第2章 チベットを回って  《 第8部 中国 編 》
第1話 上海元気第2話 ゴルムドの乾いた空の下で第3話 バス、何と69時間
第4話 チベットの心、五体投地第5話 ラサと近代化第6話 峨眉山の迷い後
第7話 成都、年月の妙の住まう街第8話 強国富民第9話 大理の勤勉と五体投地
第10話 四方街の火にゆれて第11話 南の国シーサンパンナ第12話 避けえぬ道
第13話 桂林の絵の中で第14話 笑顔の陽朔第15話 黄山、ぼったくりの中で
第16話 南京に思う
―  その2  ―
第2章 チベットを回って
第9話 大理の勤勉と五体投地 No.135No.135
写真
菜の花の咲く大理。屋根の向こうに崇聖寺三塔の一つが見える。

 大理(ダーリー)の女性は働き者である。そう言って間違いないと思う。

 菜の花の咲く大理、あのペットボトルの水もガチガチに凍ったラサへのバスが嘘のよう。いや、そればかりではない。昆明からのバスの快適さも、チベットとの隔たりを感じさせずにはいられない。

 朝の10時半、昆明のターミナルを出たクッションも柔らかい大型バスは、高速道路をすべるように走ること5時間、途中に設けられたチェックポイントでは、待ち受ける係員が車体の安全点検をするといった念の入れようで、これがあのラサまでの69時間と同じ国のバスの上とはとても信じられない快適さ。

 ひょっとして、チベットへの道は、何らかの目的で、わざと故障ばかりのバスを使わせているのではと、ひねくれて考えたくもなってしまう昆明からのバスの上。

 「中国語で城というのは、日本語の城とは意味が違って、『街』の意味なんです。」

 偶然乗り合わせた、日本人留学生は、目指す大理古城をそう説明してくれた。言葉を話せる人と一緒というのはなんとも心強い。下関で乗り換えたミニバスが、きれいに修復された大理古城の城門前に着いた後も、宿探しまで手伝ってくれる。

写真 綺麗に修復された古城の城壁。正面は一塔寺。

 ぐるりを城壁で囲まれた古城の中は、古い瓦の家や、レンガ造りの城門も残り、かつての大理国の面影を留めてはいたが、街の中心は、雰囲気はあるものの、かなり観光地風。

 土産物屋の並ぶ中、多くのホテルや、旅行会社、それに、外人が喜びそうなインターナショナルなレストランも並ぶ。そんな古城を抜け出して、東の湖を目指して歩いてみた。

 耳の形に似ていることからそう呼ばれるようになったという「アルハイ」、漢字ではサンズイに耳という字と海を書いて、英語では Erhai lake となっていた。

 面積は、琵琶湖のだいたい1/3余りで、大理市の17%をも占めるというから、すぐに見えてくるだろうと思って歩き始めたのだが、行けども行けども緑の畑。

 もういつまで続くのかと、はじめは邪魔に思えた景色だが、どの畑もどの畑も、その野菜の葉の1枚1枚にいたるまで、決して見逃していない手入れの良さに、次第に興味がわいてきてしまう。

 いかにも愛情いっぱい、いかにも精魂傾けて。彼らが手塩にかけたその畑の姿は、セッセと働く大理の人達のその働きっぷりを物語って余りあるというもの。

 そう思ってあたりを見渡せば、畑にいるのはほとんどが女性。そういえば、収穫の野菜を、ゆさゆさと背に弾む天秤棒で運んでいたのもおかあさん。小川で刈り取った野菜を洗っていたのもお姉さん。

写真
畑仕事に余念のない大理の女性。

 いったい男はどこへ行ったのだ(大理石の工場ででも働いているのでしょうか?)と言いたくもあったが、それはともかく、大理の人達は、寸暇を惜しんでこの畑の世話をしているに違いない。

 東京の友人から、「中国の人達の宗教観は?」といったメールが届いていたが、この大理の人々の畑仕事は、ちょうどラサの人達の五体投地のような役を果しているのではないだろうか。

 人は何かに必死に取り組まなければならない時、そういった状況自体は、決して喜ばしいことではないのだけれど、ともあれ、「で、その後はどうなるの?」といった不安からは免れる。

 必死になっていれば、そんなことを考える余裕がないということだ。けれど、この余白がないということは、見方を変えれば、充満でもある。苦しんでもがいていた時期が、後からふり返れば、充実していた日々のように思えてしまうのも、そんな心のトリックではないだろうか。

 セッセと何かに取り組む人が演じるシナリオは、そのセッセまでで、そこから先は、漠然とした夢が舞台を引き受ける、きっと何か良い事があるはずだと。

 だから、この世のことに必死なる人は、そのこの世の意味を語る外側の景色が、例え何教で描かれたものであれ、大して変わりはないということになるのではないだろうか。

 成都の昭覚寺は禅寺のはずだけど、人々は御利益を願う感じで拝んでいた。西寧の道教寺院でも、都江堰の仁王廟でも、「この世」の先の景色はそれぞれ異なるはずなのに、みんな同じように御利益を願っているように見えた。

 何だか、勤勉と言われる日本人の宗教的あいまいさも、こんな姿に描けるように思えてくる。

 大理とラサ。勤勉と敬虔。畑仕事と五体投地。方や標的が近いがゆえに情熱的に、方や遠いがゆえに方向安定して。

 次の日訪れたアルハイ湖の北の端、沙坪(シャーピン)の野外マーケットは、そんな白(ペー)族の女性達の活気で満ちていた。

 白を尊ぶというが、見た目の印象は青の多い民族服の彼女達、その笑顔に、青春の乙女が見せるような、明日を夢に守られた逞しさを感じてしまったのは、単に照りつける雲南のまぶしい陽射しのせいばかりではないと思う。

写真
大理北の沙坪のマーケットにて。選んでいるのは旦那の靴でしょうか?何だか明日が夢一杯に包まれているようで。
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第2章 チベットを回って
第10話 四方街の火にゆれて No.136No.136

