第1章 エジプト  《 第2部 エジプト・ギリシャ・トルコ 編 》
第1話 ギザの70ドル第2話 ムバラクは地獄へ第3話 2倍の文化圏第4話 案ずるより産むが易し
第1章 エジプト
第1話 ギザの70ドル No.024No.014

 「ギャロップ」

 後ろの男が叫んだかと思うと、今までいくら腹を蹴っても二、三歩、歩を早めるだけで、ぼそぼそと歩いていた馬が、急に猛スピードで土漠の中を走り出した。

 体が本当に宙を飛んでいるような気分である。といっても、それを楽しんでいるのではない。まるでコンクリートの上を、お尻で兎跳びしているよう。

 普通なら、そのショックを鐙に踏ん張った足で和らげるのであろうが、何しろ45歳にして初体験、馬には腰掛けるものと思い込んでいた私は、建築現場の杭打ち機を逆さにしたような勢いで、尻を叩き上げられていた。衝撃は頭を突き抜ける。

 そればかりではない。尻で乗っているとバランスを取るのが難しい。難しいというよりとれない。ヤジロベエの足をもがれたようなもの。二、三回跳ねると、右に左に落ちそうになる。しがみつくしかない。

 私は鞍の金具に必死でしがみついていた。金具といっても、コンクリート用の鉄筋を「へ」の字に曲げて鞍の前に溶接してあるものである。瞬く間に、親指に豆が出来、それが潰れる。けれどその手でしがみつかねば、振り落とされる。

 1kmも走ったであろうか、後ろを走っていたガイドが何かを叫んだのであろう。馬はピタリと走るのをやめ、また、トボトボと歩き出した。

写真  「何とかならんか、これ!」と言いたげな馬。
「ヨッコラショッ!」と腰掛けてしまった私。

 「気分はどうだ」

 ガイドの男は、私と並び、ご機嫌をとってきた。

 「イイヨ」

 そうはいったものの、私はいたって不機嫌であった。というのも私はどうやら途方もなく高いツアー料金を払ってしまったようなのである。

 エジプト到着明けて第一日目であった。さっそくギザのピラミッドに行こうと、タハリール広場をうろうろしていたら、男が話し掛けてきて、ピラミッドを観光するなら、ギザにある政府の旅行会社が良いから是非寄ってみろというのであった。

 適当に話していたのであるが、バスの中でも別の男がやってきて、同じ会社を紹介し、地図まで書いてくれた。恐らくその会社の関係者だったのだろうが、そのときは一般の人と思ってしまい、そんなに人気があるのならと、立ち寄ってみることにした。

 男が砂に棒で地図を書きながら、説明するには、

「ピラミッド観光は入場料も馬鹿にならない。区域に入るだけで10 EJポンド(約3ドル)いるし、フク王のピラミッドにも……、それに中ではガイドにうるさく付きまとわれるし、中には危険な人もいる。」

 「我々のツアーは馬に乗って、途中とても綺麗な景色の所を通って、まず16キロほど南のサッカーラまで行き、そこでエジプト最古のものと言われているジェセル王の階段ピラミッドを見、帰ってきてからギザのピラミッドの観光をする。」

 「料金は、入場料、ガイド料、乗馬料、全て込みで、たったの70ドルだ。それに我々と一緒だと、うるさいガイドも来ることなく安全快適だ。」と言うのである。

 私は迷った。ちょっと面白そうである。けれど70ドルは高い。

 それに私は既に飛行機の中で後悔していた。というのも、インドの旅では結構ゆとりを持って生活し、飛行機も2度乗ったのだが、二ヶ月で960ドルしか使わなかった。 その気分が残っていて、あまり予算に余裕を持ってこなかったのである。

 経由地のモスクワで会った日本人青年と、待ち時間の間に話していると、お金のことがだんだんと不安になってきた。

 今回は、エジプト、ギリシャ、トルコと回るつもりでいた。そのギリシャが、なんといってもヨーロッパである。物価はアジアの比ではない。それに、エジプト〜ギリシャの飛行機代や、ギリシャ〜トルコの船賃が、果たしていくらかかるか、わからなかった。彼の話では結構するのではないかという。

 だんだん心細くなってくる。私は見通しが甘かったと思い始めた。 けれどもうどうしようもない。海外の一人旅で、お金が足りなくなるかもと思うほど、心細いことは無いように思えた。

