イラン ・ チャードルと薔薇と親切と  《 第9部 イラン編 》
第1話 テヘランの人々第2話 テヘランの一日第3話 18日は何日?第4話 気になるチャードル
第5話 死の町アルゲ・バム第6話 ケルマーンの水タバコ第7話 シラーズ到着 朝6時第8話 ペルセポリスは今もなお
第9話 ヤズドに残る沈黙の塔第10話 エマーム広場の少年第11話 おしゃれなカラス第12話 気になる若者
第13話 キャビア様
イラン ・ チャードルと薔薇と親切と
第1話 テヘランの人々 No.143No.143
イラン地図

 なんだか恥ずかしい事をしてしまったような戸惑いを感じて、手に握った250リヤールの硬貨を、ポケットに突っ込んでいた。

 朝の4時50分、まだ夜も明けきらぬ7月のテヘラン空港、街が目覚めるまではと、ガランとした待合室で待つ私に、少年が近づいてきた。

 日本でいえば小学校の五・六年生といったところであろうか、こんなに早くから靴磨きの仕事である。

 料金は5000リヤールというが、つい先ほど初めてイランのお金を手にした私、それが高いのやら安いのやら。けれど、飛行機から下りたばかりの靴、いずれにせよ靴磨きはいらない。

 ノオと断ってはいたが、こんなに朝早くから頑張る少年に、飴の一つでもといった気持ちで、両替したお金の中の、一番大きな硬貨を渡そうとしたのである。

 少年は冷たく首を振って、静かに私を見ていた。きっと桁外れに少な過ぎたのだろう。けれど、何だかそこに、そうではないイラン社会の誇りに、襟を正されたような思いを感じてしまう。

 そんな気まずさの残った、待合室の木の椅子に寝転がって待つこと2時間、ようやく街も騒がしくなってきた7時過ぎ、タクシーの勧誘に来た男の、街中まで5ドルという値段を、インフォーメーションで聞いた4ドルに値切って、空港を出た。

 てっきり彼がドライバーかと思っていたら、私を別の男に引きあわせて去って行く。

 「ホメイニ広場、4ドル」もう一度確認して乗り込んだタクシーだったが、動き出してまもなくスピードをゆるめたドライバー、ふり返って5ドルと言い出す。まったく何を言うかとインドを思い出してしまう。

 そういえば街の様子もインドに似ている。この道路の混雑などは、まさにインドそのもの。イランとインドとは、全然別の文化圏のように思っていたが、むしろ、共通点の方が、多いのかもしれない。ひょっとして、近代国家の成立する以前は、同じ文化圏といえたのだろうか。

 その混雑にリクシャの姿が見えないのは、少々寂しくもあったけれど、隙間が少しでもあれば容赦なく突っ込んでくる車は、インドをほうふつとさせ、なんだかワクワクするものを感じてしまう。

 横断歩道も、歩行者には信号など意味がない。赤だろうが、青だろうが、車の間を縫ってどんどん渡る。ついつい踏み出せない私など、通り合わせた子供の渡るのをこれ幸いと便乗して、横を小走りに渡ること度々であった。

テヘラン写真
インドに負けないこの混雑、通りを渡るには気合がいる。
 【テヘラン、エマーム・ホメイニ広場近く】

 そんな道を、タクシーは突っ走る。ガンとして4ドルと言い張っていると、途中女性を一人乗せた。少々稼ぎを増やそうというわけだろう。まあ、スペースは十分あるので、文句はいわずにそのままで。

 けれど彼女が下りてまもなく、ポリスに止められてしまう。しぶしぶタクシーを出た彼、何かをさかんにアピールしていたが、舌打ちをしながら帰ってきて、渡された紙切れを私に見せて嘆いた。

 言葉の意味はわからなかったけれど、どうも、罰金か何かのようだ。別にスピードを出し過ぎているというわけでもなかったのだから、いわゆる白タクだったのだろうか。それとも、外人を乗せるのに特別の許可でもいるというのか。

 運の悪い彼、しばらく走ってまた止められてしまう。彼は先ほどの用紙を見せ、さかんに今度も言い訳をしているようであったが、またまたもう一枚用紙を渡され、頭を抱えて戻って来た。いやにポリスが幅を利かせている。

 その彼、ホメイニ広場で約束の4ドルを渡し下りようとすると、その紙を私に見せ、もう1ドルくれと、泣き出さんばかりに訴えてきた。その表情から察すると、赤字だと言わんばかりに。けれど私のせいではない。気の毒ではあったが、かたくなに拒否してリュックを担いだ。

 ところがその私も、車でごった返すホメイニ広場のロータリーを抜け、アミーレ通りに向かおうとすると、ポリスに呼び止められてしまう。

 あの嘆いていたドライバーを思い出し、何かを言われるのかと少々いぶかしく思いながら彼の質問に耳を傾けると、英語でどこに泊るのかと聞く。

 私はガイドブックにあったエコノミークラスのホテルを言ってみると、近くのシー・カザーホテルが、インターナショナルで設備も良くお勧めだと、地図を示して教えてくれる。どうも、職務上の質問かと思ったのだが、ただの外人への興味のようだ。

 そんな興味を持つのは彼ばかりではなかった。街を歩いていると、やたら英語で話し掛けられる。10歳程の子供から、60歳は越えているだろうと思える大人まで。中には通りすがりのバスの窓から「ハロー!」と大きく叫んでいく人もいる。

 子供相手なら、「やあ」と笑って通り過ぎても、年配の人にまじめな顔で呼び止められると、何なんだろうと立ち止まって聞き入ってしまう。

 けれどたいがいは、「名前は?」「国は?」「いつ来た?」「イランをどう思う?」「仕事は?」といったこと。知っている限りの英語を総動員して楽しんでいる。英語を話すということが、ちょっとしたステータスででもあるのだろうか。

 だんだん面倒になって、少々の声は聞こえなかったふりをしてさっさと歩く。けれど3人に1人くらいは返事を返す。それでも受け答えのしっぱなしのように思えてしまう。

 街角で地図でも広げていようものなら、知らぬ間に人の輪に囲まれている。みんなとても親切、とても親日的。

テヘラン写真
 イランの人達は、驚くほど親切、それにとても親日的。

 そんな一人が私に言った。「アメリカはダメ。日本は良い。」

 バンダル・アッバースまでの列車の切符を買いに行って立ち寄った、サンドイッチレストラン。歳のころは、30半ばくらいだろうか。

 「何故アメリカはダメ?」そう聞いてみた。

 「アメリカはフセインをけしかけて、イランを攻めさせた。フセインはその褒美がもらえなかったから、クェートに攻めた。」それが彼の答えであった。

 えっ!と思ってしまう。8年にも及ぶ戦争を戦い抜いた彼ら、フセインの背後にアメリカの影を見ていたのだろうか。

 とはいえ、はたしてそれが事実かどうなのか、私にはかいもく見当のつかぬところ。けれど、彼の反米感情だけは、容易にぬぐえない、確かな事実と言ってもよさそうであった。

 「で、日本は何故良いの?」

 私は、てっきり、日本の経済力とか、イランとの友好関係が返ってくるのかと思った。

 「アメリカと戦った国だから」それが彼の答えであった。

 えっ、えっ!と思ってしまう。喜んでよいのやら、悲しむべきなのやら。

 勿論、旅の間で、そんな意見を聞いたのは、彼だけであった。けれどすっかり生まれ変わったと思っている日本だが、外から見れば、必ずしもそうではないようだ。

 いや、いや、ひょっとして、変わったように思い込んではいるけれど、あの日本が今と違うのは、単に歴史のどこかでの、ちょっとしたボタンのかけ違いだけなのだろうか。

テヘラン写真
 テヘランの西、アーサーディー広場に、ペルシャ建国2500年を記念して建てられた、高さ45mのタワー。現代イランの象徴的モニュメント。
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第2話 テヘランの1日 No.144No.144

 窓の外の話し声で目が覚めた。時計はもう8時を指している。日本ではちょうどお昼時だ。昼間は暑い7月のテヘランも、朝夕はめっきり過ごしやすい。

 机の上の温度計は26℃でも、湿度は44%。肌がサラサラと気持ち良く、ぐっすりと眠っていたようだ。日本の夏も湿度がこの程度なら、どんなに快適なことだろう。

 それに野菜ジュースのせいか、お腹も快調。そう、イランの街には、空気が乾いている為か、所々にジュース屋がある。メロンにバナナに人参に…、その場でジューサーにかけての天然もの。だいたいコップに一杯が、1,500〜2,500リヤール(20〜30円)。

 「ハウイシュ」それが私のお気に入り。人参ジュースである。ただ人参をジューサーにかけるだけ、別に味付けはしない。けれどとても美味しい。

街のジュース屋
 街のジュース屋。私はもっぱら人参ジュース。左の丸く大きなのはメロン。【写真エスファハーン】

 お腹の調子といえば、トイレも実に壮快。だいたいは日本と同じ、しゃがんでする方式だが、紙は使わない。どこでもホースが付いていて、それで水をかけながら手で洗う。

 はじめは抵抗あるかもしれないが、一度やってみると皆さんもきっと病み付きになると思う。インドの場合は器に入れた水を自分でピチャピチャかけながら洗わねばならなかった。それだと慣れないとうまく水がかからず、足りなくなる事態になりかねない。

 その点ホースだと納得のいくまで洗えて、しかも紙よりもはるかに清潔。更に肌にもやさしい。お尻が濡れるのではと心配されるかもしれないが、乾燥しているイラン、全く気にならない。

 けれどそのトイレ、エコノミークラスのホテルでは、共同のところが多かった。現にこのフィールーゼホテルも、シャワーは部屋についているものの、トイレはホールの隅の共同。だいたい他の国では、シャワー付きの部屋はそこにトイレも付いていることが多いのだけれど…。

 想像するに、イランの人達は綺麗好きに違いない。トイレが同じ部屋では、落ち着かないのではないだろうか。

 そんなことを想像させるほど、街も綺麗である。車の混雑はインドそのものであっても、ゴミがない。

 とはいっても、人の多いテヘラン、自然とゴミは街に散らかってしまう。けれど私の印象では、テヘランにかぎらず、イランの街はきれいであった。一度そんなことを、出会った日本人に言ってみたことがある。

 「これで?」というのが彼の返事であった。

 日本から見るとそうなるのかもしれない。けれど客観的に見て、確かにイランはゴミの散らかりの少ない国だと思う。そこに何だか彼らの国民性が現れているように私には思えた。

街の飲料水
 空気が乾燥しているせいか、街の所々には、冷たい飲料水が置かれていた。旅の後半、少しずつ飲んでみたが、お腹は大丈夫だった。私のお腹が基準になるなら、日本人でも大丈夫なようだ。 

 9時過ぎ、そんな街に出てみた。日が昇るとさすがに暑い。ホメイニ広場から、四角くそびえる大きな建物の電話局を背にのびる通り一帯は、イランを代表する博物館が集中している。

 その一つ、イラン考古学博物館は、なんと入場料が60,000リヤール、ドルにすると7.5ドル。そんなものかと思われるかもしれないが、現地の感覚ではとても高い。

 当然期待に胸膨らむのだが、ダレイオス一世の謁見のレリーフなど、イスラム以前のものには、興味惹かれるものが多かったけれど、イスラム以後の展示は、どうも私にはよくわからなかった。

