されていて、立地条件も良く、見つけやすそうなので選んだのである。
なのにみんな首をかしげて走り去る。4台目、タクシーの室内灯で地図を確認したドライバーが、やっと乗れと合図した。とは言うものの、彼も知らない。誰かに聞くからOKだと言うのである。
それでも暗い街を一人で探すよりははるかに心強い。なんといっても彼は言葉が話せる。やれやれと乗り込んだそのタクシー、幾度となく狭い路地で車を止め、下りては近くの人に道を聞いて、やっと、料亭のような雰囲気の玄関先に車を停めた。
「あいにくシングルが空いてなくて、ダブルの部屋が300元です。」
約37ドルである。中国はアジアの中では宿が高い。けれど雰囲気はなかなかいい。中庭を四角く囲んで連なった、北京の伝統的長屋「四合院」を模して建てられたというその部屋は、暖房もしっかり行き届いて心まで暖まる。
北京の冬を暖める、練炭売り。翌日の朝。 |
「おとうさん、ご一緒しませんか。」
やれやれとやってきたホテルのレストランで、ガイドブックを見ていた私に、可愛いお嬢さんがそう話し掛けてきた。2月から北京に語学留学するのだと言う、その前の下見をかねた旅行とか。
「昨日はもっと寒かったですよ。万里の長城は雪でダメだそうです。」
彼女は、私の心配にそう答えた。ちょっと失敗だったかなと思い始めていた今回の旅の計画、ますます不安がつのって来る。
というのも、明後日は一気に天山山脈の端、ウイグル自治区の省都ウルムチへ飛ぼうというのである。そこからバスと列車で戻るというのが、今回の旅の予定であった。
ところがそのウルムチの寒さが予想出来ない。ガイドブックによると、12月の平均気温は−11.6℃という。1月になるとそれが−15.4℃というから、始めにウルムチへ行って戻ることを考えたのである。
けれどその平均−11.6℃という世界を私は知らない。未体験というのは、どうしても、希望か不安の両極端に膨れ上がってしまうようで、希望に膨れるのはいいが、不安に膨れると始末が悪い。
翌日訪れた故宮も、見るには見たものの、あまりの寒さに、その建物が見てきたであろう、五百年の中国王朝への、私の想像もいっこうに膨らまない。
中国歴代王朝が、五百年にわたって居を構えた政治の中心、故宮・紫禁城。寒さにぎゅっと閉ざされて…。 |
どうなのだろう、インドで瞑想文化が豊かなのは、あの暖かい気候と関係するとはいえないだろうか。
そんな思いで入った、故宮の土産物屋で出会った、日本語を話す中年の女性店員には、ウルムチへ行くと言うと、「その格好で?」と驚かれてしまう。とは言うものの、ダウン入りのこのジャケット、雪山でもOKとスポーツ店の店員に保障された品だ。
「ダメダメ、下にもっと厚いセーターを着なければ。それに冬は行かない方が良いよ。」
これが彼女の意見であった。帰り道に立ち寄った北海公園のガチガチに凍った池は、彼女のそんな言葉に迫力を加える。
ガチガチに凍った故宮隣の北海公園。 |
「ウルムチで凍っちゃわないでね。」
お嬢さんのそんな言葉に送られて、次の日並んだ北京空港の横の列に、偶然居合わせた2人の日本人にも、私は同じ心配を投げかけていた。
人間不安になると、やたら誰かの安心する一言が欲しくなるようである。それが実際には、何の役にも立たないだろうとは思いつつ。
「我々は10月まで居ましたが、もう結構寒かったですね。」
同じカウンターかと思っていたのだが、窓口は一つ違って、彼らは南の方に行くのだと言う。安心どころか不安はつのるばかり。
ところが世の中狭いもので、仕事で来ているという彼ら、その中国の会社名が、私が若い頃勤めていた会社の名前とよく似ている。
「ひょっとして?」
『えっ、そうですよ。これはこれは、我々の大先輩ですね。』
「いや、そういうわけではないのですが、あの人は元気ですか。よくやりあったんですよ。」
『はい、工場長です。』
どうも今の工場長を、昔のままの親しげなイメージで話してしまったことで、誤解が始まったようだ。私の心配は、思わぬ方向へと展開して行く。
天山山脈の北、それだけでかってに辺境の地を想像していたのだが、ウルムチは驚きの大都会。 |
広々と高い天井、柔らかく美しい絨毯、黒い鏡のような窓ガラスで外の闇から区切られた明るい室内。もうみんな夕食を済ませた後なのだろうか、それともシーズンオフなのか、ガランとしたホテルの展望レストランで一人、ウルムチへの到着に乾杯した。天井から流れるメロディーが、そんな気分をしんみりと包む。
「『金を出せ、さもないと痛い目にあうぞ。どちらを選ぶかは、お前の自由だ。』そんな提案が、フェアだと思いますか。まともな答えは、どちらもノーしかないじゃないですか。」
そう答える私に、あの時課長は頭を抱えた。まあ、合理化の是非は別として、この論法はあくまで強者の偽善だ。いかにも自由を与えているかに見せかけて、責任まで負いかぶせようというわけだ。
弱者は殴られた上に、「責任はそれを選んだお前にある」とまで言われては、踏んだり蹴ったりではないか。
ところで、つい最近も、「悪いのは、最後通告を聞き入れなかった向こうなのだから…」という、同じような論理をのたまう御仁を、ニュースで聞いたような気がするのだが…。
勿論あの時も、弱者は負けた。けれど弱者が、自分でそれを選んだという形だけは、許さなかった。あくまでそこに、強者が自分の都合で弱者を切るのだという実像を見たはずだ。だからその強者の最前線の課長は、決して後味の良いものではなかったであろう。
けれど不思議に、そのときの仲間より、敵として人格むき出しに渡り合った課長を、なぜか懐かしく思い出す。そんな複雑な思いは、彼らに伝えようがない。
てっきり私をその課長、つまり今の工場長の親しい人と勘違いしたらしく、北京空港からウルムチの社員に電話を入れ、営業マンの手際良さで、トントンと段取りをつけてしまう。
「ウルムチの空港にこの男が迎えに来ます。ホテルにも電話を入れておくように、言っておきましたから。」
すべて過去形で、恐縮する私に、彼らはメモを手渡した。
はたしてそのとおり、ウルムチの空港では、私の名を書いた紙を頭上に掲げ、若者が出迎えてくれた。おかげで彼の運転する4WDで、薄暗い雪のウルムチを、何の苦労もなくこの環球大酒店までやって来た。
プールもあり、なんと四つ星。それを驚くほど安い、いつもの社員料金とかに交渉してくれた上、車代として差し出すお礼をいっさい受け取ってくれない。おまけに、明日街を案内しましょうと、電話番号まで教えてくれる。
いったい彼らは私を何者と伝えたのであろう。いくらなんでもそこまではと、しきりに勧める彼を、やっとの思いで丁重にお断りし、ホッと一息、この最上階のレストランにやってきたのであった。
♪ 禁じられても 会いたいの 見えない糸に ひかれるの 恋は命と同じ… ♪
背後で流れるメロディーにあわせて、心の中で歌ってしまう懐かしの歌。ついついあの頃の感情まで蘇ってしまう。いろいろあったのだと。
あれっ、これ日本の歌謡曲でないの!
