第2章 チリ・ボリビア  《 第5部 南米編 》
第1話 悲劇のモネダ宮殿第2話 いとしのガイドブック第3話 パントマイム第4話 アントファガスタ
第5話 アンデスの青い空第6話 キリストの死体第7話 ティワナコ第8話 ペーニョ
第2章 チリ・ボリビア
第1話 悲劇のモネダ宮殿 No.076No.076
地図

 空軍のロケット砲の後を受けて、モネダ宮殿に突入した先鋒隊が、奥の大統領執務室で見たのもは、血にまみれたアジェンデの死体であった。

 ピノチェト率いるクーデター軍の包囲攻撃の中、降伏を拒否したアジェンデは、ラジオを通して悲痛なる別れをチリ国民に残し、自ら命を絶った。1973年9月11日午後のことである。

 「サルバドール・アジェンデ」、その名が世界を駆け巡ったのは、ちょうどその3年前、1970年10月、日本ではまだ70年安保の熱が冷めやらぬ秋であった。

 「世界ではじめて、選挙によるマルクス主義政権の誕生」期待と危惧、双方の目が、南アメリカ、アンデスの西に細長くへばりつく共和国、チリに向けられた。

 それから3年、急激な改革は、国民を賛否両極へと分裂させ、その緊張が、チリ経済の機能を麻痺させる。物不足が深刻化し、事態はにっちもさっちも行かなくなってしまった。

 良くも悪くも、こういった事態を切り抜けるのは独裁である。いつの世も、形はどうであれ、何らかの独裁、何らかの全体主義が、こういったのっぴきならぬ混乱では要求される。

 マルクスがプロレタリア独裁を唱えたのは、的を射た分析といえよう。もっとも、そんな状態になる前に、適切な舵取りをすべきであると私は思うのであるが、ともあれ、ここチリで、その独裁を買って出たのは、ピノチェト率いる軍隊であった。

 その後約16年間、1990年に民政に移行するまで、チリの人々はその軍政の下で暮らすことになる。

 つい最近、その彼がスペイン判事の要請によって、イギリスで入院中に逮捕され、本国に返還するのしないので、再び世界の注目を浴びたのを、覚えておられる方も多いことであろう。

 彼の軍政下で犠牲になった死者は、3000人にのぼるというが、一説には2万人を上回るとも言われている。

写真  5月のサンチアゴ、街を歩いていると、時々スペインを歩いているような錯覚に陥ってしまう。

 今朝、30時間を越える日本からの長旅の末、やっとチリに着いた私は、宿を求めてコロニアル風の建物が立ち並ぶ旧市街を歩いていた。

 ちょうど日本の晩秋を思わせるサンチアゴの五月、人々はセーターに上着といった出で立ちで、さっそうと歩いている。

 足の長い人が多く、彼らにまじって歩いていると、サンチアゴの街は、まるでスペインの何処かを歩いているような錯覚に陥ってしまう。

 かつて人々を、アジェンデ支持に駆り立てた貧困は、ここを歩いている限り姿を消したようだ。軍政下での多くの弾圧にもかかわらず、経済を立て直した人として、ピノチェトへの評価が、ここチリで賛否二分されているというのも、うなずける思いであった。

 そんな人々の喧騒の中、悲劇の舞台モネダ宮殿は、ビルの谷間で身の丈を低くし、静かに沈黙を守っていた。まるで浮き沈みする人の世を、しっかりと見つめる錨のように。

写真  ビルに囲まれて、静かにたたずむモネダ宮殿。当時は警察もほとんどが軍側についた。

 宿は訪ね歩くこと4件目で、やっと何とか気に入ったホテルを見つけることが出来た。リュックを背負ってほぼ旧市街を、北から南に縦断したことになる。

 一泊いくらかと問えば、ドスミルと返ってきた。2,000ペソ。何かいやに安いような気がしたが、寝不足でもうろうとした頭、ピンとこない。まあ安い分にはいいかと、決めたのだが、念のためにメモに書いてもらったら、12,000とある。ドシシエントミルだったのだ。

 「えっ、これはいくらになるのだ?」

 いっこうに頭が回ってくれない。

 怪訝そうに見つめる宿の女将の視線を感じつつ、メモ用紙でもたもたと計算してやっと、25ドル程度かと見当がついた。まあ、相場のようである。

写真  サンフランシクコ教会の裏通り。趣のある石畳にコロニアル風の建物が並ぶ。一泊ドスシエントミルで泊まったホテルはこの一角。

 部屋で荷を解いて時計を見れば、目の奥に綿が詰められたような眠気にもかかわらず、まだ4時であった。ここで眠っては昼夜のペースをチリ型にあわせることは出来ないと、もう少し我慢すべく街に出ることにした。

 まずは街の中心、アルマス広場に出てから、ぶらりと博物館に回ったのであるが、博物館はもう閉まっていた。さてどうしたものかとうろうろしていると、ポルノ映画館に出くわした。

 ポルノなら目がぱっちりだろう。何もチリ初日にこんな所に直行しなくてもと思いつつ私は、入場料の1,400ペソ(2.8ドル)を払っていた。

 チリのポルノはラテンの国にもかかわらず、日本よりソフト――だと思う。というのも、席に座ったとたん、どうやら眠ってしまったらしく、実はよく覚えていない。

 気がついたら7時を回っていて、まぶたは鉛のように重たい。まだチリに来て十時間、治安事情も良くわからないサンチアゴの映画館で居眠りなどしていては、何が起きるか分からない。

 私は上着の下のカメラを確認しつつ、あわてて宿に帰った。ホテルでは、バタンキュウと眠ってしまう。

 翌朝、6時半、壮快な目覚め。さて、本日の予定はとガイドブックを見ようとした所、見当たらない。何処にも。何処にも。

 確か昨日、宿を探している時はあった。博物館を探している時もあった。けれど何処にもない。何処にも???

 これはえらいことです!

