第1話 すばらしい桑並木 | 第2話 トルコ人気質 | 第3話 シューシャインボーイ |
第4話 コーランの響く | 第5話 時の止まったビザンチンの絵 |
外国語はドイツ語と思い込んでいる宿の主人と、
英語と思っている私。 三日泊まりたいと指3本、 夕食はどうかと口に手の主人、 欲しいけれどいくらかとお金を見せれば、 50,000リラだと指5本。 通じているのは手振りなのに、 必死のドイツ語、必死の英語、 滑稽なるかな、おじさん2人、 トルコ語、日本語、口にせず。 |
エフェスのバスターミナルで、客探しをしていた宿の主人に呼び止められ、まあ見てみようかとついてきてみた。少々遠いので、やめようかと思っていたが、窓は大きく清潔で、辺りはとても静かなので泊まることにした。
さっそく主人の居間に案内されて、お茶を御馳走になる。このきさくさ、やはりトルコはイスラムの国である。それにしても彼らは、日本のことをよく知っていた。
どうやら日本のテレビ番組が入ってきているらしい。トルコの今を何も知らない私が少々恥かしく思えたほどであった。
部屋に帰って出された夕食は、スープにヨーグルト、豆のトマト煮、玉子のトマト煮、葡萄に洋ナシ、それにパンと、トマト味をベースにした野菜たっぷりのもの。
三日目は断っておいたのに無理やり置いていって、宿を出るとき請求された。説明しようとしたら急にそこだけ会話が通じなくなった。 |
油っこかったギリシャの食事の後で、久しぶりに私の胃はリラックスして喜んだのであった。
と、その窓の外のテラスに男の顔が現れた。隣の部屋に泊まっている、家族連れの主人であった。彼らも夕食を終えたところで、遊びに来いというのである。
言葉も通じないのにと少々躊躇していたが、強引に引っ張られる。この強引さもやはりイスラムの国。
言葉はほとんど通じなかったが、どうやら彼は市場の荷担ぎ屋として働いているらしい。300キロを担ぐと言い張った。まさかといっていたら、触ってみろとその肩をはだけた。幅広く変形している。300キロはどうか知らないが、相当の重労働を物語っていた。
広いバザールの中は、ほとんど車が入れず、仕入れの品を目いっぱい背に担いだ「担ぎ屋さん」が大活躍していた。〈イスタンブールにて〉 |
テラスに座りこんで、出された豆をついばみながら、身振り手振りに、時には絵を加えて、いつしか時の過ぎるのを忘れていた。
日本人はこのように客をもてなす事が出来るであろうか。それも見知らぬ初対面の男を、8月のトルコの夜空を見やりながら、ふとそんな思いが私をよぎっていた。
翌朝エフェスの遺跡へ出かける私に、二階の窓から昨日の家族の娘さんが、手を振って見送ってくれた。何となく家族の一員のようなそんなものを感じてしまう。
そんな気分で歩いていると、男が横に車を止め、声をかけてきた。エフェスまで乗せていってやろうというのである。ただだという。そんなうまい話があるのだろうか。けれど心温まるトルコのこと、ひょっとしたらと乗ってみる事にした。
しかし案の定、車はエフェスへの道から右にそれる。また何処かの店に連れて行かれるのだろう。もしもの時のために、窓の外の景色を記憶にとどめようとしていると、絨毯屋の前で車は止まった。
私は「ちょっとだけよ」と彼の後について入る。さっそくりんご茶がふるまわれた。こういう店で出されたものを飲むのは、場合によっては大変危険である。眠り薬が入っていて、身ぐるみ剥がされたという話は、よく聞く事である。
彼らは飲め飲めと勧める。勧めるのが客への礼儀のよう。私の思いは頭の中で巡っていた。ここはほぼ場所も特定できるし、彼もここの人のようである。身元を明かしておいての犯罪というのは、確率からいえば少ないはずだ。一口、私は舌に全神経を集中させた。
甘くて美味しかった。別に何ともない。もう一口飲んでみた。私はそこでしばらく様子を見る事にした。もし何かが入っていたら、そのうち症状が出るだろう。だとしても、舌に乗せた程度の2口ぐらいなら何とかなるのでは。