 よしっ、行こう!明るい内に着けば何とかなるだろう。

 「麗江(リージャン)はとても良い所らしいですよ。何でも四方街というところが古城の中心で、そこへ行けば宿は見つかるでしょう。何しろ世界文化遺産の街ですから。」

 大理の沙坪(シャーピン)のマーケットで写真を撮っていた若者が、そう言って見せてくれたガイドブックのコピーを拾い読みしたものの、唯一それが私の情報。

 どういうわけか私のガイドブックから、ころっと抜け落ちていた麗江は、まったく眼中になかった所。けれど彼の話を聞いていて、一年程前だったか友人から届いた手紙に、「麗江に来ています」と書いてあったような記憶が蘇ってきた。

 良くは覚えていないのだが、その時なんと読むのだろうと思った漢字が、この麗江だったような気がする。その麗江までがバスで3時間だという。ここまで来て行かないというのも惜しい。

 けれど、その頼りの「四方街」すら、どう発音するのか分からないといった状況で、一人「乗り込む」には、少々の決意がいる。

 そんな決意で次の日、まだ暗い内に宿を出ると、例の快適バスは、お昼にはもう私を、麗江のターミナルに下ろしていた。余裕の時間。同じバスの乗客が、次々と散っていく中、誰も居なくなったターミナルの売店で地図を買った。さてどうしよう…。

 ガランとした待合室の、プラスチックの冷たいベンチに一人腰をかけ、膝にはさんだリュックの上に地図を開ける。え〜っと…。

 あったあった、三合酒店の文字が。彼のコピーからメモしたホテルの一つ。宿さえ確保できれば後はどうにでもなる。さっそくリュックをかついで歩き始めた。少々遠いかもしれないが、街の様子をつかむには歩くにかぎる。

写真麗江  麗江古城の中心街。南宋時代からのものというが、意外にこざっぱりとして…。

 通りの角の大きな水車の向こうに見えてきた麗江古城、800年の歴史を持つその古い街並みが、文化遺産になっているというのに、赤の多い街のたたずまいは、ちょうど東京の浅草を麗江風に模様替えしたような、いやにこざっぱりとした感じ。

 ちょっとここも、例によって公園ぽいのかと、あまり期待せずに宿を出て、四方街から七一街、七一街から…と回ってみたのだが、少し中心を外れると、時間も後戻りするような魅力につつまれる。

 そんな街をぐるりと楽しんで帰った四方街、夕食を食べて出てきたら、夜店の電灯に囲まれた石畳の広場には、赤々と焚き火がたかれ、民族服の人を中心に、人々が輪になって踊っていた。

 麗江伝統の踊りなのだろう。おそらく観光地がゆえの催しなのだろうが、見ていると、何だか私も楽しくなってきてしまうのは不思議である。

 日本にも盆踊りのような習慣があるが、人と人がこうやって手を取り合うことの楽しさを、我々はだいぶなくしてしまったのではないだろうか。

 インターネットだEメールだといったところで、所詮たどり着く先に居るのはどれも人。道具で人の輪が広がったように思っているが、濃さを犠牲にして広さを得ただけなのかもしれない。

 単純な繰り返しのリズムに乗って踊る人々の、ゆれる焚き火に照らされた赤い顔のにこやかさは、とかく便利さに目がくらみ原点を忘れがちな我々への、昔の人々からのメッセージのように思えてくる。

写真白沙  麗江の北8kmの白沙(パァイシャ)の村で、踊りを披露してくれた御婦人方。私も輪に入って踊ってしまいました。簡単そうなステップでしたが、私は結構戸惑ってしまって…。

 「まあまあこちらに来て座りなさい。お話しましょう。」

 次の日ホテルの人に教えられて行ってみた白沙(パァイシャ)の村、帰り道が分からなくならないようにとキョロキョロしながら歩く私に、青いオーバーを無造作に来た白い髯の老人が、達者な英語でそう話しかけてきた。

 気ままな寄り道の似合う、のどかな白沙の村。それではと軒をくぐると、お茶を用意しながら、あなたが日本人ならと、日本語の本のコピーやら、名刺やら、それはそれは、次から次へと出して見せられてしまう。

 「私はとっても有名なのです。タイムスにも紹介されましたし、日本のNHKも取材にきました。ほらここに書いてあります。これは日本で出版された本です。取材に来た人が送ってくれました。これは…」

 壁には一面に、さまざまな記事のコピーや名刺がはりつけられている。差し出された日本語のコピーを読んでみる。

 「麗江の神農氏と呼ばれる奇特な人、…至る13年間で、治療を求めてきた人10万人。うち海外からは5万人近く。…和医師は『金持ちであろうと貧乏人であろうと治療をし、病については語るが、利益については一切語らない』を信条に…

 …そして麗江で1996年2月3日に起きた大地震の時は…3日から7日までだけでも、300人の命を助けたのである。…前イギリス大使である…、前カナダ大使である…、みんな和医師の名を慕って、ここを訪れている。…」

写真白沙  麗江のDr.ホー。とても有名な方らしいです。
 冒頭からの自己宣伝に、始めは本当だろうかと半信半疑であったが、その柔和な人柄に、そんなこと、どうでもいいように思えて。

 私はまったく知らなかったのだが、えらく有名な薬草づくりの医師らしい。けれどそんなに有名なら、何も通りがかりの旅人の一人をつかまえて、わざわざ名を売る必要もなさそうなもの。

 それにこういった「私は治りました」といった宣伝は、日本の新聞のチラシでもおなじみで、私はあまり鵜呑みには出来ない。

 いったいこの人は何を腹に持っているのだろうと、少し冷たい部分を心に残して話を聞いていたのだが、そんな冷たさも、日向ぼっこの陽だまりのような、ポカポカとした柔らかさで包む人。