漢民族の心情は日本人に似るのだろうか、いや、日本人の心情が漢民族に似ると言うべきか、いずれにせよ日本の歌謡曲は、彼らの心を捉えるようだ。続いて流れてきたのは、これもおなじみ『お前と道づれ』。
中国の西の果て、遥かウルムチの夜を静かに包む懐かしのメロディー。なぜかこのウルムチが、その経て来た遠さとダブって、少々シンミリしてしまったのは、漢民族の持つ旋律のせいなのだろうか。
翌朝目が覚め、恐る恐る窓の外を眺めれば、雪の積もったウルムチの白い街が、まだ夜明け前のような薄暗さの中に浮かび上がる。時計を見れば既に8時。ガラスに色でもついているのかと少し開けてみたが、実際に暗い。
ウルムチは一日中こんな薄暗さなのだろうか。これは観光どころではないかもしれない。ウルムチからバスでトルファンに向かうと言ったら、口を揃えて道路が凍っていてバスは危険だと言っていた、昨日の彼やホテルの人の言葉が、ずしりと信憑性をもって思い出されてしまう。
朝、恐る恐るホテル窓から外を覗く。時計は8時を指しているというのに、どんよりと暗い。これは大変なところにきてしまったのだろうか…、と思えて。 |
朝食の後、まるで南極か何処かの越冬隊員のような完全武装で、中心街の旅行会社に出かけたのだが、そこでもやはり鉄道の方が安全と言うので、仕方なく鉄道駅から遠いトルファンは諦め、更に南の敦煌を目指すことにした。
ところが、外に出てみると、そこは眩しい世界に変わっていた。けれどどこか妙だ。時計は12時近くを指しているが、なんとなく空気感が朝っぽい。そういえば、北京からだいぶ西に来たはずだが、時差はどうなっているのだろう。
眩しい光に満ちた午後のウルムチ。この日はダイアモンドダストが舞った。 |
「公式には北京時間で統一されています。けれど、地方時間では、2時間ほどの時差があります。」
ホテルの女性はそう教えてくれた。道理で、朝が暗かったはずだ。8時だと思ったのは、実際は朝の6時頃だったのだ。それではウルムチでなくても暗い。
私は、モモヒキにウールのズボン、セーターにダウンのジャケットと、グッと身軽になって、街の南のウイグル人街に出かけてみた。
はたしてそこは、人々でにぎわい、わきに積まれた雪のまぶしく光る通りには、西域のにぎやかな音楽が流れ、羊肉を焼く店の周りには人々が集まる。ここはもう、歌謡曲の似合う漢民族とは、ムードのまったく違った別世界。
私は人々に混じって、ケバブを注文していた。少々寒いが、いつもと変わらぬ旅の風景。いったい北京での心配は何だったのだろう。
結局何処であろうと、人の棲んでいる所、注意は要っても心配はいらないということなのだろう。ひょっとして人も歩く道も…。
中心を少し離れた南門から更に南に歩くと、そこはもう西域の雰囲気たっぷりのウイグル人街である。 |
憧れの、敦煌・莫高窟だったが… |
「ウォヤォ(我要) デンファーカー」
「ァアッ?」
カウンターの向こうの娘さんは語尾を吊り上げてそう聞き返した。《 ムッ!可愛い顔して、喧嘩でも売ろうというのか?》
「デンファーカー」気持ちを抑えてもう一度言う。
「ァアッ?」
ちょうどチンピラが、アゴを突き出して、因縁をつけている時のような声の調子である。
話しているのは中国語で、日本語ではない。だから彼女はただ単に「はぁ?」と聞き返えしているだけなのだが、どうしてもその声の調子、日本語に聞こえて、ムカッときてしまう。
それに漢の女性はあまり笑顔を見せない。そんなことに気づいて、北京に戻った地下鉄で、乗り合わせる女性客の目じりを、ジロジロと観察したことがある。
果たしてそのせいかどうかは知らないが、その時は、40代後半くらいに見える人でも、子供のようにスベッとしている人が多かった。カラスの足跡を気にしている人から見れば羨ましいかもしれないが、やっぱり私は、にこやかな方が好きだ。
男の人にものを尋ねても、普段着のような気分に、自然と顔もゆるむのだが、女性との場合は、どういうわけか、ついついネクタイをして話しているような、身構えた気分になってしまう。
勿論これは、日本的習慣の色眼鏡で見た誤解なのだろうが、それでも、デートをする恋人同士を眺めていると、女性が男性を問い詰めているような光景をよく見かけた。
則天武后や西太后といった女傑が生まれる素地が、庶民の中にもあるように思えてしまう。
そんな強い目で見る娘さんに、もう一度言ってみた。
「デンファーカー」
情けない、次第に顔から自信が消え、次第に声も弱々しく。
あれから10分もたっていない。ホテルの人に国際電話をかけたいといったら、郵電局でテレホンカードを買って、かけろと教えてくれた。
天女が見守る郵電局まえの交差点。ほぼ街の中心。 |
テレホンカードをどう言うのだと聞いたら、この「デンファーカー」を教えてくれたのである。試しに言ってみたら、2度3度言い直されたが、この発音でOKが出た。
その発音を道々言って来たのだ。多少違っても聞き取れないこともなかろうに…。仕方がない、ポケットから手帳を取り出す。筆談である。
恐らく「デンファー」は「電話」でよいだろうと見当がつくが、はたして「カー」をどう書けばよいか想像がつかない。奥の手、絵と手真似。
それを見た娘さん、「ああ、『デンファーカー』ですね」と涼しい顔。《 ど こ がぁ 違うのだ!さっきからそう言っているだろっつうの!》
漢字の音読みはもともと中国語だっただけあって、日本語から連想できる言葉も多く、日本人には比較的覚えやすいと思うのだが、発音に抑揚をつける声調がなんとも私にはお手上げ。
これでもNHK番組で、少しは頑張ったのだぞと、何とかその成果を見せたかったが、残念にも、結局はいつもの、筆談になってしまう。
ウルムチから列車で12時間とバスで2時間余りのここ敦煌。そのバスでは、途中一箇所だけ、かなり氷結した所があったものの、この分では危ないとあきらめたトルファンも、何とか行けたのではないかと思える程度。
しかしさすがに昨日の、莫高窟に行った朝は寒かった。いったい何度だったのかは知るよしもないが、過去に記憶のない寒さ体験。
カメラバッグからカメラを取り出し、レンズを換えたりしていると、指先以外は手袋をしているにもかかわらず、その指が骨まで凍りつくかのように、痛み始める。あわててポケットに手を突っ込んでも、暖まらない。
そんな思いで行ったのに、残念ながら中は撮影禁止。そればかりか、是非見たいと思っていた、別料金の特別窟は、オフシーズンのせいか、全て入場禁止。しかも、31箇所あるはずの一般窟も、ほとんどダメで、見ることが出来たのは、あまりパッとしない、10窟程度。