店の絨毯はどれもすばらしいものであった。いくらだと問えば、畳2条弱くらいの絹の絨毯が670ドルだという。たたみ半畳ほどのは200ドルとのこと。
なるほどと相場を勉強したつもりであったが、それがいけなかった。がぜん売り込みに熱が入る。
「買わないよ」何度そう言ったであろう。けれど彼はそんなことにはお構いなしに、次から次へと絨毯を床に開けて見せる。これは大変だと思いつつも、その美しさを楽しんでしまう。まるで博物館に来ているよう。
床一杯に広げられ、積み上げられた絨毯が20枚にはなったであろうか。あまりことが拡大しないうちにと、強引に店を出ることにした。
まだまだ粘る彼ではあったが、庭に出てしまうと、「バッドデイ」と頭を抱え、あの男が送るからと、庭先の男を指差して、店に入ってしまった。男はスクーターにまたがっていた。
やっぱり車で送るとは、いくらトルコでも話しがうますぎる。スクーターでも上等と、またがろうとすると、入り口まで20,000リラ(約1.7ドル)だと言う。とんでもない。
「話が違うではないか、元の位置まで連れて行け」と言いたいところではあったが、まあ、アップルティも御馳走になったし、美しい絨毯も見せてもらったしと思い、スクーターを断り歩く事にした。
遺跡までの道は、両側に桑の木が深い並木を作り、涼しくてとても気持ちの良い道であった。こんな道を車で一瞬に通り過ぎるのは、誠にもったいない話である。お金を払ってでも、歩きたくなるような散歩道であった。
街からエフェスの遺跡までは、とても気持ちの良い桑並木であった。 |
五十歳は過ぎていただろうか、
「こんにちは」と声をかければ、 古き知人にあったような笑顔、 イスタンブールのこと、ベルガマのこと、 楽しそうに話してくれた、 大きめのひさしの下で、 化粧を突き破った汗のあと、 点々と、 風土の違い、光線の違い、 「それじゃあ」と別れれば、 子供の後を追って去った、 黙々と、 エフェスでは多くの日本人と出会った。 |
壮大なエフェスの劇場跡。4世紀にはここで剣士対猛獣の闘いが行われたとか。24,000人を収容したという。 |
エフェスの遺跡を見ていると、この辺りの海というのが、人々を隔てるものではなく、逆に結び付けてきたのだと言う事を、つくづくと思ってしまう。
その昔この辺り一帯はギリシャとトルコといった分かれ方ではなく、エーゲ海として一つの文化圏に結ばれていたのであろう。エフェスの遺跡はギリシャそのもののように思えた。
そのギリシャでは、ちょっと遺跡に座ってセルフタイマーで写真を撮っていたら、けたたましく監視員の笛で注意されたものであるが、ここトルコでは、心配してしまうほど、ほったらかしである。人々は今にも崩れそうな遺跡に入り、その上を歩き回っている。
そればかりか、博物館の中庭にある喫茶コーナーでは、遺跡の柱の一部がテーブルとして使われていた。ひょっとしたら模造品かもしれないが、他の場所でもゴロゴロ無造作に置かれていたところを見ると、本物に違いないように思えるのであった。とはいえそこで飲むお茶はなんとも贅沢な気分であった。
遺跡からの帰り道、市場でスイカを買った。それを持って宿の隣を訪問した。昨日のもてなしのお礼である。カルピス、カルピスと言って喜んでくれた。
さっそくそれを食べようということになったのであるが、どうも塩をふらなければ味が決まらない。塩がないかと、何とか説明するも、どうしても砂糖が出てきてしまい、なかなか通じない。
やっとの事で出してくれた袋の塩を、切られたスイカに振り掛けると、彼女らは一斉に顔をしかめた。何とバカな事をするのだと、ブーイングが始まった。
私を招待してくれた、隣の部屋の家族。どうやら、家族で出稼ぎに来ているよう。 |
いやいや大丈夫と塩のかかったスイカを勧めたが、首を振って食べようとしない。私が美味しそうに食べてみせると、下の娘が挑戦を始めた。甘く感じたのであろう。姉、母親と次々に挑戦。思わぬ甘さに不思議そうな笑顔。
