第4章 スリランカ  《 第4部 小さな旅あれこれ 》
第1話 生々しい爆破の傷痕第2話 スコール第3話 シーギリヤ・レディ
第4話 楽園の風景第5話 苦い後味
第4章 スリランカ
第1話 生々しい爆破の傷痕 No.051No.051
スリランカ地図

 「ああセイリコンハウスね、あそこはテロで爆破されてもうありませんよ。」

 またまた、その手には乗るものか、とは思ったものの、「爆弾テロで70人死亡 スリランカ」という新聞の見出しを思い出してしまう。【※】

 確かコロンボ近くでの話で、ちょっとやばいかなと思ったのであるが、もう旅の準備が進んでいた。

 インドでもテロの爆破で、半分が瓦礫の山となった、エアインディアのオフィスで、帰りの予約を入れたのだ。

 危険であることは確かだが、そんな中でも、多くの人が日常を送っているのも確かである。旅をするスペースは十分あるはずと来てみたのであるが、空港がいやにガランとしているのには驚いた。

写真  テロで破壊された建物。官庁街フォート地区にて。
※【今年の2月停戦協定  スリランカでは、1983年以来、人口の7割を占めるシンハラ人の政府と、分離独立を求めるタミル人との間で、紛争が続いていたが、今年の2月23日、無期停戦の協定が結ばれ、平和交渉への第一歩が踏み出された。内戦による犠牲者は、6万人にのぼるという。

 このコロンボの空港に着いたのは、午後の八時前であった。当然、人々の後について、ぞろぞろと進めば、入国の手続きは完了するだろうと思っていたのであるが、そんな列は何処にもなく、一人掲示板を頼りに、手続きを済ませなければならなかった。

 このタクシーの運転手は、そんな少ない旅行者の一人を、逃してはなるものかと、必死の売込みである。観光地へはバスで行くと言うと、スリランカにそんな旅人はいないと呆れた顔をされた。99パーセントは、タクシーで移動するというのである。

 勿論、売り込み作戦であろう。けれどバックパッカーは見たところ少ないように思えた。仕方がない、本日の所はタクシーを使うことにしよう。私はホテルが見つかるまで600ルピー(約11ドル)ということで、彼のタクシーに乗り込んだ。

 夏の雨上がりのような、ムッとした10月のコロンボの夜を走り抜け、彼の紹介した宿レイクロッジは、シングル700ルピー(約13ドル)で、けっこう居心地の良さそうな所なので、即、泊まることにした。

 ライフル銃を水平に構え、鋭い目で私を見つめる兵士に出会ったのは、翌朝バスターミナルに行く前に寄り道をして、官庁街フォト地区を歩いていたときである。

 重ねられた砂袋の上に構えられた銃は、発射すれば通行人にあたる角度に保たれていた。今までもライフルを持って警戒する兵士には、多くの国で出会ったが、このように水平に構えている兵士は、初めてである。自ずと緊張が走る。

 その土嚢の上の銃口がにらみつける先は、ひっそりと人通りも少なく、ビルのいたるところに、板が張り付けられ、爆弾テロの凄まじい爪痕を残していた。スリランカ北部を拠点に、独立運動を続ける、タミル・イーラム解放の虎である。

写真  キャンディで仏歯寺の警備にあたる兵。こちらもその表情は緊張していた。

 誠に残念だけれど、銃には銃が必要なことを認めなければならないのかもしれない。だとしても、それを正義とするか、苦渋の選択とするかで、展開は違ったものになるはずである。

 私は右手に剣の不動明王を思い出していた。あれは仏教といえども、それを認めざるを得なかった、表れではないだろうか。

 片目を大きく見開き、もう一方の目を閉じたその顔は、憤怒の表情と言われているけれど、もともとは暴力を認めざるを得なかった、その苦悶の表情ではなかったのだろうか。

 私を見つめるその兵士の表情は、仏教国スリランカのイメージから、遠く離れていた。

 確か泊まろうと思っていた、セイリコハウスもこのあたりだ。昨夜タクシーの運転手が言っていたのも、必ずしも嘘ではないようである。私は早々に切り上げ、バスターミナルに向かうことにした。