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第2章 チリ・ボリビア
第2話 いとしのガイドブック No.077No.077

   無くしてみて、始めて思う、ガイドブックのありがたさ。

 「今まで貴重品やカメラばかり気にしていて、これはとんだ失礼をいたしやした」

 と言いたいところであるが、冗談を言っている場合ではない。ただ都市を移動するだけなら、何とかなるだろうけれど、いろいろ観光してとなると、そうもいかない。

 第一馴染みのない地名など、やたらカタカナが並んでいるだけで、なかなか覚えられるものではない。その地で必要に迫られて何度も口にするうちに、自然と覚えていくのである。

 だから大体どんな所があったかくらいは、覚えているものの、ガイドブックなしでは、人に聞こうにも聞きようがない。これは悪くすると、チリは「ただ行って来ただけです」、という結果になりかねない。

 私は昨日の記憶をもう一度辿ってみた。ホテルはガイドブックの地図を見て探した。博物館を探すためにあの角で地図を開けた。それ以後の記憶がない。

 やはり映画館が一番怪しい。とにかく行ってみよう。チリの人が拾って使い道のあるものでもない。ひょっとすると出てくるかも知れない。

 私は人々が活動し始めた朝のサンチアゴの街に出た。それにしてもポルノというのはまずかった。こんな朝っぱらから出入りしなければならないはめになるとは、夢にも思わなかった。まったく………。

写真  朝の人々でにぎわいはじめたサンチアゴの遊歩道。

 記憶を辿ってたどり着いた映画館は、まだ上映はしてはいなかったが、入り口の扉が開いていた。入ってみると男が掃除をしている。

 事情を話すと、何とか通じたらしく、一緒に探してくれた。けれど見当たらない、何処にも。彼は、夜もう一度来てみろと言うのだけれど……。

 映画館の前は、広々としたアルマス広場である。そのベンチに座って、暖かさを加えた朝の太陽を浴びながら、どうしたものかと思案に沈んでいた。

 道すがら何度も頭に描いた「ああ、出てきてよかった」という喜びのシーンは、ビリビリと音を立てて破れ去っていた。

 思うに気持ちというのは、一度には、「好」か「悪」のどちらか一方でしか、感じ取れないようだ。

 「いや、いろんな気持ちが絡まって……」という人は、頭が気持ちを押さえつけているだけであろう。正直に耳を傾ければ、気持ちはヒラヒラと無責任に入れ替わる、根っからのお天気屋。継起はするけれど、同居はしない。もし一方が現れれば、必ず他方は姿を消す。

 ガイドブックの紛失で、すっかり色合いの変わってしまった、サンチアゴの景色を見ながら私は、そんなことを思っていた。

 けれどとにかく過ぎたことは仕方がない。今夜もう一度来るとして、出てこなかった場合を想定して次に進もう。

写真  サンチアゴの地下鉄。大胆な壁画で覆われていた。

 ホテルに帰った私は、何とかスペイン語で、観光案内所とバスターミナルへの行き方を聞き出した――と言っても、「ドンデエスタ?ドンデエスタ?」と言っていただけだけれど。

 幸いなことに、どちらも地下鉄が走っていて、非常にわかりよい。私はまずプロビンス地区の観光案内所まで行った。

 さすがにここは英語が通じて、サンチアゴの地図を示しながら、見所を解説してくれた。けれど、サンチアゴ以外の情報は、役に立つものがほとんどなかった。

 私は仕方なく英語の書籍の置いてある本屋を聞いて街に出た。首都サンチアゴの本屋だから、東京の神田に建ち並ぶ本屋さんくらいだろうと思ったのであるが、紹介されたところは、こじんまりしていて、英語の本はあるものの、出してくれたガイドブックはスペイン語のみ。

  仕方なく、本屋から本屋、本屋からキオスクと訪ね歩いたのであるが、何処にも英語のガイドブックを見つけることが出来なかった。

 私はやむなく「ツーリステル」なるスペイン語のガイドブックを、5,000ペソ(約10ドル)で買った。

 しかし、落ち着いて見てみると、写真も綺麗で、街の地図やホテルの案内も、日本のガイドブックより詳しい。――チリで発行されたチリのガイドブックだから、当然といえば当然である。

 スペイン語の案内は読めなかったけれど、見覚えのある写真から、観光地の名前もわかる。これだけわかれば何とかなりそうである。私はほっとして近くのマクドナルドで遅い昼食としたのであった。

写真  サンチアゴ旧市街。スペインに迷い込んだようだ。

 だいたい何処の国でもコーラとマクドナルドはある。この何処へ行っても同じ味というのを、旅先で食べるのは、どうもつまらないようにも思えるのだが、馴染みの味というのは、逆に安心感を与える効果があるようだ。

 何とかなりそうと、ホッとしたせいもあり、心の落ち着く味に思えた。

 その日、アントファガスタまでのバスの切符を買って、ホテルに帰り、再び映画館に行ったのだが、やっぱりガイドブックは出てこなかった。

 けれど、もう一人交替の人が明日出勤になっているから、もう一度、明日来てみてはという。何度でも来ます何度でも。

 翌朝、もう諦めていたのであるが、街を観光する前にもう一度と、映画館に寄ってみた。

 と、何と、出てきたのである、なつかしのガイドブックが。一日あけて今日出勤してきた人が、ロッカーに入れておいたのだという。

 パーッとサンチアゴの街が明るくなった。私は従業員3人に、お礼のチップを渡して出てきたのであるが、再度お礼をしたくて、アルマス広場に並ぶ売店で、直径30cmほどのケーキを丸ごと買って、もう一度映画館を訪れた。

 もうすっかり馴染みになった彼等も、喜んで受け取ってくれた。このポルノ映画館、いったい何度足を運んだことであろう。

 ところですっかり観光気分になった私は、その足で、プレコロンビア芸術博物館に入ったのだが、展示品もさることながら、もっとも私の目を引いたのは、出口近くの売店で、土産物にまじってずらりと並ぶ、英語のガイドブックであった。

 外国語のガイドブックが欲しければ、外人観光客が集まる観光スポットに行かなければならなかったのだ。

 昨日あれほど探したのに、こんな所ですましておられたとは、……。

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第2章 チリ・ボリビア
第3話 パントマイム No.078No.078