 「さてどうしたものか、… せっかくエジプトまで来たのだし…」

 一人の場合、この決断の袋小路に追い込まれた一瞬というのは、けっこう危険な心理状態のようである。

 もし誰かと相談できれば、たとえ答えは出なくとも、その一瞬の間が心理的余裕を生む。別に一人でも、ガイドブックを開けるなり、どこかに腰をかけるなり、そういった何かゆっくりとした動作で、この余裕は充分生まれる。しかし、そういった芸当が出来るようになるのは、私の場合もう少し経験がいった。

 彼らもそこのところは充分に心得ているようで、言葉をたたみかけこちらに考える暇を与えない。70ドル、無理をすれば払えない額ではない。この『無理をすれば何とかなる』という額が微妙なのである。

 「OK」

 後悔は、馬に乗り、事務所を離れ始めた時から始まった。

 「Are you happy?」

 ガイドはしきりに私のご機嫌を取ってくる。客が不機嫌だと彼らの成績にかかわるらしい。けれどますます私は不機嫌になっていく。

 というのも、途中通ると言った景色の良いところというのもなければ、ようやく着いたサッカーラでは入場料を払えと言うのである。とんでもないこと、全部含んでいるはずだと頑張ったものの、ガイドはそういう事情は知らないと言うことで、結局は払わなければ入れてもらえない。

写真
 サッカーラの階段ピラミッド。ここに着いた時は、私の馬はバテたのか座り込んでしまった。

 そんなことで、せっかくのサッカーラの階段ピラミッドも、気もそぞろであった。

 おまけにギザに戻ってみると、もう4時になるのでピラミッドには入れないと言う。許せない。これでは全くのペテンではないか。

 猛烈に抗議すると、じゃ近くまで行こうと別のガイドが白い馬を連れてきた。結局、ギザのピラミッドは遠くから眺めただけで、終わりとせざるを得なかったのである。

 不運には不運がかさなるもの、事務所に帰って、馬から下りるときに、ズボンが鞍の金具に引っかかって15cm角ほどの鉤型にベロリと破れてしまう。まだ旅の初日である。もう踏んだり蹴ったり。

 私は事務所でやけっぱちの抗議をした。結局、ズボンは修理する、サッカーラの入場料は返す、ということにはなったが、70ドルは、割り戻されようはずがない。後悔の念にさいなまれながら私はギザを後にした。

 その日、シャワーを浴びたら、お尻がひりひりする。手で触ると大きな豆が潰れて、皮がむけていた。とりあえず手当てをと、ヨーチンを手探りで塗った。

 「ギャアー」

 私は椅子の背をつかみ、固まってしまった。

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第1章 エジプト
第2話 ムバラクは地獄へ No.025No.025
写真  雨が降らないためか、カイロの屋上はゴミ置き場

 「ナセルはイスラムの法を約束して、フランスの法をつくった。サダドはイスラムの法を約束し何もしなかった。ムバラクは皆と話もしない。一番悪い。ムバラクは地獄へ行く。」

 19歳の青年は日本語交じりの英語で熱っぽくそうまくしたてた。

 「イスラムからは戦いを仕掛けない。しかし戦いを仕掛けられたら戦う。イスラム教徒は一つの体だ。どこかが攻撃されたら助けに行く。

 セルビア、アフガンで仲間が攻撃されている。ムスリム組織が戦いに行くというのに、ムバラクはだめだと言う。行くという我々は神の教えに背いていない。だから天国に行く。ムバラク一人地獄に行く。」

 彼の父はパピルスの絵の工場を経営しているという。「日本語が上手だね」と言ったら、日本人ガールフレンドに教えてもらった、それに学校にも通っていると嬉しそうに笑った。

 エジプト三日目、とりあえずルクソールへ行くことにした私は、夜の九時発の夜行までの時間をカイロの街でつぶしていた。その私にパピルスの絵を買わないかと声を掛けてきた彼は、私を製造現場まで案内すると言う。

 道々ギザの70ドルの話をし、お金はないけれど時間はあるということで、チャイを飲みながら、彼のイスラムの信念を聞くことになったのである。

 恐らく大人から聞かされた話の受け売りであろうと思ったが、それにしても19歳にして政治的主張がいやに固まっている。

 「人生は短い。一時である。その後で永遠の死後がある。生きている時アッラーを信じるものは、死後天国に行ける。だから我々はアッラーの教えに生きる。イスラムの為の戦いで死ぬ者は、永遠の天国が保障されている。」