 書かれていたことが果たしてどうなのかは、私は知る由もないが、少なくとも、医術の先も人であることを心得ている人に違いない。

 それにしても、街がいやにこざっぱりしていると思ったが、地震の後に修復されたものと聞いて、納得する。

 じゃ、そろそろと立ち上がると、「あなたはどこが悪いのですか?」と聞かれてしまう。

 昔から少々頭は悪かったけれど、おかげさんで体は健康。そう言うと、「それなら、胃腸を活発にする健康茶を上げましょう」と草を粉にしたような薬を紙に包んでくれた。

 湯に混ぜると、かすかに梅干に似たような匂いの残るその薬、恐る恐る試してみたが、胃腸が少し活発に動き出すような気がしないでもないような気がするような…(なんだって?) いや、あの、あまり良く分かりません。

H写真麗江
 四方街から少し離れた七一街。このあたりの道、とても私は好きでした。
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第2章 チベットを回って
第11話 南の国シーサンパンナ No.137No.137

 中国は広い。あの鼻の先が切れるような冷たさの中、夜空を見上げたラサへの道も中国なら、その25日後、水をかけ合ってはしゃぐ景洪 (ジンホン) の公園も中国。

 椰子の葉が、なまあたたかい風にそよぎ、少し厚手のウールのズボンが、素足にはいてさえ、暑苦しく感じてしまう。雲南省シーサンパンナタイ族自治州、景洪。ラオスとの国境は、もうすぐそこである。

写真景洪
景洪の、椰子の並木の、目抜き通り

 昨日午後の4時、昆明のターミナルを出たバスは、パンクの修理で立ち寄った町なかで、急ブレーキを踏んだ。

 車掌がドアから飛び降り、乗客が一斉に窓にへばりつく。私も席を立ちその客の肩越しに外を見れば、既に4、5人に囲まれたワイシャツ姿の男が、自転車を脇に車掌からわたされた白いタオルで頭を押さえ、顔をしかめている。どうやら自転車を引っ掛けたようだ。

 車掌はしきりに話し掛け、いかにも心配そうに彼のズボンのほこりを払い、タオルの中をのぞきこむ。これは大幅に遅れるのもやむを得まいと、席に戻って座り込んだ、が、まもなくバスは動き出してしまう。

 えっ、動いてくれるのはありがたいが、まさか、あのタオル一本で…。

 体を捻って見る窓の外では、まだ痛そうにタオルを頭に当てた男の姿が、次第に小さくなって、勤め帰りの人々の行き交う、黄昏の街並みに消えた。

 そこからこの景洪まで、かなりの悪路と聞いてはいたが、なかなかきちっと舗装されている。けれど山道は、右に左にと急カーヴの連続で、揺れる体を支えて、夜もほとんど眠れやしない。

 まるで眠ろうとする体を、常に誰かに揺り起こされているような、そんな中途半端も通り越し、もうやけっぱちに目も覚めてしまった朝の8時、ようやくバスはこの景洪のターミナルに着いた。

 そこから歩いて20分、案外簡単に見つかった第一候補のホテル景洪賓館。ガイドブックには200元(約24ドル)となっていたが、なんと50元。オフシーズンは何かとお徳。

 やれやれとベッドに横になったら、あっという間に寝入ってしまった。けれどお昼には目が覚めて、街の南の民族風情園まで歩いてみた。

写真景洪
バスターミナル前で軽食を売る人もぐっと華やいで

 ほとんど放し飼いの状態の鳥園では、その美しい尾羽を目いっぱい広げて、メスを誘う孔雀。

 今までその美しさのみに気をとられていた孔雀ではあったが、近くで見ると、後ろの小さな尾羽で、グイとその長く美しい飾り羽を持ち上げ、必死に支えてバランスを取っているその姿は、けなげにもほほえましい恋心。

 けれどそんな気持ち、わからなくもない。生暖かい南国の風は、4時から行われたステージの踊り子の、なにげない体の捻りにすら、妙に色っぽさを感じさせる。

 幕間の一こまでは、司会者の呼びかけで舞台に上がった60歳くらいの男性が、何のものおじをするでもなく、堂々とその喉を披露。

 その後で、もう一人、女性の踊りの相手役に舞台に上がった若い男も、少々ぎこちない動作ではあったが、しっかりとアドリブを入れて舞台を楽しんでいる。

 元々中国の人は、このような気質なのだろうか。私などにはとても真似の出来ない芸当。けれど気持ちだけは、私も風に乗って戯れ踊る、村の恋人同士のようになってしまう、南の国シーサンパンナ。

 ステージが終わると、外で水かけ祭りの再現が始まった。

 悪魔を退治した娘のあびた返り血を、水をかけて洗い落とし、その毒気から逃れたという、この地の伝説に由来するシーサンバンナの水祭り、毎年4月の13日から3日間行われ、その時には世界中から観光客が訪れるという。

 その雰囲気を少しでも味わってもらおうというサービスであろう。初めは遠巻きにしていた観光客も、洗面器のような器を持ったお嬢さんの、すました顔からの容赦ない水を、一旦あびてしまうと、開き直って参加をはじめる。

 普段越えられない垣根が一旦壊されると、人間、なんとも解放感を味わうもののよう。まるで子供に返ったように、おじさんたちも反撃に出る。

 キャーキャーと逃げ散る彼女たち。ワーワーと声を張り上げ、水を片手に追いまわす、革靴の元わんぱく坊主。

 自然に水かけは、男と女の対抗戦のようになってしまう。本当の水かけ祭りを見たことはないが、おそらくこのように、村の若い男と女の、交流の場としても楽しまれてきたのではないだろうか。

 水をかけられはしゃぐ彼女たちの、濡れてくっつく赤い服が、シーサンパンナの太陽に、艶っぽくはじいていた。

写真踊り  南国の情緒いっぱいの民族舞踏ショウ。両の指先は、孔雀の頭を意味しているのだと思います。昆明のシンボル金孔雀の故郷はここシーサンバンナとか。ショウの後は水掛祭りのデモンストレーションが始まる。

