第2章 ネパール  《 第7部 インド再び そして ネパール 》
第1話 赤いレンガのバクタプル第2話 ホーリー祭第3話 ポカラ
第2章 ネパール
第1話 赤いレンガのバクタプル No.104No.104

 夜明け前の闇が、ほんの少し白みかける頃、あちらこちらの家々から、カタコトと物音が聞こえ始める。まるで赤い煉瓦造りのこの古都が、目覚めの寝返りを打っているかのように。

 カトマンドゥから東へ15km、中古車というより、廃車の再利用のようなトローリーバスに揺られて1時間、かつてのマッラ王朝の首都の一つでもあったバクタプルは、遠くヒマラヤの山々を望む、のどかな田園の中で、ポツリと時の流れに取り残された小島のように、私を待ち受けていた。

写真  車の進入が制限されているようで、それだけで町の雰囲気は、がらりと違ってしまう。人が主人の町となる。いたるところで出会う、子供たちは、まるで遊園地で遊んでいるかのよう。

 町の入り口で、文化財保護基金なるものを支払わされた時は、少々不満に思ったが、敷き詰められた煉瓦の道を、宿を探して歩いていると、まるで魔法にかけられた、別の世界に招き入れられたような、そんな錯覚に陥ってしまう。

 道に、お寺に、建物に、積まれた煉瓦の一つ一つは、それを積み上げたその人の、その日の思いもそのままに、そこに置き忘れられているかのよう。朽ちかけた縁台は、そこに座ったその人の、喜びや悲しみ、そして夢さえも、そのままそこに置き去りにされているかのよう。

 ここが都と栄えた時の、歴史の彼方の人さえも、今なお何処かにひそんでいそうな、赤い煉瓦のバクタプル。そこらじゅうからわいて来る、悪戯っぽい子供たちは、そんな古都に棲みついた妖精たちの仮の姿か。

写真  夜明けとともに町は、日中のにぎわいを見せる。

 みるみる明るさを増してくるホテルのテラスで私は、そんなバクタプルの通りが、あっという間に昼間の賑わいになるのに驚いていた。

 雲さえなければ、ヒマラヤの山々が見えるという、宿の人の話に、特別早起きをしたつもりであったが、夜明け前に起きるということが、ここでは決して早起きではないようである。

 日の出とともに一日が始まり、日没とともに一日が終わる。そんな当たり前のサイクルを我々が忘れてしまったのは、いったいいつの頃からなのだろう。あたかもここの人々は、明るくなるのを扉の向こうで待ちわびていたかのようだ。

 考えてみればそれがもっとも自然のように思える。朝に弱い私は、あまり声を大きくは言えないが、我々多くの日本人の一日のサイクルが、とてもゆがんだもののように思えてしまう。

 それにしても人々は、いったい何処へ行くのだろう。私はテラスから身を乗り出して下をのぞき込んでいた。

 ところで、一昨日の早朝ダージリンを乗合ジープで下った私は、午後の二時過ぎには、のんびりと人々の行き交う、国境の橋を渡っていた。

 橋の向こうのカーカルビッタからは、夜行のバスがあるはず、そこからネパールの首都カトマンドゥまでは、だいたい600km、バスはタライ平原を西へ西へと突っ走り、朝にはカトマンドゥ盆地に入るはず。

写真  インド・ネパール国境。橋を渡れば外国旅行なのだが、行き交う人々の表情は、「ちょっとそこの畑まで」といった感じであった。

 ところがそのバスで、ちょっとしたアクシデントがあった。

 バスに揺られて一眠りした夜の10時過ぎ、ペットボトルの水を飲んでいて、手元くるってキャップを通路に落としてしまった。何処かへいっては大変と、慌てて肘掛越しに暗い通路に手を伸ばしたタイミングに合わせ、ゴンとバスが揺れた。

 「あ痛っ!」とそのゴッツイ木製の肘掛で、胸を打ってしまったのだが、それよりも「クシャッ」と胸のあたりで何かが砕けた感触が気になった。恐る恐る胸のあたりを触ってみると、眼鏡の柄が、もげてぶら下がっている。

 私は近眼だが、常には眼鏡をかけていない。そのせいか、眼鏡をかけては近くが見難くい。だから、かけたり外したりと、大変めんどうである。

 そんなわけで、眼鏡を紐で首にぶら下げ、これは便利と喜んでいたのだが、そのぶら下げているのを時々すっかり忘れてしまい、少々危ないなと思っていたやさきである。

 残った片方の柄でかけてみたら、少しずり落ちはするものの、何とか私のそう高くない鼻にしがみついてくれる。ちょっとコメディアンのようだけれど、駅で時刻表などを見る時は、なくてはならない必需品である。

