第1話 窓のない部屋 | 第2話 可愛い仏像 | 第3話 キュートなお尻 | 第4話 憩いのパゴダ |
「ありがとう、でも けっこうです。」
私はやっと見つけたグランドホテルを出て、ガイドブックを開けた。既に高く昇った太陽に照らされて、ページがまぶしい。
4月のミャンマーは、信じられないほど暑いと言われて来たのだが、今朝の9時半、ヤンゴンの空港を出た時は、とても快適な所のように思えた。
昨夜のムッとしたバンコクに比べると、かなり空気がサラッとしている。
私はその足で、ビルマ最初の統一国家の遺跡・古都パガンに行きたかった。けれど当日の飛行機のチケットがなく、やむなくヤンゴンで、一泊することにしたのである。
空港からのタクシーでは、助手席に乗っていた男が、しきりにパガンまでの、400ドルタクシーツアーを勧めてきたけれど、そんな高い旅は私には出来ない。
パガンまでは、飛行機でも100ドル程度のはずである。私はホテルを探す前に、明日の飛行機を予約したくて、スーレーパゴダのロータリーで降り、ミャンマー国営旅行者に入った。パガンまでの飛行機は、片道95ドルで、その往復を購入した。
いつもならこの額も、私には高いのだが、ミャンマーの旅行者は、300ドルを政府が発行している兌換券に、強制的に替えさせられてしまう。これはミャンマーのみで通用する金券で、勿論再両替は出来ない。つまり最低でも、300ドルは使っていって下さいというわけだ。
ところが、物価の安いミャンマーで、300ドルは大金である。特に私のような、一週間の旅では、飛行機にでも乗らなければ余ってしまう。というわけで、「豪華」飛行機の旅となったわけである。
地図を見ると、目指すホテルまではそう遠くはない。なら歩こうと、ぶらぶら歩き出したのであるが、正午近くになるとさすがに暑い。私はホテルの近くまでは来たものの、入り口がわからず、右往左往してしまった。
このホテルは、シングルルームで10ドルと、まあ手頃な値段ではあったが、大きなビルのフロアーを、いくつかに仕切った部屋といった感じで、窓がない。なんとなく独房のように感じてしまい、ちょっといただけない。そこでもう一度気持ちを立て直し、別のホテルを探すことにしたのであった。
こういう時、短い旅は都合が良い。というのも、短いと背負う荷物がうんと少なくてすむ。身の軽さは心の軽さ。旅を楽しくするかどうかは、荷物を如何に軽くするかにかかっていると言っても、過言ではないくらいだ。
地図によると、一ブロック西に、サーチウイングゲストハウスという、手頃なホテルがある。行ってみよう。
どのバスも文字通り鈴なりの状態で走っている。事故はないのだろうか。 |
ところが、案内された部屋は、先程のと同じようなつくりで、やはり窓がない。窓のある部屋をといったのであるが、そういう部屋はないという。
どうやらこれが、このクラスのホテルの、一般的なつくりのようだ。私はどうせ今夜一晩だからと、泊まることにして、街に出た。
始めてみるヤンゴンの街では、トラックの荷台を改造したバスが、人々を詰め込めるだけ詰め込んで走っていた。どのバスの乗車口にも、人が鈴生りにしがみついている。日本のラッシュどころではない。
これは大変だろうと思って見ていたのであるが、意外に表情はにこやかなのである。日本のラッシュ時のように、怖い顔は少ない。
慣れれば楽しいのだろうか、などと思って歩いていると、「運賃後払い、ワンマンカー」と表示のあるバスに出合った。
日本の中古車が、そのままの状態でたくさん走っていた。 |
「へえ〜、ワンマンカーも走っているのか」と通り過ぎてハッとする。ここはミャンマー、今のは日本字。見ると日本の中古バスをそのまま使っているのである。
おやおやと注意してみると、通りには塗装しなおすことなく、日本の会社名そのままが記入された車が、けっこう走っていた。ミャンマーの人には漢字がある種のデザインのように映るのであろうか。