 「サンチアゴ」、どうやらこう呼ぶのは日本語のようである。カタカナだから通じるだろうと思っても、キョトンとされてしまう。

 むしろ漢字の「山地顎(サンチアゴ)」を読む感じで、「ア」にアクセントを置くと通じる。なるほどカタカナで書くと同じサンチアゴなのだが、耳に伝わる感じはだいぶ違う。

 そのサンチアゴの旧市街の北をマポチョ川が流れている。チリの国が海と山に挟まれているためだろうか、街中を流れる川というイメージからすると、かなり流れが激しい。

 その川の近くに、サンチアゴ中央市場がある。ふらりとそこを訪れた私の目的は、勿論そこのレストランのシーフードである。

写真  山と盛られた好物のウニ。買ってそのまま食べたかったが、やはり生は心配で、やめにした。

 私の舌はどちらかと言うと鈍感なほうだと思う。よくテレビのグルメ番組で評論家が批評しているような、微妙な味の違いはあまりわからない。けれどウニなど魚介類は好きだ。

 ちょっと苦味の混じったような味がたまらない。今日は奮発して、そんなシーフードを味わおうというのである。

 市場といっても比較的小さく、他の国で見られるような人々で騒然としたものではなく、半分ほどは魚介類の店で、残りはそのレストランであった。

 私は、いち早く私をつかまえたボーイに招かれるまま席につき、勧められるまま、「パイラ・マリナ・エスペシアル」なるものを注文した。

 さしずめ「特別魚介類鍋」と言ったところか、ムール貝、イカ、エビ……トマトをベースにしたような、シーフードたっぷりのスープである。5,060ペソ(約10ドル)、日本で食べたらきっと高いだろうな等と勝手に想像して、ちょっぴり得をした気分であった。

写真  「パイラ・マリナ・エスペシアル」満足、満足。

 すっかり満足した私は、マポチョ川を渡り、サンクリストバルの丘まで歩くことにした。

 ふもとから往復1,000ペソ(2ドル)のフニクラが出ている。丘の上では、美しい白亜のマリア像が、両手を広げて天を仰いでいたけれど、そこから見えるはずの、アンデスの最高峰アコンカグア(6,960m)の雄姿は、スモッグにさえぎられて、何処にあるかさえわからない。

 そんなスモッグの彼方から、サンチアゴを駆け巡る車の騒音が、まるでオーケストラの演奏のように、サンチアゴ盆地に反響して、グゥワァ〜ン、グゥワァ〜ンと唸っていた。このスモッグは、経済を駆け足で引き上げた代償といえよう。

写真  スモッグのサンチアゴ盆地。車の騒音のみが、盆地の反響して響いていた。サンクリストバルの丘から。

 帰り道私は、街中にあるもう一つの小さな丘、サンタルシアに登った。十五世紀後半、このチリ北部まで支配を広げたインカ帝国も、サンチアゴの南マウレ川でその南下を阻まれる。

 この地の先住民、アラウカノ族の激しい抵抗にあったのである。その後インカを征服したスペイン人も、このアラウカノの人々を容易には征服出来なかった。

 このサンタルシアの丘は、サンチアゴの基礎を築いたスペイン人バルディビアが、アラウカノ族に備えて砦とした所である。けれどその彼も、彼らの激しい抵抗にあい殺されてしまったという。

 そんな歴史を象徴したサンタルシアの丘であったが、今では格好のデートコースとなっているようで、多くのカップルが二人の時を楽しんでいた。

 その一組が、展望台近くの格好の位置で抱き合ってキスをしていた。これはいただきと、彼らを入れてパチリとやったのであるが、その彼ら、30分ほどして頂上から降りてきた時もまだ、同じ姿勢で抱き合っていた。

 さすがラテンの国というべきなのだろうが、通り過ぎる時には、「おいおい、唇がふやけてしまうぞ」と、言ってやりたい衝動を抑えていた。

写真  かつての砦跡サンタルシア。今では恋人達の憩いの場。

 夕方近くの繁華街は、ウィークデイにもかかわらず、多くの人で賑わっていた。

 そんな一塊に近づいてみると、一人の男が空のボストンバッグを小道具に、パントマイムを演じていた。なんとなく見やった私の目が、その彼の目と合ってしまう。

 ムムッ!と感じた一瞬、彼もピピィンと閃いたらしい。「アッ、なんかまずいな」と思ったのであるが、もう遅かった。

 彼は空手の格好で、私に向かって来る。ここチリでも、東洋人となると空手を思い浮かべるらしい。観衆の目は一斉に、彼の身構えた先、私に向けられた。

 私は有無を言わさず、彼のパントマイムの格好の小道具にされてしまったのである。何か演じなければ…。

 一瞬たじろいだけれど、仕方がない、若い頃覚えた横蹴りの格好を、派手にしてやった。彼も派手に驚いてひっくり返る。観衆はどっと沸く。

 私が人との受け答えを、ユーモアで切り抜けることの面白さを生で知ったのは、エジプトのピラミッドでのことであった。

 裸足で馬に乗っていたヨーロッパ人は、ガイドに「靴はどうしたのだ?」と聞かれると、いかにも不満そうな顔をして、「この馬が食っちゃった」と嘆いて見せた。

 まじめな説明を予想していた私は、予期せぬ答えと、その答えのつくるその場の楽しさに驚いたものである。テレビなどではよく見る展開ではあるが、実生活ではなかなか難しい。

 アメリカの売れっ子小説家シドニイシェルダンがどこかで、「ユーモアとは、自分自身を笑えること」と書いていたが、自分自身に距離を置く心の余裕がないと、なかなか自身を笑いの種に、皆と楽しむということは出来ない。

 生身の我々はどうしても、けなされれば腹が立ち、失敗すると弁解し、人の見ている前では、カッコ良くあろうと緊張する。

 私も観衆を沸かせたまでが精一杯で、棒を振りかぶって続きを演じようとする彼が見えたが、もう知らぬ顔をして逃げ出してしまった。

 後で思うに、指でピストルでも作って、その棒に立ち向かってやれば、さらに面白くなっていただろうに。

 ともあれ、再会したガイドブックをポケットに、至って上機嫌なサンチアゴの一日であった。

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第2章 チリ・ボリビア
第4話 アントファガスタ No.079No.079