 テヘランの博物館はもうそれで十分かと思ったが、昼食を済ませた午後、革命前の王家が所有していたという、宝石博物館へ行ってみた。とても厳重なボディチェックは、カメラはおろか、ベルトにつけていたコンパスも、手に持ったガイドブックもダメという。

 銀行の地下金庫でもあるその部屋には、光の海と名付けられ、世界最大といわれる182カラットのピンクダイヤから、26,000個の宝石が散りばめられた玉座。更に、51,000個の宝石で描かれた地球儀や3,000個以上のダイヤの輝く王冠…。

 それにしてもこれほど多いと、高価なダイヤも、ただのガラスの破片に見えてきてしまう。そんな覚めた目で見ていてつくづくと思った。所詮美しいのは反射する光ではないのかと。

 ガラスに反射する光も、ダイヤに反射する光も、そりゃ量や屈折の複雑さは違うかもしれないけれど、そこにどれほどの違いがあるのだろう。

 なにもこんなものに目の色を変えなくても、キラキラ輝く湖面は、時にはもっと美しい。朝日に染まる東の空は、時にはもっと感動的だ。

 そんなふうに思ってしまうと、ものものしい博物館が、なんだか少し滑稽にさえ思えてきてしまう。まあ、私には縁のない世界ということなのだろう。

 そんな世界から、階段を登り出て来た外は、パッと明るい日差しの中、まだまだ暑い7月の午後。

 その中を、ぶらりと歩いて1時間、街の南、かつてのカザール朝以来テヘラン経済の中枢を担ってきたというバザールは、午後にもかかわらず大混雑。

 メインの通りは東京の朝のラッシュだ。それも人ばかりではない。荷車や時には自動車もおしくら饅頭に参加する。

バザール
 テヘランのバザール。午後でもこの賑わい。メインの通りは、押すな押すな。

 そんな中、ひょいと迷い込んだエマームホメイニモスクの静けさは、ただそれだけで神秘的にすら思えてしまう。

 そこからもう一度混雑を通り抜け、出て来た通りで写真を撮っていると、東京の亀戸で働いていたというイランの人が、日本語で話し掛けてきた。亀戸は私も度々出かけた懐かしい所。不思議なもので、昔からの知り合いのように亀戸のあれやこれやの思い出を楽しんでいた。

 夕方、陽も傾きだしたエマーム広場近くの、夕食に入ったレストランでは、フィーレ・キャバーブを注文した。

 まだ少々準備中のような雰囲気ではあったが、しばらくして出された皿には、2本分の牛肉の串焼きに、緑の野菜と四半分に切られた玉ねぎ、それにゴルフボール大のトマトが数個のっていた。

 ところがそのトマトの表面が黒くこげている。焼きトマトである。トマトを焼いて食べている人たちがいるなどとは、ここで初めて知ったこと。味は、そう、味は残念ながら予想どおり、焼いたトマトの味、それなりの味。

 ところでそのままといった感じの玉ねぎは、手に持ってガリッとかじって食べた。こんな大胆な食べ方は始めてであったが、別に涙が出るでもなく、これは意外に粋な食べ方のように思えた。ナーンと冷たいコーラとで、12,500リヤール(1.5ドル)。

イラン料理
 フィーレ・キャバーブにサラダとライス。ライスはチェロウと言って、油と塩で味付けされていて、インディカ米だがとても美味しかった。【写真はシラーズのレストランにて】

 そこから、混雑のエマーム広場を東に折れ、戻ったホテルのロビーでは、みんな集まってテレビ観戦に熱くなっていた。私を見つけると、一緒に見ようとさかんに誘う。ちょうどイラン対日本のサッカー中継だった。

 サッカーといっても、少し小さいコートでするサッカーらしい。そんなのがあることすら知らなかったが、彼らはとても嬉しそう。それもそのはず、まもなくゲームは終わって、8対4でイランが勝ったのだ。

 少々の興奮を残して、テレビから離れる彼らに混じって、私も部屋に戻ってシャワーを浴びた。出て来ると真夏の夜なのに、ヒヤッとむしろ寒いくらい。湿った肌が急速に気化熱を奪われているのだろう。

 気持ちよい気分で、目いっぱい窓を開けた。嬉しいことにテヘランには蚊がいないようなのだ。

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第3話 18日は何日? No.145No.145

 座席番号30、車両番号2、出発時間は13:40と読める。問題は日付である。  カウンター前のベンチに座って、先ほど受け取った列車の切符に見入っていた。

 ホルムズ海峡の町、バンダル・アッパースまでは鉄道が走っている。約19時間の夜行寝台は、56,500リヤール(7ドル)。

 その切符を駅で買おうとしたら、ここでは前日分までしか売らないから、旅行会社で買ってくれという。チャードルに身を包んだイランの娘さん、その服装の保守的な印象とはうらはらに、綺麗な英語でとても歯切れが良い。

テヘラン地下鉄駅前
 7月のテヘラン。女性はどんなに暑くても、チャードルかマーントーという長いコートで身を包む。ほとんどが黒一色。〈この暑いのにどうして?〉そんな思いが旅の間中離れなかった。写真は地下鉄駅前。

 横のもう一人も、テキパキと髯の男に説明していた。けれど対応が、なにがしか柔らかく思えたのは、言葉のせいだろうか。イランの言葉、なんとなくその響きが、フランス語に似ている。

 もっとも、フランス語を解さない私、もしかして、トンチンカンな印象を言っているかもしれないが、彼らの話し声、フランス語かと耳をそばだててしまった。

 「で、その旅行会社は何処?」

 フランス語とはほど遠い響きの、私の英語でそう聞くと、メモを書いてくれた。通りの名と、見印になる銀行、それに旅行会社が書かれたそのアルファベット文字は、渡す前に何度も何度も読み返していた彼女の気持ちそのままに、少々自信なさそう。

 けれど結果はとても正確。ピタリとこの旅行会社に来ることが出来た。何度もメモを見直していた彼女の、その正確さへのこだわりは、イラン人の気質の一面なのだろうか。

 そんな人たちの扱う切符、そのまま鵜呑みにしてよさそうにも思えたが、やはり日時だけは確認しておきたい。ところがそれが少々厄介なのである。

鉄道切符
 そこに何が書いてあるかは、アルファベットでわかっても、それが何とかいてあるかは、ペルシャ文字でしか…。

 勿論イランでも我々の使っている数字は十分通じる。切符はそのメモを見せて買ったのだが、渡された切符には、ペルシャ数字しかプリントされていない。

 それでもまあその数字は、ガイドブックに従って、何とか読める。けれどイランの暦がわからない。曜日は土曜に始まって、金曜の休日で終わるようだ。これは同じ7日で問題ないのだが、月の構成が少々違う。もう一度カウンターに行って聞いてみる。

 「今日15日は、イランでは24日です。」

 そう教えてくれる。指を折って数えてみた。だとすると、チケットにある27日は18日ということだ。OK、間違いない。

 その切符を手に、ホテルのチェックアウトを済ませ、駅に向かったのは、テヘラン4日目のこと。前回は歩いて行った駅だが、リュックを担いではバスにしたい。

 けれどペルシャ語の表示のわからない私、アタッシュケースを持った、30歳半ばの紳士に聞いてみた。だいたいの方角を教えてもらえば、そちらの方へ行ってまた誰かに聞こうくらいに思っていた。

 けれどその彼、通りがかりの人に尋ねたり、チケット売り場の人に聞いたりして、通りを渡り、広場を越え、彼の行こうとしていた方角とは全然異なる方向へ、私を案内してくれる。

 《いいです、いいです、そんなに親切にしていただかなくても。ちょっと道を尋ねただけですから。》そう言いたくなってしまう。

 10分は歩いたであろう。あまり寄り道させても悪いように思えて、丁寧に礼を言って断った。そのあまりの親切さに、ひょっとしてチップでも…と思ったが、そんなことを思う私が恥ずかしくなるほどさりげなく、むしろ正確に教えられなかったことがすまないとでも言いたげな態度で去って行った。

 しばらく一人でうろうろしてみたが、やはり誰かに聞くしかない。通りがかったもう一人に聞いてみたのだが、その彼も、わざわざ寄り道をして私をバスの脇まで案内してくれた。

 我々日本人は、見ず知らずの旅人に、こんなにも親切でありえるだろうか。少々考えさせられてしまう。

 駅に行けば、アルファベット表示がありインフォーメーションもある。けれどここでも駅員であろう人に、コンパートメントまで案内された。何かが違うように思える彼らの親切。

 ベッドは3段、乗客は若者が4人。そのうちの一人が英語を話し、彼の通訳で、5人の旅が始まった。

 その彼らに、あの柔らかい響きのペルシャ語を、一つや二つ覚えたく思って話を向けたのだが、日本語にない音というのは、自分でも可笑しくなるほど、なんとも覚えられない。不思議そうに見つめるので、歳のせいということにしておいた。

列車内にて
 同席の若者達。右端の彼が通訳をしてくれて…

 それにしても彼らは口がつつましい。3時過ぎに、ジュースとケーキが配られてきたが、それ以外だれもバリバリボリボリとはやらない。当然売り子も来ない。ホームにもそのような光景は見かけなかった。

 どこの国の列車でも、むしろそれが楽しみなようなところがあるのだが、彼らは食事以外、時々紅茶を飲むだけなのである。

 ところでそのお茶、どうも彼らは猫舌のようなのだ。私など、熱いうちにと思って飲むのだが、4人が4人とも、私が飲み終わっても、まだそのままに置いていた。

 なぜ飲まないのか聞いたのだが、「飲むよ」というさりげない返事しか返ってこなかった。それがイランの習慣なのかもしれないが、いい体格をして、少々愉快であった。

 窓の外は、所々にグラシュというらしい、背の低い植物が生えているものの、ほとんどが見渡す限りの土漠。そんな荒野を突っ走った列車が、翌朝の10時に着いたバンダル・アッバースは、よくもこんなところに人が住めるものだと思うほど、ムワッとむせかえるオーブンの中。

車窓より
窓に流れる景色は、ほとんどが荒涼とした荒野。
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第4話 気になるチャードル No.146No.146

 駅舎から出た目に、痛いほどまぶしい陽射しの中、汗がワイワイ湧き出てきた。頭に首に脇に胸に。あまりの暑さは、クーラーの効いた列車から出た反動だろうと思った。けれどそうでもない。みるみるアゴの下からポタポタと汗が滴る。

 七月のバンダル・アッバース、海に近いせいか湿気もムワッと体を包む。それがたまらない。後で温度計を持って歩いてみたら、日向では46℃を瞬く間に越えた程だ。

桟橋
 ホルムズ海峡に面したバンダル・アッバース。海峡の向こうはオマーン。冬のような服装に見えるけれど、とても暑いのです。

 たまりかねてタクシーにした。とてものんびりとリュックを担いで宿探しなどしていられない。私の窓付きという宿探しの第一条件は、何が何でもクーラー付きに変わっていた。

 そんな宿が、ほぼ街の中心に見つかった。コウサルホテル。カウンターの男は、私の持つガイドブックのホテル紹介に、自分の写真が載っているのを見つけると、100,000リヤール(13ドル)と言っていた部屋代を、80,000にまけてくれ、そのガイドブックをしばらく貸してくれと嬉しそう。