 さすがにバスターミナル付近は、人々で溢れていた。セントラルターミナルの前の市場では、ずらりと露店が並び、人々が行き交う。

 カメラを持って歩いていたら「オイ」と凄みのある声で呼び止められた。何か因縁でもつけられるのかと、振り返ったら、店の前に座った男が、私に向かって手招きをしている。

 昼日中、人の居る中では、めったなことはされないだろう。近寄ると、何と、写真を撮ってくれというのである。態度に似合わず可愛らしい。

 カメラを向けると、人差し指を立ててポーズをとった。得意のポーズなのだろう。

写真  ポーズをとる店の店主。呼び止められた時は、何者かと思ったが、話してみるととてもフレンドリィ。

 それにしても、スリランカの人は、手首足首が、いやにほっそりと長い人が多い。まるで、アニメのルパン三世のようなスタイルである。

 大根足を気にしている人から見れば、羨ましい限りかもしれない。それに、スリランカでは、インドと違って、けっこうスカートの女性が多く、そこからストンと伸びた二本の足首は、よけい強調され印象に残ってしまう。

写真  コロンボ、ベイラ湖南のシナモン・ガーデンにて、はにかみながらカメラにおさまるお嬢さん。それにしても手首足首の細いこと。

 そんな人々に囲まれて、コロンボからバスで3時間、スリランカ最後の王朝キャンディ王国の都、ぺらへら祭りで有名な、古都キャンディに着いたのは、昼を過ぎていた。

 バス代は70ルピー(約1.3ドル)、デラックスバスとはいかないけれど、乗り換えなしで分かりやすく、タクシーで来るよりも、はるかに楽しいものがある。

 私はバスターミナルに並ぶ売店の中で、帽子屋を探していた。というのもこちらに来る時、日本の電車の中で落としてしまったのである。

 成田の空港で買おうとしたのであるが、何と5,000円もするので、やめにした。

 歩いていると、道端に敷かれた布の上に、いくつかの帽子が置かれていた。一つ50ルピーだという。私はスリランカと文字の入った白い帽子を、40ルピーに値切って買った。

 勿論、質は違うけれど、方や5,000円、方や80円。この違いはどう受け止めたらよいのだろう。ちょっと得をしたような思いで私は街に向かった。

 キャンディの街はそう大きくなく、キャンディ湖が目印となって分かりよい。

 私はキャンディでは、スリランカを代表する、キャンディアンダンスを見たかったので、少し高かったけれど、ダンスが行われるクラブの近くの、ティランカホテルに宿を決め、街に出た。

 ところが50mも歩かぬうちに私は、カメラを抱えてその坂を、今来たホテルに向かって、駆け戻っていた。

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第4章 スリランカ
第2話 スコール No.052No.052
写真  樋は途中で切られて、チェーンが付けられていた。飾りかと思っていたが、この水量ではこうでもしなければ溢れるのであろう。

 まるでドラムの独演者が、フィニッシュに向け、一心不乱に、スティックを叩きつけているような音が、廊下に響き渡る。軒下数センチで切り取られた樋は、直径20センチほどの水柱で、地上とつながってしまった。

 ホテルを出て、50mと行かないうちに、ぽつぽつと降り始めた空を見て、急いで駆け戻った私は、呆然と庭を見つめていた。凄まじいスコールである。これに比べると、日本の夕立など、いくら激しくても可愛らしい。

 時刻は2時を少し過ぎていた。ホテルの人によると、スコールは3時間くらい続くという。ガイドブックには、10月はモンスーンの狭間で、雨が少ないと書いてあったのだが、甘かった。

 私は部屋に戻って、ベッドにころがった。これではスケジュールを変えなければならない。移動は午前中と考えていたのだが、それでは行った先々で雨に降られ、ホテルに閉じ込められてしまう。