 次の日、ミニバスで更に37km南のガンランバへ行ってみた。「ガンランバに行かなければシーサンバンナに行ったことにはならない」と言われているらしいが、ここはもうタイそのもの。

 強い日差しの中、買い物帰りの女性が、ゆったりと巻きスカートをなびかせて歩き、タイ族の人達の居住地区では、昔からの高床式の家が建ち、夏休みの田舎を思わせるような、音の消えた時間がゆっくりと流れていた。

 いつまでもこのままであって欲しいと思うのは、旅人の身勝手というものであろうか。

写真高床住宅
 ガンランバの高床式家屋。下が駐車場とは…この建築様式、とてもモダンのようにも…。
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第2章 チベットを回って
第12話 避けえぬ道 No.138No.138
写真渡し舟
 ガンランバ、瀾滄江の渡し舟。

 「開けろ」

 バスの腹に立てかけた私のリュックを指差して、軍服姿の男はそう合図した。いや、正確には警察の制服だったのかもしれない。けれどその見分けのつかない私、威圧されたようであまり快くない。

 どうも制服というのは、その人の心をも、おそろいのその服で、覆うところがあるようで、時にはそれが安心感を与えもするが、おうおうにして個性のぬくもりをも、奪い去ってしまうかのよう。

 少々骨細の感じのするその男、きゃしゃな印象に似合わず、いやに態度がでかい。

 景洪から昆明までの夜行バス、検問に乗り込んできた係官は、外人のみを外に連れ出し、パスポートの内容を、しっかりと控えた上、バスの荷物を開けろと言うのである。

 別に怪しい物を持っているわけではない。けれど、リュックの荷造りというのは、私にとっては一仕事。

 部屋に散らばったあれやこれやをかき集め詰め込むのに、うかうかすると1時間は越えてしまう。まずは小さな袋にそれぞれを詰め、それを今度はリュックに詰める。

 めんどうでもそうしておくと、どこにいったかわからなくなることを防げるのみか、忘れ物をしないためのチェックにもなる。クッション代わりに衣類はリュックの下に、こわれものは中にかこって。

 旅への出発前はいつでも、荷物を如何に少なくするかの格闘なのだが、それでもいつも、あまり余裕がなくなってしまう。それに今回は、冬のラサから南国シーサンパンナへ。冬用の服がぎゅっと詰まって、それだけでも余裕がない。

 その上、買わないように頑張ってはいるのだが、少しずつ土産も加わり、一つ入れ方を間違えると入らなくなってしまう。そんなリュックを、机も何もない路上の、しかもこの懐中電灯のみの暗闇で開けろといわれても…。

 口元をしばったワイヤーに掛けた南京錠を外し、中を見せる。これでどうだと彼を見ると、更に見せろと袋を指差している。仕方がない、その袋を取り出し、紐を解き、中をリュックの上に並べる。

 もういいだろうと彼を見ても、更に次を指差す彼。何としつこい。次の袋も紐を解く。なるたけもたもたと、なるたけ手間取って…。

 3つ目の袋に手を掛けた時、しびれを切らしたのかOKが出た。ちょっとは作戦が功を奏したのか。けれどさらけ出したあれやこれやを、もう一度闇の路上で元どおりに荷造りするのは、結構な手間。

 ラオスとの国境の接するシーサンバンナ、麻薬などの持ち込みに特別神経を尖らせているのだろうか。

 翌朝着いた昆明は、これで3度目。すっかり馴染みになった昆湖飯店で2泊し、次の日乗った桂林への夜行列車で、前の席に乗り合わせた男は、中国語で車掌と話してはいたが、なんとなくその姿、日本人っぽい。

写真列車  桂林までの駅で売っていた素焼きの焼き物に入っていたご飯は、日本米のような味で、とても美味しかった。ジャポニカ米を食べているのだろうか、それとも、もち米だったのだろうか。

 東アジアの中での日本人の特徴というのを、はっきりは指摘できないけれど、あえて言えば、少々顔がでかいように私は思う。

 けれどよく日本人かと思って旅人に声を掛けると、シンガポールの人だったり韓国の人だったりと、あまり自信は持てないのだけれど、なんとなく「日本人かな」とは感じるものである。

 「こんにちは」 そう声をかけてみた。

 はたして、顔を崩した彼、早めの定年で会社を辞め、中国に語学留学をしているのだという。そのバイタリティには、頭が下がる。

 人が人に教えるものには、知識という「物」もあるけれど、〈 こんなことが実際に出来るのだ 〉〈 こんな人が実際にいるのだ 〉と、実例で気持ちの枠をグイと広げてやることも、大きな位置をしめるのではないだろうか。

 ひょっとして、〈 百の説教より、一つの生きざま 〉、そんなことがいえるのかも知れない。もっとも、みんながみんな立派な生きざまを示せるわけではないけれど、それなりに個性を頑張れば、誰でも立派な先生のように私は思う。

 若者に混じっての苦労を頑張る、彼の話を聞いていて、何だか私もまだまだと元気がわいて来る。

 その彼、好きなビールに目を細めながら、食堂車のテーブルに少し身を乗り出して、小声で言うには、私がもう少し話せるようになって、親しい若者が出来たら、聞いてみたいことが2つある、というのである。

 一つは文化革命をどう思っているかということで、もう一つは、過去に中国を侵略した日本人をどう思うかということだと。

 実は私も、中国の人達が、日本人を本音でどのように思っているのだろうということは、気がかりなことであった。だけど、旅をつづけるうちに、近代を欠落させた中国の、古代と現代に遊んでしまい、そのままで良いような気分になっていた。

 けれど昆明から桂林への31時間、食堂車でいつも彼との楽しい時間を過ごしながらも、これまでなんとなく避けていた問題が、喉に刺さった小骨のように、チクチクするのを無視できなくなりはじめていた。