 2、3時間ならどうぞと彼に渡し入った部屋、さっそくクーラーのスイッチを入れると、ガーと音を立てて動き出した。普段ならうるさいと思うその音が、なんだか逞しく感じてしまう。

 靴を脱ぎ素足になって、何はともあれと汗の治まるのを待つ間、ベッドの脇のテレビのスイッチを入れてみたら、なんと仮面ライダーがまだまだ現役で活躍していた。

 私には面白くも何ともない番組だけれど、異国で見ると、なんだか日本に包まれたようで、妙に気分がリラックスするのも面白い。

 ところで、仮面の形は全然違うのだけれど、バンダル・アッバースには仮面の女が出没する。

 いや、いや、そうではなくて、このあたりに住むバンダリーと呼ばれる人々の女性は、黒または赤の仮面で、目鼻を覆って外出している。

 素足に美しい刺繍の入ったズボンを履き、チャードルも柄物の人の多いバンダル・アッバース、その点、真っ黒なチャードルからくる印象より、少しは解放的と言えなくもないが、やはり仮面は私には異様である。

仮面のバンダリー
仮面のバンダリーの女性。赤と黒の形の違う2種類がある。

 しかもこの蒸し暑さの中である。どうしても、《 なんで ?どうして? 》と思ってしまう。

 そんな思いで一度サンドイッチ屋に入ってきた仮面の女性を、それとなく近寄って、まじまじと見たことがある。気の毒なほど汗がほほに吹き出ていた。やはり暑いのである。

 もし皆さんも、イランに足を踏み入れたとすると、まず第一に目を引くのが女性のチャードル姿だろうと思う。

 全女性がほとんど黒の布を頭からかぶっている光景は、すんなりとは受け入れられない。特に、夏に旅した私は、《この暑いのにどうして?》と言う思いが、いつも頭から離れなかった。

 自ずと勝手な想像が膨らんでしまう。何でもそうだと思うのだけれど、事の始まりにはそれなりの合理的な根拠があるもの。

 チャードルのその根拠が、日除けのためとも考えられなくもないが、着ているのが女性だけということを考えると、おそらくそれはその昔、女性が略奪の対象であったような頃の、〈美しいものは隠せ〉という男の心理の産物ではなかったのだろうか。

 そういえば、日本などでも、布で顔や姿を隠すお姫さんの絵や映画を見たように思う。

 まあ、これは私の勝手な想像だとしても、明らかなことは、このチャードルが今の時代に合理性をもつもののようには思えないことである。

 なのに継続しているということは、しかも全員そうしているということは、それが誰かからの圧力であれ、あるいは自発的であれ、いずれにせよ人のつくり上げた文化からの、自然な気持ちへの強制といえよう。

 もう一歩勝手な想像を膨らまさせてもらえば、チャードルの文化は、貧困に味方する思想を標榜していた共産主義の運動が、もはや崩壊を待つばかりとなった時代に、その代役を引き継がされてしまったイスラムの思想が、革命と共に現代に引きずり込んでしまった、招かれざる「時代もの」といったところではないのだろうか。

 あまり調べもせずここまで言うと少々乱暴かもしれないが、イラン社会の抱える保守派と改革派の葛藤は、パーレビ体制打倒を望む人々が、それによって隊列を整えることが出来たそのイスラムの思想の、その今なお生き生きとした部分と、すでに死物となった残骸との葛藤のように私には思えた。

 まあ、そんな想像を楽しめるのも、クーラーのある部屋の中だけ。バンダル・アッバースの暑さは、頭に巡った血を、まるで蒸気に変えるかのよう。ついついボケーとしてしまっている自分に、時々ハッとしてしまう。

 そんな外に出るのは、あまり気が進まなかったけれど、せっかく来たのだからと、次の日、ホルムズ海峡の名の由来、ボートで40分程のホルムズ島へ行ってみた。

 片道6,000リヤール(80円)のボートは、岸を離れるとエンジンの音も高らかにグングンと加速を始めた。

 スピードを上げてもらうのは結構なのだが、公園の池のボートより二周りほどしか大きくないそのボート、バッタンバッタンと煽られて舳先に近いところはそれはそれは大変。海面高く持ち上げられたかと思うと、バシッと船底が海面に叩きつけられる。

 その衝撃を、何のクッションもない板に叩きつけられたお尻で受ける。叩きつけられる寸前に足を踏ん張って少しは衝撃を和らげようとしても、前の方には敷板がなく、斜めの船底がそのまま、とても踏ん張れない。思わず悲鳴を上げてしまう。後ろの席から笑い声が聞こえる。

 ところで、帰りはこれを教訓に、後ろに陣取ったのであるが、後ろは後ろでまた大変。確かに衝撃は少なかったけれど、バシッと船が海面を打つたびに、ザブッと海水を浴びてしまう。これはこれで濡れるカメラバッグが心配。

島の少女
ホルムズ島にて

 そんな思いでやっと着いたホルムズ島ではあったが、ただただ暑い暑い、暑い暑い。上半身から流れる汗が、腰のバンドで受け止められて、ズボンやシャツはおろか、そのバンドの革まで汗でずぶ濡れ。

 けれど人というのは、なんとも逞しい。こんなに暑くても住んでいる。岸辺では子供達が海水浴。私を見つけて楽しそうに手を振ってくれる。けれどその子供達、まだまだ10歳くらいなのに女の子はワンピースにズボンのまま泳いでいる。

 そう言えば我々も、いくら暑いとはいえ、スッポンポンでは少々頼りないもの。彼女たちも習慣がそんな思いをさせているのだろうか。こうなれば、文化が何処まで自然を押し込めることが出来るものなのか興味が湧いてきてしまう。

 とはいえ、彼らよりはるかに自然に負けている私、もう観光などどうでも良くなって、ただの瓦礫の丘に見えてしまう砦跡の上では、なんだかめまいがしてしまい、サウナのような遺跡の中で伸びていた。

海水浴の少女
服のまま海水浴、ホルムズ島の少女達。
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第5話 死の町 アルゲ・バム No.147No.147

 逃げるが勝ち。そこはどうにでもなる旅人の気楽さ、予定を早めてバンダル・アッバースの暑さから逃げ出すことにした。

 街の東の長距離バスターミナルで、手に入れたバムまでの切符は12,000リヤール。7時間ほどのバスの旅が、なんと約1.5ドル。石油が豊かなせいか、イランのバスはとても安い。

バンダル・アッバースのバスターミナル
 バンダル・アッバースのバスターミナルに並ぶ、窓密閉ノンエアコンバス。乗るべきバスはどこにあるのやら。

 けれど例によって何が書いてあるのかはわからない。いや、わからないのは切符ばかりではない、バスに書かれた行き先表示もわからない。

 そんなターミナルを右往左往、やっと尋ねあてたバスで、準備をしている男に「バム?」と聞くと「ノー」と不機嫌な返事が返って来た。

 けれど確かにこのバスだと教えられた。もう一度、チケット売り場に戻って確かめると、やはりそのバスだと言う。今度はかまわず乗り込んだ。中の乗客に確認すれば、バムで間違いないようである。何とも不愉快な運転手である。

 けれどまだ朝とはいえ、そんな不機嫌な運転手の気持ちがわからなくもないほど暑い。

 それにこのバス、窓は大きく屋根にまで達する一枚ガラス。見晴らしは良いのだが、風が入らない。それもそのはずこの中古バス、そもそもがエアコン完備のベンツ製、それなしで灼熱の地を走ろうなどとは想定されていない。

 真夏に温室に入られたことがあるだろうか。そんなところで仕事をさせられたら、誰だって不機嫌にもなろうというもの。

 ところがどうも、そればかりではないようであった。お昼近く、峠の路肩に止まったそのバスに、腰の高さほどもあろうかという荷物を持った数人が、あたりをはばかるかのように小走りに近づいて来た。近くに村などありそうもないというのに。

 はじめは誰かに荷物を頼まれたのかくらいに思っていた私、体を伸ばしに降りたバスの前から、なにげなく記念にと押したシャッターに、彼らの視線がピタリと張り付く。

バス
 シャッターを押した瞬間、一斉ににらみつけるみんなの視線に、一瞬ドキッと…。

 よく見ると彼らは、中をくりぬいたいくつものガソリン容器に、その荷を詰め替えている。タバコである。運転手の背もたれにも、ボンネットの中にも…、ギュウギュウに詰め込み、上から上着をかけて偽装している。国境を越えるバスではないのに、まるで密輸団か何かのように。

 国内でタバコを運ぶのにどんな問題があるのかわからないが、その空気から察するに、明らかに彼らは不法なことをしていたに違いない。そんなバスに事情の呑み込めない外人が紛れ込むのを、運転手はいやだったのだろう。

 そこからバムまで、検問所に近づくたびに、助手とは別の男が、スピードを緩めたバスから飛び降り、事務所に消えていた。きっと検査に手心を加えてもらうため、賄賂か何かの工作をしているに違いないと、一人想像していた。

 ところで暑かったバスの中は、その峠を越えたあたりから、天窓のかすかな隙間に入る風が、乾いたものに変わり、グンと過ごしやすくなる。

 午後の3時、バスを降りたバムの街は、やはり暑くはあったけれど、むしろ私には、その乾燥した空気が快適でさえあった。

バム
 日干し煉瓦の多いバムの町。右上の赤い房がナツメヤシの実。バムのナツメヤシは、甘くてとても美味しい。

 けれどシラーズ経由の旅人は、とても暑いとため息をもらす。

 街の北、200年前に見捨てられ、今や「死の町」の異名を取る土塀の廃墟アルゲ・バムのチャーイハーネ。その城壁のぶ厚い壁にくり抜かれた、小さな窓に吹き上げる風は、焼けた日干し煉瓦に焦がされて、確かに熱風のようではあった。

 それに彼女たち、旅人といえども女性は髪をスカーフで覆わなければならない。そのチャーイハーネを出て登った、静かな城壁の木陰で、だれも来ないからとスカーフをとった中からは、湯気が立ち昇るほどのホカホカの顔が出てきた。

 そんな暑さのせいか、アルゲ・バムで見かけたのは、全部でも10人程度。少しメインの通りを離れれば、本当に誰も知らない見捨てられたゴーストタウンに迷い込んでしまったかのよう。

 生暖かい日干し煉瓦の上に座って、崩れたアーチの向こうの青い空を見る。死の町アルアルゲ・バム、200年の静けさ。

アルゲ・バム
 死の町の異名を持つ土壁の廃墟、アルゲバム。

 「拾え、このやろう!」

 自分でも少々大人気ないかと思えるほどの声でそう怒鳴っていたのは、そのアルゲ・バムからの帰り道であった。

 少年はその声に、一瞬ビクッとしたようであったが、後ずさりするのみで拾おうとはしない。日本でいえば、中学生くらいか。

 例によって話しかけてきたその少年に、二言三言言葉を交わしていた時のこと、何を思ったのか、突然私の胸のボールペンを抜き取ると、5メートルほど先に投げ捨てたのである。