 その眼鏡が落ちないように、手で押さえて下を覗き込む。いったい何を持っているのかと。どうやら人々が手に手に持っているのは、神に捧げるお供えのようである。バクタプルの朝は、お参りから始まる。

 見た目には、味こそあれ、そう美しくはないバクタプルが、なんだかとてもすがすがしく感じるのは、単に湿気の多かったダージリンの反動のみとも、いえないのかもしれない。

 夜明けは物憂い一日の始まりではなく、晴れ晴れとした、神々との再会の時なのだろう。この古都が守っているのは、単に世界遺産としての遺跡のみならず、神と人々のありようの、そんな姿でもあるかのようだ。

写真  仕事帰りの人々でにぎわう、ダルバール広場。夕陽が赤い煉瓦のバクタプルを、よりいっそう赤く染める。右手の建物が旧王宮。手前の赤い煉瓦造りが、ネワール建築の傑作といわれる「55窓の宮殿」。
 前章へ戻る Top 旅・写真集 Bhaktapur
第2章 ネパール
第2話 ホーリー祭 No.105No.105

 「ノオーッ!」

 手で相手をさえぎり、語気を強めて首を振った。おそらく眉間に縦ジワがよっていた事だろう。その顔を見れば言葉はいらないはず。

 なのに執拗に迫ってくる。右手に赤い色粉をのせて、それを私に塗ろうというのである。歳は40歳くらいであろうか、子供ならまだしも、そんなに面白いのだろうか。

 私は彼の手を払いのけ、通り過ぎようとする。その袖をつかんで離さない。グイッと捻りほどく。むきになって掴みかえす。意外に力が強い。コノヤロウ!≠ニ思う気持ちを押し殺す。お祭りなのだからと。

 ホーリー祭、春の到来を祝って人々は水や色粉をかけ合う。屋上から物陰から、歩いていると突如水をぶちまけられる、赤や青の粉が降って来る。カメラを持っていようが、上等の服を着ていようが、外人だろうが、そんなことはお構いなし。

 三日ほど前、ヒマラヤの展望台として知られるナガルコットへのバスに乗っていると、通りすがりの村々で、何度もバスの窓めがけて子供たちから水風船が投げつけられた。

 車内で破裂する水と悲鳴。ずいぶんと悪い悪戯を、ここの子供たちは覚えたものだと思っていたのであるが、あれはこのホーリー祭の一環だったようだ。

写真  バクタプルでは、非常にたくさんの子供達が遊んでいたのが印象に残る。リーダー格の少女がおどけて見せた顔に、びっくりの男の子。

 旅をしていると、異文化を、無意識のうちにも少し下に見て、そこにほのぼのと感じる優越感を、楽しんでいるのではと思える人に時々出会う。

 けれどまたその逆に、まるで仮装行列のように迎合し、変身気分に酔っているような人にも出会う。

 まあそれも旅の楽しみで、観客席で見ているより、参加した方が楽しいに決まっていると言われればそれまでだが、どうも私はそんなに乗れない。

 私は日本人であることに、特別の誇りを持っているわけでも、また、愛国心なるものに特別の思い入れを持っているわけでもない。けれど私は、日本という一つの特徴ある文化に育った一個性であるという事実からは、良くも悪くも、離れられないように思っている。

 だから、異文化は尊重はするけれど、自分を離れて、そこにまぎれ込みたくはない。

 アヒルであることを忘れて白鳥の中に紛れ込めば、それは《醜いアヒルの子》だけれど、アヒルとしてつき合えば、どちらも貴重な地球の生命のはずだ。

 だから例えば、ヒンドゥー寺院やモスクでも、にわか信者になってご利益をむさぼり取ろうとは思わない。彼らは礼拝し、私は黙礼する。

 私が心がけたいのは、拒絶でも同化でもなく、お互いの異を認め合うことである。けれど人の異を知ることは比較的容易なのだが、己も異であることを認めるのは、けっこうむつかしい。頭ではわかっても、気持ちがわからない。

 私が色を塗られることを拒むのは、そんな己の異を認めない拒絶だったのだろうか。それとも異を認めない彼の気持ちの高ぶりか。

 いや、実を言えば、この時私は、少々機嫌が悪かったのである。

 というのも、バクタプルの4日間、毎朝夜明け前に起きて東の山々を眺めていたのだが、いずれも雲に覆われて、ヒマラヤは見えなかった。

 ガイドブックによると、山を見るなら2月までと書かれていたが、2月も下旬となるとヒマラヤの上が晴れ渡るのも少ないようだ。

 がっかりと諦めて、カトマンドゥに戻る日の今日、見事に空が晴れ渡り、真っ青の空に真っ白の山々が顔を出しているではないか。

 何と運が悪いのかと、落胆の中、チェックアウトしてバスターミナルに向かったのだが、諦めきれず急きょ宿に引き返し、もう一度荷物を預けて、ナガルコットへ向かった。

 ところがバス停では今日がホーリー祭ということで、なかなかバスがやってこない。10時半やっと出発したのだが、気のせいかそののろいことのろいこと、イライラして窓の外を見ていれば、子供たちに水はぶつけられるは、だんだん空に雲は出てきてしまうは…。

