第1話 飛ぶ矢は静止している | 第2話 大地のヘソ | 第3話 サモス等 |
「1,300ドラクマ(5.7ドル)です」
さてどうしよう。チップの習慣になれていない私は、いつもどぎまぎしてしまう。パルテノン神殿の建つアクロポリスのふもとのレストランで私はおもむろに財布を取り出した。
タベルナの定食。タベルナとは食堂の事。日本人なら駄洒落を言いたくなるところ。焼肉、野菜、ライス、ポテトサラダ、それに生野菜とパンで、だいたい1,300〜1,500ドラクマ(6ドル前後)。 |
別に気前よくばら撒ける立場であれば、そんなこと気にする必要もないのであろうが、そうもいかない。
それに多くても少なくても、あまり相場とかけ離れたチップは、ちょっとマナーに反するように、勝手に思い込んでいる私である。
いつもはお釣りの内の、100ドラクマ以下の端数を置いてくるのだが、端数のない今回はそうもいかない。
「エーイ、仕方がない、100ドラクマ奮発するか」そんなことを考えながら1,000ドラクマ札と500ドラクマ札を差し出した。
するとそのボーイさん、ニコニコ顔で受け取ると「サンキュウ、バイ、バイ」と引き上げていった。
そのタイミングの良さといったら、まさにプロの技である。「いや、お釣りを」とはとても言い出せず、口を開けたまま彼を見送ったのであった。
けれどそんなに悪い気分ではなかった。というのも今日は大発見をしたように思えていたからである。
私は古い時代の絵や彫刻を見るのが好きである。特に神聖であったり厳粛であったりした場所に置かれていた物を見るのが好きである。
何故なら、そういった場所で、それらと向かい合った古の人々は、その像となんらかの心の交流をしていたに違いないと思うからである。
私は人の心は千年や二千年で変わるものではないと思っている。道具や知識の世界は、先人の歩みを引き継いでめまぐるしく発展するけれど、心の世界はそうはいかない。
先人が既に歩んだ道も、それぞれの体験を経るまではその人にとっては未知の世界である。
ゆえに人は、時代と共に変わりゆく舞台の上で、同じように泣いたり笑ったり、愛したり憎んだり、また、夢を見、夢に破れ、生きている。ここでの歴史は繰り返しである。
だから古い像に向かい合って、現れ出る自分の中の、その心をさぐってみると、そこで古代の人達と出会えるような気がするのである。
私はアテネの考古学博物館の、「馬に乗る少年」のブロンズ像の前で、釘付けになっていた。
馬に乗る少年、アテネ考古学博物館 |
けれど私が見ていたのは、馬でも少年でもない。驚いていたのは、それが表現している時間である。
一般に人は、時の流れをもっと長い物差しで、感じているように思う。それは、出来事を記録する序列としてであったり、あるいは、移り行くこの世のはかなさであったりする。
けれどここで表現されているのは、そういった時間ではない。もっと息を弾ませ、次へと身を躍らせる時間である。はつらつとした予感を秘めた「今」としての時間である。
時間をこのように、生き生きとしたものに感じることが出来たこの作者は、生きていること自体が、感動であったに違いない。
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まさに三叉の槍を投げんとするポセイドンの像。 |
私は入り口に戻って、もう一度初めから見て回った。ポセイドンの像にも目を奪われるものがあった。
まさに三叉の槍を投げんとするその像は、重心を絶妙な位置に保ち、右足は今にも蹴り出さんと踵を少し上げている。それらを受け止め踏ん張ろうとする左足の親指は、まさに地に付こうとするところで止められていた。
これらの像は、そこに作者の感動が秘められているが故に、見ようによっては、実際に動いているもの以上に、動きというものを表現していると言えるかもしれない。
意味合いは違うであろうが、「飛ぶ矢は静止している」というゼノンの逆説を思い出してしまう。
ギリシャの彫刻は数々の観点から評価を受けている。しかし私は、事物をこのように「感動的な動」として、時間の中に立体的に捉えていた彼らの精神に、いつまでも拍手を送っていたい気持ちであった。
「どうだい、素晴らしいだろう」そんな言葉が2000年の時を越え、像の向こうから聞こえてきたように思えた。
私はアテネの最後の一日をもう一度ここで過ごす事にした。
そう、ソポクレス作オイディプス王の一説である。
オイディプスの父ライオスは、デルポイの神託によって、やがて生まれる自分の子に殺されるであろうと告げられる。そこで生まれた子を山に棄てさせた。その子がオイディプスである。
オイディプスは成長し、自分の出生を知るべく、デルポイに神託を伺う。そのお告げは、「自分の母と交わり、子種をなし、父を殺すであろう」というものであった。
その後オイディプスは、父とは知らず父を殺し、母とは知らず王妃と結ばれてしまう。デルポイの神託は二つとも現実となったのであった。