 「ブエノスノーチェス」

 カウンターの向こうの娘さんは、喋ろうと私が口を開けたそのタイミングで、そう言って微笑みかけた。

 「あっ、ブエノスノーチェス」

 そう答えると私は、彼女を見つめて固まってしまった。濃いまつげの奥の瞳が、そんな私を、怪訝そうに見つめている。

 彼女は美人ではあったけれど、決して見とれていたわけではない。私は必死に記憶のページをひっくり返していたのである。けれど何処にも何も残されてはいなかった。何とも情けない話である。

 私は宿で「日本に国際電話をかけたい」と言うスペイン語を作って、道々暗誦しながらここまで歩いてきた。

 ところが、ここで、予期せぬ挨拶に応えたとたん、パッと記憶が消えてしまったのである。落語にそんな話があったような、まったく自分でもあきれてしまう。

 やはり歳を取ってから言葉を覚えると言うのは、大変なことだ。一つ覚えるのに2倍も3倍もかかるのだが、その分2倍も3倍も早く忘れてしまう。けれど心のどこかで、まだ何とかなるだろうと思い続けているのも滑稽である。

 私は思い出すのを諦めて、本を取り出し、単語をつぎはぎで並べていた。サンチアゴの北1,370km、硝石の積み出しで栄えた港町、アントファガスタでのことであった。

写真  アントファガスタのコロン広場。1ブロック西はもう海である。旧税関、海軍省、旧鉄道駅舎などが国の指定記念物として残されていた。

 サンチアゴからこのアントファガスタまでのバスは、サルンカーマなるデラックスバスであった。運賃は22,800ペソ(約44ドル)と、少し高めであったが、3列24人乗りと、座席はゆったりとし、トイレもついて乗り心地は申し分ない。

 午後の2時、バスは時間通りにサンチアゴのターミナルを滑り出した。アントファガスタへの到着は翌朝8時の予定という。約18時間30分のバスの旅である。何しろチリは長い国である。これくらいは並といったところであろう。

 一晩中走り続けたバスは、翌朝目が覚めたら、港町アントファガスタにさしかかっていた。見れば運転手は交替していない。かなり重労働だ。

 ぐるりと蛇行して海岸の方へ下るバスの窓から見る街は、ちり一つ落ちていないほど綺麗に掃除されていて、雨上がりのような新鮮さを漂わせていた。

 ホテルは、バスターミナルからそう遠くない、ボリバル通りで見つけることが出来た。シングルルームがバストイレ付で、7,500ペソ(約15ドル)、とても清潔。

 日本のガイドブックにはアントファガスタの物価は高いと30ドル以上の宿しか紹介していなかったけれど、このホテルは例の「ツーリステル」なるガイドブックで見つけることが出来た。怪我の功名といったところか、このスペイン語のガイドブック、大いに役に立つ。

写真  自然の芸術、ラ・ポルターダ奇岩郡。海岸に下りてみるとかなりの迫力。

 アントファガスタの北16kmの所にラポルターダという奇岩郡のある海岸がある。次の朝、何とかそこを通るというミニバスを探し、乗ることが出来た。

 そのバスで30分ほど走った頃、遠くの山以外、見渡す限り砂地というところに、ぽつんと一人降ろされてしまう。1kmほど歩くのだという。

 10mほど先に淋しく取り残された道路標識には、ラポルターダとの矢印があった。それに心強くして歩き始めたのであるが、何処まで歩いても平地ばかりで、岩などありそうもない。何処かで間違えたのだろうか。

 誰にも会わない道を15分は歩いたであろう、もう1kmは過ぎているはずだ。なのに、いっこうにそれらしき気配がない。何処までも何処までもやはり砂地なのである。

 そんな思いで歩き続けると、やがて彼方に水平線が見えてきてしまう。確かに矢印はあったのと思いながら歩き進んだら、なんと歩いていたのは、見事な絶壁の上であったのだ。

 日本によくある風景のように、「砂地の先は波打ち際」というのではなかった。奇岩は見上げるのではなく、見下ろす位置にあったのである。

 展望台横の急階段で絶壁を下って、人影のない海岸に下りると、貝殻と砂が固まったような岩が織り成すその造形は、さすがに迫力があった。土地の人が一人、はるか岩の先で釣り糸を投げていた。

 帰りは道路の端で、北からのバスを探さねばならなかった。ラポルターダへの分かれ道だから、ここで乗り降りする人はいるのだろうが、バスの停留所などない。

 けれど細長い国というのは、こういうときありがたい。都市はだいたい南北の線上に並んでいるのだから、南に走るバスは、たいがいアントファガスタへ行くはずだ。

 30分ほど待ったであろうか、ミニバスが通りかかったので、大きく手を振ると、10m程走り過ぎて停まった。走り寄って「アントファガスタ?」と叫んだら、うなずいて招き入れてくれた。

 ここチリで太平洋戦争というと1879〜83年のペルー・ボリビア相手の戦争をいうようである。このアントファガスタは、その戦いで、ボリビアから、チリの領土になった。

 その後ここは、銅、硝石、銀といった、アタカマ砂漠の豊かな鉱物資源の積み出し拠点として栄えてきた。

 ラポルターダから戻った私は、街の中心コロン広場から10分ほどの港に降りてみた。

 今は国の指定記念物となっている、旧税関横の海岸からは、鉄道の枕木を敷き詰めたようなかつての大埠頭が、いかにも19世紀を思わせる武骨な姿で、海に突き出していた。所々に残る、錆付いたクレーンが当時のスケールの大きさを偲ばせる。