写真桂林
 水墨画の中を行くような桂林の河下り。
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第2章 チベットを回って
第13話 桂林の絵の中で No.139No.139
桂林写真
少し霞みがかっていたのは残念だったけれど、素晴らしい景色の桂林の河下り。

 豪華な昼食を眺めて、お茶を飲んでいた。窓の外には水墨画そのものの山々が後ろにすべって行く。先ほどから手をつけたのは、野菜を少々のみ。

 大枚460元(約6000円)の桂林の河下り。大理で会った留学生は、中国語が話せるのなら100元でいいやと、中国人料金で乗せてもらったとか。

 けれど話せるのが「ニイハオ」と「シェィシェィ」では、いくら姿かたちは似ていても、しっかり外人。「まけられません」、旅行会社のお嬢さんにきっぱりとそう言われてしまう。

 そんなに払ったのだから、元を取らねばと、普段なら欲の皮をつっぱらせ張り切るところなのだが、胃がまだ少々熱いような気がする。

 というのも昨日、血を吐いた。いやいや、正確に言うと、血に思える赤い液。食事を終えしばらくしても、胃に残る熱い重みは、なかなか下へ下がらない。そればかりか、なんだかムカムカしているように思えてトイレに行ったら、突然、一気に胃袋から噴出してきた。

 はじめは夕食に食べたトマトスープの赤だと思った。そうだったのかもしれない。でもそれにしては濃い赤で、量も多かった。無理やりトマトだと思って流した。けれどいやに胃が熱かった。

 気持ちというものが、いかに脆い信仰の上に鎮座しているものなのかと、つくづく思った。いや、信仰といっても宗教ではない。明日もあるだろうという漠然とした信仰、いわば思い込みのことである。

 けれど健康は、はるか高い塔の上で、綱渡りをしているようなものなのだ。一つバランスを崩すと、まっさかさま。平地だと思って安心しきって歩いていた所が、実は高い平均台の上だったことに、突然気づかされたようなもの。

 言い知れぬ不安に包まれてしまう。ひょっとして熱いというのは、胃にとっては痛いことではないのだろうか。更に血を吐くのではないのだろうかと…。

 けれど人間、その信仰がいかに逞しいものであるかとも思う。しばらくベッドに丸くなっていたが、胃は熱いものの、更なる吐き気を催さないのを知ると、もう明日は治るだろうと思いはじめている。現金なもの。

 けれどさすがに今朝の朝食はお茶のみにした。でもそういつまでもお茶ばかりではいられない。食べ物が呑み込めるか試してみなければ。恐る恐るその野菜を呑み込んだ。なにもおこらない、なにも。やれやれと深呼吸。どうやら何事もなく過ぎていくようだ。

 けれど実のところ重いのは胃ばかりではなかった。というのも気分も重いのである。

 切り立った岩壁が、眼前を過ぎる。近寄ると、結構な迫力。 桂林写真

 「俺んちは車が5台。でも、みんなそうよ。日本ではそんなのあたりまえ。なあ。」

 「へェ〜ッ、凄いですね。へへへ」

 桂林の素晴らしい景色に夢中でファインダーを覗きこんでいた船の屋上、50歳くらいの団体の男3人は、若い中国のガイドに得意そうに日本の富の豊かさを説明していた。

 持たない私のひがみかもしれないが、私はこういう会話はあまり好きではない。多くの富をかき集めることは、それはそれで大変なことではあるけれど、それで他の価値を帳消しにすることが出来るのであろうか。車五台の豊かさは、戦争でやった事実を不問にしてくれるのだろうか。

 それにしても、いくら商売とはいえ、客にへらへら迎合するガイドの軽さにもよけい気が重くなる。

 「キーホルダー、千円。」

 彼らの添乗員だろう。少々外人訛りの若い女性が、当人の写真入のキーホルダーを配って回っていた。

 写真入とはいえ、長距離バスにでも乗れば、記念にくれるような品。それでも「ンン」と千円札を手渡す彼ら。確かに日本的には少々高いくらいなのかもしれない。

 けれど1,000円といえば、だいたい75元。私の場合、桂林の宿は100元だが昆明は60元だった。75元といえば5,000円くらいに感じてしまう私である。

 どうなのでしょう、50円程のキーホルダーに、ポンと5,000円を出す外人に出会ったら。やはり、お金をばら撒いて良いことなのでしょうかね。多分そうなのでしょう。気前よくすることが悪いこととは思えませんから。

 それに彼らも、ツアーで行動を共にしている以上、断りきれない事情というのもあるのだろう。

 考えてみれば、どこででも出会う、いつもの光景である。それに私も、度々見当違いのお金をばら撒く外人を演じさせられてきた。なのに何故か、ギクシャクする民族感情のなじりあいのように思えてしまう私。

 どうも、桂林までの列車での彼の投げかけた問題が、何よりも消化不良のまま重く気分に留まって、私を挑発しているかのよう。

 こうなったら、南京へ行こう。このまま気持ちをあやふやに放置は出来ない。虐殺の地南京で考えてみよう。やはり南京を抜きには、中国の旅はありえないのかもしれない。

 実は南京に行くのは少々不安があった。自分自身の心が、対応を仕切れない問題の地のように思えていたのである。

桂林写真
 魚をとっているのだと思います。川鵜のような鳥をつれている人達もいました。それにしても、危なっかしく思える船に、悠然と。
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第2章 チベットを回って
第14話 笑顔の陽朔 No.140No.140

♪There is a river called the river of no return. Sometimes it's peaceful and …♪

 そんな歌詞をご存知だろうか。マリリンモンローの「帰らざる河」である。映画館に流れるそのセクシーな歌声に、すっかり魅了されてしまった、高校生の私を覚えている。

 その曲が、桂林までの列車で流れていた。けれど雰囲気が全然違って。思い出持つ私には、少々興ざめの、まるであどけない学童唱歌のような歌声で。

 どうも漢の人達のセンスには、セクシーというのが、「美」という観点の中に入れられていないのでは、と思ってしまう。

 いや、そう言っては言い過ぎかもしれない。何しろ楊貴妃の国。そう、確かに美人は多く見かける。けれどセクシーさがあまり漂わない。勿論、あくまで私の印象の域を出ないのだけれど。