 本当に、死後の世界というのを信じているのだろうか?私は彼の表情に見入った。若者独特の繊細さと、熱狂を混ぜ合わせた表情であった。

写真  数百年前にタイムスリップしたようなオールドカイロ

 「でも、それぞれが正しいと主張しているのではないですか。貴方がたには貴方がたの神があるように、アメリカにはアメリカの神があり、日本には日本の神があります。」

 というか言わないうちに、張り詰めた声が返ってきた。

 「いや、神は一つ。アメリカの神も、日本の神も、本当はアッラーだ。」

 まるで必死に恋人を弁護する若者のよう。他の考えを頭に浮かべることそれだけで背信であると恐れるかのような、そんな反論が返ってきた。まさに取り付く島なしである。

 実は私もこの気持ちに少々覚えがある。若い頃私はマルクス主義に憧れていた。今から見れば私のあれも、基礎のところで信仰であった。そのときの議論は、議論というより、先に答えのある応援合戦であったように思える。

 彼の純真さにそんな若き日を思い出しながら、彼にそういった考えを吹き込んだであろう大人のかたくなさに、少々危ないものを感じたのであった。

 かと思うと、かなりオープンな人にも出会った。前日タハリール広場で休んでいた時である。ベンチの隣に座っていた初老の紳士が新聞を手に話しかけて来た。ちょうどこの時、日本では細川政権への移行期で、その記事の載ったページを私に見せながら、平和的に政権の変わる日本を非常に羨ましがっていた。

 彼によるとムバラク政権の周りにはマフィアがとりまいていて、エジプトには民主主義が全く無いという。平和的に政権の交替が行われる日本は、まったくもって理想の国であるというのである。

 私は今までそんな風に思ったことはなかった。日本にいれば日本の悪いところばかり目に付く。
 「いや、日本もそんなに良くはありませんよ。」

 そう言った私に彼は、
 「いや、平和であることが、何よりの一番大事なことなのです。」
と、重く静かに言うのであった。

 我々も「平和」を口にする。しかし私は戦後生まれである。彼の語る「ピース」という言葉には、私の「平和」という言葉に翻訳しきれない重みが含まれているように思えるのであった。

 戦いを辞さないという若者、平和こそ最も大事なことと説く紳士、いずれにせよここエジプトでは、政治がかなりむき出しの感じで、巷を闊歩しているように思えるのであった。

 夜、8時50分、アスワン行きの列車は、定刻より10分早くラムセス中央駅を滑り出した。エジプトの列車はナイルに沿って南北に走るのみで、インドに比べると乗り降りはいたって簡単である。

 列車の中で、街で買った週間タイムを見ていたら、エジプトの記事が4ページに渡って載っていた。読むと反政府ゲリラが、政府の観光収入に打撃を与えるべく、外国人観光客に各所で銃撃を加えているというのである。

 そのために最近エジプトへの観光客がグンと減ったと、ガランとした観光地の写真が載せられていた。

 不思議なもので、人間、一つ大きな心配事があると、他はそんなに感じなくなってしまうようである。

 インドでは、ボンベイの爆弾テロを心配して大使館に問い合わせの電話までしたものであるが、今回はそれよりも、予算の心配で心は一杯になっていた。

 「一つの心配事は、他の心配事を追い出してくれる『妙薬』でもあるようだ。」

 そんな思いを乗せて、一路列車はルクソールへと走っていた。

 座席で姿勢を変えるたびに、体中に走る乗馬の筋肉痛が、私にギザの70ドルを思い出させる。

写真  ルクソールの街にて。日中はとても暑い。
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第1章 エジプト
第3話 2倍の文化圏 No.026No.026
写真  ルクソール西岸。山を越えたところに王家の谷がある。

 やはり暑い、7月のルクソールはとても暑い。実際に登る高さは200メートル程度かと思うが、陽を遮るものの無いハゲ山は、容赦ない太陽にあぶられて、焼石のようになっている。

 ハトシェプスト葬祭殿前で、山を越えて王家の谷に行く道を聞いたら、「暑さで死ぬからやめろ」と言われてしまった。

 勿論、「だからタクシーで回り道を行け」という勧誘の台詞なのだが、まんざらそれのみとは言いきれないようであった。ホテルから持ってきた2リットルの水は、もう既に底を着いていた。

 「ちょっと休もうよ」

 「オーケー」

そう、今日は2人で来ていたのである。

 彼と会ったのは、まだ夜の明けきらぬ、カイロ国際空港でのことであった。街までのバスの始発は、5時であるというので、同じ機で到着したもう一人の日本人と、2時間近くをそこでつぶしたのである。

 彼らとはカイロの街で別れたのだが、昨日ここルクソールで再会し、そのうちの一人と今日一緒に、ナイル西岸の王家の谷を回ることにしたのであった。

写真  山の途中からハトシェプスト葬祭殿を望む。ここで日本人観光客多数が、テロリストに殺されたのはまだ記憶の新しいところ。合掌。

 私の泊まっているムーンバレイホテルは、10EJポンド(約3ドル)で、朝食付きである。宿の若者に明日は7時に出るが朝食は大丈夫だろうかと言ったら、「大丈夫、入り口で寝ているから、水をかけてでも起こせ」と言った。