 昼の12時、やっとナガルコットに着き、息せき切って展望台まで駆け上ったのだが、残念、もう7割がた山は雲の中に隠れてしまっていた。ほんの30分前はまだ充分見えていたのに…。

 自ずと1時間を越えてバス停で待たされることになったホーリーの祭りに恨みがつのる。まあ、ホーリーこそ、いわれなき恨みをかって、いい迷惑だったかもしれないけれど。

写真  ナガルコットより見る、ヒマラヤの山々。左手に見えるはずのエベレストは、残念ながら完全に雲の中。

 結局この日は、カトマンドゥに着いて宿を見つけてから、まだ時間があるように思えて、仏陀の目の描かれたストゥーパのある、スワヤンブナート寺院まで、タクシーを飛ばした。

 けれどここでも、息せき切って石段を登った時には、既に日は西に隠れてしまい、またまたタッチの差で、シャッターチャンスを逃してしまう。まったく後手後手で、イライラの多い一日であった。

 けれどそう悪い一日でもなかった。

 というのも、ストゥーパに描かれたあの独特のデザインの仏陀の目を見つめていると、「まどろむな!ハッキリせよ!」という声とともに、意識をグイと外の世界に引き出されるような、そんな思いにさせられているのに気づいたからである、あたかも睡魔に負けそうなまぶたを、グイと両手でこじ開けられるように。

 この目に見つめられた遠い昔の人達も、きっとそんな力を感じていたに違いない。そう思うと何だか、時の彼方の人々の心の光景を、パチリと1枚切り撮ったようで、嬉しくなって宿に帰った。

写真  ついついうつろになる意識を、グイッと目覚めさせるような力を秘めた仏陀の目。カトマンドゥ、スワヤンプナート寺院。
  Top 旅・写真集 Bhaktapur & Kathmandu
第2章 ネパール
第3話 ポカラ No.106No.106

 「ミスター ヤマダ」

 確かにそう聞こえた。こんな所に私を知っている人など、いようはずがないのだが…。

 雪をいただいた聖山マチャプチャレの華麗なる姿が、町近くまで迫るというポカラのバスターミナルで、ワッと押し寄せる客引きを押しのけながら私は、声の方を目で追った。

 そんな私を見つけた若者が、ニコニコと近づいてくる。手にした画用紙大の紙には、黒いマジックで確かにYAMADAと書かれていた。どうやら彼も、ホテルの客引きの一人のようである。

 けげんそうに見つめる私に、「カトマンドゥのペニンスラホテルの友人が、あなたがこのバスで来ることを電話で知らせてくれました。」と説明した。

 なるほど道理で、えらく親切にバスチケットの手配を手伝ってくれると思った。お互い客の情報をやり取りして、客を呼ぼうというわけだ。なかなか熱心な人達だ。

写真  ポカラという地名は「池」の意を語源とするらしい。多くの湖があった。中でも一際大きなペワ湖、湖畔には国王の別荘もある。

 旅をしていて、初めての所に着いた時は、どうしても、少し緊張したものを感じてしまう。そんな時、自分の名前を知っている人に出会うというのは、なんとなくホッとして、ほのぼのとした親しみを感じてしまう。

 そんな心理を突いた、なかなかのやり方である。私は彼らの作戦に乗って、「気に入らなければ別の所に行くよ」と念を押し、彼のバイクの後ろに跨った。

 ところが連れて行かれたホテルは、ホットシャワー付で、東と南に大きな窓がつき、その窓の向こうには、広々と気持ちの良いテラスがついている。それでいて、何と5ドル。文句のつけようがない。私は喜んでOKをした。

 ところで、このネパールという国、物価にまるで二つの世界があるようで、面食らってしまうことが度々ある。

 というのも、カトマンドゥなどの旅行者の多い所には、ありとあらゆる商品が並んでいて、わざわざ日本から、重いお思いをして担いでいくのが、ばからしくなるくらいである。

 けれどそれら輸入品は当然国際価格、値段は日本とそんなに変わらない。けれど物価の安いネパール、それをルピーで表示されると、とてつもなく高く感じてしまう。

 例えば、ここポカラにも、他のアジアでは手に入りにくいポジフイルムの、それもかなり新しいのが、売られていた。一個買ったが、値段は480ルピー(7.5ドル)。日本と変わらない。