 「拾え!」もう日本語である。ボールペンを指差し詰め寄った。本当にひっぱたいてやろうかと思った。

 その雰囲気を察したのか、出会った時彼と一緒にいた30歳くらいの男が飛んで来て、そのボールペンを拾い、かわりにしきりに謝ってきた。

 しかし少年は、何を思っているのか、まだ黙ったまま挑戦的にこちらを見ている。とても許せる態度ではなかったが、異国の地でもあることだしとそれ以上はやめにした。

 この事件もわからなかったが、逆に、彼らの親切ぶりにも戸惑うものがある。

 アルゲ・バムに向かう時、通り合わせた男に、廃墟はどちらの方角かと聞けば、ついて来いと歩き始めた。どんどんどんどん歩き始めた。右に曲がり左に折れ、20分は歩いたと思う。

 結局彼の歩いていた方角とは全然違う、廃墟の見えるところまで私を連れて来て、去って行った。とてもありがたかったけれど、親切も予想を越えると、なんだか恐縮して落ち着かない。

バム
 バムの木工屋さん。見守っているのは息子さんでしょうか。

 けれど嬉しい意思疎通もあった。バムの名産ナツメヤシを買いたくて入った店、ここには売っていないという主人、遊んでいた子供に私を案内せよと言ったようだ。

 10歳くらいの少年は、いやな顔一つせず、私を五件ほど離れた店まで案内してくれた。

 ありがとうとナツメヤシのついでに、小さなお菓子を買って礼をしようとしたら、居なくなっていた。

 せっかく買ってしまったお菓子、もう一度店に戻ってその主人に「子供に」と渡したら、にこっと笑って受け取ってくれた。

 すなおな子供の親切も、それに礼をしたい気持ちを受け入れてくれる主人の、少々息子を自慢したげな笑顔も、気持ち良かった。

 そんな人々の街、バム。

 2003年12月26日午前5時28分、バムに大地震、マグニチュード6.3。死者は30,000人を越えて。

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イラン ・ チャードルと薔薇と親切と
第6話 ケルマーンの水タバコ No.148No.148

 あれっ、こんなに薄かったかな?

 勿論鍵はしたのだが、部屋に財布を置いていってしまったのである。宿の夕食、一階のどこかに食堂があるのかと思って、貴重品の腹巻だけの気楽なかっこうで、部屋を出てしまった。

 ところが案内されたのは、50mほど離れた別の民家。テラスであぐらに座り、敷物の上に並べられた料理を食べるイランの家庭の夕食は、ちょうどそのスタイルが、ピクニックか何かのようで、スペインの人達4人と、楽しく過ごしたのではあるが、部屋に帰って確認した財布が、いやに痩せて感じてしまう。

 いや、頼りない話だが、いくら残っていたのか、よく覚えていない。というのもイランの紙幣、一番の高額が10,000リヤールなのである。だいたい1日15ドルとして、1週間でほぼ100ドル、その100ドルを両替すると、79枚の10,000リヤール札が返ってきてしまう。財布一つにはとてもおさまらない。

 そう、だいたい日本の何処かへ1週間、千円札の用意で出かけることを想像していただきたい。何枚残っているかなど、2、3日もすればわからなくなってしまう。たとえ10枚ほど抜き取られていたとしても、確信がもてないのである。

 両替した日から、主要な出費を計算してみた。そんなに使ってないような気はするのだが、もしかして使ったのかもしれない。腑に落ちないまま、次の日を迎えた。

バム
 少し中心を離れたバムの町並み。正面の塔のようなのが、バードギールと呼ばれる風採り塔。

 バム最後の日、ぶらぶらと街の写真を撮り、マンゴを買って帰った午後、さっそくそれを食べようと、ナイフを探した。が、見つからない。朝出かける前にそのナイフで糸を切り、確かテーブルの上に置いたはず。旅では何時も持ち歩いている、手になじんだ革ケース入りのスイスアーミー。

 宿の男に言ってみたが、「知らない、誰も部屋には入ってない」と言うばかり。まあ、それはそうだ、「はい、私が盗りました。」とは誰も言うまい。

 けれど彼ともう一人の若者で運営しているこのホテル、どちらかの仕業だと私は確信している。きっと昨夜の財布も、何枚かを抜き取られていたに違いない。

 それが全額ではなく、事態が大きくならない程度であることといい、なくなったのが、荷物そっくりではなく、ちょっと欲しくなるような小物であることといい、その犯人が、はいさようならとは逃げられない立場であることを証明しているようなもの。

 とはいえあくまでこれは推測、悔しい思いを残して翌朝バムを発った。

ケルマーンのバザール
ケルマーンの市場、バザーレ・ヴァキール。19世紀中頃の建造という。

 シラーズまでのバスは、途中ケルマーンで乗り換える。シルクロードの要塞として古くから栄えた街ケルマーン。その古都の、レンガ造りの美しい、ヴァキール市場で、同じバスに乗り合わせた日本の青年と、8時の夜行バスまでの時間を過ごすことにした。

 東西に1.5kmという、ドーム天井の続くバザールには、雰囲気満点のチャーイハーネがある。入場料、5,000リヤール(70円)、お茶、1,000リヤール(14円)、水タバコ、7,000リヤール(95円)。

 少々明るさをおとした落ち着きの中の、見事なレンガ模様の室内には、数人の男達が所々に固まって水タバコを美味そうにくゆらせていた。

 私もそんな彼らを真似て、テーブルに運ばれた、初めての水タバコをくゆらす、つもり、なのだが…。パフー。吐き出すのは、ほとんど息、煙がこない。結構むつかしい。

 というか、セットの仕方がおかしかったのか、見かねた隣のテーブルの男が、上に盛られた炭火の具合や、吸い口を調節してくれて、その後を吸ったら、ゆっくりと煙るがでてきた。初心者向けだったのか、胸いっぱい吸ってもむせなかった。

チャーイハーネ
雰囲気満点!バザール内のチャーイハーネ。

 お酒を飲まないイランの男達、ここが一つの社交場でもある。

 とはいうものの、そんなに話をするというでもなく、雑誌などを読むというわけでもない。ただただ水タバコの時間を楽しんでいる。そんな時間の過ごし方、日本ではあまり見かけないような…。

 ひょっとして日本人には、このような時間の過ごし方、かなり苦手とする所ではないだろうか。思うに我々は、いつも何かをして時間を過ごそうとしている。

 一般に人と人の付き合いもそうだ。その何かをする時間を共有して、結びつく。仕事をする仲間、スポーツをする仲間、ゲームをする仲間…。間の何かがその関係を取り持つ。

 だからそれがないと、時間も過ぎないし、人と人の付き合いも自然と疎遠になる。自ずと親切も。

 けれどイランの人達は、見ていてその点が少し違うように思える。なんというか、間にそんな媒体を挟まず直接つきあっているように。

 バムの街を廃墟まで、20分以上も歩いて案内してくれた彼も、あちらこちらで親しげな挨拶をしていた。まるで街じゅうに親戚でもいるかのように。

 そう、身近な例で例えれば、彼らの社会は、どちらかというと我々の、家族とか親友とかの付き合い方の延長に近いように思える。

 そう思うと、イランの人たちの親切もわかるような気がしてくる。

 このケルマーンのターミナルでも、通りかかった男に、シラーズ行きの切符の販売場所を教えてもらおうと聞いたところ、人ごみをかき分け進み、そのブースまで案内してくれた。私などは「あちら」と指差して終わる所だ。

 いやいやそればかりではない、彼は通訳をして、8時発シラーズまでの切符を買ってくれたのである。

 あまりの親切に気味が悪いほどだが、我々の仕事上の付き合い方と、家族の付き合い方の違いから類推すると、わからなくもない。

 おそらくイスラムという宗教が、そういう人と人の関係にかなり影響をしているのではと想像するのだが、そんな社会を、例えばアメリカ流の民主主義で整列さそうとしても、極端に言えば、家族の間を、そもそもが他人の関係である民主主義に変えようというようなものなのかもしれない。

 民主主義アメリカでは、あの自由は生まれても、この親切は生まれそうにない。勿論どちらが良くて、どちらが悪いなどと言うつもりはない。《良いことは、同じだけ悪い》それが私の信仰である。

 けれど私の好きな民主主義も、すべての社会に力ずくででも押し通すべき原理というより、他と補い合ってこそ意味のある、一つの原理なのかもしれない。

 そんな思いもゆらゆらと、ここケルマーンのチャーイハーネ。百年を越えて人々の集う、レンガの壁に囲まれて、ゆっくりとくゆらす水タバコの味は、まるくてほんのり甘かった。

水タバコ
水たばこ。上に盛られているのが炭火。吸い口から吸うと、煙は下の水を通ってから出てくる。
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イラン ・ チャードルと薔薇と親切と
第7話 シラーズ到着 朝6時 No.149No.149

 ナンバープレートの下の、もう一つのプレートには、DUBAI9619とある。ドバイを走っていた頃はエアコンもしっかり働く快適バスだったのだろう。

 大きな窓のガラスはまたまた完全密閉。けれど今となってはそれが仇。なるだけ外に居たかったが、出発時刻の8時も近づいて、仕方なく乗り込んだ。陽が沈んで少しは過ごしやすくなったここケルマーンのターミナル、とはいえ密室の中はやはりたまらない。

 そんな中で我慢すること数十分、けれど、動き出してしまえば、天窓からのわずかな換気で、暑さを感じなくなってしまう。乾燥しているということが、体に感じる暑さをこうも左右するものとは、日本ではちょっと想像できなかったこと。

 そんなバスに揺られて、うとうとしたようだ。目が覚めるとバスは、朱色の電灯に照らされた、薄明かりの中に停まっていた。ドカドカと乗り込んできたポリス風の男2人、どうやらいつもの検問所のようだ。

 ところがここの検問、いつもとは違ってやたら丁寧。荷台や座席をチェックしながら、後ろのカーテンで仕切られた助手用の仮眠所まで行くと、荷物や鞄では飽き足らず、ドライバーでボード板を外してまで調べている。

 またドバイで走っていた頃は、そこにエアコンが取り付けられていたのであろう天井部分の金網も外し、懐中電灯で中を照らし、屋根のもう一人と声を掛け合って覗き込んでいる。

 そんなことがゆうに30分は超えただろう。結局何も発見されず、バスは出発したのだが、外された板や金網は、元に戻されることはなく、そのままそこに積み上げられていた。

シラーズバスターミナル
 ずらりと「デラックスバス」の並んだシラーズの長距離バスターミナル。イランのバスは、とても安くて、座席もゆったりのが多かったが、どれもノンエアコン。動き出せばそれでもいいのだけれど…。

 それにしても徹底した調べっぷり。ひょっとしてたれこみでもあったのだろうか。それとも、賄賂でも出し渋ったがゆえの嫌がらせか。けれど、壁板まで外されて、しかもそのままにされ、何一つ文句を言わないとは…。

 どうもイランという国、私はほんの外側の見た目しかわからないのだけれど、規則がかなり威張っているようだ。自ずとその規則の番人も威張ってしまう。

 「義理と人情を秤にかけりゃ…」という歌があったが、「義理が重たい…」と歌う健さん、映画の中ではいつもその逆の、人情に人一倍篤かったように私は思う。

 まあ、それはどうでも良いのだが、人というのはいつの世もこの歌のように、〈こうせねばならない〉ということと〈こうしたい〉ということの、葛藤の中に居るように思う。

 しかもその〈したい〉は、人につれ時につれ、ゆらゆらと揺れ移るのだが、〈ねばならない〉の方は、社会に固定されていて、気ままに移り行く心を叱りつける。

 イランという社会、この〈ねばならない〉が幅を利かせ、時としてだらけがちな人情を、かなり強力に引っ張ろうとしているようだ。

 それはそれで逞しいことで、学ぶべきことも多いのだが、おうおうにしてそんな社会の〈ねばならない〉は、ゆれ動く〈したい〉について行けず、的外れなしきたりの強制で、社会を捻じれさせたりもする。