 ところが朝になってみると、ほっぺたをペタペタと叩こうが、体を揺すろうが、起きやしない。私は諦めて出発することにした。外でサンドイッチでも買うことにしようと。

 ところで、待ちあわせの彼のところへ行ってみると、今度は彼の約束した自転車が来ない。これも私の朝食と同じなのだろう。仕方なく別の貸し自転車屋に行くことにした。

 そうこうして、サンドイッチを仕入れて西岸への船着場に着いたのは、予定より1時間以上は遅れていた。心地よい朝の光は、灼熱の太陽へと変身しつつあった。

 2人だと何かとごたつくものだなあと思ったのであるが、実際に出発してみると、一人との違いに驚かされる。

 というのも、「2人」ということは、「もう一人」というのではなく、「倍になる」ということなのである。お互い初めての地で、右も左もわからないのであるが、それでもこの日本語文化圏が倍になるということは、気持ちの余裕に雲泥の差を生む。

 例えば、ツタンカーメンを初めとした、王たちの墓のあるルクソール西岸は、入り口付近で各観光ポイントのチケットを、それぞれ買わなければならない。そんな時、「ここどうしよう」と、日本語で話しかける相手がいると、どうせ答えは「どうしよう」なのだが、その間がなんとも気持ちを楽にする。

 また、西岸は世界的な観光地であるにもかかわらず、案内板などはほとんど見られなかった。これはガイドを雇わせる作戦なのだろうかと、思ったものであるが、そんな道に迷っても、「どちらだろう」と相談するだけで、不安はあまり感じなくなる。

 もし一人で登っていたら、この先どれくらいかわからない、この岩場この暑さで、かなり精神的に疲れたことであろう。けれど「暑い」「ほんと」と言葉を交わすだけで、なんと言うか、日本語空間に保護されているような安堵に、包まれるのであった。

 休んでいるとエジプト人が近づいて来て、手に持つ包みを開けて見せた。発掘品だという。どうせ偽物だろう。そんなものより水が欲しい。今までにも数人こういう人に出会ったが、誰も水を売っていない。水ならよく売れるだろうに、不思議なことであった。

 水の切れた二人が、そろそろ不安になりかけた頃、やっと王家の谷が眼下に現れた。ガイドブックによると、そこにはレストランがある。見通しがつけば、巨大なる岩山は、単なる丘に変身する。

写真  やっと王家の谷が見え、一安心。

 ところで、二人での旅は、利点もあれば欠点もある。というのも、彼は、隅から隅まで、つぶさに見てやろうと思っているらしいのに対し、私は気に入ったところに長くいたい。

 王家の谷のそれぞれの墓を見て回るにつれ、次第に2人のペースが、チグハグニなるのであった。せっかく一緒に来たのだから、ここで分かれましょうとも言い出しづらくて、お互い中途半端にその日は終わってしまった。

 彼もそれを感じていたのであろう。東岸に戻って明日はどうしましょうと言う話になったとき、どちらからとも無く、明日は別々にということになった。

 次の日、西岸の残り半分を一人で回った私は、貴族の墓ラモーゼにある美人のレリーフに、すっかり魅了され、時間を忘れていた。クレオパトラに魅せられた、男たちの気持ちが、わかるような気がするのであった。

写真
 ラモーゼの墓にあったレリーフ。なんとなくヒンヤリしたものを漂わせ、見る者を、ゾクッとさせる美しさであった。
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第1章 エジプト
第4話 案ずるより産むが易し No.027No.027

 ガランとしたホールに職員の声がこだまする。彼らにとっては勝手知った退屈なる所。しかし一人旅の私には、空港はやはり緊張の空間。情報は役に立てつけれど、心配は何の役にも立たない。それえは分かってはいるのだが……。

 冷静に考えればそんなに失敗したわけではない、初日の70ドルだけである。見方を変えれば、そのおかげで用心して行動することが出来た。私はそう自分に言い聞かせるかのように、エジプトでの出来事を思い起こしていた。

 三日前のことである、ルクソール駅のホームでカイロまでの夜行列車を待っていた私に、ポリスだと言う男が近づいて来て、切符とパスポートを見せろと言う。何かと思ったら、10EJポンド(約3ドル)の税金が要るという。