 誰もいないその埠頭を先端まで歩いてみたが、ただ波だけが、朽ち果てた床の下で橋杭にじゃれついていた。まるで過ぎ去った現実が理解出来ないかのように。

写真  今や朽ち果て、放置された港の大埠頭。橋杭の下のさざ波だけが、繁栄当事と変わらぬ声援を送り続けているかのように…
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第2章 チリ・ボリビア
第5話 アンデスの青い空 No.080No.080
写真  アンデスの空は、何処までも青く、何処までも大きく、そして静かであった。

Gallery 旅情

 アンデスの空は手ですくえそうに青かった。

 白い雪をいただいた5,000m級の山々も、ここでは心なしか遠慮がちに、遥か彼方の大地の端にへばりついている。こんなにも空は大きかったのだ。

 標高5916mの尖がり活火山、リカンカブールのかなたに現れた黄色い車は、まるでスローモーションの映像のように、なかなか近づいてこない。

 サンペドロ・デ・アタカマ、2,438mの高地の午後は、雲ひとつない青空に、音のみか時間まで吸い込まれたかのように、静かに煌めいていた。人が悪ささえしなければ、自然はもともとこんなにも平和でありえるのだ。

 山高帽をかぶった女性が羊に囲まれて一人、50mほど先の国道を渡っていった。私はカメラを肩に、サンペドロ・デ・アタカマの、のんびりとした散歩を楽しんでいた。

 実のところ今日は、北へ90kmほどのところにあるタティオ間欠泉に行く予定であった。ところが途中でキャンセルになってしまったのである。

 というのも、朝の3時半に村を出たミニバスは一時間ほど走った山中で、進めなくなってしまった。雪でスリップして坂を登れないのである。運転手兼社長はスコップでしきりに雪を掻いていたが、そんなことではどうにもならない。

 こんな雪山にもかかわらず、チェーンを持っていないとは、少々ずさんな気がする。30分ほどウンウンと、前に後ろにと動かしてみたが、結局あきらめて帰ることになった。

 ところでこの話を、再挑戦した翌朝の、ツアーバスに乗り合わせた、日本人親子に話したところ、彼らはボリビアから、ウユニ塩湖経由で、昨日チリに入ったのだそうだが、そのツアーバスが2晩、雪の山中に閉じ込められてしまい、本当に命からがらの脱出だったという。

 そんな状態にもかかわらず、運転手は自分の車のことばかり心配していたり、また、責任者も何のお詫びもしなかったりと、ボリビアの人の対応にひどく腹を立てていた。どうやらこのあたりでは、少し我々とは物差しが違うようだ。

写真  夜明けと共に、4,500mのアタカマ高地に、間欠泉が吹き上げる。朝の3時半に防寒服に身を固めてツアーバスに乗り込んだ我々は、バスの中で、用意された暖かいお茶を飲みながら、夜明けを待った。

 ところでこのアタカマ砂漠は、1971年までの400年間、雨の記録がないという、世界で最も雨の少ない所である。

 それなのに、4,500mの高地で温泉が出る。翌朝の再挑戦でたどり着いたタティオ間欠泉では、夜明けとともに、もくもくと立ち込める蒸気をぬって、5〜6mのお湯の柱が、白みかけた天に突き上げていた。

 その源は雪解け水なのだろうか。次第に青さをましてくるその空の下でその姿は、まるで今眠りから覚めた大地の雄たけびのよう。見方によっては、大地も生き物だったのだと思えてくる。

 それにしても空が美しい。こんな空の下では山の稜線も、ごつごつとした山肌も、その岩がつくる影さえも美しく見えてしまう。

 ツアー客が温泉を楽しんでいる間、水着を持ってきていなかった私は、みんなから離れて、あたり一面自然の気分を楽しんでいた。

写真  澄み切った空の下では、どんな景色も輝いて見える。

 サンペドロ・デ・アタカマの周辺には、美しいところが多く、午後のツアーでいった月の谷というのも、夕日で赤く染まった斜光に照らされて、陰影をより際立たせたその岩肌は、その名のとおり人間くささと離れた、少し異質なロマンを感じさせた。

 その日の夜、ツアーで一緒になったその日本人親子と夕食を共にした。定年を向かえ娘さんと南米を旅しているのだそうであった。まことに羨ましい限りである。

 いろいろ面白い話を聞かせてもらったが、一番印象に残ったのは、「私が居なくなって、果たして会社はやっていけるのだろうかと思ったが、私が辞めても会社はそのままである。いったい私は何だったのだろうと、考えてしまう。」と言われたことであった。

 人というのは誰しも、自分というものの像を、何らかの価値を絵の具に描いている。つまり「何かで必要とされている自分」とか、「何かを出来る自分」とか、当人の意識には上っていなくても、そういったもので自分を自覚する。

 だから事の成功には、「私〈が〉やった」、「私〈が〉言った」と〈我〉が出てしまう。いわばこれは生命維持のための食料にも似て、人格維持のためのメンテナンスとも言えよう。

 逆に見れば、そういったものが感じられる時、人はより生き生きとする。彼のかつての働きぶるが目に浮かぶようであった。

 彼にとって仕事は、単なる収入源の意味を越え、彼の人格そのものであったのかもしれない。あの高度成長を支えた、戦士の風貌が漂っていた。

 そんな人から見れば、ボリビアのツアー会社の態度は、さぞ苛立たしいものであったろう。おそらく、車ばかり気にしていた運転手は、彼の人格を、《車を持っている》ということで、価値付けしていたのかもしれない。

 命からがらの目に会った二人には、まことに不謹慎なことかもしれないが、そんな二つの価値観のすれ違いの一幕を、少々ユーモラスに想像してしまう。

 チリにきてはじめての日本人の旅人に出会い、夜のふけるのも忘れて、ワインを傾けていた。

写真  サン・ペドロ・デ・アタカマは、チリで最も古い町とか。近代的な建物は何一つなく、アタカマの自然に溶け込んでいる。広場の西には、1730年に建てられたというサンペドロ教会が、静かに町を見守っていた。
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第2章 チリ・ボリビア
第6話 キリストの死体 No.081No.081

 突然景色が変わったかのようで、ハッとした。

 ポカポカとしたアリカの太陽を窓に受け、あのエッフェル塔で有名なエッフェルが設計を手がけたという、サン・マルコス教会の中は、今までのカテドラルとは違って、明るかった。