通りを外れると、ビーチパラソル大の番傘の下で、テーブルを囲んだ人々が、お茶を楽しんでいた。「喫茶店」である。
見ると、その椅子がなんともかわいらしい。ちょうど日本の風呂の椅子ほどの大きさである。自ずとテーブルも低くなる。膝の高さくらいである。そこにちょこんと座り、お茶を飲んでいる。
お風呂の椅子くらいのにちょこんと座ってくつろぐのがミャンマースタエルのようだ。この座り方、意外に落ち着く。 |
私もテーブルに置かれたパン菓子を注文し、そこに座る。ところが座ってみると、意外にこの高さは安定するのである。
窓のない部屋といい、この小さい椅子に座るスタエルといい、なんとなく独特の空間感覚が、ここにはあるように思えるのであった。
隣の席の皆は、こちらを向いて微笑んでいた。けれど、それ以上でもなく、それ以下でもない。
そういえば、インドのような激しい押し売りもなく、また、ジャワ島でカメラを盗られた時に感じたような、眉間に縦皺といった印象の人も見かけない。
ロンヂーをなびかせ、ゆったりと通りを歩く人々の姿が、どことなく優雅に思えたのは、旅の感傷のせいだろうか。
少女は無造作に近寄ると、何事かと戸惑う私の胸に手を伸ばし、シャツをつまんで、もぞもぞし始めた。
顎を引いて、自分の胸を見つめる私の下で、両頬にタナカを白く塗ったその少女は、楽しいいたずらの最中のような真剣さで、小さなブローチを、私に付けていた。
終わると、自分の胸についている、もう一つをつまみ、「プレゼント」と言って、無邪気な笑顔を向けた。私の胸には、小さな蝶がとまっていた。
「サンキュウ」私は目を細めて、そう言っていた。いつもなら、押し売りはいらないと、返すところであるのに。どうやら彼女の伸ばした手は、私の心のバリアーを、あっさり通り抜けてしまったようである。
ミャンマーの人達は、男も女もどことなく、この少女のような所がある。鎧を着けぬしなやかさとでも言おうか、人と接する面が、我々と少し違うような気がするのである。
その一つを、私の胸にとまらせてくれた少女。ほっぺに付けているのがタナカ。 |
当然のこと、代金を要求されるだろうと思ったのであるが、彼女達はそんな様子を見せるでもなく、ただニコニコとステップを踏んで、私の隣を歩き始めた。まるで何かの遊びの、続きででもあるかのように。
4月の太陽は、廃墟となったパガンの大地に、容赦なく降り注いでいた。
この彼女達は、日本の国会議事堂に似た、タビィニュ寺院手前の大木の陰で、自転車を止めて遊んでいた。
年の頃は12〜3歳くらいだろうか、写真を撮るポーズをすると、道の真ん中に出て、笑顔を向けてくれた。構図は平凡だけれど、その笑顔に魅せられて、私はシャッターを押した。
このブローチがそのお礼というのも、おかしな話である。どうしても、ギブアンドテイクの枠組みで、考えてしまう私は、どうしたものかと、戸惑っていた。
何かお返しのプレゼントをと思っても、あいにくとそのようなものは、何も持っていなかった。
結局私は、彼女の持っていた、ボールペンを買うことにした。恐らく、旅人にもらった物だろう。ちょうど私は、ペンをホテルに置いてきてしまい、メモをとれずに、困っていたのである。これで私も大いに助かる。
おそらく、旅人相手に小遣いを稼いでいた、子供達なのだろうとは思うのであるが、タビィニュ寺院まで一緒に歩いて別れた時は、なぜか、ほのぼのとした残像が、いつまでも心にゆれていた。
無数のパゴダが点在するパガンの遺跡。西にはイラワジ河がゆったりと流れる。 |
このパガンの遺跡は、十一世紀から十三世紀にかけて栄えた、ビルマ最初の統一国家のもので、多くの寺院や仏塔が、まるで天に向けられたスパイクの爪のように、うっすらと緑に覆われた大地から突き出ていた。
こういうところは、自転車よりも歩きの方が良い。というのも、遺跡から遺跡へ、道なき所を直線的に突っ切れる。
「ヘイ、コールドドリンク」と、明るい声が聞こえてきたのは、そんな道なき所を突っ切って、タビィニュ寺院の横の店を、覗いた時であった。