それも、一定の人数が集まるのを待って、ガイドに追い立てられて――いや失礼、ガイドに案内されて回るというやり方である。しかもそのガイドさん、私の苦手なキンキンとものごとを進めるタイプの女性。
人がある程度まで集まるまで、詰め所で待たせてもらう。ところでこの将棋、土産に買ってきたのだが、ルールを未だ知らないのです。 |
その上、石窟には鍵がかけられていて、その都度いちいち鍵を開けて入り、皆が出るのを待って鍵をかける。一応、見ている人に気を使ってはくれるものの、外に皆を待たせては、気が散って想像もふくらまない。
遺跡の保護に力を入れてくれるのはありがたいが、私を待つガイドさんのその顔、《 見るところ、感激するところ、そしてその感激の仕方も、ちゃんと私が教えますから、さあ、さあ… 》と言っているかに見えてしまう。
こうなると、5本の指は皆違うと、ほっておかれたインドの心が懐かしい。
東京に来た、「西夏王国展」を見て以来の憧れ。これが見たくてこのルートを選んだのに、いったい何しに来たのだろうと意気消沈の敦煌・莫高窟、寒さがいっそう骨にしみ…。
そんなわけで、興味を景色に変えて、莫高窟前の丘から。 |
なんといっても冬の旅で一番安堵するのは、暖かい宿を見つけた時。
ガランとしたバスターミナルの外は、歩く人影もなく、所々の街の灯りも、むしろ闇に押しつぶされそうで、心もとなかった。3時頃から冷たさを加えた風は、その鋭さを尖らせ、広々とした通りを、我が物顔に過ぎている。
目指す宿は、ターミナルから歩いて10分とある。方角は東で良いはずだ。私は、毛糸の帽子を耳の下まで下ろし、背のリュックを少し弾ませて位置を直すと、ターミナルを後にした。
嘉峪関(ジャ・イ・グァン)、東は渤海の山海関から、延々と延びる万里の長城 6,000km の、西の終端である。
朝の7時半、まだ夜の明けきらぬ薄暗い敦煌のバスターミナルで、嘉峪関の文字を見つけて乗り込んだバスは、エンジンがかからないらしく、いっこうに出発しない。
乗客は2人、ひたすら座席に置いたお尻もそのままに、じっと温もりを保って、寒さを我慢していると、ようやく8時半に動き出した。けれど、それからも街の中を回って、10人ほどの客を拾い、敦煌の街を出たのは、ようやく空も昼間の明るさになる9時を回っていた。
座席の下には、暖房用らしいパイプが縦に通っていたものの、いっこうに暖かくない。てっきり故障しているのだろうと思って、その上に足を置いていたのだが、10時を過ぎ、太陽の陽射しでバスの中も少々ぬくぬくしだした頃、暖かくなってきた。
《 なんだこいつ、必要なくなったら働き出すのか!》と、少々バカにしていたのだが、それに怒ったのだろうか、知らぬ間にカッカしていたようだ。
妙に靴の裏がべとつくように思えて、捨ててあった菓子でも踏んづけてしまったのかと、靴底を床に擦りつけていて、ハッとした。ひょっとして、熱で…。
一人っ子政策のせいか、子供が可愛くて仕方がないといった光景を良く見かけた。買っているのは、果実を串に刺し、飴で固めたお菓子・タンホゥル。嘉峪関の東約23kmの酒泉の鐘鼓桜前にて。新聞によると、中国初の有人衛星「神舟5号」は、ここ酒泉の基地から打ち上げられるらしい。 |
あわてて裏を見たら、やっぱり、幅5cm程、深さ5mm程、踵からつま先まで、くっきりパイプの形に溶けて、えぐられているではないか。幸いまだ、底のゴム厚は残っていて、旅の間くらいは何とかなりそうであったが、もう少し気づくのが遅かったら「大惨事」。
しかしそのパイプ、午後の3時頃になって、太陽の光も弱まると、そそくさと働くのをやめてしまう。なんとも困ったやつである。
そんな困ったやつ、暖房のパイプだけではなかった。出発前、なかなか動き出さなかったエンジンも、とても機嫌が悪い。見渡す限りの平原を、一直線に切り裂いたような道路の路肩にバスを止め、気の毒なほど油まみれになっての、悪戦苦闘の運転手。
ようやく1時間ほどして、何とか動き出したものの、その後も度々止まって、運転手は整備士に早変わり。おかげでいつでもトイレタイムと、その点は良かったものの、バスは遅れに遅れ、ランチタイムはどこへやら。
そんな2時頃、後ろの方にいた男が、私の横に席を変えた。ついついインドネシアのバスでスリ盗られた、カメラを思い出してしまい、何だか怪しいと、警戒を強めたのであったが、どうも私が外人と知って、好奇心に駆られたらしい。
片言の中国語と、身振り手振りで話してみたら、笑顔で、食べろと持っていた袋を差し出してくれた。
中味は長さ1cmほどの黒っぽく薄い種である。昔彼女が、肩に乗せたリスの餌に、与えていたような気がするその種、その時のリスのように、前歯で噛んで殻を割り、種の中を食べる。
ほんのり甘い。名前を聞いたら、「クィファ」と教えてくれた。後で知ったのだが、ひまわりの種らしい。
朝の出発前にコーヒーを飲んだだけのお腹、その素朴な味の一粒の、なんとも小さいことがじれったい。
ランチタイムは玉門にてと、前日教えられていたその玉門に着いたのは、夕方の5時前になっていた。
こうなると経過時間から、通過地点の見当をつけるのはむつかしい。バスが止まるたびに、嘉峪関ではないかと神経をとがらせねばならない。
そんな7時半、バスは大きなターミナルに止まった。けれど誰も降りない。近くの乗客に嘉峪関かと聞きば、首を横に振る。けれど地図からすると、このあたりに嘉峪関以外に、これほど大きな街はないはずである。
少々面倒にも思えたが、念のためにとバスを降り、近くで立ち話をしている車掌に聞いてみた。
「ァアッ?」
スラリとした背を少し猫背に、例の調子でそう聞き返される。めげずにもう一度。
「トゥェ、トゥェ(対:そうだ)」
嘉峪関で降りますと、朝言っておいたことを急に思い出したかのように表情を動かせ、彼女はうなずいた。
おお危ない!こんな夜に乗り過ごしでもしていたら…。預けたリュックを受け取る時は、知らせてくれた私の虫に「謝謝(シェシェ)」。
敦煌から嘉峪関へのバスは、途中よく止まった。 |
目的のホテル雄関賓館は、広々とした大通りの交差点に建つ、大きなビルであった。1ベット40元、一部屋で80元(約10ドル)と言う。オフシーズンのためもあるのか、ここまで来ると北京よりかなり安い。
部屋の鍵は渡されず、各フロアーに係員がいて、その都度鍵を開けてくれるというやり方。部屋のテレビは、嘉峪関の明日の気温を、最低-11℃、最高3℃と予想していた。
夜の7時半で、街の通りが深夜のように閑散としていたのもうなずける。夜の深さを決めるのは、ここでは明るさというよりも、寒さなのかもしれない。