 セクシーといっても別に肌を露出することを言っているのではない。異性を気持ちの底の方で引きつける柔らかさである。そんな魅力が美しさとして、市民権を得ていないような気がする。ひょっとしてそれは退廃なのだろうか。

 テレビを見ていても、子供の可愛さや、ヒロインの知性美は、多く演出されているように思えたが、そんな中でセクシーは、肩身の狭い思いをさせられているように思える。

 そう思って、スペインのフラメンコや、インド映画のダンスなどを、中国の景色の中に想像してみた。やはりそのイメージ、水を得た魚のようには泳ぎ出さない。厳格な儒教文化の影響だろうか。それともただ私と、感じ方が違うだけのことなのだろうか。

 花やかな南の国、シーサンパンナから戻ったせいもあって、ついついそんなことを思ってしまう私ではあったが、陽朔(ヤンシュオ)は違っていた。驚くほど違っていた。

陽朔 笑顔の陽朔(ヤンシュオ)

 別に南京へ行こうと決めたことで、気分がスッキリしたせいではないと思う。桂林の河下り、景色がカスミがかっているのは残念でもあったが、かえってそれが幻想的にも思えた3時間余りを楽しんで、リュックを背に降り立った陽朔の町、出会う人々の表情が、とても柔らかい。まるで別の文化に入り込んでしまったかのように。

 道を聞いたり、宿の交渉をしたりの会話の中でも、気持ちが突っ張らない。いやむしろその逆、たとえ料金交渉は、その彼女と突っ張りあってはいても、何だか心の底の方で、引き合っているような、そんな楽しささえ思い出してしまう。

 はじめは営業用かと思って冷たく観察していた。けれどどうも、そうでもないらしい。町の人たちどうしで話しているのを見ても、お互い、いつの間にか表情が緩んでいる。

 それに驚くことに、みながみな英語を話す。勿論、すべての人を調査したというわけではないが、会う人、会う人、程度の差こそあれ誰もが英語を理解した。

陽朔
陽朔の若者達。なんだか和を感じてしまう。

 「ウォー プー ホイ ショオー ハン ユー(我不会説漢語)」今回の旅でもよく口にした言葉である。「中国語は話せません」という意味だ。会話ギブアップの切り札である。「わからないから、話し掛けるのはあきらめて下さい」の意が込められている。

 勿論発音の悪い私、一言では通じない。それでも2度3度と言っていると通じる。「お〜ぉ不会説漢語」そううなずいてくれる。やれやれと思う。これで静かになると。

 と、決まって「●×△…」とつづきがまたまとわりつく。おそらくわからないと言ったので説明してくれているのだろう。けれど、わからないものはわからない。解せない言葉に少々イライラ。

 「だからわからないと言っているだろう」そんな意を込めてもう一度「不会」。

 「オーォ、不会、…」やれやれこれで…

 「●×△…」、だからわからないと…。

 まるで漫才のようなやり取り、いったい何を考えているのかと苦笑することが度々であった。

 勿論、片言も話せず旅している私こそ問題なのかもしれないが、そんな私には、英語を受け入れてくれる陽朔の人々の姿勢が嬉しい。

こざっぱりしたレストランの多い、陽朔。写真は、25km北の村、興坪鎮にて。 陽朔

 レストランのメニューにもすべて英語が用意されているばかりか、その料理にも中国の味だけではなく、インターナショナルなものが用意されていた。

 余りにも無国籍風になると、中国らしくないと文句を言ってしまう私ではあるが、見たかったのが景色であったせいか、その味が嬉しい。

 そんなレストランの隅のテーブルを囲んだ4人が、声を出して英語の練習をしていた。どうも話せる人が先生になって教えているらしい。町ぐるみで取り組んでいるのであろう。

 「この町はみんな英語を話すのですね。驚きました。」リーダー格の女性にそう話し掛けてみた。

 「英語だけでなく、いろんな国の言葉を覚えたいです。誰だって、自分の国の言葉で話し掛けられたら、きっと喜ぶと思うのですよ。」そう言って微笑んだ。理想は中華ではなく、インターナショナルなのだろう。

 宿も安く、水墨画の絵そのものの山々も、すぐ近くの畑の向こうに展開する陽朔。私はそんな絵の中を、レンタル自転車でユエ リャン シャン(月亮山)に向かっていた。

陽朔
ユエ リャン シャン(月亮山) への道。
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第2章 チベットを回って
第15話 黄山、ぼったくりの中で No.141No.141

 「イー パイ パー シー カイ?(180元)」勢い声が上ずってしまう。

 余りにも突拍子のない声だったのだろう。それとも、後ろめたい気持ちでもあったのか、「ええ」とうなずきながらも、後ずさりする目。

 180元(22ドル)と言うのである。うどんがである。それも立派なレストランというわけではない。素朴なテーブル3つほどの食堂でである。メニューの他の品を見ても、100元を下らない。

 だいたいこういった店、10元もあれば充分な食事にありついてきた。なんとみんな10倍を越える。少々高いというのならまだしも、めちゃくちゃ過ぎる。

 町の「お食事処」の暖簾をくぐって見せられたメニューのカツ丼が、1万円と書いてあったら、どうします、あなたは、笑っちゃいますか。

 けれど100元を日本円で考えると、だいたい1,300円くらい。高いとは思うけれど旅先だからと払う人もいるのだろうか。

 いや、そんな日本人の甘い汁に、味を占めた人が、ここ黄山には、少なからずいるようだ。

 昨日は、列車に乗り込んできた宿の勧誘に誘われるまま、駅前の大きなホテルに泊まった。

 快適な部屋は140元(17ドル)とそれほど高くもなく、気持ち良く今朝を迎え、これまでの街とは変わらぬ気持ちで早朝のバスに乗り、ここ黄山の山麓に着いた。けれどそこからがくせもの。