 その礼拝堂に絶え間なく流れる賛美歌は、ひんやりとした音色で、中にいる者の心をしっとりと落ち着かせる。

写真  喧騒な街中にあって、ここだけは異質な空間。人々は思い思いに訪れ、神と対面し、そして去っていく。賛美歌だけが、そんな人々の出入りをよそに、いつまでもいつまでも、静かに流れていた。(サンマルコス教会)

 靴音を響かせて入ってきた女性は、私より五つほど前の席に腰を下ろした。その少し前では、先ほどから男が一人、両手を前で結び、じっと正面を見据えて立っている。例の無惨なキリストが、十字架に手足を打ち付けられ、うな垂れている正面を。

 「なぜこうも残酷な描写を、神聖な空間に置こうとするのだろう。日本人なら時の流れと共に、もっとさらっとしたものに風化させていくのではないだろうか。」

 ペルー、リマのカテドラルを訪れた時以来、私に残されていた宿題である。その答えが、今見えたように思えた。

 というのも、その無惨なキリストの姿が、よりリアルであれば有るほど、世の中には目をそむけたくなる現実があるのだということを、気付かせてくれるように思えたのである。

 意識から追い出したい現実、例えば、私が得るという事は、誰かが失っているのだという現実、私がやったことよりも、やってもらったことの方がはるかに多いという現実、我々は、そんな過去の累々とした犠牲の上にはじめて成り立っているのだという現実、そして何よりも、我々は死ぬのだという現実。うな垂れるキリストの死体は、普段は見ようとしない、そんな現実の側面を、あからさまに我々の眼前に暴き出してしまう。

 ところがしばらく、その思いの中をさまよっていると、妙な気持ちの変化に気がついた。

 それはそんな現実の中で、なおかつ存在する自分が、何とも貴重な幸運を手にしているように思えてきたのである。

 何故か、ああだのこうだのといった文句が消え、こうやって生きていることそれ自体で、まるで宝くじにでも当たったような嬉しさがこみ上げてくる。

 この複雑な思いが、カテドラルのキリスト像を、よりリアルに、よりむごい姿に、仕立てていった意味ではなかったのだろうか。

 やっとイエスが私に口を利いてくれたようで、なんだか嬉しくなっていた。男が去り、女が去り、変わって前には老人が座っていた。私はいつまでも賛美歌に包まれたキリスト像を見つめていた。

写真  街中にニョキリとそそり立つアリカの丘陵。丘の向こうは太平洋である。

 このサンマルコス教会の南には、高さ100m程の丘陵が街なかにニョッキリと切り立っている。

 映画「バットマン」か何かでビルの立ち並ぶ街なかに、岩山が突如現れるといったシーンがあったように思ったが、そんなシーンにまぎれ込んだかのようである。

 足元を滑らせながらその丘陵に登ってみると、崖の向こうは太平洋であった。北にかすむ海岸線はもうペルーのはずである。

 丘の上には1880年の太平洋戦争を記念して、軍事博物館が建っていた。ここアリカは、その戦争以前は、ペルーの領土であったところである。

 夕日が海を赤く染め、眼下の太平洋に沈んでいく。今ごろ日本では眠たい目をこすって起きている頃だろう。夕日の美しさとは裏腹に、出勤前のブルーな気持ちを思い出してしまう。

 丘陵から降りた私は、繁華街にある旅行会社でラウカ公園までのツアーを申し込んで帰った。

 ラウカ公園はボリビアとの国境にある、自然公園で、めずらしいサボテンや、野生のリャマ、アルパカ、ビクーニャ、それに尾の長いウサギ・ビスカッチャなどを見ながら、標高4,517mという、世界最高所にある湖、チュングラー湖まで向かう。

写真  ラウカ公園へのツアーで立ち寄ったサボテン。高さな3m程。

 朝の7時半、ホテルまで迎えに来てくれたツアーバスは、私を含め12人。見所満点のコースを辿り、チュングラー湖に着いたのは、午後の3時前であった。

 湖の向こうには日本の富士山に似た、パリナコッタが、その美しい姿でそびえていた。見ている所が四千メートルを越えるためか、富士山より小ぶりに見えるが、標高は堂々たる6,330mである。

 その証拠に、着込んだ雪の衣が、丹前のようにぶ厚く見える。またその向こうには、もう一つ6,232mのポメラ山が肩を並べる。異国の富士は兄弟のように二つ並んで、真っ白なその姿を、真っ青な空に映していた。

 ツアーの仲間から離れて、一人湿地に降りて見ていると、その白と青の世界は、むしろここが、陸より天に近い所のような錯覚に陥ってしまう。湿地の水には日中を過ぎても溶けぬ氷が残っていた。

写真  標高4,517mのチュングラー湖に映るのは、6,000mを越えるパリナコッタ山とポメラ山。湖畔ではリャマが草を食んでいた。

 ところでその日の夜、宿に帰ったら、飲みかけの1.5リットルのペットボトルが、こぶし二つ分ほどの大きさでペコリとへこんで、バッグから出てきた。

 さすがに4,000mの湖、気圧が低かったのであろう。少しは天に近かったことは間違いなかったようだ。

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第2章 チリ・ボリビア
第7話 ティワナコ No.082No.082
写真  すり鉢の底に突き刺さったようなラパスの近代ビル。ボリビア

 時計の針は朝の3時半を指している。厚い壁に囲まれたラパスのトリノホテルは、冷たく寝静まっていた。テーブルの上の温度計は、12度を指している。ラパスの夜は寒い。

 トイレを済ませた私は、ダウンのジャケットのまま、再びベッドにもぐり込んだ。けれどいっこうに眠気はやってこなかった。今回の旅もいよいよここラパスで終わりなのである。