翌日自転車を借りて嘉峪関の城砦まで行ってみた。万里の長城の終点を固める砦である。壁に囲まれた陽だまりは、思いのほか暖かい。少しその温もりを楽しんでから、楼閣への入り口を入ると、上への道は、階段ではなく、幅の広い坂になっていた。
かつて急を告げる使者が、乗馬のまま駆け上がり、上で待つ将軍に状況を報告したのであろう。そんなシーンを思い描いて、上に登った私の目に、真っ先に飛び込んできたのは、眩しいばかりの空の青であった。
河西回廊をにらむ、万里の長城6000kmの西端の砦、嘉峪関。 |
甲冑に身を固めた兵士達が、この城砦に詰めていた頃も、同じような青空が見守っていたに違いない。城壁の西に立てば、西へと延びる河西回廊に、石ころだらけの平原が、何処までも何処までも延びている。
遠く目を細めれば、馬を駆り攻め寄せる、騎馬民族の上げる砂煙が、はるか彼方に見えるかのよう。
そんな思いで、城壁をぐるりと回ると、東の空だけ、黒灰色にくすんでいる。嘉峪関は国家が推進する工業都市でもあるという。
工場の煙突から吐き出される煙が、水に落とした墨のように空に漂い、真っ青な空を汚している。目覚しい発展を遂げる中国経済の鼻息か、それにしても凄まじい。
かつては、西の地平線に昇る白い砂煙を、絶えず警戒していたであろう嘉峪関、今は東の空に立ち昇る黒いスモッグを、いったい誰が監視しているのだろう。
街は、たなびくスモッグの下。他の空が素晴らしく綺麗なだけに、よりいっそう残念に思えて。 |
パンとソーセージ、それに、りんごジュースとカップ麺、これでよし。私はとりあえずの食料を仕入れ駅に向かった。これからあのシルクロードの基点・西安まで、約26時間を列車で過ごす。3段ベッドの硬臥(319元、約40ドル)の旅は、とても快適なはずだ。
嘉峪関の駅まで運んでくれたバイク。寒いだろうとサービスで、ビニールの扉を閉めてくれたが、座席はちょうど、排気ガスの入り込む位置。 |
ところで、常々不思議に思っていることではあるが、あれだけ高度な文化を誇った中国も、インドの精神文化には、ほとんど影響を与えなかったようだ。
今から約2,500年前、ほぼ時を同じくして、大陸の東と中ほどで活躍した2人の賢者、孔子と釈迦。その一人釈迦の思想は、後に中国に大きな影響を与えたけれど、孔子の思想は、今なお東アジアでは生き続けているものの、インドの人達には決して届かなかったようである。
インド・アーリアの人達と中国・漢の人達とは、どこか根本的なところで思考の回路が違うのであろうか。
快適な中国の列車の旅は、そんな違いを、よりいっそう際立たせているかのように思えてしまう。インドの列車を、苦労と思う人は、中国の列車を、快適と思うに違いない。莫高窟では、少々好みの違った私も、列車では、中国の律儀さが快かった。
午後の3時、嘉峪関の駅で待つ人々は、3つの行き先に別れていた。どれもよく似た時間に到着する列車で、インドでなら、どれがどれか見つけるのに一苦労のところだが、待合室の表示の前に座って待つと、列車ごとに改札が始まり、人々はゾロゾロと、まるでカウボーイに追い立てられる牛のようにホームに向かう。
これだと自分の乗る列車が、どれだかわからないといことはない。それに車両はきちっと番号順に連結されていて、乗るべき車両を探して、前に後ろにと、ホームを走ることもない。
車両には多すぎるほどの車掌がいて、常に掃除に来てくれ、トイレも清潔。棚の荷物もチェックに来て、はみ出しているのは注意される。まあ、これは少々うるさくも思ったが、安心である。
それに乗り込むと車掌が切符を預かりに来て、代わりに札を渡していく。これはその人の降りる駅の少し前に、車掌が交換に来て、目的地に近づいたことを知らせてくれる仕組みだ。
なんといっても私にはこれが有り難い。乗り過ごさないかと戦々兢々とする必要もなく、リラックスして車窓の景色を楽しむことが出来る。
それに、時間が正確。これだけ正確なら、次の駅がどこかも、時刻表から充分予測出来るだろう。
そればかりか、各ボックスには大きなポットが備えられ、それに「カイスイ(開水)」、つまりお湯が入れられている。これはどのホテルにも必ず備え付けられていて、中国の習慣のようだが、何処でも好きなだけお湯がもらえるのである。
それで、カップ麺をつくったり、熱いお茶やコーヒーを自由に飲むことが出来る。これも私には有り難い。
勿論、各駅のホームには、白い上着の売り子さんが、乗客の必要としそうなものを満載して待っている。それに、食事時にはご飯とおかずのお弁当も売られる。つまり、完全看護といったところ。
とても快適、中国列車の旅。何といっても、降りる所の心配なく、リラックスしていられるのが嬉しい。 |
自然と車内の皆もリラックス。上着を脱ぎ、ズボンを脱ぎ、股引といおうか、もう一つの下ズボンといおうか、防寒用に下に着込んだズボンでくつろぐ。
次の日は、列車が西安までのほぼ中間点、蘭州を過ぎたあたりから、窓の外に流れる畑に、緑ががぜん多く目につくようになる。
何だか、季節が冬から春に巡ったかのよう。そんな景色に影響されてか、まるで春先にいつも膨らむ、漠然とした期待のような、そんな少し楽しいウキウキを乗せて、17時54分、特快70次は、予定の時間ぴったりに西安の駅にすべり込んだ。
駅を出ると、街の灯りの赤々と燈る中で、走り回る車、その騒音、そして話す人、歩く人、食べる人、そんな活気が、ワッと私を迎える。
西安の駅前繁華街のうどん屋さん。全部食べてみたくなってしまう。 |
今までウルムチ、敦煌、嘉峪関と、陽が沈むとともに、寒々とした雰囲気に包まれたせいもあって、この雑然がなんとも新鮮で嬉しい。それにがぜん暖かい。その昔、西安(長安)を都と定めた人達の気持ちが、なんとなくわかるような気がする。
とりあえず手ごろなホテル勝利飯店へ行こうと思って、乗り込んだタクシーは、メーターを倒してくれと言うと、これは中国人専用とおっしゃる。別にそんなことを言われてタクシーに乗る必要もない。
「はいそうですか」とさっさと降りて、リュックをかついで歩いていると、2人の女性が話しかけて来た。駅近くの尚徳賓館の客引きである。まあそれも良かろうとついて行ってみると、1日138元(17ドル)でとてもいい部屋。
英語を少し話すその彼女、少し複雑になると書いてくれという。2、3書いてみたら、よく知っている。我々と同じような教え方の中に学んだのだろうか。
ところでこの西安の活気、少々わずらわしくもあった。というのも、次の日の朝、けたたましく鳴る電話の音で起こされてしまう。いったい何なのだと、眠い目を擦って受話器を取ると、ツアーに行くにはそろそろ準備せよと言う。