どうだいと少々得意に思うひと時であった。もしここからスイカに塩をかけて食べる食文化がトルコに広がったとしたら、などと空想し、一人楽しくなっていた。
見ると姉の右足に包帯が巻かれていた。どうしたのかと問えば、しばらく前にガラスで切ったのだという。薬を持っていないかと母親が聞いてきた。買うと高いのだそうである。
私は傷薬は消毒薬のヨードチンキしか持っていなかった。傷口を見せてもらうと、4センチほどの足の裏の切り口は、もうすっかりふさがっていた。これではヨーチンは何の役にも立たないだろう。
母親は大丈夫だろうかと心配そう。私は、ガラス破片の入った傷口と、そうでない傷口の絵を書いた。どちらかと見せると、彼女達はガラス無しのほうを指差した。それなら大丈夫と、彼女の傷跡を恐る恐る押してみた。
別に痛そうな顔をしない。もう少し強く押してみた。大丈夫なようであった。足を引きずっているのは精神的後遺症だろう。「OK」そう言う私を、まるで医者に見てもらっているかの真剣な顔で見つめていた。
見ているのは彼女ばかりではなかった。下の少女も私をまじまじと見ている。何かと思えば、東洋人がめずらしいらしい。
テレビで見る顔を、こんなに近くで見るとは信じられないというのである。ひょっとすると異国の人の顔というのは、皆同じに見えるものだから、テレビに出ていた誰かと、同じ顔に見えていたのかもしれない。
その彼女がボールペンで書いた絵を、プレゼントしてくれた。自画像だそうである。日本の子供たちもよく描くような、少女漫画風の絵ではあったが、切れ長の目が、やはり異国のたたずまいであった。
上の写真の、右端の少女がプレゼントしてくれた自画像。 |
その夜近くで結婚式があるという。バンドが来て、人々が広場に集まっていた。さそわれて見に行ってみた。女性たちが曲に合わせて、如何にもつまらなさそうな顔をして、チークダンス風に踊っていた。
結婚式だというのに妙な雰囲気だと思ってみていたのであるが、しばらくして曲のリズムが変わると、パット皆がはじけるように、ベリーダンス風の踊りで、肩や腰を振るわせた。
誰もとても楽しそうな笑顔に変わり、指の先までダンスを楽しんでいた。これがこの国のリズム、この国の踊りなのであろう。
次いで、新郎、新婦、両親とそれぞれソロで踊り始める。満面の笑みはとても幸せそう。
皆が駆け寄って、それぞれの踊りにチップを渡している。集まったお金は、バンド代にするのだと、隣の主人は説明してくれた。
我々はしばらくしては引き上げたのであるが、華やいだ音楽が、いつまでもいつまでも、トルコの夜にこだましていた。
踊りが変わると、まるで別人のように楽しそうに。 |
住宅街と牛の群れ。私には少し驚く光景もここでは日常のよう。私の泊まっていたホテルは、後ろの建物の向こう側。 |
「セチキン」
ホコリの積もったボンネットの上に、彼は自分の名を指でそう綴った。十二、三歳くらいであろうか、3〜4kgはあろうという靴磨き用の木箱を肩にかけている。
持ってみたが結構重い。「疲れないか」といったら「大丈夫」と肩の筋肉をはだけて見せた。片言の英語を話す。
私はその日のチャナッカレへの夜行バスに乗るべく、宿に荷物をとりに帰るところであった。彼は「シューシャイン、シューシャイン」といって、「ノオ」と言い続ける私について来た。
預けた荷物を受け取り、隣人に別れを告げてホテルを出てきたら、まだ彼は待っていて、一緒にバスターミナルまで歩き始めた。
写真を撮ろうと言うと、「まて!」と言って、歩道の端に座り、木箱を前にデンと据え、仕事のポーズをとった。とても誇らしげであった。『貧しき靴磨き少年』といった私の眼差しが急に恥かしくなる。
道具箱をぽんと叩くと、とても誇らしげにこちらを見つめた。 |
「トルコは悪い、日本はいい」とさかんに言う。「どうして」と聞けば、どうやら差別があるらしい。彼はクルド人だと言う。「バンバン」と鉄砲を撃つ格好をし、国境近くではクルド人が毎日殺されていると、足元の小石を蹴った。こんなに小さいのにはっきりとした政治主張を持っている。