 観光を午前中にし、午後のスコールを移動のバスの中で過ごそう。そうすれば時間を有効に使えるはず。

 そんなことを思いながら、うとうとしてしまったのだろう。目が覚めたのはもう夕方の4時であった。外はまだ雨である。更に待つこと1時間、5時を過ぎてようやく雨が上がった。

写真  スコールのあがった空は、幻想的。

 雨の上がったキャンディは、まだ雲が低く残り、少々幻想的であったが、再度雨の降りだすような気配はなかった。スリランカの雨はメリハリがはっきりしているようだ。降り始めもはっきりしていれば、やむのもはっきりしている。

 私は坂を下り、レイククラブで今夜のダンスショウを予約した。ところが、もう開演まで40分しかないというので、そのままそこで待つことにした。

 この地方の宗教儀礼に起源を持つというキャンディアンダンスは、キャンディ王朝の宮廷でも踊られていたという。美しい衣装で優雅に舞う女性に比べて、汗が飛び散ってくるのではと思えるほど、激しく立ち回る男達の踊りが印象的であった。

 ステージが終ると、劇場横の庭で火渡りのショウが行われた。本来宗教的意味を持っているのであろうが、ただただ好奇の目の観光客に囲まれて、男の持つ松明の赤い炎は、少し寂しげに踊っていた。

写真  ラクッシャ・ナトゥマ、悪魔払いの踊りらしい。一般に、男性の動きは結構激しい。

 ダンスの後私は、坂を下り、仏歯寺からバスターミナルへと歩いて、途中の中華レストランで夕食を食べたのだが、人々はまだ出歩いてはいるものの、辺りはひっそりとし、タイやミャンマーで楽しんだ夜店の賑わいはなかった。これは、テロのせいだろうか、それともこういった伝統なのだろうか。

 翌朝仏歯寺に行った時は、ちょうど仏歯の部屋が開帳される時刻で、けたたましい太鼓と笛の音とともに、人々がわれもわれもと窓口に押し寄せる中、ご開帳が始まった。

 四世紀の昔、南インドカリンガ王国から、スリランカに嫁いだ妃の無事を祈って、髪に結わえて持ち込まれたという仏陀の犬歯は、王権の象徴とも見なされ、シンハラ仏教徒の篤い信仰をあつめている。

 石が敷き詰められた中庭では、老人がひざまずき、額の前で合掌すると、そのまま地に平伏し、祈りを捧げていた。なんとなくイスラムの祈りを思い出させる。ひょっとすると祈りの心理には、その深層で、一定の動作と結びついているのかもしれない。

写真  仏歯の部屋の開帳に合わせて中庭で祈る老人。手の形は違うけれど、なんとなくイスラムの祈りのよう。

 その日の午後私は、作戦どおりバスに乗った。次の目的地はシーギリヤである。ところが、バスの後部に一つ空いていた席を確保し、やれやれと座った途端、手に持っていたリュックが、ストンと床に落ちてしまう。

 見ると左の背負い帯が、付け根から切れてしまっている。さあたいへん。旅の道具は丈夫が一番。日本の製品は、良いものが多いが、丈夫という観点は少し希薄なのではないだろうか。仕方がない、自分で縫うことにしよう。

 糸と針を出して縫い始めた時は、リュックの布に針が通るかと、心配したのであるが、これがなんともよく通る。最近の鞄用ビニール生地は、頑固そうに見えてこんなにも針が通しやすいとは、少々意外であった。丈夫さと引き換えに得たものであろうか。

 周りの人の見守る中、縫い目は少々不細工ではあったが、リュックは前にもましてガッチリとしたものに仕上がって、ほっと胸をなでおろした頃、バスの外は激しいスコールとなってきた。

 作戦どおり、と思ったのであるが、この作戦、そんなに立派な作戦でもなかった。

 というのも、シーギリヤに行くには途中、ダンブッラというところで、乗り換えなければならないのだが、そのダンブッラでは、ターミナルとは名ばかりで、ちょっとした広場に、2、3台のバスが停まっているだけなのである。