観光はツアーでするのが当たりまえとでも思っているのであろうか。それとも商売熱心か。
「ツアーは参加しません。」そう言って電話を切ったのだが、しばらくしてまた電話。「行きません!」とやさしい一言。
『行かないと言っているだろう、いったい何度電話すれば気が済むのだ。それに、何時だと思っている。』言葉が喋れればそう言いたいのだが、シンプルな一言しか言い方を知らないのが寂しい。
そんな答えを頼りなく思ったのだろうか。今度は、ドアにノックの音。何の用かとドア越しに聞けば、やはりツアーに行きませんかと言う。同じ人間がしつこく誘っていたのか、それとも、それぞれ違った会社だったのか、あるいは通じていないと思っての親切だったのだろうか…。
やっと押し寄せる勧誘をしりぞけ、静けさを取り戻した部屋で、再びベッドに転がっていると、またまたノックの音。今度は何かと思えば、部屋の掃除をしますという。時間はまだ9時になっていない。
もしもしぃ、スケジュールから外れている人間も、いるのですけれどねぇ…。
西安の城壁を出て、南に少し歩いたところの、唐楽宮の歌舞ショー。唐時代の踊りを取り入れているとか。ショーのみ155元(約19ドル)。鳥の鳴き声に似せた笛は見事であったが、どうも中国の人達は、高い音に美しさを感じるかのよう。 |
西安鐘楼、西安の街の中心。いわばシルクロードの出発点である。 |
" 25元だってっ、なに寝ぼけたことを言っている"
そう機嫌が悪い。敦煌についで、ここ秦俑博物館も写真撮影禁止なのである。
かつて東京に来た兵馬俑展で、喧嘩を売られているような気持ちにさせられ、《像ではなく、像によって引き起こされる自分の心を見る》という、面白い見方を気づかせてくれた始皇帝の兵馬俑。その像の表情を、カメラに切り取りたくて、ここまでやって来たようなものなのに、なんともつれない。
劣化を防ぐ為のストロボ照射の禁止とか、今なお信仰の対象の為というのなら話もわかるが、プライバシーの保護にも、著作権の保護にも当たらないこういった歴史遺産、日本でも撮影禁止をけっこう見かけるが、多くの観光国のように、もっとオープンにしてもらいたいものだ。
秦の始皇帝の兵馬俑。発見された坑が、すっぽり屋根に覆われ、博物館になっている。6000を越える人形の表情が、皆違うというから凄い。 |
そんな不満を心にくすぶらせての入り口前の屋台。肉まんをほうばっていたら、湯飲みくらいの小さなお椀に、ラーメンのようなものを入れて店の人が持ってきた。
「プゥヤォ(不要)」いらないよと、何度も断ったのに、前のテーブルに置いていってしまう。
"サービスなのだろうか?"と、 ちょっと一口。ン!美味しい。といったわけでツルンと食べてしまった。
それをしっかりどこかで見ていたのだろう、ニコニコしながらやって来て、なんと25元とおっしゃる。笑わせないで下さい。普通サイズのうどんでも、5元もあれば食べられます。
交渉するのも面倒で、問答無用と5元をテーブルの上に置いて席を立った。「釣りはいらないよ」もし中国語が喋れれば、そんな一言も言ってやりたいくらいだ。追いかけてでも来るかと思ったが、それで終わり。やはり5元でも御の字だったのだろう。
「兵馬俑に行かないか?」
そんなことがあったとは知らない彼女、西安に戻ったホテルのロビーで、そう言って私に近寄ってきた。一昨日の夜、私をここに案内した彼女である。どうやら本業はツアーの勧誘らしい。
「今日行ったよ」
「ツアーで?」
「いや、一人で」
「なにで?」
「306路のバス。昨日教えてもらったやつ。」
そこまで聞いて彼女、「良し」といった感じで、目を輝かせてニンマリ笑った。
私が他の人のツアーに取られなかったことを知って、満足したのだ。自分がダメなら、人にもいい思いをさせたくないという根性、普段ならあまり気持ち良くないが、こうもオープンに明るく表現されると、むしろ無邪気に思えるのも不思議である。
それにこの彼女、商売っ気もあるが、それを越える人間味もあって嫌いではない。ついつい、片言のやり取りが弾む。
そんな彼女、正面から見ると、目鼻もくっきりしているものの、横顔を見ると、あれっ、顔はどこ?といった感じになる。我々が無意識のうちにも予想する横顔より、平べったいのである。
漢の女性の特徴なのだろうか。結構そんな人が多かった。それに彼女達、姿勢が悪い。
これは日本でも常々思っているのだが、花も盛りの娘さんでも、ハイヒールの膝が曲がり、お腹がへっ込み、アゴを出して歩いているのを見ると、宝の持ち腐れのように思えて、どうしてもよけいなおせっかいをやきたくなってしまう。
おそらく、昔から、頭にものを載せて歩く習慣がなかったためだろうと思っているのだが、この姿勢の悪さ、見た目をかなり左右する。
もしも皆さんの中で、"どうも写真写りが悪くて"と思っておられる方がいたら、だまされたと思って、試してもらいたい。リラックスして、背筋のみにピンと力を入れ、一直線に頭のてっぺんから天に引っ張られている気持ちの姿勢を。
勿論それなりには越えられないけれど、男も女も、老いの若きも、スッキリした自分を見直すはずである。
そんなよけいな一言を言いたくなることも少なくなかったが、あの唐の玄宗皇帝を骨抜きにするほど魅了した楊貴妃も、きっとこんな人だったに違いないと思わせる、西安美人も、少なからず見かけた。
なんとなく唐人形を思い出させる西安美人。 |
「ありますよ」
数年後にはきっと、そんな美人になるに違いないと思わせる、涼しげな目鼻の少女が、隣のコーナーから、そう答えた。
部屋に荷物を置いてから、駅前のデパートに、洗濯石鹸を買いに来たのだが、浴用しか見つからず、筆談用の手帳を出して、「洗濯」とか「服」とか、連想しそうな漢字を書いてみたり、服の端をつまんで、洗濯の格好をしたりと、ちょっとした騒ぎになってしまっていた。
「トゥオ シャオ チェン(多少銭)?」
いくらかと聞けば、12元と言う。別に取り出した袋の粉石鹸は、小が4元、大が8元とのこと。ちょっと高いような気がしたが、石鹸の大小と値段が符合するように思えて、そんなものかなと、その12元の固形石鹸を買った。
けれど道々計算するに、10元もあれば充分食事が出来る額。贅沢品ならまだしも、石鹸は中国の人たちも使う必需品。人民の国中国で、そんなに高いはずがない。
どうも納得がいかず、どこかで確かめられないかと思っていたら、ちょうどホテルの売店の片隅に同じ物を見つけた。さっそく値段を聞けば、な、なんと、2元と言う。
カカカカ―――ッと、怒りが音を立てて頭を突き抜ける。クソォ〜、あの笑顔は、ホクソ笑みだったのか。それを可愛いと思ったとは…なんたる不覚! ゆ る せ ん !