見ると、頬に大きくタナカを塗った娘さんが、椅子に座ってこちらを見つめていた。
タナカとは、木の枝を、硯のようなものですって、頬などに塗る、ミャンマー独特の化粧である。化粧といっても、それで美しく装うというのでもなく、顔に白いマークを付けたような状態で、昼日中、街を闊歩している。
何故そのようなことをするのかと、聞いてみたのだが、どうもはっきりしない。何か宗教的な意味でもあるのかと思ったが、返ってきた答えは、肌が綺麗になり涼しいから、というのであった。
そのせいでもないだろうが、ミャンマーの人は、美人が多い。アジア形美人ナンバーワンの国は何処と問われたら、私は躊躇なくミャンマーと答えたい。
インドの北、ダージリンにも多かったが、ヒマラヤの南のこの辺りが、アジア美人の宝庫のように、私には思える。その美人が、タナカをほっぺに大きく塗ると、美人というより、かわいい人に変身してしまう。
私は、そんな可愛い人に、ゴードーパリィンの寺院でも出会った。いや正確には人ではなく、仏像である。
黄金に輝くその仏像は、立てば恐らく6頭身ぐらいだろう、まるで幼稚園児のような無邪気さをただよわせて、そこに座っていた。
目と眉が大きくはなれ、丸顔で微笑んだ口元があどけない。タイのスットンキョな仏像というのも、印象に残ったが、このパガンのあどけない仏像というのも、少し驚きであった。
なんとも可愛らしい、ゴードーパリィンの仏像。見ていると自然と顔がほころんでしまう。 |
こういったあどけない仏像の前で、ミャンマーの人達が見た人生の苦とは、いったいどのような姿に見えたことであろう。
なんだか見ていると、可愛い子供を眺めている時に似た、明るい気持ちにさせられる。なんとなく彼らの世界が、ここから見えそうな予感はするものの、それ以上進めぬもどかしさに包まれて、私は寺を出た。
ブローチの蝶は、まだ私の胸にとまっていた。
陽もだいぶ西に傾いたことだし、今日はここまでとしよう。私はそう自分に言い聞かせていた。
もう少し先には、ニァゥンウーの市場があるけれど、帰り道のことを思うと気が重い。私はオールドパガンの北東5kmの、シュエズィーゴンパガンに、自転車で来ていた。
オールドパガンから、このあたりの交易の中心地というニァゥンウーまでの、とてものどかな道。 |
ここまでの道は、なだらかな下りが多かった。それでもとても遠く感じてしまった。というのも風邪をひいてしまったらしく、昨夜から体調が思わしくない。どうやら部屋のクーラーがいけないようだ。
そう、私はクーラー付きの部屋に、泊まっていたのである。何と一泊48ドルである。48ドル!
その後アメリカで、乗り継ぎのために、一泊7,800円の宿に、やむなく泊まったことはあるが、それを除いては、未だかつてこの記録は、破られていない。
何故そのような宿に泊まるようになったかというと、少々いきさつがあった。
というのも、パガンの空港に着いたとき、町までの馬車を探したのだが、ないということで、案内されたバスは、オールドパガンまで5ドルだというのである。
一旦は乗ったものの、考えてみれば、バスに5ドルは高すぎる。そこでまた降りて、あたりを見渡すと、ヨーロッパからの旅行者2人が、ドライバーとタクシー料金の交渉をしていた。
話に割り込んで聞くと、エィアーホテルまで行くと言う。じゃあ同乗させてくれと、一人100チャット(1ドル)の割り勘で、そのタクシーに乗り込んだ。
着いたホテルは、とても立派であった。彼女達は予約してあったようだが、私はまず、部屋を見せてもらうことにした。
テレビ、エアコン、冷蔵庫付きで、窓も大きく、天井も高い。申し分ない。ところが、一泊48ドルと、とても高い。けれど例の強制両替の金券が、まだ100ドル程残っている。
それに夜勤明けで日本を発って以来、バンコック、ヤンゴンと、朝の4時起きが続き寝不足がたまっていた。ここらでゆっくりもしたい。それには申し分ないホテルである。けれどミャンマーで48ドルはやはり高い。