彼の主張を裏付けるかのように、こざっぱりした身なりの若者が、歩いている我々に割り込んできて、少年になにやら刺ある言葉を投げかけた。
少年は二歩、三歩と遅れはじめ、次第に我々から離れていった。若者は、バスターミナルまで送ろうと私に笑顔を向けた。
とても笑顔でこたえる気にはなれなかった。私は「貴方と一緒に歩きたくないから、どうか先に行って下さい」と言って歩を止め、後ろを振り返った。
セチキン少年は人ごみの中でアイスクリームを買っていた。結構逞しい。私は少しホッとしてバスターミナルに向かった。
ターミナルでベンチに座っていると、再び彼がやってきた。まだ私の靴を諦めていないらしい。私は売店でチョコレートを買って、二人で半分ずつ食べた。食べると彼は「バイバイ」と立ち去っていった。
トルコのバスはどれもベンツのデラックスバスで、とても乗り心地が良い。ヨーロッパとの間にあるもう一つの海峡の街、チャナッカレまで90,000リラ(約7.8ドル)で朝食付きとのこと。
どうやらその朝食まではと安心して、ぐっすりと眠ってしまったらしい。かなり眠った感じで目を覚ますと、バスは停車中で、座席一つ前のヨーロッパ人旅行者は、いなくなっていた。
窓の外に目をやれば、夜にしては結構人が出ていて、レストランもあり、バスターミナルのよう。闇の中に浮かび上がった看板の文字を拾うと「チャナッカレ」と読める。
チャナッカレ。ボスポラス海峡と並ぶもう一つの海峡の街。エーゲ海沿いの街からは、こちらからヨーロッパに渡る。 |
あわてて前の男に「チャナッカレか」と尋ねると、「イエス」との返事。
「ストップ!」乗り込んできた車掌にそう叫んだ私は、カメラバッグを抱え、座席の下に行ってしまっていた靴をつっかけて、バスを飛び降りたのだが、リュックは荷物入れの中である。
車掌も私に続いて降りてきたのであるが、バスは動き出してしまう。すると彼も飛び乗る。「えっ」と思っている次の一瞬、5メートルほど先でバスは止まった。
「寝過ごしてしまうところだったよ」と、大騒ぎした自分を少々照れながら、まだそこにいたヨーロッパ人に話し掛ければ、チラッとこちらを見ただけでそ知らぬ顔。
「なんと愛想のない」と彼らに背をむけリュックを担ごうとしてハッとした。今のは日本語、彼らがキョトンとしていたのも無理からぬこと。私は一人、闇に隠れて笑っていた。
未明のチャナッカレ、潮風が心地よかった。ここからあのトロイの遺跡、アキレウスとヘクトゥールの激戦を描いた、あのイリアースの舞台は、すぐ近くである。
……こう言って、雄雄しいヘクトールに、
無慚な所業を企み出し、 両方の脚の後ろの方に、 踵の上から足の付け根へ、 腱のところの穴を穿って、 牛革づくりの細紐をそれへ結いつけ、 二人乗車の後ろに繋いで、 頭を引きずられるに任せた。…… 『イーリアス』 呉茂一訳 岩波文庫 |
私は博物館へ行く途中の、肉屋にぶら下がった肉のかたまりを見て、この一説を思い出していた。アキレウスはトロイ方の敵将ヘクトールの死体の踵に穴を開け、紐を通し、怒りに任せて馬車で引きずりまわすのである。
アキレス腱という名がここから来たという説もあるのであるが、この一説は、イーリアスを読んだ時、アキレウスという男は何と残酷な事を思いつくのだろうと、強く印象に残ったところである。
無造作にアキレス腱で吊るされた肉。 |
目の前の肉はちょうどその状態でぶら下がっていた。羊の肉だろうか、アキレス腱にあたる部分が、無造作にフックに引っ掛けられている。
アキレス腱に引っ掛けるのは別にアキレウスの発明ではないのだろう。肉はこのように引っ掛ける習慣が、元々あったに違いない。
アキレウスも、この砂を蹴って、ヘクトゥールを追いかけたのだろうか。 |