石鹸を持って、駈け戻る。「ホテルは2元だ。こんな高いのいらない。12元返してくれ!」ところがその小娘、なんだかんだとごたくを並べて、一度握ったお金、なかなか返そうとしない。
こうなったらもう、中国語でなど話していられない(もともと話せないけれど)。伝えるべきは、意味ではなく、迫力だ。負けるわけにはいかない。
ガミガミガンガン!かなりしぶとかったが、ついにその小娘、観念してお金を投げ返した。
そのふてくされた顔も、投げ返すしぐさも腹が立ったが、まあ、金が返れば良しとデパートを後にした。ところであのもっともらしい値段、とっさに考えたのだろうか…。
大雁塔の大慈恩寺。孫悟空の活躍する西遊記のモデル、玄奘が、帰国後仏典の翻訳に励んだところだそうだ。 |
龍門の石窟。造営が始まったのは493年とか。中国王朝文化の宝庫である。前を流れるのは伊河。写真では見難いがの右上の少し黒っぽい一角が石窟のほぼ中央で、盧舎那仏のあるところ。 |
中国人らしく、意識ははっきりと外に向いている。
盧舎那仏というから、仏像なのだろうが、内面の世界に見とれているようなガンダーラ仏とは、ずいぶんと表情が違う。
けれど、確かに内に秘めたものも持っている、しかもしっかりと張り詰めて。まるで喉まで来ている思いを抑えて、言い出すタイミングを、今か今かと待つ娘のよう。
トルファンをあきらめて、そのあまった日程で訪れた洛陽。その南12kmの龍門の暖かい岩に囲まれて、その盧舎那仏は正面をしっかり見つめていた。
あの唐の治世を中断した女傑、則天武后をモデルにしたというその表情、悟りの表情というより、むしろ漢の女性の気質を表しているように私には思えた。
龍門石窟奉先盧舎那仏。多くの仏像に見られるような瞑想の表情ではなく、気はハッキリ外に向かっていた。 |
さすがにここは撮影禁止などと野暮なことはいわなかったが、龍門へ来た私の目的は、またまた肩すかし。
というのも、自分では書けないのだが、私は北魏の字体がとても好きなのである。少しバランスが崩れたようで、その崩れそのものが美しい表情になっている北魏の書体は、文字のもつ意味以上に、その造形に筆者の気持ちが表現されているようで、見ていてあきない。
その北魏の書の代表ともいえる、龍門造像記のほとんどがあるという古陽洞が、どういうわけかまたまた立ち入り禁止。観光客はそんなものあまり興味を示さないというのであろうか。それともオフシーズンだからか。
北魏の書ではないと思うのですが、なんとなくその書風を漂わせているように思える石碑。石窟の正面東山にて。 |
これで、敦煌、秦俑、そしてここと、私の望みは三連敗、がっかりしてしまう。まるで、お決まりのコース以外には、個人の気まぐれな興味で動くスペースはございませんと、つれなく断られているかのよう。
そんな取り上げられたスペースの狭間で、生きているように思える男を、その日の夕方、駅の食堂で見かけた。
一般に中国では、皆でわいわいガヤガヤ楽しく食事をする事を前提している為か、レストランなどで、一品を注文すると、とても多い。
例えばメニューの餃子を指差して注文すると、大きなお皿に山盛り出て来てしまう。こんなにどうして食べられようかと、見ただけでギブアップである。
それに懲り、半斤にしてくれと注文をつけても、確かに半分にはなっているのだろうが、日本の一人前で充分の私には、とても食べ切れない。
一人ではとても食べきれない。どちらもメニュー(1斤)半分の注文。 |
駅の食堂だから、個人向けの盛り付けのようだったけれど、それでも食べきれず、餃子の3分の1程を残して、勘定に立った。
とその時、黒い影がさっと風のように過ぎたように思えた。何だろう?事態がのみこめずきょとんと眺める目に、白い皿が焦点を結んだ。食べ残しがなくなっている。
帰りにその黒い影が消えた出口を通ってみると、男が一人、入り口近くの窓の外にしゃがんで、戦々兢々と、中の様子をうかがっていた、客の食べ残しを求めて。
社会主義国中国、公式には乞食はいないということになっているのだろう。より貧しかったかもしれないが、存在そのものは堂々としていたインドの乞食の人達を思い出す。どちらも幸せではないかもしれないが、存在そのものを消されているかの中国の彼、その挙動が、悲しかった。
そんな悲しさも手伝って、いつも通り過ぎていた、街頭で胡を奏でるアーチストの老人の箱に5角(7円ほど)を入れた。
そうしたら、心からの表情で最敬礼をされてしまう。そんな礼をされてしまうと、もっと入れればよかったと、入れたお金のあまりの少なさに、なんだか悪いことをしたようで、いそいそとその場を立ち去った。
けれどビタ一文出したくないこともある。洛陽最後の日、北京への夜行までの間に、少林寺にでも行こうと、朝の内にチェックアウトをした。
するとフロアの係りに電話をしていたフロントの娘さん、部屋のハンガーが2個破損しているからその分の4元(60円)を払えと言う。
いったい何のことかと、もう一度10階まで確かめに戻った。フロアの係と部屋に入り、どれだと聞くと、プラスチックのハンガーをとり、その端3cmほどの、折れている爪の部分を指差した。
よくもいけしゃぁしゃぁとお嬢さん!気がつかない客は、指摘されると、そうかなと自信なく思うだろうと計算したのだろうか。そうは行かない。
洗濯した靴下をそこに引っ掛けようとした時、偶然その二つを手にしたのだが、その時すでに先はもげていて、別のと取り替えねばならなかった。まったく不便なものを使わせておいて、その上、弁償せよとは開いた口も塞がらない。西安の小姐への腹立ちが蘇ってしまう。
ふざけるんじゃないと抗議して、一階のフロントに向かったのであるが、フロントでは再びフロアの係りと長い電話のやり取りの後、しぶしぶの感じでOKする。
けれど今度は、リュックの預かり賃を5元頂きますと言う。何を言うかと、怒るのもめんどうになってくる。背の壁に張られた紙には、眼鏡をかけない私でもはっきり読み取れる字で、「毎件2元」と書かれている。
2元と書いてあるじゃないかと指差すと、ふてくされた顔で、「じゃ2個だから4元下さい」という。
こうもごまかされ続けると、「毎件」というのは、日本語的ニュアンスで読んで、一個ではなく、一回につきじゃないのかなと疑いたかったが、そんな詳しい意味まで知らない私は、ひょっとして2倍取られているのかも知らないと思いつつ、その4元を渡してホテルを出た。
それにしてもなんともこざかしい小娘達。無意識のうちにも嫌われているのだろうか。それとも、だましてでも何処からか4元のハンガー代を工面しなければならない、お役所仕事のような融通のきかない、つらい立場にあったのだろうか。