 出来れば山中で一泊したかった私は、麓の大門近くで、リュックを預け、必要なものだけ持って登ることにした。その荷物預かり所で紹介されたタクシードライバーは、ミネラルウオーターを買おうと立ち寄った隣の雑貨屋で、3元と言う主人をさえぎって割って入る。

 「日本人に3元なんて、バカなことを…」

 言葉がわからないと思ったのだろう。けれどそんなしぐさの中、「リーベンレン(日本人)」と「サンカイ」が聞こえれば、あとは声の調子や表情で、何を言いたいかくらいはよくわかる。

 「ン〜ゥ」私を見つめ口ごもる彼、いくらと言おうかと、頭の中で回転する数字が見えるよう。こいつはふっかけられるなと身構える私。

 「サンカイ(3元)」

 その声は、大きくはなかったが、動じることもなかった。小銭をふんだくる知恵をさずけようと立ちはだかる若者を、グイッと押しのけるかのような座った表情で主人は、彼の横から指3本を私に示した。

 お金とは別の価値観に生きて、微動だにしない人の姿というのは、それが何であれ、美しさを感じてしまうのは何故だろう。出来れば私も、力まずそんな姿でいたいもの。

 けれどこの若者には、それが間抜けとしか映らないに違いない。動き出したタクシーで、いくらだと聞くと、ロープウェーのある慈光閣までが40元だと言いだす。

 とんでもない、昨日泊まった黄山の駅前からでも、その65kmの道のりが、確か100元と言っていた。これまで中国のタクシーは、あまりふっかけられたことがなく、このタクシーも、乗り込む前の値段交渉をしなかった。けれどここ黄山は別格のようだ。

 そんなドライバーはゴメンだと、急遽止めて、外に出た。まあそれでも、一度OKしたのをキャンセルするのだからと、チップのつもりで5元渡そうとすると、そんなはした金と、受け取らない。

 といって、いらないというのではない。ミニバスにしようと戻り始めた私に、車を置いてまとわりつく。いつもなら、さっさと別れるのだが、まずいことに、このドライバーと先ほどの荷物預かりは一体のようなのだ。何だかリュックが人質のよう。あまり怒らせてもその荷物が心配である。

 結局、預かり所の仲裁で、10元を払った。100m程のタクシー代が10元。それが黄山ということか。

 黄山ロープウェーの登る斜面。上に行くにつれ、次第に雨も本格的に… 黄山

 黄山は天気も意地悪。ロープウェーの着いた山の上は、ひどい雨。入山料を払ったものの、景色は一面の灰色。絵のような山の姿や、その斜面に這う松の姿など、何も見えない。

 それでもまずは、標高1,680mという玉屏桜目指して登り始めた。けれど途中出会ったのは、10人ほどの中国の団体さん2組とすれちがったのみ。

 灰色の世界を、ただただ一人。防水のコートと麓で買ったビニールのズボンをはいてはいたが、冷たい雨は、襟元や袖口からしみ込み、ぐしょぐしょになった靴がなんとも寒い。

黄山
何も見えやしない。ただただ寒いのみ。

 そんな中、2時間はたっていたのであろうか、途中あるはずの料金所というのも見あたらず、やっとたどりついた黄山観光のハイライト、標高1,864mの蓮花峰の頂上は、上も下も灰色の雨雲の中。

 唯一目にとまる人の気配は、そこに缶ジュースやフイルムなど置かれて売られていたであろう、置き去りにされた白いショーケース。けれどかえってそんな姿は、淋しさを誘う。

 《 もしもこんな所で道に迷いでもしたら…》

 誰もいない蓮花峰の静けさは、思ってもいなかった不安を立ち上げてしまう。

 一度そんな考えが頭をよぎってしまうと、何だか急に恐ろしくなる。確かな地図を持ってもいなければ、食料も持っていない。あきらめよう。どうせ山中のホテルで一泊したところで何も見えないだろう。麓で暖かい宿をさがそう。私は急遽山を下りることにした。

 帰りは徒歩で下ったのだが、ロープウェーの走るあたりまで下りると、やっと下から天秤棒に荷を担いで登ってくる人たちにすれ違った。上の店に運ぶのであろう。

 フラフラとバランスを荷にとられるのを踏ん張りながら登る彼ら、首筋あたりの血管が浮き出、目いっぱいの重さを担いでいるよう。大変な労働。

 前と後ろの荷を吊り下げる長さが違うのは、急な斜面にぶつからないようにする工夫と感心したが、その横の谷を、誰も乗らないロープウェーがゆれて昇っていくのは、どうも納得がいかない。

黄山 かなりの重労働。

 上からは、運び終えた男が、トントントンと跳ぶように、私の横をすり抜け駆け下りていった。私も真似をしたかったが、彼らとは鍛え方が違う。寒さに加え、疲れた膝が、一歩踏み出すごとに笑っている。

 180元のうどんメニューにびっくりしたのは、そんな足での3時過ぎ、やっとたどり着いた麓の食堂でのことであった。

 結局、そのメニューを突き返し、「メンチィャオ(うどん)、メンチィャオ」と言っていると、もう一つ別のメニューを持って来た。

 それで注文した野菜うどんは18元。それでも倍ほどの値段だが、まあ味も良く許せるところ。けれどちょうど始めのメニューの1/10。

 黄山の麓は、宿の女将もつわものであった。

黄山
 ロープウェーの走るあたりまで下りた時、一瞬その姿の一部を垣間見せた黄山。とりあえず1枚撮ったのだが、ぬれるカメラをコートで覆っていたら、もう雲に隠れてしまっていた。
  Top 旅・写真集 雨の黄山
第2章 チベットを回って
第16話 南京に思う No.142No.142
※【空即是色】南京に思う はこちら