 彼らが探していた物が何なのかは、私は知らないけれど、もしも、バムへのバスで見たようなタバコ(あれが外見どおりのタバコだとして)だったとしたら、そんな〈ねばならない〉は取り外した方がスムースに治まろうというもの。

 そう、それに例えば市街バス。男が前で女が後と乗る場所が別れている。バスを降りると彼女達、わざわざ前まで歩いて、切符を運転手に渡しに来る。時には蛇腹で連結された後ろの車両から。

 また、街でよく売られているポスターの写真にも、女性がいない。いるのは、だいたいが筋肉ムキムキマンか、可愛い子供。時にはその子供が、女性のセクシーポーズを可愛く真似たりもしている。まるで欠けている女性を代行しているかのように。

街のポスター屋
 硬派はスポーツ選手かマッチョマン、軟派は可愛い子供。女性がいない。スカーフをした写真でもダメなのでしょうか?神秘的で美しい人も多かったのに。

 どこかの国の週刊誌のように、ヌード写真があたりまえというのもどうかとは思うが、女性の魅力がポスターを飾らないというのも、チャードル同様、なんとも不自然なように私には思える。

 もっとも、宗教的信条をどうのこうのと言うつもりはない。例えそれが、私など不信心者には意味のないことであっても、信仰者には、大事なことであるばかりか、実体あるものである場合も多い。

 けれど〈ねばならない〉と〈したい〉との捻じれに生じる、よけいな軋轢を和らげようとするなら、信仰の自由を模索すべきではないだろうか。でないと警察国家になりかねない。

 この点、国歌だ国旗だと、少々きな臭い昨今の日本、全くの他人事とも言えないような気がする。

クルアーン門
 クルアーン門。北からシラーズに入るには必ずここを通る。門の上部にはコーランが置かれ、旅人の安全を見守っているとか。シラーズは標高1,600mの高地にある。

 「着きましたよ」

 同乗の日本人にそう言って起こされたのは、まだ暗さの残る朝の6時。ぐっすりと眠っていたのだろう、もうバスの皆は降りてしまっていた。

 脱いでいた靴をさがしてはき、降り立ったバスターミナル、あたりをかまわず声を絞り出して伸びをする。新鮮なシラーズの朝。標高1,600mの高地というだけあって、涼しく気持ち良い。

 ところで一緒に居る間にと、交代で荷物を見張ってトイレに行くことにした。2人で居ると、この点非常に都合がいい。いちいちリュックを持ち運ばなくてすむ。

 そのターミナルから、シラーズの街までは、タクシーで1,000リヤール(15円)。宿はキャリーム・ハーネ・ザンド通りから少し入ったエクステグラールホテルにした。

 珍しく部屋にトイレが付いて、55,000リヤール(7ドル)。やれやれとベッドにころがった3階の部屋は、換気口から入る風が少し涼しい。どうも日本で言うところの冷風機、ファンの風を水に当てて冷やしているらしい。けれど乾燥しているイラン(あのバンダル・アッバースは別だったが)、これで充分の快適さ。

シャー・チェラーグ廟
 シーア派の巡礼所の一つシャー・チェラーグ廟の子供達。中庭では家族連れが、ピクニックのようにくつろいでいた。

 ところで、そんなシラーズは、歴史を感じさせるバザールや、キラキラと輝く鏡のモザイクも美しいシャー・チェラーグ廟など、素晴らしい所も多いのだが、その一つにシラーズの顔とも言われるエラム庭園がある。

 翌日ぶらぶらと、街を3キロ程を歩いて訪れたその庭園。着いた時は少々疲れてしまい、見物前の一休みと、糸杉も美しい庭の木陰で休んでいたら、なんと、閉庭だから出てくれと係員が回ってきた。

 なんと、なんと、金曜日は早く閉まるのだろうか、まだ入って40分もたっていない。イランの人達は2,000リヤールなのだが、我々外人は、その10倍の20,000リヤールも払わされるこの庭園。時間がないならないと、入る時に言ってもらいたい!

エラム庭園
 シラーズの顔、エラム庭園の宮殿。エラムとはペルシャ語で楽園の意味だそうだ。ガジャール朝時代の傑作と言われる宮殿や庭園の糸杉が素晴らしかったが、残念ながらゆっくりできず…。

 そんな文句、キャリハーン城塞でも言いたかった。立派な城壁で囲まれたその要塞、これまた20,000リヤールも払って期待に胸膨らませたのだが、中は外から想像するほどでもなく私にはがっかり。

 一般にイランの博物館のたぐい、本格的整備はこれからなのか、そのとても高く感じてしまう入場料に見合っての、あまりの期待は膨らませないほうが良いようだ。

 とはいえ、ペルセポリスへは行きたいもの、私にとってのハイライトなのだから。

つづく

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イラン ・ チャードルと薔薇と親切と
第8話 ペルセポリスは今もなお No.150No.150

 マラソンの語源となったのが、マラトンの戦いであったのは、皆さんよくご存知のことと思う。

 今のトルコの南のキリキアを「六百隻の三段橈船※」で発ったペルシャの大軍団、サモス、ナクソス、デロス、そしてエウボイアのエレトリアと、エーゲ海の島々を次々と征服し、ついにアテネの東42kmというマラトンに上陸した。

 ギリシャ人をして、その名を聞くだけで恐怖させたという、ペルシャ軍怒涛の進撃である。

 この時、このペルシャの大軍に立ちはだかったのは、ミルティアデス率いる、アテネの走る重装歩兵であった。

 ペルシャ軍は、その「数も圧倒的に少なく、騎兵も弓兵もなしに駆け足で攻撃してくるアテネ兵を眺めて、狂気の沙汰じゃ、全くの自殺行為じゃとののしった。※」とヘロドトスは記録している。

 しかしなんと、圧倒的なペルシャの大軍が、アテネのその密集戦術の前に大敗を喫してしまうのである。世に言う第2次ペルシャ戦争、紀元前490年のことであった。

謁見の間
 ペルシャ帝国統合の中心、ペルセポリス。その謁見の間に今もそびえたつ石柱。

 その時から地球が太陽の周りを回ること約2,500回。当時のギリシャ人や近隣諸国の人々を震え上がらせたそのペルシャの気骨を、今尚留めるかのような真っ直ぐな石柱が何本も、ペルセポリスの真っ青な空を突き刺して残っていた。

 シラーズの北57km、タクシーで小1時間のペルセポリス、そのアテネ征服の命を下したペルシャの王ダレイオス1世の都である。

 ヘロドトスの「歴史」を読んでいた時は、まさかこの地を訪れることがあろうなどとは夢にも思わなかったペルセポリス、シラーズから30,000リヤール(約4ドル)でチャーターしたタクシーを降り、石の大階段を登ると、そのダレイオス1世の子クセルクセスが建てたという大門が、私を迎えてくれた。

 かつては「万国の門」と呼ばれ、控えの間でもあった壮大な門の跡、しかし残念なことに、その巨大な石柱を飾る見事な人面有翼獣神の像の顔は、無惨に破壊されていた。

クセルクス門
 巨大なクセルクス門の跡。残念ながら門を守る翼持つ人面獣身像の顔ははかいされていて…。

 いやそればかりではない。遺跡の中の、牡牛に剣を突き立てる王のレリーフや、28の属州を象徴する臣民の支える玉座に座る、いわゆる玉座担ぎのダレイオス1世像などの、主要なレリーフの顔は、ことごとく破壊されている。偶像崇拝を嫌うイスラムの仕業である。なんとも残念。

 というのも、歴史を経た像の表情を、じっと見つめる時に呼び覚まされる我々の気分には、時を越え共通するものがあるように思えて、それを見つけるのを旅の楽しみにしている私である。

 それなのに、その顔が破壊されていては、そんな私のタイムマシーンも作動しない。詳しくはこちら

 〈だったら、やたらそこいらに飾られている、ホメイニ師や、ハタミ大統領の肖像写真は、いったい何なんだ!〉と、ついついぼやきたくもなってしまう。

 けれど幸い、副次的なレリーフはそのまま残されていた。中でも謁見の間の土台の壁を飾るレリーフは、各国の特産を携え献上に訪れる使者の姿が、それぞれ1m程の高さで三段に、見事な緻密さで描かれていた。

献上のレリーフ
 謁見の間の土台部分の側面を飾る各国使者のレリーフ。糸杉で区切られ23の国からの献上の様子が描かれている。

 牛を引く使者、羊をつれた使者、駱駝を献上にきた使者…、それに腕輪や香料の壷を捧げ持つ使者…。その献上の品々や服装から、それがどこの国の使者かがわかるというが、ペルシャ帝国のその勢いが、この図からもわかろうというもの。

 そんな帝国に威圧されてか、どの顔もどの顔も、重く押し黙っている。もっとも王への謁見を描いたものだから、当然と言えば当然なのだが、見ていると、このペルセポリスを支配した、重く厳粛な空気が、今なおそこに閉じ込められているかのよう。

 それは、アテネの博物館で見た、ギリシャの彫刻〈*〉のはつらつさでもなく、インドコナラーク〈*〉の今にも踊り出しそうな楽しさでも、カジュラホ〈*〉の忘我の微笑でも、中国秦の兵馬俑〈*〉の挑発的な目線でもなかった。

 確かに、各所に描かれている牡牛を襲うライオンや、牡牛に短剣を突きつける王のモチーフは、躍動感あると言えなくはない。

 けれどこの謁見の間の土台に残るレリーフの静けさこそ、遠いペルシャの空気を、今に伝えているもののように思えてくる。

 そう言えば、イランの街にはあまり音楽が流れていない。車の騒音はあるものの、ガンガン鳴り響く音楽というものがない。

 街の様子がインドに似ていると書いたが、この点はインドとかなり違う所だ。押し黙った街の雰囲気は、むしろ日本と似ている。

 それに、女性もあまり笑っているのを見かけない。家の中ではどうなのか知らないけれど、街中で見かける彼女達は、友達や家族の間でも、時に静かに微笑む程度で、後はじっと旦那を、そして子供達を見つめている。

 また、このシラーズのバスターミナルで、席を立って、7mほど歩き、ゴミ箱に自分の破った紙くずを捨てている男を見かけた。日本では何ともない光景かもしれないが、私には驚きの優等生である。

 そうそう、それにイランでは、かつてのNHKドラマ「おしん」が大変人気だったようだ。一度エスファハーンで「日本人には、あんなに悪い人がいるのですか?」と真顔で聞かれたことがある。

 おそらくおしんをいじめる人たちのことを言っているのだと思うが、そのおかあさん、かなり感情移入して見ていたようだ。「忍の美」、どこかにイランの人達に通じる所があるのだろうか。