そんな迷いの中、ロビーまで降りてきたのだが、「どうします」とカウンターで聞かれた時は、「泊まります」と言ってしまっていた。
実はまだそこにいた、先程のヨーロッパ人二人への見栄が、少々後押ししたことも、白状しておかねばなるまい。
そんな思いであったから、使わなければ損といった根性で、クーラーをつけていた。さすがに昨夜は止めて過ごしたが、時すでに遅しである。
風邪薬を呑んだのだが、どうも体が気だるい。それに自転車は、7時までに返さなければならない。私は寺院を出、パガンに戻るべくペダルをこいだ。
やはりわずかではあるが上り坂、なかなか前に進まない。おまけに、サドルに乗っけたお尻の痛みが、ますます無視出来ないものになっていた。
というのも、この自転車に30分程乗った頃から、気になりだしたのだが、よく見ると、サドルをとめたリベットの頭が、かなりふっくらと盛り上がっているのである。
このサドルは不良品だと思ったのであるが、ひょっとして、ミャンマーの人には、この程度の突起は、気にならないのかもしれない。
というのも、見ていると、彼らはあまり椅子のクッションを、気にしていないようなのである。先の5ドルのバスというのも、ゴッツイ木の板の座席であったし、食堂などの椅子も、全てと言ってもいいほど、板の椅子なのである。
街などの店番で、長時間すわっている人の椅子も、木の椅子である。勿論、高価な椅子は望めないとしても、座布団くらい作るのは容易なことであろう。
尻の肉の薄い私などは、骨盤の骨が、肉を突き抜けそうに思うのであるが、彼らはそうでもないらしい。
硬い木の椅子と、キュウトなお尻。店番の人はここに一日中座っている。 ヤンゴンのマーケットにて。 |
不思議に思って見ていたのであるが、どうやらミャンマーの人達は、男も女も、私などに比べると、格段に肉付きのしっかりしたお尻を、しているようなのである。
また彼らはよく、ロンヂー(腰巻)の後ろに、財布と思われるものをはさんで、歩いている。そんなことが出来るのは、治安の良いことを物語ってもいるが、もう一つ、ストンと下に落ちない体つきであることも、物語っているように思えるのである。
つまり腰の下で、肉のしっかりしたお尻が、それを支えているのではと。 私などのぺちゃ尻では、背筋を伸ばしでもしたら、落ちてしまいそうである。
例のお風呂の椅子のようなところに、ちょこんと座ってくつろげるのも、この自前のクッションと、関係があるのではないだろうか。
ともあれ私は、そうはいかない。こうなったら立ちこぎである。かなり必死になり、やっとホテル前の貸し自転車屋に着いたのは、7時ぎりぎりのセーフであった。
翌朝私は、空港までの馬車を予約しようと、その貸し自転車屋へ出向いた。明日はもうヤンゴンに帰らねばならない。
ところが、馬車はダメで、車だというのである。昨日聞いた時は、車はダメで、馬車だと言っていた。ちょっと危なっかしい。無理に頼んで、その時になってダメとなったら泡を食ってしまう。
私はもっと確かな所にたのもうと、引き上げることにした。と店の主人、ミャンマーにしては積極的に、私を追って通りへ出てきた。が、それがいけなかったようだ。
ちょうどポリスが通りかかり、なにやら彼に怒鳴りつけるのである。言葉はわからなかったが、どうやら彼は罰金か何かを取られるようであった。二言三言なにやら言って、しょげていた。
遺跡の所に、許可なくみやげ物を売ることを禁止する旨の、看板が立っていたことから推察するに、何か外国人に対するにあたっての、法律があるのかもしれない。
その時私は、戻って彼を弁護することなく、これ幸いと立ち去ってしまったのだが、そのことが今でも少し、心残りである。
どうやら、ミャンマーの人達が控えめなのは、そうせざるを得ない事情というのもあるようである。
パガンの西を、ゆったりと流れるイラワジ河(エーヤワディ河) |