 なのに通りに停まったバスは、容赦なく乗客を降ろし始める。外はスコールである。私は正面に見える店に、かまわず駆け込んだ。

 雑貨屋であった。シーギリヤまでのバスを聞けば、広場のバスを指差してくれた。サンキュウと雨の中に飛び出した私は、泥の中を駆けて、扉の開いているバスに飛び乗った。

 けれど誰もいない。雨水が滝のようにバスの窓に流れ落ちている。運転席の横の床は、大きく口を開け、沼のようになった広場が、そこから顔をのぞかせていた。

 もしかして廃車のバスに乗り込んだのではないだろうか。そんな心配がよぎったが、とりあえず雨はしのげる。しばらく待つことにしよう。

 5分ほど経っただろうか、子供ずれのお母さんが乗り込んできた。「シーギリヤ?」と聞いたら、にっこりとうなずいてくれた。とてもやさしい笑顔に思えた。

写真  飛び乗ったバスの中。廃車のバスかと思ったが、無事シーギリヤまで運んでくれた。
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第4章 スリランカ
第3話 シーギリヤ・レディ No.053No.053
写真  オーバーハングした岩にへばりついた鉄製の回廊。

 ワオ〜

 岩に打ち付けられた鉄棒に支えられた通路が、ようやく人一人通れるほどの幅で、オーバーハングした岩壁にへばりついていた。

 はるか眼下には、先程通り抜けてきたシーギリヤの森が見える。日陰にまわってヒンヤリとした風が足元をすくう。わきの下は汗ばんでいたが、背筋にはヒンヤリとしたものを感じる。

 シーギリヤロックは、登ってみると遠くで見ているより、はるかに大きく迫力があった。

 その通路を超え、やっと地に足が付く、岩の道にたどり着いたかと思うと、今度は鉄の螺旋階段が、頭上垂直にへばりついていた。

 そこを10mも登ったであろうか、美しい「シーギリヤ・レディ」が私を迎えてくれた。

 このシーギリヤロックは、平原にニョキリとほぼ円柱状に突き立った、高さ180mもある岩の塊で、5世紀後半、父から王位を奪い取り、殺してしまったカーシャパ王が、弟の復讐を恐れ、その上に住むべく、宮殿を造ったという所である。

写真  後方の森から突き出た岩が、シーギリヤロック。壁画は、中ほどの側面にへばりついて残っている。

 旅のスタエルを朝型に変えた私は、7時に朝食を済ませて、昨夜チケットを頼んでおいた男を待っていた。

 というのも、このシーギリヤロックに登るには、チケットを買わなければならないのだが、そのチケット売り場はホテルなどのある村から、2kmも逆方向に離れていた。

 そんなこともあって、旅人を見つけては、チケットを売って小遣いを稼いでいる人がいるらしい。そんな一人が、昨夜私に売り込みに来たので、頼んでおいた。

 ところが7時半を過ぎてもやって来ない。仕方がないので自分で買いに行くことにした。

 ホテルを出、遺跡を歩いていると、自転車の男が声をかけてきた。チケット売り場まで50ルピー(約1ドル)で乗せていってやろうというのである。

 普段なら2kmくらいは、歩きを楽しむのだが、今日の午後、ポロンナルワまで移動しなければならないかと思うと、少々急かれるものがある。そこで乗せてもらうことにした。

 ところが彼の自転車には荷台がない。どうするのかと思ったら、彼の両腕の中に横座りせよというのである。そういえば子供の頃は、よくこうやって、二人乗りをしていたものだ。

 けれど今では、目いっぱい伸ばした彼の両腕の中で、身を縮めて固くなっていなければならなかった。

 その分よけいに尻が痛い。おまけにチケット売り場までの道は凸凹道、私を乗せた彼の息が、耳元で生々しく弾んでいた。

 チケットは810ルピー(約15ドル)、国際水準の値段である。高いとは思ったが、私を迎えてくれたこの美しい壁画・「シーギリヤ・レディ」を前に、そんな思いは消え去っていた。