何処となく、上の写真の盧舎那仏と雰囲気の似る洛陽美人。どこの国でも仏像は、その地方の美人に似てくるようだ。 |
少林寺へのバスは、一寸先がモヤの中。 |
これはもう大胆というより無謀。事故がおきないのが不思議なくらい。けれど今さら降りるわきにもいかない。祈る思いで、前を見つめる。
その前が見えない。7、8mほど先を走る車のテールランプが、かすかに見えたり隠れたり。道路中央の白線は、破線一つがやっと見える程度で、その次はもう見えない。道が右やら左やら、行く手に何があるのやら。
けれどミニバスは時速40km程で走り続けている。西安もここ洛陽も、毎朝濃い霧に覆われたような日が続いた。かといって、そんなに湿った感じでもないので、公害のスモッグかとも思ったが、日中になるとかなり晴れる。
それにもし公害なら、これほどひどいのを黙ってはいないだろう。とするとやはり自然の現象か。けれど、もしそうなら、長い歴史の中で、詩の一つにでも詠われ、もっと有名になっていてもよさそうなのだが…。
言葉がわからず、要領を得た答えを聞き出せなかったが、少なくとも皆は慣れっこのようだ。バスの中で肩に力が入っていたのは一人私だけのようである。
今夜の列車に乗らなければならないから、あまり遅れてもらっても困るけれど、かといってこのモヤの中、無鉄砲に飛ばしてもらっても困る。
そんなジレンマのバスは、あれっと思う時間に、幹道をそれ、とあるお寺の前に止まる。少林寺到着にはまだ少し早すぎるようだが…。
「もう少林寺?」そう聞く私に、「白馬寺」とガイドは答える。中国初の仏教寺院、千九百年を越える歴史を持つ洛陽の観光ポイントの一つである。けれど私は一昨日既に一人で来ている。ここで時間のロスはしたくない。
確か勧誘の時は、白馬寺に寄るなどと一言も言っていなかった。そうガイドに言うと、「一時間で出発するから」とのんきに構えている。やっぱりツアーは失敗だ。
白馬寺に祈る人[前々日] |
出来れば気ままに来たかった。というのも私はどうしても達磨洞に登ってみたかったのである。そう、拳法で有名な少林寺は、禅宗の発祥の地でもある。
その開祖達磨が座り続けたという達磨洞、そこに実際に立って、彼の思いへの想像を膨らませてみたかった。けれどその達磨洞まで登るには、片道1時間ほどかかるという。
となると、そんな物好きな人を予想していないツアーの時間内では結構忙しい。けれど今夜、北京への夜行に乗らなければならないことを考えると、確実な帰りの手段も確保しておきたい。
そんな思いで駅前のターミナルをうろうろしていたら、このツアーに誘われた。帰りは4時だという。片道1時間半として、向こうに4時間ほどいられることになる。
これにするかと、楽な道を選んでしまった。けれどやはり手抜きは手抜き。中国の人たちの好みのスタイルに付き合わされてしまう。
11時、ようやく視界は開け、バスはスピードを加える。けれど少林寺に着いたのは既にお昼。その上今度は、その少し手前の食堂で、バスは止まってしまう。
ガヤガヤとバスから降りたみんなは、どやどやと食堂の席に着く。楽しいお食事、お決まりの旅行コースである。ガイドの案内のままに歩くつもりならそれもいいが、私はそうもいかない。時間は刻々となくなってくる。たまりかねてガイドに交渉した。
「今すぐ少林寺へ行きたい。ダメならここでツアーはやめるから、帰りのバス代の15元を返してくれ。」と。
どうも一度握ったお金を返すというのは、抵抗があるのだろう。すぐに出発するからと、食堂に皆を残し、一人私を少林寺のある少室山風景区入り口へと運んだ。
時間は12時10分。もうゆっくり出来ない。けれど昼抜きもこたえるので、5元のうどんで腹ごしらえをし、近くの売店に入った。フイルムが残り少ない。達磨洞というと、洞窟ということだろうから、少々暗くても撮れるようにと、ケースの中のISO400のフイルムを指差すと、40元だという。
「太貴了 (タイ グゥェ ラ)!」
高いと言うと、いくらなら買うとおっしゃる。そんな値段では売らないだろうとは思ったが、とりあえずISO100の値段より、少し高い程度の、25元と言ってみた。
するとそのお嬢さん、急に何かを思いついたように、ちょっと待てと、あちこちの引き出しをあわてて捜しまくり、これなら25元でいいと、コダックのフイルムを差し出した。
見ると確かに400となっている。本当かと念を押すと、そうだとうなずく。どうも納得がいかない。方や40元、方や25元。もう一度良く見たが、確かに400、それに期限も大丈夫。どうも有り難うと山に向かった。
達磨洞への道。修行の洞は頂上付近、右手に白い達磨像が見える。 |
ただ岩だけだったインドブッダガヤの前正覚山とは違って、頂上の達磨洞までの道は、階段に整備され、今なお人の往来がある。そんな道の雰囲気をゆっくり味わいたかったが、とにかく時間が心配で、頂上目指して息を切らせた。
達磨洞に着いたのは、ちょうど1時。6世紀の初め、インドの僧ボーディ・ダルマ、そう、あの"だるまさん"が9年もの間、誰にも会わずに座り続けたという達磨洞、けれど入り口は整備され、石の門までつくられて、何処となく人工っぽい。
どうも中国の人は、自然を楽しむところはあるのだけれど、自然をむしろ公園に加工して楽しむようなところがある。万里の長城をつくってしまうバイタリティだろうか。道を整備し、階段を作り、庵を建てる。
まあそれも中国の風景に溶け込んでいると言えなくもないが、やはり達磨洞はそのままにしておいて欲しかった。何だか私には少し興ざめ。
けれど色即是空と昇っておいて、空即是色と現世へ裏返るのが禅の醍醐味。下手に神秘性など保たず、世間好みの公園風なのも、達磨洞らしいのかもしれない。
いずれにせよ、そんな雰囲気に少々写真の意欲は薄れたものの、とりあえずと、下の景色を撮ったところでフイルムが切れた。洞の中を撮るにはちょうど良いタイミング。
ポケットから先ほど買ったコダック400を取り出し、箱を破いたのだが、出てきた中身は、ななな、なんと、ISO100。信じられますか?中身を入れ替えて、箱を糊付けしてあったのです。
どうしたかって。どうも出来ません。
降りて取り替えてまた登ってくるというわけにもいきませんから。山を降り、残された50分で、少林寺から塔林へと駆け足で回り、その塔林で私を拾ったバスは、一路洛陽へ。結局私は泣き寝入り。
おかげで達磨洞でその気分を想像してみたかった私の思いは、その腹立たしさに木っ端微塵。