 そんなイランの人たちの印象が、2,500年の時を越えて、この謁見の間に残るレリーフの静けさと、ダブってきてしまう。

 ひょっとして彼らの気質、イスラムの文化というより、そのはるか以前の、ダレイオスの時代にまで遡るのだろうか。

レンガ塀と直立三人組
 シラーズで、夕陽に染まった美しいレンガ風景を、通行人を入れて撮ろうと構えていたら、一人が立ち止まった。まっそれもいいかと、シャッターを押そうとしたら、また一人、また一人と、ごらんの直立3人組。いったい彼らは何を考えていたのだろう??とても不思議なのだけれど、気をつけの姿勢といい、絶妙の間隔といい、なんだか笑えてきて、とても気に入っている。

※岩波文庫「歴史」ヘロドトス 松平千秋訳より

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第9話 ヤズドに残る沈黙の塔 No.151No.151
ダフメ
 ゾロアスター教徒の鳥葬の場ダフメ、通称「沈黙の塔」。右と左に2個あって、男女が区別されていたらしい。

 仰向けに横たわってみた。乾いた土と石ころをすべらせて登った5〜60m程の丘のてっぺん。背丈を越える土壁で、下界への視界を遮られた直径20m程のダフメの上、ヤズドに残るゾロアスター教徒鳥葬の跡である。

 仏陀を遡ること二百年、キリストに先立つこと七百年、ペルシャに生まれたゾロアスター教は、漢字では拝火教と訳されているが、ヤズドの寺院に掲げられた説明によると、拝むのは唯一の神アフラ・マズダのみとあった。

 火はむしろ、その純粋性がゆえに尊ばれているのだという。だからその神聖なる火を汚すことになる火葬は、出来なかったのだろう。かといって、水も土も同じく純粋性を象徴する神聖なるもの。そんな世界に生まれたのがこの鳥葬なのである。

 ほんの五、六十年ほど前までは、実際に死体を横たえたであろうその同じ石ころが、太陽の熱を含んで、ゴツゴツと背中に生温かい。

 当時は何処からともなく舞い降りて来たであろうハゲタカの姿は今はなく、ただ青い空だけが、周囲を丸く土壁に切り取られて、ぽかりと浮かんで、静かに私を見おろしていた。

 遠くを走る車のかすかな唸りは、どういうわけか上の方から聞こえて来る、ここはもう、地上より天空の方に近いのだろうか。

 いつの日か私もお別れせねばならない。その時もこのような静けさの中なのだろうか。目をつむると全てが遠い遠い昔のようでもあり、つい今しがたのようにも思えてしまう。

 そう、人は必ず死ぬのである。なのに現代人の多くは、その死を人生の外に締め出してしまっているように思える。五感で検知できるもののみで世界を組み立てようとする科学の影響なのだろう。

 勿論、科学なくして我々の世界はもはや組み立てられない。けれど科学だけでは、その組み立てた世界が息を始めないばかりか、前後が定まらずキリキリ舞いもしかねない。

 丹波さんではないけれど、自分で納得できる「死の世界」を考えておくのも、そんなに無意味なことではないと私は思っている。

 というのも、もしもそれが、その人にとって充分納得出来るものに仕上がれば、少なくとも死への恐怖や悲しみは色を変え、生の意味も落ち着きを得る。

 ちなみに私の場合、座標系によって時間が異なるという相対論ではないけれど、意識にとっての時間の体験というのも、均一ではないと思っている。

 で、その死の間際、意識がスウーッと消え入る時、生きている人にとっては、カッチンと過ぎ去る御臨終の一瞬も、死に行く人にとっては越える事のできない永遠を体験するのではと思うのである。

 夢を見ている人の、その夢で体験する時間が、横で起きている人の感じる時間と、全く違うということはよくあること。つまり意識にとっての死は、いうなれば覚めない夢。流れない時間の海。ひょっとしたらそこでは、過去の記憶も過ぎ去った過去ではなく、すべての人に再会できるかも…。

 まあ、本当かどうかの保証は出来ないけれど、この世での経験とそれほど矛盾もしないし、それにあの世に一抹の光もさす。

 とは言え、一秒でも長く、こちらにしがみついていたいという思いに変わりはない。それに、いざとなれば、きっとオタオタとするだろうとも思っている。

 けれどその死観で、以前ほど死への恐怖はなくなったし、そんな夢の中でうなされ続けるのもいやだからと、この世の生き方の指針にもなっている。

 とは言っても、生きているうちは体験できない死の世界、あくまで想像の域を出ないことは、しっかり認めなければならない。でないと、とんだ誤解から命を粗末にしかねない。

 そう、私にとってはそんな誤解なのだ。天国を想定してのジハードという考え方は。

 「天国と地獄はあの世にあるのではないと思いますよ。あるとすると、この世のあなたの中ですよ。」

 ちょっと仏教徒ぶって、そんなことを言ってみたのだが、それは通じなかったようだ。

 ヤズドのメインストリートをジャーメモスクまで歩いていた時のこと。30歳くらいの男が横を歩き始め、「ブッシュとイスラエルは悪い」とさかんに話しかけてきた。

ジャーメモスク
 さかんに話しかけてきた彼、ジャーメモスクの写真を撮ろうとしたら、写してくれと言ってきて、カメラを構えたらこのポーズ。かなり心酔しているような…。

 「どうして」と聞いてみたら、イスラムに敵対するからと言いたいらしく、「アッラーを信じるか?」「神を信じているのか?」とさかんに問いかけて来た。

 はじめはまあ、お決まりの立ち話だろうと思って、いつもの適当な返事「仏教徒です」と言ってみたら、「牛は好きか」と来た。

 「あれはヒンドゥーだ」と言うと、それは納得してくれたようであったが、地獄極楽については腑に落ちないよう。

 かといって話を止めるでもなく、何処までも横を歩いて問いかけて来る。仕方がないので、まじめに話してみた。

 とは言っても、日常会話でも頼りない私の英語、それに劣るとも優らない彼。じれったく思ったのか、ヤズドを象徴するジャーメモスクに着いた時、案内に来ていた通訳の一人を彼がつかまえて来て、3人で話が始まった。

ジャーメモスク
 マスジェデ・ジャーメ。14〜15世紀に建てられたヤズドを代表する建築。ここのメナーレがイランで一番高いのだそうだ。

 こうなってはごまかせないと、必死の英作文をしていると、やって来たスペイン人2人に、えらく怒られてしまう。時間で雇ったガイド、何をよそでサボっているのだというわけだ。

 けれどまだ5分と話したわけではない。そんな剣幕で怒らなくてもと、彼が気の毒でもあったが、なんだか私まで怒られているようなその場の雰囲気に、はいはいとその場を離れた。

 するとどういうわけか、私に付いて離れなかった彼が、そちらに付いて行ってしまう。これ幸いと彼の視界から外れ、一人ゆっくり、イランで最も高いメナーレを持つという、ジャーメモスクを楽しんだ。

少女
 むつかしい話の彼の後は、アレクサンダー大王の牢獄への途中まで、こんな可愛い少女達が、遊びながらおともをしてくれる。外人への好奇心いっぱいに。

 ヤズドにはその他に、アレクサンダー大王の建てた牢獄や、11世紀に建てられたという12エマームの霊廟、それに見事なバードギール(風採り塔)を持つドウラト・アーバード庭園などもあったのだが、なんといっても私にとって魅力的だったのは、メインの通りからほんの少し入り込むと展開する、土壁の家、土壁の通り。

 実際にはそこに、現実が詰まっているのであろうけれど、夕陽に黄色く染まる通りを歩いていると、まるで絵の中に入り込んでしまったかのような気分になる。

 勝手なようだが、こんな中ではやはり、ハイヒールにミニスカートより、黒いチャードルがよく似合う。

 そんなヤズドのバザールで、テルメと呼ばれる美しい文様の布を土産に買った。1メートル35,000リヤール(4.5ドル)。

ヤズド
 ヤズドの夕暮れ
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第10話 エマーム広場の少年 No.152No.152
マスジェデ・エマーム
 エマーム広場南のマスジェデ・エマーム(エマームモスク)青のモザイクタイルがとても美しい。着工から完成まで26年をついやしたとのこと。中央礼拝堂は45度斜めに、メッカの方を向いている。

 「どうですか、エスファハーンは?」

 まぶしい朝の光の中で、私を見上げてそう聞く少年は、とても誇らしげであった。

 ヤズドから西へバスで約5時間、〈エスファハーンは世界の半分〉と人々をして称賛せしめたほど、当時の文化の粋を凝縮させたエマーム広場。

 かつてはそこでポロ競技も催されたという長さ510m幅163mの広大な広場は、噴水の池に緑の芝生、その外側には石畳と、見事に整備され、ぐるりと周りを取り囲むベージュ色の回廊には、南に青の美しいエマーム・モスク、東に肌色もシックなシェイフ・ロトゥフォッラー・モスク、西には、バルコニーも優雅な、アーリー・ガープー宮殿と、顔をそろえる。

マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォラー
 広場の東、マスジェデ(モスク)・シェイフ・ロトゥフォラー。王族専用のモスクだったそうだ。ベージュのドームが、とてもシックな印象。広場を一周して、観光用の馬車が走っている。

 「とても素晴らしいですね。」

 たとえ、こういった人工的な美を好きでない人でも、ここに立てば、そう答えてしまうだろう。

 少年は嬉しそうに私を見つめている。まだ十二、三歳だろうか。はじめは例の好奇の「ハロー」かと思っていた。けれど、とてもしっかりした英語を話す。

 それにエスファハーンの印象に始まった質問は、次第に日本の教育制度へと移って、しかもこちらの説明に時おり突っ込んだ質問をも交えてくる。

 イランの教育水準の一端を垣間見るようで、少々驚きながら、これじゃ下手な英語も喋れまいぞと、緊張の日本紹介。

マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラー
 マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラーのドームの中側。この中も、驚くほど美しい。どこから風が入るのか、涼しかった。

 「いやぁ、日本というところはすごいぞ!」

 白いワイシャツをゆったりと着た、40歳くらいの髯の男が、そんな我々の話に入ってきた。先ほどから横で話を聞いていた男である。

 何年か日本で働いていたという彼、今はこのエスファハーンの絨毯屋で働いているという。いつもの絨毯のセールスの口実かと思ったのだが、どうも彼の興味は我々の話の方にあるようであった。

 「日本では、8時から5時まで、みんなびっしり働くのだぞ」彼はそう少年に、力を込めて日本体験を説明する。

 「イランでも働いているよ」

 少年反論は、あたかも信ずる祖国をけなされたと言わんばかりに、少々むきになって。

 「いや違う、8時からといったら、本当に8時からなんだ。8時にはもう仕事をしているのだ。わかるか。イランを見てみろ、みんなお茶を飲んだり、話をしたりしているではないか。」

 彼が日本で一番驚いたのは、なんとこの我々にとってはあたりまえの、日常の習慣であったようだ。

公園
 エマーム広場近くの、緑いっぱいの公園。写真は木曜日の午後、みなさん結構のんびりと…。

 けれど実は私、そんな職場秩序に異をとなえてきた一人なのである。

 というのも、幸運な一部の人を除いて現実の我々は、そんな「驚き」の職場で機械のように、いや時には屈辱的にさえすり減らされ、その代償を、例えば消費に、時にはただ誇りを取り戻す為にだけのような消費に、求めているように思うのである。