 細い柳のように描かれた胴は、その豊かな胸の重みに耐えかねるように、わずかに前にたわみ、口元には、かすかな微笑を浮かべている。その美しさは、この足元をすくわれそうな岩壁の上で見ると、むしろ妖気さえ漂わせているようであった。

写真  1938年、英国によって作られたという、鉄製の螺旋階段を上った私を迎えてくれた、シーギリヤレディ。その美しさは、目のくらむような場所と相乗して、ゾクッとするほど魅力的であった。

 かつては500人もの美女が描かれていたという。ちょっと想像するのがむつかしい。この荒涼とした平原で、風に晒されて切り立つこの岩山と、そこに描かれた美女の群れ、少しバランスが崩れているように、私には思えてならなかった。

 というのも、いくら彼女達が美しくても、この岩壁の上では、その美しさに落ち着かない不安が忍び込んでしまう。その危なっかしさを強調するかのように、今に残るどの絵にも下半身が描かれていなかった。

 「彼女達が雲間に現れた天女だからだ」といわれるかもしれないが、私にはその不安定さに、父を殺してしまったカーシャパの、心の安住を得ぬ悲痛な叫びが、聞こえるように思えてならなかった。

写真  かつては、ライオンが大きく口を開けた形ではなかったかと言われている、宮殿入り口に残る爪。

 シーギリヤとは、シンハラ語で「ライオンの喉」(或いはライオンの岩)という意味らしい。壁画の所を過ぎて少し登ると、そのライオンの爪が残る広場に出る。

 そこから階段を登り、更にかすかに岩に刻まれた、60度の傾斜の段々を登ると、王宮跡の頂上である。そこにはかつての貯水池の跡が残るのみで、さしたるものは残ってはいなかった。

 しばらくその頂上に立って、荒涼たるシーギリヤの大地を眺めていたのであるが、やはり彼の心の奥深くでここは、王朝支配の拠点というより、逃亡の地の果てであったに違いない。

 帰りはチケット売り場に寄る必要もない為、思ったより早くホテルに着いた。チェックアウト時間には、まだ充分余裕があったので、お茶を楽しむことにした。

 遺跡に登って汗をかいた為、喉が渇いていたとはいえ、セイロンティは実に美味しい。

 インドのダージリンティは、香りが素晴らしかったが、味は私には少々淡白に思えた。

 このセイロンティは、香りでは少しかなわないかもしれないけれど、味はほんの少し渋みを残すようで、コクがあって私は気に入ってしまった。

 どのレストランでも、お湯がポットに入れられてから出されるまで、けっこう時間がかかる。どうやらこのしばらくポットで蒸らすのがコツのようだ。

 ちなみに、たくさん土産に買って、日本で入れてみたが、どう工夫してもスリランカでの味には今一つ及ばなかった。ひょっとして水のせいだろうか。

 そんなお茶を楽しんでから私は、チェックアウトを済ませ、ホテル前の通りの一角で、ダンブッラまでのバスを待った。

 けれどお昼時のためか、なかなかバスが来ない。次第にバス停に人々が集まってきて、話に花が咲く。

 ブルースリーの功績だろう、何処の国でも空手は人気のようだ。日本人と見ると、しきりに空手の格好をして話しかけてくる若者が多い。

 そんな話をしていたら、ホテルから見覚えのある青年が、息を弾ませ走り出てきた。

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第4章 スリランカ
第4話 楽園の風景 No.054No.054

 次から次へと荷物が膝の上に積まれ、目の高さまで来てしまった。ここまでやるつもりはなかったのだけれど………。

 私はダンブッラへのミニバスの中で動きが取れない状態になっていた。

 シーギリヤのホテル前からバスに乗った私は、幸運にも中ほどの席を確保することが出来たのだが、進むにつれ、乗客がこれでもかこれでもかと詰め込まれ、目の前の女性が横っちぎれの状態で、荷物を抱えていた。