この話をもとにフロイトが、母の愛を獲得しようとし父を憎むという、男の子の深層心理を、エディプスコンプレックスと名づけたのは皆さんよく御存知のところであろう。
先のソポクレスの物語は、冒頭の歌を境に、栄光のオイディプスから、罪びとオイディプスへと崩れ落ちていく。
その神託が下された地、デルフィ(デルポイ)の丘に私は立っていた。遠くには、山々の岩肌や、そこにまばらに生える木々が霞んで見える。
初めデルフィに着いた時は、えらく霞んでいる所のように思えた。
空気が澄んでいるのだろうか、それとも霞んでいるのだろうか。遠くまでよく見えるのだが、何となく目を擦りたくなるような… |
遠くの山肌や木々が、ちょうどピントの外れた写真を見ているようで、目をこすりたくなるような、じれったさを感じたのであった。
しかしここデルフィのアポロン神殿跡で、その景色に目を凝らしていると、ひょっとするとこれは、澄み渡っているが故の、現象ではないかと思い始めてきた。
つまり日本でなら、既に青一色に潰れて、墨絵のようになってしまう遠さの山が、ここでは岩肌も木々も、それと判るほどに見える。
青一色なら目は諦めるのだが、なまじっか見えるが故に、じれったく思えるのではないかと。
そんな遠景の中、近くに目をやると、今度はその鮮明さに、目を見張ってしまう。
近くの岩肌、そこに生える木々、遺跡の柱、それらが澄み切った空気の中で、明と暗を、その境を、まるで剃刀で切り取ったように際立たせている。
まるで浮き出る立体写真を見ているようなデルフィの空間。この写真から少しは伝わるでしょうか。背景の霞みは、ほとんどレンズ効果ではありません。 |
このコントラストは、不思議な感覚を生んでいた。
ここアポロン神殿の跡地に立ち、この霞んだ遠景の中に、このクッキリとした近景を見ていると、妙に世界が立体的に思えてくるのである。空間がつかめる実体のような、妙な感覚であった。
そしてその実体の中心に自分が居るような、何というか世界の中心に居るような、そんな自信というか、喜びというか、やる気というか、そんな気持ちがこみ上げてくるのであった。
古代のギリシャの人達は、空間をこのように実感していたに違いない。「デルフィは大地のヘソといわれていた」そんなガイドブックの一説を思い出していた。
アテネの博物館では彼らの捉えた「時間」を、そしてここデルフィではその「空間」を、私は短いギリシャの旅で、図らずも彼らが切り開いた科学的精神の二本柱を、彼ら流に追体験し得たようで、嬉しくなっていた。
ここデルフィでも、4年毎の祭典が、行われていたという。私は丘の上のスタジアムに向かった。競技場は当時を偲ぶに充分な形をとどめていた。
そこから更に上へと登り始めると、凄まじい風が吹いて、グランドの砂塵を舞い上げた。古代人が駆け抜けた跡だろうか。
風は益々勢いを増し、砂塵は益々高く舞う。ちらほらと居た観光客は帰り始め、私はグランドを見下ろす丘の中ほどで、ただ一人取り残されてしまった。
「異教徒よ、それ以上私に近づいてはならぬ」あたかもアポロンが、これ以上秘密を明かす事を拒むかのよう。私は登るのを止めグランドに降りた。
不思議な事に、誠に不思議な事に、風はぴたりと止み、砂塵はおさまった。登ってきた観光客がまたちらほらと集まり始めた。
翌日アポロン神殿に安置されていたという「大地のヘソ」と呼ばれた鐘形の大理石を見に博物館に行った。
博物館の説明は、ギリシャ語とフランス語のみで、英語がない。どれがどれか判らず、出口付近まで来てしまう。
そこの絵葉書コーナーの絵葉書の裏で、やっと「ネーブル・オブ・アース」なるものを見つけ、確認に戻る。この石は私には、ああそうかと思うだけで、別に感じるものはなかった。
それはさておき、英語というのはまだ日本で思い込んでいるほど国際的にはなっていないようである。
サモス島へ向かうフェリーのデッキから、アテネの空に沈む夕陽を眺めて。映画ならここで、いわくありげな女性と出会ったりするのだが…。 |
海鳥が一羽、いつまでもいつまでも追って来た。もうピレウスの港は見えない。こんなについて来て帰れるのだろうか。
私はサモス島に向かうフェリーのデッキで、心地よい風に吹かれながら、夕陽に赤く染まったギリシャの空を見つめていた。
ジャンボ機が一台アテネ空港に降りていく。予算を心配しながらあそこに降り立ったのは何日前だったろう。
「案ずるより産むが易し」それがそのときの答えであった。私はそれをまた、自分に言い聞かせていた。
「インドを体験すれば、もうどこだって大丈夫だよ」旅なれた友人は、そう太鼓判を押してくれた。その言葉に調子づいて出て来た私であったが、何といってもまだ二回目、移動には期待と不安が交叉する。
しかもガイドブックのサモス島は1ページ弱である。見所が書いてあるだけで宿の事は何一つ書いてなかった。さて、宿はどうなる事か、インドで培った、ぶっつけ本番の手法が、またまた要求されるのであった。