 どうも明日に、夢を盛り込む未知数がないと、気分というのは重く沈むようだ。またまた日本では、あのがんじがらめの繰り返しかと思うと、どうも気分が塞がってしまう。

 考えようによっては、それも幸せなのだが、頭と違って気持ちはわがまま、私はあの明るく暖かかった、サンペドロ・デ・アタカマのホテルの中庭を思い出していた。

写真  ボリビア側の国境。平和な雰囲気であったが、ここは撮影禁止のよう。この後すぐに制止されてしまった。

 一昨日の朝、チリのアリカを発った私は、前日のラウカ公園ツアーの道を通って、ボリビアとの国境へ向かった。

 あの兄弟富士を見ながらのチリ側の出国とボリビア側の入国は、ほとんど形式的で簡単なものであったが、バスがボリビア側に入った途端、路肩に散乱するビニールくずが、急に目に付くようになる。

 それから三、四時間、夕日に染まるボリビアの黄昏を眺めているうちに、バスは、大きなすり鉢に、ぎっしり薄茶のマッチ箱を埋たような盆地を下り始める。標高3,800m、ボリビアの実質上の首都、ラパスである。

 そのすり鉢の底のバスターミナルは、日本でいえば首都の玄関、東京駅である。しかし、バスの行き先は、ペルー、チリ、アルゼンチンと、はるかに国際的。

 私はチリからのバスで偶然隣に乗り合わせた、韓国人女性と、タクシーに相乗りして、ボリビア人お勧めのこのホテルに来たのであった。

 場所は街の中心ムリョリョ広場から、坂を下って二、三分と申し分なく、また、建物もコロニアル風に重厚で、設備も整い、部屋も清潔で、おまけに、バストイレ付きのシングルルームで45ボリビアーノ(約9ドル)と安い。

 喜んでOKしたのだが、日当たりが悪く冷たい感じが、旅の終わりの憂鬱と重なって、私の気分を滅入らせていた。

 どうもこの冷たく暗い部屋というのがいけない。今朝も8時に目を覚ました時は、まだ薄暗いので、ラパスの夜明けは遅いのかと思ったが、唯一ある窓を開け、首を捻って上を見上げれば、隣のビルに挟まれた細長い空は、明るく輝いていた。

 あの光が、入るのと入らないのとでは、気分がうんと違う。明日テイワナコへのツアーから帰ったら、親しくなった従業員には悪い気がするけれど、ホテルを変えよう。私はそう心に決めた。

 どうやら人というのは、目の前に課題を、取り組める形で具体化させると、それまであたりに立ち込めていた、漠然とした憂鬱は、その課題の彼方に追いやられ、気持ちのはりを取り戻すようである。

 新しいホテルでの明日を想像しているうちに、いつしか憂鬱を忘れ、眠ってしまった。

写真  ボリビアの法律上の首都は、もっと南のスクレだそうだが、実質上は、ここ標高3,800mの都市、ラパスである。

 目がさめたのは6時15分、私は用意を整えてロビーで迎えのバスを待った。ティワナコ遺跡へのツアーバスは7時半の約束である。

 バスを待って、ロビーと入り口を行ったり来たりしていた私に、掃除の若者が話しかけてきた。

 約束は7時半だというと、まだまだと言って首を振った。時計は既に45分を回っていたが、彼の言うとおり、バスは8時になってもやって来ない。更に待つこと、10分、20分、今日はキャンセルかと思った8時半、ようやくガイドがホテルに駆け込んできた。

 「道が込んでいて……」お決まりの言い訳かと思ったが、サンフランシスコ寺院の横の道を通った時は、車や人のみならず、露天商の店台が道をふさぎ、バスが通るにはその都度その商品台をのけねばならないありさまであった。

 バスがテイワナコ遺跡に着いたのは、10時を過ぎていた。その昔ここはチチカカ湖の湖岸であったというこの遺跡は、インカの首都クスコを思わせる石組みを残し、ティワナコ文化の中心をなす宗教都市だったらしい。

 私はさっそく遺跡のほうに回りたかったのだが、ガイドは我々を博物館に案内した。

 ところがそこでの説明がとても丁寧、しかもスペイン語と英語でそれぞれ説明するため、倍の時間がかかってしまう。

 言葉による説明の好きなヨーロッパ人は喜んでいたが、私は早く遺跡のほうに出、少しでも多くそこの気分を味わっていたかった。

 しばらく我慢をしていたのだが、しびれを切らして、一人分のチケットをガイドからもらい、彼らと別れて遺跡に入った。

写真  ティワナコ遺跡のモノトリート(石像)。発見者にちなんでポンセと呼ばれているそうである。
 このカラササーヤの広場の横には半地下神殿があり、壁には180もの石の顔がはめ込まれているが、表情は残念ながら、風化して読み取れないのが多かった。

 ティワナコというのは、インカ人のつけた名で、本来どのように呼ばれていたのかは、分からないそうである。

 けれど、アンデスに古くから住むアイマラ族の間では、この地を「中央の石」の意で「パイピカラ」と呼ぶらしい。

 そのアイマラ族の神話に、創造の神ビラコチャが、チチカカ湖から現われ人類を創ったとき、石像を一つずつ各部族の魂の象徴として与えたという。

 そしてアイマラの人々は、アンデスのどこに移り住んでも、その遠くの石像に思いを馳せ、自分達の心の支えとして崇めたそうである。

 恐らく彼らは、厳しいアンデスの現実に打ちひしがれた時、石像を通して、ビラコチャにつながる遠き祖先に思いを馳せ、その祖先から託された己の使命を感じて、あの今朝私を襲ったような、現実の夢なき繰り返しの壁を、突き破る力を得ていたのではないだろうか。

 ひょっとしてこのティワナコは、そうしたアンデスの人々の、魂の要としてあったのかもしれない。

 中央のカラササーヤと呼ばれる広場には、モノトリート(石像)が一人、右手の指を逆さに折り曲げ、静かに立っていた。その端の太陽の門では、ビラコチャの神が、多くの従者を従えて、何故か涙を流していた。

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第2章 チリ・ボリビア
第8話 ペーニョ No.083No.083

 ワアーッと拍手喝采が沸き起こる。客は四、五十人はいたであろうか。みんな舞台のコントに大喜びである。そんな盛り上がりを背に私は、カップの底で揺れる紅茶を手に、飲まずに眺めていた。