 見るに見かねてその荷物を、私の膝に引き寄せると、一瞬「何をするのだ」といった表情であったけれど、意味がわかると、お礼の表情を見せてくれた。

 と、それを見ていたのだろう、彼女の横から後ろから、トン、ドン、トンと、その上に荷物が積み上げられてしまう。

 いつもならこんなに積み上げられると、いやな顔の一つもしたくなるのだが、今日の私は違っていた。スリランカの人達に、もっとお礼をしたかったのである。

 というのも、バスを待っていた私に、息せき切って駆け寄ってきた彼が差し出したのは、私のパスポートだったのである。

 チェックアウトの時、ルピーが足りなくて、両替を頼んだのであるが、そのときカウンターに出して、そのままにしてきてしまったようだ。

 もし彼が一足遅れて、私がバスに乗り込んでしまっていたら、とても面倒なことになっていた。

 ポロンナルワのホテルで気付いたとしても、その時では、パスポート無しでは泊まるわけにも行かず、かといって、シーギリヤまで戻るにも遅いだろうし、思ってみるだけでもゾッとする出来事である。

 さすが仏教国は違うなと、その親切さに痛み入ったのであった。そんなわけで、鼻の先まで積まれた荷物に息を吹きかけながらの、バスの旅となったのである。

 この混雑からは、乗り換えのダンブッラで解放され、目的のポロンナルワに着いたのは、夕方の4時頃であった。

写真  ガル・ヴィハーラ寺の涅槃仏と、別れを悲しむ弟子アーナンダ像。静かでふくよかな仏陀の顔が印象的。ポロンナルワにはその他、宮殿跡やストゥーパ等、数々の遺跡が残されている。

 そのポロンナルワは10〜12世紀に、シンハラ王朝の首都があったところで、ガル・ヴィハーラ寺の傑作、深い静けさを感じさせる、仏陀と弟子アーナンダの別れの石像をはじめ、スリランカ仏教芸術の頂点を極めた作品を、数々残す所である。

 私はパラークラマ貯水池に面した眺めの素晴らしい国営レストハウスに宿をとった。シングルで12ドルであった。

 貯水池と言っても、向こう岸が霞むほど巨大なものでまさに湖、今もポロンナルワの大地に水を供給し続けている。

 スリランカを支配した歴代の王朝が、まず始めに取り組んだことは、貯水池や水路の整備だったらしい。人々は今もその恩恵にあずかっているわけだ。10年や20年で見直しを迫られる日本の「開発」なるものが悲しい。

 夕方ともなると、仕事を終えた人々が、手に手に桶を持って、集まってくる。人々はそこで体を洗い洗濯をし、子供達がその周りで泳いでいる。まるで家族団欒の場でもあるようだ。

 はるか西の空で、雨雲がスコールを叩きつけているのが見えたが、このポロンナルワまではやってこなかった。

写真  人工の貯水池だそうだが、実質は巨大な湖である。夕方ともなると、家族ずれで訪れ、水浴をし、洗濯をする。

 夕食は5ドルと奮発して宿のレストランのカレーセットをたのんだ。皿をいくつも運んできたボーイさんは、私に手での食事方法を指導し始めた。

 人差し指と中指と薬指の三本をそろえスプーンとし、親指でその上にカレーをまぶしたライスをかき乗せ口に運ぶ。やってみると、なかなかおつなものであったが、この食べ方では、日本の味噌汁やすき焼きといった、熱い料理は自ずと生まれないだろう。

 そう思ってみると、日本人がフウフウと息を吹きかけ食べるのを結構好むのは、箸の文化の一つの特徴なのかもしれない。

 翌朝自転車を借り遺跡群に向かった。朝のすがすがしい空気を吸って自転車をこいでいると、湖のほとりで、のんびりと草を食む牛の群れに出合う。

 思わず自転車を止め、岸辺に下りた時は、その美しさにこみ上げる興奮を覚えたほどであった。

 まだ暑くなく心地よい朝の日差しの中で、空は抜けるように青く、大地はまだ朝露の残る、しっとり柔らかな緑に覆われて、まるで絵の中に入り込んだような錯覚に陥りそうであった。