 考えてみれば人生の大部分を過ごす職場である。そこでこそ人が主人の秩序であるべきではないだろうか。

 「そんなことを言っていたら、この厳しい世の中、生き抜けるか!」

 そんなお叱りの声が、聞こえてきそうである。まあ、そのとおりなのかも知れない。合理化がリストラと呼び方を変えた頃から、かつてのプラカードはどこかに流され、ただただ溺れないようにとアップアップするのが現実のようである。

 けれど少し視点を変えたとき、そんなに厳しくしているのは、《 汝らがたくさん使うからだ 》 なんていう声は聞こえてこないだろうか。

 もしもである、もしも使うのを30年程前の水準に保ったとしたら、むしろ現実はある面では豊か過ぎるのではないだろうか。

 ローマクラブが、あの衝撃の「成長の限界」※を発表してから、既に30年が過ぎている。けれど世の中、その拡大路線にさしたる変更はみられない。

 確かに人類は石器を手にした時代から、いろいろ揺れはあったとしても、脈々と拡大への道を辿っている。それでも規模が小さい間は、それで良かった。いやむしろそこにこそ夢もあった。

 けれど消費であろうが生産であろうが、自然の破壊であることからは抜け出せない。

 その活動が地球環境を左右するまでに拡大してしまった21世紀、この先の100年を考えると、経済の拡大から少しスタンスをずらせた所に価値を見出す思想が、問われているように思えてならない。

 そんな思いで、コーランの教えを物欲に優先させようとするイスラムの挑戦に、興味を持っている私ではあるが、イランに住む彼はそうではないようだ。驚異の日本の労働習慣にこそイランの前途を見ているのだろう。

 イランのパーレビの時代も体験しているという彼、次第に話は、現体制の批判に熱を帯びてくる。

 「イランの何処に真のイスラム教がある、一歩家の中に入れば、みんな何をしている。知ってるだろう。…イランでは、警察がみんなを押さえつけているから維持されているのだ。…もっと世界を見なければ。…」

 とても現実的にものごとを見ている彼、決して少数とはいえないのかもしれない。けれどそんな現実のありのままの指摘が、純粋な少年にはたまらないのだろう。信ずる母国を必死に擁護して、話はいつしか二人の討論へと移っていた。

 蹄の音も軽やかに、シャー気取りの観光客を乗せた馬車が、彼らの横を駆け抜けて…。

 それにしても、既知の仲とは思えない男と少年の、この真剣な政治討論。そんな景色の向こうに、皆さんはどんなイランを想像されるのでしょう。

※ ダイヤモンド社 「成長の限界(人類の危機レポート)」 大来佐武雄 監訳
マスジェデ・エマーム
 マスジェデ(モスク)・エマームの中。中央ドームは2重構造になっているということで、音がよく響いた。
 ところで、このタイルそのものは、近寄ってまじまじ見ると、そんなに美しくないのだが、距離を置いて見ると、まったく違ったものになったように、とても美しい。そういう視覚効果というものでもあるのだろうか。
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イラン ・ チャードルと薔薇と親切と
第11話 おしゃれなカラス No.153No.153

 ひょろ長い18本の木の柱が屋根を支えるアーリーガープ宮殿のバルコニー、心地良い風に吹かれて、まぶしいエマーム広場の向こうの、細やかな文様も美しいベージュのドームをぼんやりと眺めていた。

 目の隅で、手摺りにとまった一羽の鳥が、首をかしげてこちらをうかがっているのをそのままに。

 そんな無関心に安心したのだろう、2羽、3羽、バタバタと仲間が舞い降りてきた。

 「クゥォー、クゥォー」

アーリー・ガープー宮殿
 アーリー・ガープー宮殿のバルコニー。
 正面に見えるのが、エマーム広場南面のエマームモスク。

アーリー・ガープー宮殿

 声をかけられては見ないわけにはいかない。

 「クゥォー」

 あれ、これ、カラスではないのかい…。

 聞きなれたハシブトカラスの声よりも、少々弱々しいとも思えるけれど「カー」とも聞こえなくはない。それに少し軽量かもしれないが、大きさもほぼ同じの上、形も歩き方も、見れば見るほどカラスに似ている。

 そう、確かに似ている、けれど真っ黒ではない。灰色のマントとエプロンを、背と胸におしゃれに着込んだツートンカラー。

 カラスといえば真っ黒と相場は決まったもの。そんなカラスを、黒いチャードルで全身を包んだイランの女性の姿から、いつも連想していた私なのだが…。

チャードル
 黒いチャードルのイランの女性

 もしもである、もしもイランのカラスが、得意の黒のファッションを、女性のチャードルに横取りされ、それなら我々はと、ツートンカラーに制服変えをしたとしたら、なんとも愉快な話ではないか。けれどそんなバカな…話が…実はあるようなのです。

 もっともチャードルに対抗してというわけではないけれど、そういうカラスがこの地球上にはいるのだそうだ。姿形からカラスに違いないのではとは思ったものの、まさかとも思って、日本に帰ってから探鳥を楽しんでいる人に聞いてみたところ、コクマルガラスではないかと教えてくれた。

 調べると、ユーラシア大陸の中南部と北アフリカに棲むというから、あれはそのカラスに違いないと思う。

 日本にもまれに九州あたりには、他のカラスに混じって、冬鳥として飛来することもあるらしいので、カラスといえばみんな真っ黒と思い込んでいたのは私だけかもしれないが、チャードルの女性達に囲まれたイランで、おしゃれなカラスに初めてお会いしたことは、とても愉快な私の思い出である。

イランのカラス
 イランのカラスはとってもおしゃれ。宮殿のバルコニーから、下行く黒の女性を眺めて、何を思っているのでしょう。

 ところで、もう一つ動物の話をすれば、イランには犬がいない。いや、いるのかもしれないが、私は見かけなかった。野良犬は勿論のこと、ペットとして散歩している犬の姿も見かけない。

 確か井筒氏訳のコーランに「豚肉は食べてはならない」という記述はあったように記憶するけれど、犬も不浄の動物になっているのだろうか。ちょっぴり寂しいような気もするけれど、思わぬ効果もある。

 それは、公園などの草むらに、犬の糞が全くないことである。だから夜など、よく確かめられなくても、安心して何処にでも座り込むことが出来る。それだけでも、公園はとても快適。加えて、どういうわけか蚊にも刺されない。まさに私には楽園。

公園の少年
公園はとても快適

 そんな公園は、夕方ともなると、三々五々どこからともなく集まる家族連れでにぎわう。

 何年か前、イランの人達がたくさん日本に働きに来ていた頃、よく駅前などにたむろして、私のまわりでは、あまり評判が良くなかったように記憶するのだが、あれはおそらく、こんな故郷の習慣を、遠い日本で思い出していたのだろう。あの時みんなそれを知っていれば…、と少々残念に思ってしまう。

 ところでそんな人出の多い公園なのだが、どういうわけか人々を楽しませる大道芸人のパーフォーマンスも、ガンガン鳴り響く流行の音楽といったたぐいもない。

 それに不思議なことに、他の国でよく見かけるような、美味しい匂いをぷんぷんさせた屋台が並ばない。

 警察でもうるさいのかと思っていたが、後日一度だけ、子供用の遊園地のある公園の夕暮れに、トウモロコシを焼いて売っているのを見かけたから、少なくとも屋台のたぐいは禁止でもないようだ。けれどそのとうもろこし屋も、あまり繁盛はしていなかった。

 バンダル・アッバースまでの列車でも、売り子や売店を見かけなかったことといい、少々我々とは違う食の作法へのこだわりでもあるのだろうかと思ってしまう。

 とは言っても、人前で食べることに、別に否定的な感情を持っているというわけではないようだ。

 公園の家族連れは、弁当はおろか、ガスコンロまで持参して、夕食の団欒を楽しんでいる。見ていると、なんだかとてもリッチな時間のように思えてくる。

 そう、贅沢を楽しむのにお金はいらないのだ。家族と公園で夕食を楽しむ、ひょっとしてそんな時間こそ、人にとって一番の贅沢なのかもしれない。

 ♪You can be rich with no money to spend.…Open your mind…♪

 ご存知だろうか、ひと頃、少々ハスキーな女性の歌声とともに度々流された、ネスカフェのコマーシャルソングなのだが、私が大変好きなことを。

 あっ、知るわけないですよね、はい。

ハージュー橋たもと
 あなたにとって一番贅沢な時間とは、どんな時間なのでしょう? 写真は楽しそうなハージュー橋の家族連れ。
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イラン ・ チャードルと薔薇と親切と
第12話 気になる若者 No.154No.154

 「こいつらみんなバカだから」

 きっとその首まで伸ばした彼の髪が珍しかったのだろう、好奇心いっぱいに取り囲むイランの若者達を、青年はそう言って鼻で笑った。

 エスファハーンの南、川幅2〜300mのザーヤンデ川の堤を歩いていてのことである。

スィー・オ・セ橋
 夕陽に染まるエスファハーンのスィー・オ・セ橋。1602年の完成。スィー・オ・セとは「33」の意で、アーチが33あることからこの名がついたとのこと。

 涸れることのない川面に映るその橋の姿が美しいと、ガイドブックにはあったけれど、残念ながらすっかり干上がっていて、砂地の川床が顔を出していた。それでもさすがにその姿は、オレンジのレンガも美しい、アーチ模様の芸術品。

 エマーム広場の建物といい、この河に架かる橋といい、実用の世界にも造形の美を楽しんでいるようなエスファハーン。しかもそんな橋が、一つや二つではない。

 日本では橋の下というと、あまり良いイメージではないけれど、ここの橋の下を利用したチャーイハーネは、とても趣のある空間。

橋の下のチャーイハーネ
 橋の下のチャーイハーネ。こちらのチャーイハーネは、ただ机を並べただけだったが、それでもちょっとした空間。川の水が流れていたら、もっと良かったのだけれど…。

 そんな橋の眺めを楽しみながら、スィー・オ・セ橋からハージュー橋までの1.5km、彼とはいろいろ話しながら歩いたのだが、南京の虐殺事件を、中国のでっち上げだと言い切っていた。

 パキスタンから回って来たというから、いろんな人達を見て来ているはずなのに、えらく異文化をバカにしている。

 添乗員の案内で、ほとんどインドア的に旅行している人では、何人か見かけたことはあるけれど、自分で歩いている若者で、こういう態度の人に出会うのは、はじめてであった。

 とは言っても、彼だけなら、それほど気にもとめなかったであろう。けれど実はもう一人、よく似た若者をバムでも見かけている。

ハージュー橋
 スィー・オ・セ橋から1.5kmほど東のハージュー橋。中央のテラスでは、かつて夏の夜に王の宴会が催されたとか。街には何処でも冷たい飲み水が用意されていることといい、長距離バスでふるまわれるキーンと冷えた飲み水といい、イランの人たちには、ひょっとして、我々がお米に持つような、特別の思い入れを水に感じているのかも知れない。

 確かに、いろんな国を歩いていると、なんと素晴らしいことだろうと、その国がバラ色に見えてしまうこともある反面、やっぱり日本が一番、と再発見することも少なくない。

 この他の国が実際以上に良く見えてしまうのは、その国の実状を良く知らないが故の白地に、自分の憧れを投影してしまっていることが多く、よく見れば、美しい女房は、実は鶴であったり(*1)、エデンの園は、もはや楽園ではなくなったり(*2)、やさしい青髭の夫は、実は殺人鬼であったり(*3)と、はるか昔から、そんな話で語り継がれて来た人類永遠のテーマでもある。