トロイの遺跡から帰った私は、まだ時間があったので、チャナッカレの博物館に向かっていた。博物館は街の中心から歩いて10分ほどで、それほど大きくはなかったが、気持ちの良い町外れの一角に、眩い太陽の光をあびて建っていた。
入場料は10,000リラ(約1ドル)だという。中に入ると、ひっそりとしていて誰もいない。どうやら訪れる人は少ないようであった。そんなホールを中ほどまで歩いた時である、男が駆け寄ってきて、チケットのようなのを数十枚私に渡そうとした。
見ると何となく、宝くじか何かのようである。「いらない」と言うと、トルコ語で何かを言って、無理やり渡して去っていった。別にお金を要求するでもないらしい。
なんだろうとよく見ると、「ビレト」と「500リラ」という字が読めた。「ビレト」とは確かチケットの事である。数えてみた。20枚あった。ということは10,000リラである。
急に笑いがこみ上げてきた。凄まじいインフレで、つくったチケットがはけないうちに、料金が20倍に跳ね上がったのだろう。
何しろリラの交換レートは、ガイドブックの一年前より、約2倍になっている。きっとこのチケットをつくった時は、入場料が500リラだったのだろう。
金額をちょいと書き変えるのではなく、20枚渡すところに、庶民の怒りがあるようで、チョッピリ苦い思いがした。
翌日、バスでイスタンブールに向かった。バスはフェリーでダーダネルス海峡を渡る。
船上を楽しむ暇もなく、対岸に降りれば、そこはもうヨーロッパである。ひまわり畑の美しい景色を楽しんでいるうちに、バスはイスタンブールのトプカプターミナル近くまで来る。
ところがここからが進まない。各方面からきたバスが狭い道に突っ込んで、長蛇の列をなしている。大渋滞である。
夕方の6時は過ぎていた。暗くなるまでに宿を探したい。乗客は一人二人とバスから降りて歩いて去った。最後に残ったのは、ヨーロッパ人4人組と、トルコ人1人、それに私となってしまった。
しかしバスはいっこうに進まない。ついに彼らも降りていく。仕方がない、私も降りることにした。
大渋滞のイスタンブールバスターミナル。ここから先が更に大変。ターミナル入り口近くでバスは、ピタリと止まってしまい、動こうとしない。 |
ターミナルは意外と近かった。ターミナルまでたどり着けば、そこからは各方面にバスがあるはずである。
私は列車のシルゲジ駅近くの、イスティクラルというホテルに、宿を決めた。金角湾にかかるガラタ橋までは、歩いて10分もかからない。
シングルルームで10ドル、窓からは近くのモスクのミナレットが見え、如何にもイスラムトルコの雰囲気であった。
翌朝そのミナレットから流れる、コーランの読誦で目を覚ます。普通なら、うるさいと思うところであろうが、なんともその響きは美しい。朝のまどろみの中で、しばし聞き入ってしまう。
コーランとは読誦するものとの意味らしいが、まさにこの響きは、文字や言葉で伝えるもの以上の何かで、人の心に語りかけているように思えた。
他の言語に訳されたコーランは、もはやコーランではないという。この響きを聞くだけでも、そのことがなんとなく、分かるように思えるのであった。
朝のイスタンブール、その空にしみとおるコーランの響きは、どこまでも、どこまでも美しかった。
しばし聞き入るコーランの響く。 |
金角湾にかかるガラタ橋。橋の向こうが旧市街、多くのモスクやバザールが立ち並ぶ。 |
さてどうしたものか? 私は裸で布を腰に巻き、辺りをキョロキョロ見渡していた。このまま立っていたものか、それとも何処かに座るのか。一人でトコトコと入って来てしまったが、良かったのだろうか。
大きな大理石の部屋は、全体にモヤッとした蒸し暑さに包まれてはいいるものの、所々の蛇口からお湯が出ているだけで、別段設備といったようなものは無いようであった。私は何はともあれ、中央の大理石の台に腰掛けた。
そう、本番の、いや失礼、本場のトルコ風呂に来ていたのである。
マッサージつきは110,000リラ(約10ドル)、風呂のみは40,000リラ(約3.5ドル)だという。せっかく本場に来たのだからと、マッサージつきのほうを奮発した。