サモス島までの船のチケットは、アテネの旅行会社で買う事が出来た。デッキとファーストクラスの二種類あったが、意外に安かったので9,293ドラクマ(約40ドル)でファーストクラスにした。結構立派なコンパートメントで、見知らぬ4人が同室となった。
「よろしく」日本語でならそう言うのであろうが、それにあたる英語が思い当たらない。別に自己紹介する程でもない関係の者が、同行するようになったような時、英語文化ではどのような挨拶になるのであろう。
「よろしく」とは便利な言葉で、それでもって顔をつき合わせる関係になることを、お互いに認め合うことが出来る。最近ではこういう時、何となく「ハイ」と軽く会釈するようになったが、ちょっとくだけ過ぎのような気もして、実のところどうすればよいのか、未だもってわからない。
そう言えば英語文化圏ではないが、旅をしていてよく、二、三、話をしただけで「フレンド」として紹介されたり、いきなり名前を聞かれたりする事がよくある。そんな時「オイオイ、友達じゃないよ」とか「何であんたに名前を」と思ってしまう。
恐らく彼らも、あまり英語が得意ではないから、そうなるのだろうとは思うが、ひょっとすると「よろしく」という挨拶で結ばれる曖昧な関係というのは、日本独特のものなのかもしれない。
何はともあれ男が四人、ブツッと顔を見合わせた。インドやイスラム諸国とは、どうも勝手が違う。仕方がない、軽く会釈をしたような、しないような、そんな気まずい中、お互い黙々と自分の事を始めた。
ファーストクラスといっても、横になると船のエンジン音が結構響き、とても安眠とはいかない。それでも何時の間にか眠ったようで、朝の4時、けたたましくドアを叩きながら叫ぶ女の声に起こされる。
どうやら到着を待ちきれず、ボーイフレンドを起こしに来たようだ。まったく、たまったものではない。腹立たしく思ったが、5時に再び係員に起こされたところを見ると、私はまた少し眠ったようである。
5時のサモス島はまだ暗く、波音だけがその闇の中で、不気味にうごめいていた。8月とはいえ少々肌寒い。低血圧のせいか、早朝の私は意気消沈していることが多い。ましてや見知らぬ地で、どうやって宿を見つけるか不安の中では尚更である。
心細い気持ちで暗闇を見渡せば、旅行会社らしい一軒の店に灯りがついていた。さっそく訪ねると、8時まで待てという。仕方なく港のレストランに戻り、パンとコーヒーをたのんだが、出て来たコーヒーは袋入りのインスタントコーヒーであった。
見れば隣の男はテレビを見て笑っている。ギリシャ語が分かるのであろう。ここに誰か一人でも話し相手がいたら……、異文化の中で、日頃気付かぬ文化のありがたさを、ヒシヒシと感じる一時であった。
夜が明けるとそれだけで、何かいいことが待っていそうな気分になる。 |
さあ8時、私はリュックを背に旅行会社に向かった。夜の明けたサモスの街は、静かなる港町。小船から上がった一人の漁師に、人々が群がり、まだ跳ねる魚を買っていく。
レストランの主人だろうか、両手のビニール袋に魚を入れ、満足そうに去っていった。トラ猫が一匹、漁師が棄てた小魚の朝食にありついている。
旅行会社で教えてもらったイオニアペンションは満員だったが、そこで何処かに安いホテルはないかと聞けば、近くのマリアナホテルを教えてくれた。
行ってみると、昨夜は満室だったのか、野宿をした若者4人が、寝袋のまま庭を占領していたが、部屋は10時に空くという。1泊4,000ドラクマ(約17ドル)、これで何とか宿はOKである。
翌朝トルコのクシャダシに向かう。前日に買ったフェリーの代金は5,000ドラクマ(約22ドル)、それに出国税が4,000ドラクマ(約17ドル)であった。
確かアテネの旅行会社で聞いた値段は4,800ドラクマだったので、余裕と思っていたのだが、思わぬ出国税で手持ちのドラクマに余裕がなくなる。
更に2時間ほどで到着したトルコのクシャダシで、また2,500ドラクマ(約11ドル)要求されてしまう。今度は入国税。
方や出国、方や入国。ちょっと移動するだけで、まるで二重取りされたような気分であったが、何はともあれ無事トルコに入国する事が出来たのであった。
クシャダシでは、宿泊予定地のエフェスに向かう前に、橋で結ばれた小島に立つ古城に行って見ることにした。
それにしてもこの海の色の美しさはどうしてだろう。ギリシャの街に原色が似合ったのは、きっとこの海の色と関係があるに違いない。
私は眩いばかりのエメラルドグリーンのエーゲ海を背景に、被写体を求めてファインダーを覗いた。
と、そこに飛び込んできたのは、何と、何と、トップレス姿の大の字で、堂々と日光浴を楽しむお嬢さんであった。
確か、トルコはイスラム国家ではなかったのか。エジプトとは、えらく雰囲気が異なる。思わずシャッターにのせた指が、ピクリと動いてしまったのは、私のせいではない。
第2章 ギリシャ 完
とても美しい。いや海の色がです。 |