 楽園とはきっとこのようなところに違いない。私は遺跡に行くのを忘れて、牛達とその楽園のひと時を楽しんだ。

 決してガイドブックに紹介されるような場所ではなかったが、スリランカの旅の一番のハイライトのように思えた。

写真  抜けるような青と柔らかい緑、すがすがしい空気と気持ちの良い静けさ、まるで楽園の絵の中に入り込んだようであった。
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第4章 スリランカ
第5話 苦い後味 No.055No.055

 「ファック ユー!」

 彼はオートリクシャの運転手にそう怒鳴りつけた。

 なる程、英語での喧嘩はこうやってやるのか。などと思ったのであるが、そんなのんきなことをいっている場合ではなかった。

 というのも、この運転手、途方もない運賃を請求してきたのである。1時間で1,000ルピー、3時間だから3,000ルピー(約6,000円)だという。

 とんでもない。同乗の彼は英語を交えて運転手と交渉をしていた。何とかしてくれるだろう。

 この彼に出会ったのは、コロンボの官庁街、フォト地区を歩いていた時であった。

写真  コロンボフォト地区。この時はテロの影響だろう、閑散としていた。

 私は両替をしたくて、宿の近くからオートリクシャに乗ったのだが、その運転手は銀行ではなく、路地裏のいかがわしい両替屋の前でリクシャを止めた。

 ここではダメだと、私がいくら言っても、銀行は今日は休みだとか言って、応じようとしない。

 私は仕方なく約束のリクシャ代をむりやり渡して、なんだかんだとまつわりついてくる運転手を振り切り、銀行に向かった。

 案の定、銀行はやっていた。私はそこで70ドルを両替した。スリランカ最後の日を買い物で過ごすつもりであった。

 何とか無事トラブルを避け、両替出来たことにホッとして歩いていた時である。横を歩いていたこの彼が、綺麗な英語で話しかけて来た。

 父はモリジブでホテルの経営をしているという。彼は将来その後を継ぐため、ホテル経営を学ぶべく、スリランカに留学しているのだそうだ。そんなことを話して彼は、郵便局前辺りで別れていった。

 小一時間ほどもしたであろうか、フォト地区を外れた頃、通りの向こうから彼が駆け寄ってきた。

 旅をしていて見知らぬ地で再会すると、不思議と親近感がわいてしまう。なんだか親しい知人に会ったような気がして、話が弾んだ。

 私がこれからセイロン紅茶局へ土産を買いに行くのだというと、彼も同じ方向に行くという。じゃそこまで一緒にと、オートリクシャをひろう事になった。

写真  スリランカでもオートリクシャは庶民の足、大活躍である。コロンボバスターミナル近くの裏通りにて。

 彼はスリランカの安心なリクシャを教えますと言って、止めたリクシャのフロントガラスに貼られている、シールを私に教えてくれた。

 いつもなら先に値段の交渉をするのだが、彼につられてそのリクシャに乗り込んでしまった。

 途中彼は寄り道をして、煌びやかな寺院に案内してくれたが、私が早く紅茶局に行きたいと言うと、すんなり要求を受け入れ、我々は紅茶局に向かった。

 彼が案内したのは、紅茶局ではなく、ラクサラという国営の土産物センターであった。

 確かラクサラはフォト地区にあったはずだが、ここはかなり南のディックマンズ通りである。少々腑に落ちなかったが、店の雰囲気は怪しそうではなかったので、彼について中に入った。

 彼は私について歩き、色々とアドバイスをしてくれた。だいたいこういう時、店とつるんでいると、何かと買わせようとするのだが、彼にはそんなそぶりは微塵もなかった。まったくスリランカには親切な人が居るものだ。