 またその逆の、〈日本が一番〉という思いは、実は我々が日本文化の中に育って、それに適用しているからに過ぎない。確かに日本文化にも優れた点は多くある。けれどそれらは決して〈世界で一番〉といった代物ではない。一番なのはただただ〈私にとって一番〉なのである。

 そう、この彼もきっとその〈一番〉を体験しているのだろう。それはそれで良いことなのだが、自分に合わない他の文化を、劣っているとか、そこに映った日本像を嘘だとピシャリと締め出すような態度は、少々気になる所である。

 今回の2人というのが、単なる偶然なのか、それとも金持ち日本の、最近の若者の傾向なのだろうか…。

 愛国心も、まあそれはそれで結構なのだが、それを他の国を憎むことや、他の国民をバカにすることと勘違いしているような人を時々見かけてしまうのは、少々残念なことである。

スィー・オ・セ橋の上
 スィー・オ・セ橋の上。全長300m。エスファハーンの背骨、チャハール・バーグ通りにかかっているにもかかわらず、車は通行禁止。街の人には不便かもしれないが、私はこういうの、大歓迎。

 そんな日本人と衝突でもしたことがあるのだろうか、その男に会った時は、イランでは珍しく、はじめから少々角があるように思えた。

 スィー・オ・セ橋のたもとを歩いていた夕暮れ時、「ハロー」と声をかけてきた彼は、堤に座り込んだまま、こちらに来いと手招きをしている。

 けれど別に興味もないので、手を上げて応えただけで、いつものように歩き続けていた。

 すると、二人のうちの一人が走り寄って来て、私の前に立ちはだかり、握手を求めて手を差し出す。にこやかな外交マンよろしく、はいはいとそれに応じたのであるが、必要以上にその手を離さない。

 いいかげん手を振ってから、もう良かろうかとその手を離そうとすると、逆にグイと力を入れる。歳は30歳くらいだろうか、ガッチリとしていて力があり、どうだいと見下ろす目は笑っていない。

 何のつもりかは読めなかったけれど、握られた手を振りほどくのは、そんなにむつかしいことではない。引っ張るのではなく押し込む感じで、相手の親指の方向に、自分の手を一瞬に捻れば、たいがいの場合簡単に外れる。

 昔取った杵柄、クイッと捻れば、あっけないほど簡単に振りほどけてしまった。けれどそれがかえって腹を立てさせたのだろう。やはり〈軍事〉は〈軍事〉しか生み出さない。

 むきになった彼、その仕返しに、今度は私の胸のボールペンをさっと抜き取って、五、六歩逃げ去り、ざまー見ろとこちらを振り返る。

 「かえせ!」

 そう、もう日本語。土手で寝そべっている人たちも振り向くほどに怒鳴っていた。やはり皆の視線には逆らえないのだろう、ふてくされた素振りではあったが、そのボールペンを私に返した。

 ところで、翌日の夕方も、その橋の下のチャーイハーネに、水タバコを楽しみにまた出かけたのだが、なんと、同じ所に、同じ姿勢で彼がいた。

 夕涼みの所定の位置なのか。一瞬少々気まずい雰囲気が流れたが、ここは一つ〈政治的決着〉、「ヤァッー」と手を上げて笑顔を見せたら、ちょっと戸惑ったようではあったが、昨日とはうって変わった、柔らかい笑顔が返って来た。

夜のスィー・オ・セ橋
 満月に照らされた、スィー・オ・セ橋の夜。空気はサラサラに乾燥しているのですよ、蚊に刺されないのですよ、もう最高!イランの人たちが、エスファハーンを愛する気持ちが、わかるように思えます。

つづく

*1   助けられた鶴が、女性になり機を織って恩返しをする話。男は、見ないと約束した部屋を覗いてしまい、姿を見られた鶴はいなくなる。つまり現実に戻るの意とも読める(鶴女房など)
*2   旧約聖書創世記のアダムとイブの話。食べたのは「知の実」であり、現実を知るの意味とも読める。また、追放されたとなっているが、エデンの園が、楽園ではなく、現実の地になったとも読める。
*3   やさしい青髭の夫の留守中に、開けてはならないと禁じられていた部屋のドアを開けて、前妻達の死体を見てしまう話。つまり実際を知れば夫は、思っていた夫とは違っていた。(ペロー童話集など)
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イラン ・ チャードルと薔薇と親切と
第13話 キャビア様 No.155No.155
ドアノッカー
 イランの家の左右非対称のドアノッカー。低音の方が、男性の来客を告げるのだそうだ。イランの女性は家族以外の男性に会うには、それなりの準備がいるからだろう。

 自慢じゃないけれど、キャビアなんてものは食べたことがない。負け惜しみじゃないけれど、そんなもの食べたいとも思わない、と思っていた。

 けれど人間、そんな「悟り」は当てにならないもの。

 どういうわけか人というのは何かにつけ、気持ちがそれを全くの別世界と思い込んでしまうと、欲しくもなんともないもので、そのさばさばとした日々に、なんだか悟ったような錯覚を持ってしまうのだが、一旦それを手の届く所に見てしまうと、もういけない。

 「テヘランに着いたら、レストラン瀬里奈のキャビア寿司で、お祝いしようぜ。」

 パキスタンから渡ってきた若者の、そんな話を聞いていて、その見知らぬキャビア様が頭をもたげてしまった。

 今やほとんどカスピ海でしか捕れなくなったという、チョウザメの珍味。それを乗せたにぎり寿司が、二個で49,500リヤール(6.2ドル)なのだそうだ。だいたい一晩の私の宿代に近い。

 イランにしてはめっぽう高いけれど、ドルで考えると、手が届かなくもない。それなのに、かつてのソ連とその産地を二分した、ここイランに来てそれを食べなければ、一生口にできないかも…。

バス
 エスファハーンからテヘランまでのバスは、横3列と、とてもゆったり、しかもその7時間ほどのバスの運賃は、12,600リヤール(1.6ドル)、とても安い。もっとも動き出すまでは、ちょっと暑いけれど。それに時々エンジンも休憩する。そんな時ワイワイと皆で押して、無理やりエンジンを目覚めさせる。そんな協同作業は、座席に戻る皆を友達にする。

 はい、行ってしまいました。テヘランに戻った次の日、遠路はるばると。

 ホメイニ広場の北西、歩いて1時間ほどのヴァリーイェ・アスル広場から乗ったバスは、ひょっとして乗り違えたのではと心配するほど、なかなか終点に着かない。

 1時間も乗っていただろうか、何度も背をかがめて窓の外を眺めた黄昏時、やっと目指す終点ヴァナク広場が現れた。

 けれど人々でにぎわうその広場周辺は、あちらにもこちらにも道が延び、かなり複雑なジャンクション。

 ガイドブックにはそこから歩いて3分とあったから、瀬里奈はすぐ近くのはずなのだが、これではどちらの方向に3分なのか皆目見当がつかない。

 しかも通りかかる人達に道を聞いても、皆首をかしげるばかり。まあ、それもそのはず、あまりイランの人には馴染みとも思えないレストラン、勤め帰りの人が知るわけもないのだろう。

 何人目かでそう気づいて、聞く相手を客待ちのタクシーに変えた。ドンピシャリ、交差点の向こうを指差してくれた。

 その広い交差点を越え、看板でもないかとキョロキョロ歩く私の、その歩道めいっぱいに寄せて、白い乗用車が止まる。

 「ポリースだ、パスポートは?」

 ちょっと変わった制服の助手席の男は、胸ポケットから身分証を出しながら、そう言って私を呼び止めた。

 〈何でこんな所で見せなければならないのだ?〉

 どうも合点がいかない私、とりあえず「ノォー」と、取り合わないことにして歩きはじめた。何も違反をしているわけではない、それに、ペルシャ文字の身分証明書なんて見せられても、それが何だか、私にわかるはずがない。

 キキギーーーッ

 バックで急発進したその車、私の斜め前に止まると、今度はとても強い調子で威圧する。

 「ガンを持っているだろう!」  「ドラッグは!」

 えっ、無視したのはまずかったかな??警官を怒らせては、後々なんだかんだと面倒なことになる。

 けれどニセ警官に注意とガイドブックにもあったし、でも、テヘランに着いた時も、エスファハーンでも、私を呼び止めた警官は本物だったし、いやいやその時もニセ警官に注意せよと言われたし…。

 一人で対応していると、この一瞬の迷いが、もっとも危険な心理の剣が峰。本物かニセ物か、その判断の次の一歩で、時には取り返しのつかない斜面へと転がり落ちる。

 「そこに何を持っているのだ、見せろ!」

 私のワイシャツの胸ポケットの膨らみを指差し、そう問い詰める警官!

 それはパスポートの角張った膨らみではない、勿論拳銃の膨らみでもない、麻薬をそんなみえみえのところに突っ込んでいる売人もいないだろう。そう、その丸い膨らみは、どう見たって例の多すぎるイランのお札の膨らみ。

 人間欲が絡まると、何かがぎらつく。昔の武士は殺気を感じたというけれど、人は五感の外にもコミュニケーションの手段を確かに持っていると思う。

「分かりました、パスポートを見せますから、こちらに来て下さい。」

 もう恐くはなかった。子供の頃嘘をつくと「その顔に書いてある」とよく言われたものだが、まさにそれ。彼は 〈そのお金をだまし盗りたい〉 と顔に書いて指差したようなもの。

 ニセ警官と確信がもてれば、後はどう対処するかだけだ。私は、すたすたと歩き始めた。瀬里奈が見つかれば良いが、見つからなくとも、どこか適当な店に入って、そこの人に立会ってもらおう。

 「止まれ!」

 「いや、どうぞこちらへ、ポリース」

 少々大げさなその声に、通りかかった一人が振り返る。

 キーッキキッー!

 タイヤから煙が出るほどの急発進で逃げ去る車。そう、そのために彼は車から一歩も外に出なかったのだ。

 おそらく瀬里奈に来るような客はお金を持っているとにらんでいたのだろう。もしあの時、見せるだけならと、パスポートを渡してでもいたら、おそらく二度とは私の手には戻らなかったに違いない。

 後からでは、そんなことも気づくけれど、一瞬彼らのペテンにひっかかりそうな、危ないものがあったのも事実。少々ゾッとするものを背筋に感じずにはいられなかった。

キャビア寿司
 真ん中の2個が49,500リヤール(6.2ドル)のキャビア寿司。緑のラベルは、イランのノンアルコールビール。

 ところで肝心のキャビア様、初めてお目にかかったのだが、黒ゴマの姿に変装したイクラのようなもの。フッとかすかに匂うものもあって、私にはウニの方が美味しい。

 それに一緒に注文した、ノンアルコールのイランビールも、冷えていたとはいえ、なんとも締まらない味。

 一生に一度だろうと思ってやって来た私の珍味体験だったが、少々がっかりの幕切れ。

 けれどニセポリースを撃退したことで、なんだか旅の終わりに、無事サイコロの上がり目を出したようで、そのサラサラに乾燥したテヘランの夜風のように、気分爽快なイラン最後の夜であった。

第9部 イラン編 おわり

ガレスターン宮殿
 テヘランのガレスターン宮殿は、ペルシャ様式の庭園が、美しく保たれていた。その庭の手入れの彼らも、祈りは欠かさない。
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