 見知らぬ異国の地で、日本企業の看板に出会う時、あなたはどのような気持ちをもたれるのだろう。頑張る日本企業を誇らしく思われるのだろうか、それとも、ここにもかと興ざめされてしまうのだろうか。

 私は、どういうわけか、一人ではないような、ホッとした気持ちになるというのが正直なところである。実際にはそんな企業と何のつながりもないのだけれど。

 そんな看板を探していた。白黒フイルムの記録映画で見たような、南京の城壁を右手に過ぎ、にぎやかな街にバスが入っても、それは何処にも見あたらなかった。

写真
南京の歴史を見守る中華門

 やはり他の街とは違うのだろうか?南京の人たちは、リーベンレン(日本人)という響きに、どんな思いをいだくのであろう。胸の内でいよいよという思いが高まっていた。

 別に身の危険を感じるというのではない。けれど、身の置き所のない空間に入っていくような不安を感じていた。

 バスを降ろされたのは、長江大橋の手前、その揚子江にも、多くの死体が流されたとどこかで読んだことがある。私はそんな記憶をふり切るかのように歩き始めた。

 バスのターミナルから、目指す太平南路のホテルまで、黄山登山の筋肉痛に加え、肩に食い込むリュックの重み、それにも増して重い気分。南京の街はやけに広い。

 途中たまらず路線地図を買い、バスに乗った。その窓から一軒だけ「日本料理」と大きく書かれた看板の店を見つけ、わけもなく安堵したのを忘れない。

 そのバスを降りてからも、かなり歩いてやっと見つけたホテル四川酒家、あたたかく迎えてくれたロビーの娘さんの、1泊180元の提示に、いつもとは違って、一言も値切らずにOKした。

南京写真
南京の町は広い

 翌日一番にバスで出かけた。街の西、南京虐殺の記念館。敷地内には、さまざまなモニュメントがあるものの、受ける印象は、石ころの敷き詰められた広々と殺風景なところ。

 「1937年12月15日夜 捕まえた平民、武装解除の南京防衛の兵・官9千余を魚雷営へと連れ出し、射殺。同日、3万人殺害。遺体、翌年の2月まで曝される。紅卍字会にて土葬。2月19日、21日、22日の3日間で埋葬遺体5千余」

 「中山埠頭 1937年…」「…」…

 刻まれた石碑をメモして歩き始めたのだが、あまりの多さに止めてしまう。

 建物の一角では、記録映画が上映されていた。黒いカーテンを押しのけ入ってみると、30人程の若者で埋まっている。フイルムを巻くチチチチという音と、日本語のナレーションに混じって、あちらこちらですすり泣きが聞こえる。日本人なのである。

 終わって出て来た少女に聞くと、学校の行事の一環として来ている高校生だという。どんな感想かもっと聞いてみたかったが、声を詰まらせる彼女たちに、それ以上は聞くことが出来ず、建物を出た。

 私は、人は何処までいっても人であって、犬猫ではないけれど、決して神にもなれないと思っている。だから自分の愚かさは、ある程度の長さの鎖につなぎとめれば、それでまあ良かろうかとつき合っている。

 けれど人間、その鎖が断ち切られてしまうことがあるのである。いや、むしろ、その方が多いのかもしれない。

記念館
侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館にて

 〈わかったようなことを言っているが、この解き放たれた過ちを、おまえはどうするつもりなのだ〉

 記念館の一角で、半分土に埋もれて、発掘された時のまま保存されている、ガラスの向こうの白骨の群れは、口々にそう言って私から離れない。

 古事記に書かれた日本神話のはじめに、男女の神が国つくりをするくだりがある。その時、誤って女性から声をかけてことを始めてしまい、「我が生める子良くあらず」といって葦船に入れて川に流し、もう一度一からやり直すという話がある。

 これが何を意味するのか、本当のところを私は知らないけれど、何だか日本人の、過ちに対する精神的態度を、ズバリ象徴しているように思えてならない。

 私もよく「水に流そう」と言っているように思うが、犯した過ちを忘れ去ろうとすることは、痛い代償を払って捕まえた愚かさを、再び野に逃がしてしまうことになりはしないだろうか。

 人が神に成れるとするなら、悪魔を視界の外に追いやることは、それだけ神に近づくことかもしれない。けれど、人が人であることから抜けられないとすれば、見えなくなった悪は、より自由を手にしただけのように思える。

 自分たちの過ちを並べ立てる史観を、自虐史観と評する意見を聞いたことがある。けれど目を閉じて、王子さんを気取るより、目を開けて鏡を見る方が、はるかに勇気のいること。逞しくなければ出来ないこと。

 ペルーのカテドラルで、残酷なキリストの死体像を、何故にと思った私を覚えておられるだろうか。

 あれは、過ちを水に流したい私の気持ちのなせるものだったのかもしれない。どうやら、カテドラルに集う人たちは、我々とはまったく逆の方向を向こうとしていたようだ。

 そう、我々に求められているのは、忘れようとすることではなく、忘れないようにすることではないのだろうか。

 うやむやのまま時の流れに流し去るのではなく、より鮮明に、より白日に曝すことではないだろうか。ミサに集う人々がよりリアルに、むごいキリスト像を描き続けたように。

 それは時計の針を巻き戻せない現実で、ページを次に折るための、なくてはならない折り目のように思える。

 確かにそうしたからといって、何の解決にもならないかもしれない。それに、ここを訪れたからといって、南京のこと、南京の人々の思いを、何一つ知ったことにはならないだろう。

 けれど帰りのバスを待つ私は、少なくとも、わが身の姿勢だけは納得しえたような気がしていた。

 南京に来て良かったと思っていた。いや、むしろ私の中国の旅は、ここから始めるべきだったように思えていた。

 寒かった雨の黄山とはうって変わって、太陽の顔を出した南京の、春を思わせる風が心地よかった。

長江
とうとうと流れる長江(揚子江)。長江大橋の上より。

第8部 中国編 完

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