 「あなたの友人ですか?」彼がちょっと電話をしに行っている間に、中年の店員が私に小声で尋ねてきた。

 「いいえ、通りで会ったのです」彼が戻ってきたのはそう答えた時だったろうか。その店員はカウンターの奥に引き下がっていった。

 買い物を終え、店を出るとオートリクシャが居ない。彼によると、ガソリンを入れに行ったというのである。

 2、3分して、オートリクシャはやって来た。少し雰囲気が違うような気もしたが、彼に促されて、ホテルに向かった。

 虫が知らせたのだろう。動き出した直後、いくらだと聞いてみたが、エンジンの音にかき消されて、返事がない。

 私はもう一度今度は後部座席から首を伸ばして聞いてみた。と、横の彼が、危ないから後にしてはと、私の腕を引いた。それもそうかと、そこでやめたのがいけなかった。

 運転手は、政府公認の証明書だというものを出して見せ、払えとせまる。偽物だろうとは思うのであるが、ほんの少しひょっとしてとも思う。

 「警察に行こう」そういう私に「行っても良いが、更に運賃が1,000ルピーかかってしまう」と彼が言う。私はかなりパニックになっていた。

 というのも、乗ってしまった後というのはまずい。選択肢が限られてしまう。それに私は貸切という乗り方の相場をまったく知らなかった。途方もないとは思うのだが、ひょっとして外人旅行者向けの決まりでもあるのかなどと思ってしまう。

 更に、今何処に居るかも、わからなかった。相場もわからず、方向感覚もつかめなくては、午前中のように運転手を振り切って、次の行動に出るというのも、むつかしいものがある。

 また彼が間に入っているというのもやりにくかった。加えるに、英語でまくし立てられると、その英語を理解しようと、神経のかなりの部分がそこに集中してしまい、どう切り抜けるか考える余裕がなくなってしまう。

 「ごめんなさい、私にも責任がありますから折半にしましょう。」彼がそう持ちかけてきた。

 まあ3,000円なら仕方がないか。納得はいかなかったが、最後の一日、早く解放されたくて私は渋々OKしてしまった。

 ところが、彼はカードしか持ち合わせていないという。今夜ドルをホテルに持っていくから、ちょっと立て替えてくれないかと、私に頼んできた。私の財布には、ちょうどあと1,500ルピー払える額が、残っていた。

 「じゃ7時にきっとですよ。」私はそう約束をし、教えられたホテルの方に歩き始めた。

 二歩、三歩、四歩、まてよ、これはまずい。私が今から、彼のホテルまで、一緒に行くべきだ。

 「エックス キュウズ ミ …」

 振り返った私の目に入ったのは、エンジン全開ですっ飛んでいく、オートリクシャの後ろ姿だった。

 しまった! やられた!

 ものごとというのは、一つの要となる所を、どちらの方向から見るかで、全景が一瞬にして変わってしまうもののようだ。事件の首謀者は運転手ではなく、彼だったのだ。

 買い物に親切につきあっているように見せ、いくらなら払えるか財布の中身を見積もっていたのだ。この無理をすれば何とかなる額を提示するというのは、巧妙な手口だ。

 店員が友人かと聞いてきたのは、要注意人物のサインを送りたかったのだ。リクシャはガソリンを入れに行ったのではない、あの時入れ替わったのだ。

 考えてみると、英語で喧嘩というのも妙な話だ。景色が一変すると、自分の馬鹿さ加減に、じだんだする思いである。

 「世の中に偶然はない。もし2度出会うようなことがあれば、その背後に意図があると思え。」

 読みかけで置いてきた、シドニーシェルダンのスパイ小説の、その一説が、後悔の心を引っ掻いていた。

 シィィィィ…………!!!

第4章 スリランカ 完

写真  インド洋に面した、ゴール・フェイス・グリーン。休んでいる人に、何処がグリーンなのかと聞いたら、「いや、ゴール・フェイス・ブラウン」と笑っていた。海からの風が気持ち良かった。
第5章 ヴェトナム  Top 旅・写真集 スリランカ抜粋