お金を払うとコイン大の白いプラスチックを渡される。それを持ってキョロキョロしていると、男が近づいて来てそのチップと引き換えに鍵を渡し、畳二畳ほどのガラス戸の個室を指差す。どうやらそこで裸になるらしい。
渡された布を腰に巻いて出てくると、誰もいない。準備の出来た事を知らせるべく、それとなくその辺りをウロウロしてみたが、誰も来ないので、仕方なく奥の扉を開けて入ってみたのである。
そこがここ。辺りを見渡しても、湯船とかサウナ室といったものは見当たらない。それでもしばらくすると体から汗が出始める。この部屋全体が蒸気でサウナのようになっているのだろう。
中央の大理石の台の向こう端では、男がマッサージを受けていた。マッサージをしている男はまるでプロレスラーのように逞しい。
私も誰かに、ここにいるよと連絡に行かなければならないのかと、不安に思い始めた頃、先ほど白いプラスチックを受け取った男が入ってきた。
ホッとして彼の導くままについて行くと、床に座らされ、垢すりが始まった。垢の出ること出ること、これは大変気持ちが良かった。
終わると中央の大理石の上に寝かされ、マッサージが始まった。私の彼はプロレスラーのようには逞しくなかったので、少々ホッとしていたのであるが、いざマッサージが始まると、七転八倒の思いであった。
脚のスジをグイと骨から引き離すように握ったかと思うと、下から上にグググとシゴキ上げる。特に昼間動き回って硬くなっている脚の筋肉、並の痛さではない。
これでも日本男児、見苦しい声は出すまいぞ、とは気持ちだけ。大理石の間には、何語か分からぬ悲鳴がこだましていた。あのプロレスラーのようなマッサージ師ではなくて、本当に良かったと思うしだいであった。
マッサージは脚が中心で、腰はなかった。ホッとしたような、物足りないような、そんな複雑な思いの私を、再び床に座らせ、頭をごしごし洗って終わりであった。さっぱりはしたものの、明日の揉み返しを心配しながら、私は宿に帰った。
アヤ・ソフィヤ。東ローマ帝国時代、ギリシャ正教の総本山として建てられた。 |
翌朝目が覚めたのは7時半、不思議と揉み返しはなく、快適であった。近くの定食屋で30,000リラ(約2.5ドル)の朝食を食べ、トラム(市街電車)に乗って、バスターミナルへ。そこから城壁沿いに歩いて、カーリエ博物館へ行った。
ここは5世紀の初めに教会として建てられたもので、一時イスラム時代にその壁画は塗りつぶされてしまったが、今では修復され、再びその美しい姿を見せていた。
しかし、美しいことは美しいのであるが、じっと見ていると、どうも華やいだ気分にはならないのである。
アヤソフィアの壁画もそうであったが、ビザンチン時代の絵というのは、どうも見る者をして静かな沈んだ気持ちにさせる。
というのも、キリスト像の目は遠くを見つめ、どことなくうつろに見える。弟子達の表情も、天や師を仰ぎ見てはいるものの、その見ている先は「今」がその息を弾ませかけていく先ではないようだ。
あたかも彼らにあっては時間が死んでしまっているかのよう。
|
|||||
アヤ・ソフィアのキリスト像。とても美しいビザンチン時代のモザイク画。けれど描いているものは華やいでいない。 |
あのアテネの博物館の『馬に乗った少年』や『ポセイドン』の作者が感じていたであろう、はじけるような生き生きとした時間は、いったい何処へ行ってしまったのだろう。
これが同じギリシャ文化の作品とは、とても信じられないように思えてくるのであった。
ビザンチンの絵の世界は、時の流れの止まった世界。過去も未来もそこにある世界。結末を知っているサスペンスのよう、平和ではあるがドキドキもない。
アテネの博物館にあったあの作品は、「今」から「世界」を見た開放系。
ビザンチンの絵は、「世界」から「今」を見た閉鎖系。
私は、未来が無限のかなたまで開け放たれていた、青春時代を思い出していた。
第2部 エジプト・ギリシャ・トルコ 編 完