 10EJポンドといえど今や大金である。何故だと問うたら、なにやら意味不明の説明。納得がいかない。確か駅にはツーリストポリスの事務所があるはず。そこに行こう。

 強引に歩き始めた私に彼は、「この駅へは歩いてきたのか、タクシーか」と、これまた意味不明の質問。「歩きだ」と言うと、「じゃあいい」と言って、スタスタと去っていった。その手の詐欺のようであった。

 カイロに帰った私は、初日に泊まったホテルではない、一泊7EJポンド(約2ドル)の安宿を見つけた。見た目は結構清潔そうで、窓も小さくはなかったが、日当たりは悪そうであった。

 けれど何といっても、7EJポンドが魅力である。私はこれでなんとかなると、満足したのであるが、夜中の2時、その部屋の先住者達に、起こされてしまう。

 そう、南京虫の諸君である。残念ながらご尊顔は拝することは出来なかったが、脇腹に残った数個の食い痕は、明らかに南京虫であった。

 私は虫対策を何も用意していなかった。思案の結果の私の答えは、暗闇で出てくるということは、明るければ出てこないだろということであった。

 その夜は灯りをつけて眠った。それに驚いたのか、あるいはもう満腹になったのか、その日は朝まで起こされることはなかった。でも次の日はもうこの手はきかなかった。私はボリボリと眠れぬ夜を過ごしたのであった。

 この時以降私は、日当たりの良し悪しを、ホテル選びの重要なポイントにしている。初めての街で、重いリュックを背負い、在るか無いか分からぬ日当たりの良い部屋を求めて、ホテルを三つも四つも捜し歩くのは、苦痛の時もあるが、そういった部屋が見つかると、その街の印象も、まったく変わったものになる。

写真  バスで行くと、街中にニョキリとピラミッドが顔を出した。ちょっとイメージが壊されたような…

 次の日は、ギザのピラミッドに再度挑戦した。今回はあらゆる勧誘を断固断った。70ドルの思いから、断り方に迫力があったのか、皆二、三回の「ノオ」で撃退することが出来た。

 結局かかった費用は、ギザまでのバス代(0.5EJポンド)、入場料(10 EJポンド)、フク王のピラミッド(10EJポンド)太陽の船博物館(10EJポンド)の計30.5 EJポンド(約9ドル)である。それに70ドルも払ったとは、再び悔しさがこみ上げてくるのであった。

 ピラミッドの石は思ったよりは大きく、だいたい平均して、胸から首の高さくらいの石が、一個一個は階段状に重ねられていた。恐らくそういった光景は、テレビなどで見ていたではあろうが、改めて再発見のように思えたものであった。石をよく見ると、貝の化石かと思えるものが含まれていた。

写真  近くで見ると、一つ一つは意外に大きな石であった。

 ギザから戻った私は、ポケットに残った20EJポンドほどで、土産を買うことにした。土産といっても、20EJポンドでは何ほども買えない。結局、親しくなった男の店で、パピルスに描かれた絵を一枚買うことにした。

 喜んだ彼は別れ際、私を抱きかかえ、キスをしてきた。髭の唇が私の頬と唇の境あたりに触れた。これが挨拶なのかと思ったが、眼を点にして立ちすくんでしまった。

 そんな思い出を載せて、ジェットがアテネのエリニコン国際空港に着いたのは、もう日も傾きかけている頃であった。アテネでの第一印象は、ギリシャ人は何と目が大きいのだろう、というのであった。偶然空港で出会った人達が、そうだったのかもしれないが、こぼれ落ちそうに思えたものである。

 私はアテネの中心、シンタグマ広場から歩いて数分というホテルに、泊まることにした。シングル一泊3,000ドラクマである。その足でぶらりと街に出た。夕食は大衆食堂で1,500ドラクマ、ミネナルウォーターは150ドラクマ、サンドイッチは300ドラクマ。

 宿に帰った私は電卓を取り出した。一日7,000ドラクマ程度で何とかなりそうである。空港での両替は1ドル230ドラクマであったから約30ドルだ。いろんなところへの入場料等を見込んでも、一日40ドルくらいだろう。高めではあるが、何とか予算内だ。やれやれである。

 それにしても心配というのは、あっという間に事実を越え、みるみる膨れ上がり、心の中の他のものを、次々と追い出し、見える景色をも変えてしまうようである。

 私はベッドに長々と仰向けになり、大きく息を吐いた。胸のつかえが、その息と共に吐き出されたかのよう。なんだか窓の外のアテネの夜景がロマンチックに見えて来た。

第1章エジプト 完

写真  博物館もあまりに展示物が多いと、感激も薄れてしまう。そんな中、この前で私は釘付けにされる。臓物入れということであったが、惚れ惚れする美しさであった。【エジプト考古学博物館】
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