 別に冷えた紅茶を飲みたくもなかったが、飲んでしまってはテーブルの上は何もなくなってしまう。そうすれば、ますます手持ち無沙汰で所在がない。

 どうやら独りでペーニョというのは、失敗であった。私は劇場ショウでも見るつもりで来たのだが、どうもペーニョとは、そういうところではないらしい。

 主役はショーではなく、一緒に来た人達との団欒のようである。だからテーブルの席も舞台にではなく、お互いに向き合っている。

 舞台で演じられるものは、そういった時間を楽しむための、演出なのだろう。いわば脇役。そんな脇役を主役と間違えて、のこのこカメラを持ってやって来てしまった。

 それでも、料理がある間は良かった。ワインにスープにリャマの肉と、舌鼓を打ちながら、舞台を楽しんだ。けれど独りで食べていては、いくらよく噛んで食べたとしても、15分ともちはしない。

 それでも、フォークローレの時は良かった。可憐なチャランガの響き、透き通るようなケーナの音色、アンデスに吹く風を思わせるサンポーニャ、それらの奏でるメロディに言葉の壁はない。

写真  ちょっと見難いけれど、左の人が吹いているのがケーナ、脇に持っているのがサンポーニャ。1人置いてチャランガ。

 けれどコントはいけない。ミスタービーンのように、派手に表情でもつくってくれれば、何とかついていけるかもしれないが、スペイン語でとる笑いは、私には痛くも痒くもない。

 しばらく体を捻って見てはいたものの、退屈なだけである。かといって、体を戻せば、前のテーブルの人と、お見合いになってしまう。なんとも困ったものである。目のやり場がない。手の置き場がない。間のもちようがない。まるで私は盛り上がる店内のブラックホール。

 さすがコメディアン、客席の中のそんなヘコミを、すばやくキャッチしたのだろう。「ハポネス」と言う言葉が、耳に飛び込んできた。日本人は私しかいない。

 ドッと店内が沸き、皆の視線が一斉に私にそそがれる。何か私をネタに皆を笑わせているのだろう。お返しの表情をと思っても、何で笑っているのかさっぱり分からないのでは、きょとんとした視線を返すしかない。

 たまらず、2回目のコントが始まった時には、席を立っていた。時計は夜の11時半を指している。残りがあったとしても、そう多くはないだろう。

 レジで請求された勘定は全部で70ボリビアーノ(約14ドル)、ワイン12B、スープ10B、リャマのステーキ28Bとあったから、ショーの代金は15ボリビアーノ(3ドル)程度といったところか。

 コントは残念ながら楽しめなかったが、おいしい料理と、すばらしいフォークローレを聞かせてもらって、申し訳ないほどの値段である。

 翌朝私はボリビアの地図を手に、ホテルの受付で、つぎはぎのスペイン語に苦闘していた。大枚43ボリビアーノ(8.5ドル)もしたというのに、何とも大まかな地図で役に立たない。

 昨夜のペーニョと比べると、この素朴な地図が、なんともアンバランスに高く思えてしまう。

 とはいうものの、話が見えないのは、地図のせいでも、スペイン語のせいでもなかった。何処に行きたいのか、私自身はっきりしないのである。これでは教えるほうも困ってしまう。

 というのも、チリからラパスに来る途中、是非とも写真におさめたい風景に出会ったのである。

 見渡す限りの平原のかなたには、雪をいただいたイリマニ山が見え、傾いた太陽に照らされた農家の影は、その平原に長く長く伸び、山高帽の女性が羊の番をして、たたずんでいた。

 そんな光景に何度も出会った。確かそこから、このラパスまでは、1時間ほどだったと思う。知っているのがそれだけでは、行き方を聞かれたホテルの人も困るはずである。

 結局、ミニバスで三、四十分のビアハという町はどうかと言うことになった。

写真  行きたかった所とは違ったけれど、一日散策を楽しんだビアハの町。

 ミニバスはラパスのすり鉢を登りきったところで乗り換え、南に一直線、三、四十分したところで、右にそれてしまう。違う、来たかった所ではない。

 けれど、あまり観光ずれしていない所というのは、素朴で、写真に撮りたくなるような所が、結構あるものである。私はその町とあたりの平原を歩いて、時のたつのを忘れていた。

 翌日ラパス最後の日、土産物を買おうと街に向かっていたら、若者が大急ぎで私の横を駆け抜け、前の女性にぶつかりそうになり、身をよじって走り去った。

 その時白いビニール袋を歩道脇に落とした。前の女性と、横の男が声をかけたが、聞こえないのか、振り向きもせず駆け去っていった。男も、拾い得とでも思っているのか、一声か弱くかけただけで、それ以上呼び止めようともしない。

 前の女性は出勤途中で急いでいたのか、チラッと我々を見ただけで、さっさと立ち去っていった。

 なんだろうと顔を見合わせた私と彼、額をくっつけ、中をのぞきこんだ。と、タバコか何かだろうと思っていた袋の中身は、なんと、二つ折りにして分厚く束ねられた札束ではないか。

 ボリビアーノと米ドルが半々くらい。その米ドルの束に見えたのは確か20ドルの数字。そんなのが、七つ、八つ。

写真  ラパスの街をさっそうと歩く、セニョリータ。近代ボリビアの象徴のよう。

 彼はあたりを見渡して、私と半分ずつしようと手で合図した。けれど、あのあわてようと、金額から見て、どうもまともなお金ではないらしい。

 ラパスで日本人は結構目に付く、犯罪にでも絡んでいたら対処しきれない。そんな臆病風に吹かれた私は、『君子危うきに近寄らず』と、彼にゆだねて立ち去ってしまった。

 けれど『虎穴に要らずんば虎子を得ず』と、その時彼と山分けにしていたら、土産を山と持って帰れただろうにと、今でも時々思い出してしまう。貴方ならこんな時、どうしただろう。

第5部 南米編 完

写真  スペイン植民地時代の面影を多く残すラパス・ハエン通り。こちらは古きボリビアの象徴のよう。
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