 つまりポジフイルム一個が、ベランダ付きの素晴らしい部屋の一日分よりはるかに高いのである。

 また、モモ(餃子)はだいたい10〜50ルピーで充分お腹は膨れる。ちょっとした旅行者向けのレストランの昼食でも、50〜100ルピー程度で充分である。けれど紙パックのジュースが120ルピーした。町の食堂の二食分だ。

 そんな中での商売熱心、彼らはどんな複雑な思いで、高値の国からの旅人を見ているのだろう。

 そんな複雑な思いのにじんだ、少し悲しい顔に腹を立てたのは、このポカラからインドのヴァラナスィーに向かった日のことであった。

 結局ポカラでは、4日間頑張ったものの、町に迫る霊山マチャプチャレの姿は、初日にガスの中に少し見えた程度と、またまた未練の残るものとなったが、ビザの期限も迫って、インドへ戻ることにした。

写真  かすかに聖山マチャプチャレの姿が見えるでしょうか。第1日目、サランコットの丘の途中から。残念ながら、2日目以降は、ほとんど見えなかった。

 私は自分で好きに選ぶことの出来ないパックの旅券というのは、あまり好きではないのだが、ホテルにはバスのみのチケットはないと言う上に、料金もほとんど変わらないので、インドのヴァラナスィーまで、国境のスノウリで一泊朝食付700ルピー(11ドル)というチケットをホテルで買った。

 ちょっと安す過ぎるように思えて、「エアコンディションバス、個室、朝食付き、ヴァラナスィーまで」と、彼らの提示した条件を2度確認したのだが、「OK、ノープロブレム」と請け負っている。

 本当だろうかと多少は疑いも残ったが、このホテルもとても安かったことだしと納得していた。

 ところがその日、朝の6時にホテルの前にやってきたバスは、エアコンディションとは程遠いもの。けれど今さらやめるわけにもいかず、エアコンバスなど、信じた私が馬鹿でしたと諦めて、乗り込んだ。

 延々と悪路に揺られて午後の4時、バスはやっと国境の町スノウリのとある宿の前に着いた。中の人の歓迎のしぐさに迎えられてホテルに入ったのであるが、なんとも逃げ出したくなるような陰鬱な宿である。

 おまけにドミトリー(相部屋)だという。ドミトリーも、むしろ楽しい面もあるものの、話が違うことは許せない。

写真  ネパール・ポカラからインド・ヴァラナスィーまで、途中一泊して、まる2日のバスの旅。いろいろ問題はあったが、それが宿込み朝食込みで約1,300円。

 「そんなことはない、個室、朝食付きは何度も確認したことだ」と言うと、「そんなこと何処にも書いてない」と、チケットの裏表を私に見せる。

 おまけに、「書いてあるかを確認しなかった貴方に落ち度があります」とまで言ってくれる。

 ここで泊まるのかと少々憂鬱になっていた私、そんなことを言われて、頭にガチンと来てしまう。

 「ドミトリー、朝食抜きとも書いてないではないか。ホンコンホテルに電話して聞いてみろ!」

 「ネパールでは電話代がとても高い。電話代を出してくれますか?」

 「冗談じゃない、それはそちらの仕事だろ!」

 後ろめたさは向こうにあるはず。押せば必ず折れる。

 ところが、二、三回押し問答が続いた後、彼は本当に電話をし、話をつけろと受話器を私に手渡した。

 その受話器から聞こえてきた、聞き覚えのある声は、何と、「ドミトリーです。朝食はお金を払って下さい。」とおっしゃる。

 どうやら、ちょろまかそうとしているのは、向こうのホテルらしい。ここまで来たら、誰もポカラまで戻って文句を言うまいと、たかをくくってか、よくもいけしゃーしゃーと言えたものである。

 この手で何人をだましたのだろうと思うと、面と向かってやりあえぬもどかしさに、がぜん腹が立ってきた。私は電話のこちらで暴れてもとは思いつつ、バンッと机を叩いて、受話器に怒鳴っていた。

 「オーケー、オーケー、あなたの言うとおりでオーケーです。」しまいに弱々しくそんな声が受話器から聞こえてきた。

 《あたりまえだ!》とは思いつつも、日本円にした場合のその額の低さに、チクリと胸に刺さるものを感じてしまったのは、その声に、インドの人達のような、したたかにとぼけた明るさが、感じられなかったからだろうか。それとも私が、腹を立ててしまったせいだろうか…。

 それにしても、部屋の不潔なベッドには辟易してしまう。頑張らずに他の宿に変わった方が良かったかなと思いつつ、ジャケットで枕を包んで頭を乗せた。埃りまるけのジャケットではあったが、そのほうがきれいに思えて。

次章「インド再び」へ  Top 旅・写真集 Bhaktapur & Kathmandu