これで立て続けに3度。しかもみんな年端もいかぬお嬢さんばかり、まったくぅ、もぅおっ…。
最高の笑顔。あの三国志の英雄、関羽が埋葬されているという関林廟への途中で、ポーズをとってくれた子供達。それにしてもこんな顔で、私ももう一度笑ってみたいもの。 |
「ニホンジン?」
どこが違うのだろう、別にとり立てて笑顔を作っているというわけではないのに、馴染みの店のような気分になれるのは。北京の徳勝門から、919路のバスで1時間半、万里の長城・八達嶺前の食堂で、そう言って迎えてくれた韓国人のおかみさんは、私を悩ます小姐とは、ずいぶんと雰囲気が違っていた。
日本のファミリーレストランなどで見られる、まるで録音テープのような、マニュアルどおりの「ご挨拶」というのもいただけないが、昨日の庶民食堂の小姐にも、少々疲れてしまう。
外人の出入りするような所ではなかったせいか、夕食に入った食堂で、包子(パオズ・肉まん)を注文したのだが、「ァアッ」と例の突っ張りで聞き返されてしまう。メニューを指差しながら、もう一度「ウォヤオパオズ(我要包子)」と言っても、「ァアッ」と言い返すのみで動かない。
楽しい異国でのやり取りが始まる場面なのだが、このところの御難続きで、ついつい不愉快になってしまい店を出た。2軒目に入った店も、店員同士がお喋りをしていて、いっこうに注文を取りに来ない。結局、夕食にありついたのは三軒目、その思いの反動か、彼女の柔らかさが嬉しい。
万里の長城・八達嶺の入って左側、通称男坂の急勾配を登ってさらに進むと、ほとんど人はいなくなってしまう。 |
そんな気持ちになったせいでもないだろうが、この日の八達嶺は温かかった。12月もおし迫っていたにもかかわらず、戻ってきた北京は、到着した時とは違って、寒さも和らいでいた。
入り口左の急勾配を登ると、次第に観光客もいなくなり、長城の修復された終端はもう、見渡す限りの山々に囲まれて、シーンと静まりかえった辺境の世界。立ち入り禁止の柵の向こうには、うねうねと横たわる、崩れたままの石積みが、青くかすんだ尾根の先へと消える。
それにしてもよくもこんなものを、あの嘉峪関までつくったものである。いったいどれだけの人が、どんな思いで、石を積み上げていたのであろう。
八達嶺の尾根を延々と這う石積み。これがあの嘉峪関まで続いているとは…。 |
一般に、どうしても、ああだこうだと好き勝手を言い出してしまう人の心が、一つにまとまるのは、その全員に襲いかかる難題があるときである。
だから、争いの絶えぬ人類ではあるが、もしもの話として、宇宙人でも襲ってきたら、その時地球は一つになり得るだろう。けれどそんなことあって欲しくない。つまり視野を少し広げると、感動的団結必ずしも好ましい局面とはいえないのである。
ところでちょっと話は余談になるが、そう思って選挙演説などを聞くと興味深い。必ずといっていいほど、「危機」を行く手に描き上げ、「今こそ我々は…」と来る。「危機」をよりリアルに、より深刻に描けば描くほど(あるいは、であればあるほど)全体がまとまるというわけだ。
宗教はこの意味では、誰にでも来る死という難題をタガに、人々の心を整列させる面があるように思える。エジプトのピラミッドや、インドのエローラ、アジャンタといった巨大建造物には、そんな宗教の結集力が働いていたのではないだろうか。
けれどこの万里の長城にはその宗教性がない。あるのは騎馬民族というこの世の大敵。いかにも抽象より具象を好む中国人らしい。
けれど、紀元前一千年頃、ハミの工夫が馬の背に乗ることを可能にして以来、草原を自由に駆け巡り、漢の人々を悩ましてきた騎馬民族。はたして、実際にこの石を切り出し、運び、そして積み上げた人々にとっても、騎馬民族は切実な現実の脅威だったのだろうか。
それとも、その恐怖は、現実というより、むしろほとんど虚像の、まるで見たこともないお化けを恐れるような、そんな恐怖一般を震え上がらせていたのであろうか。
あるいはそれとも、それはただただ暴君が故の災難だったのだろうか…。
ところで観光客でにぎわう反対側の終点もと欲張ったのであるが、ロープウェイ近くまで来た時には、山に囲まれているせいか、いつもの感覚より早く太陽が沈みそうになり、暗くなっては大変と、あわてて帰ることにした。
日の沈みかけた長城。急いで帰途につく。 |
北京の宿は飛霞館。少々街の中心から離れてはいるが、192元(24ドル)と格安。けれどテレビの接触が悪い。
中国語はわからないのだから、どうでもいいように思ったけれど、一応フロントに言ってみた。30分程で男がやってきて、手際よくコンセントをなおし、ついでにスタンドもつくようにして、笑顔を残して出て行った。
その彼のなおしたテレビから、先の戦争での日本軍の侵略を批判する歴史ドキュメントが流れている。
特定のチャンネルなのかどうか知らないけれど、中国のテレビをみていると、必ず一日に一度や二度はこういった番組に出くわす。
個より全体を重視する考えに命を吹き込むのは、やはりその全体に襲いかかる大敵。かつての日本軍は、今なおその役目を担っているのだろうか。
それにしても日本では、8月の終戦記念日あたりでしかお目にかからなくなった戦争ドキュメント、国によってはずいぶんと違うものだ。中国では今なお現役のバリバリ。
どうやら歴史というのは、過去に何がどうであったかということの他に、今の人々がそれをどのように捉えているかということも、そこから生まれたもう一つの重要な事実として、考えなければならないように思えてくる。
「ニィ シィ チュンゴンレン(中国人) マ?」
次の日、椰子の実ジュースを買った食料品店の小姐は、そう言って私を見た。どうしても筆談になってしまった今回の旅で、耳に力を入れることなしに、すっと意味が入ってきた初めての言葉。
「ノォー、リィベンレン(日本人)」
思わずそう答えてしまった私、英語とまぜこぜ。それでも通じたのであろう、小姐の目がゆるんでいる。ちょっとした言葉が通じることで、こうも印象が違うものなのだ。何だかほのぼのと嬉しくなってくる。
一般に、秘密を分け合うと何故か親密に感じるもの。人と人は共通に知る何かを介して、親しさを感じるのかも知れない。言葉は、その何かを担うのであろう。
日本人のまるで意味のないお天気の挨拶も、天気を巡っての同じ気持ちを確かめ合って、親しさをつくり出しているのかもしれない。
だとすると、共有できる歴史認識こそ、民族と民族が親しくなる為の、うやむやには出来ない不可欠の、この「何か」ということになりはしないだろうか。
北京の宿、飛霞館近くの市場にて。売っているのは、ハミ瓜でしょうか。 |
第1章 おわり