ドタドタドタドタ…
10人程が私に向かって駆けて来る。何事か。私はバッグを引き寄せ身構えた。黄金のパゴダが、灼熱の太陽に照らされて眩しい。
ヤンゴン、シングッタヤの丘に、さんぜんと輝くシュエダゴォンパゴダ。この寺院はそれ自体でちょっとした街のよう。 |
私はヤンゴンのシュエダゴォンパゴダに来ていた。その紀元を2,500年も前に遡るというこのパゴダは、時代とともに拡張され、今では大小合わせて60余の塔に囲まれている。
南の入り口から、104段の階段を登ると、正面に高さ99.4mという大パゴダが、天を突き刺して立っていた。
境内は大理石が敷き詰められ、訪れる人はそこで履物を脱ぐ。勿論靴下も。暑いミャンマーのこと、かえって気持ちがいいと歩き始めたのもつかの間、床が焼けるように熱くて歩いていられない。
白い大理石の上はなんとかなっても、色物はもうダメだ。私は思わず影に飛び込んだのであった。それ以降、まるで子供の遊びのように、影から影へ渡り歩かねばならなかった。
私に向かって駆けて来た一団は、私の休んでいる影に飛び込むと、浮かぬ顔の私を見つめて笑っている。私も思わず笑いがこぼれてしまう。彼らも熱かったのである。どうやら、お尻の肉付きは違っても、足の裏は私と同じようだ。
行列の人も、熱くて走らずにはいられない。 |
ところで、日本のお寺や神社を訪れる人は、だいたい、お参りか観光の人に限られるようだが、ここミャンマーのパゴダは、いろんな顔で人々と付き合っているようであった。
熱心に祈る人の隣で、ごろんと寝転んでくつろぐ人、友人・家族で談笑を楽しむ隣を、厳かな儀式の行列が通り過ぎていく。
熱心に鐘に刻まれた経文をなぞる修業僧がいるかと思えば、スリーピングブッダの隣でいびきをかいている僧侶。このパゴダを見ていると、彼らと宗教との関係が、見えるように思えるのであった。
それは神を畏れ平伏するといったものでも、身を粉にしひたすら神への忠誠を尽くすといったものでも、或いはまた、ご利益をむしり取ろうとするものでもなく、膝の上に抱かれた猫が、そこで大きく伸びをして、寝返りを楽しんでいるような、そんなやさしい関係のように思えるのであった。
私もしばらくその仏陀の膝で、のんびりと横になっていた。
熱心に鐘の経文をなぞる修行僧の横で、ごろりとくつろぐ人々。パゴダは皆の憩いの場のようであった。 |
私がそのシュエダゴォンパゴダを後にした時は、もう陽もかなり傾いていた。ホテルに向かう前に、少し東のカンドーヂー湖も見てみようと、入場料4チャットとカメラ撮影料25チャット(0.25ドル)を支払って入ったのだが、中はどこを見ても、若いアベックばかりなのである。
そんな中、おじさん一人、カメラを持ってうろついているのも、だんだん気後れがしてきて、早々に引き上げてしまった。なんだか大変損をしたような気分でホテルに向かった。
帰り道、マンゴを買って、宿の近くの、ティュン・ニィエンさんの所に立ち寄った。歳は70歳を越えたくらいであろうか、昨夜宿の前で呼び止められ、彼の家の前で、例の小さな椅子に座って話をした。日本語を少し話す。
先の戦争での日本軍について話を向けたら、「ここビルマでは、日本軍は大丈夫」と言っていた。そんなに悪い印象は持っていないらしかった。
その彼が別れ際、板に張った切り張り細工の飾りをプレゼントしてくれた。けっこう手の込んだ作品である。またまた何故プレゼントされたのか戸惑ってしまう。このマンゴはそのお返しのつもりである。
マンゴはまだ少々時期が早いかなと言いつつ、喜んで受け取ってくれた。ところがしばらく話をして別れる時、今度はミャンマーの人が持つ、肩掛けカバンをプレゼントされる。
黒地にビーズの刺繍が施され、センスはいまいちかと思ったものの、かけられた手間の方は、かなりのものだ。
ちょっと会った旅人へのプレゼントとしては、立派過ぎる。やはり彼らは、我々とは少し違う面で、人と接しているように思えるのであった。
翌日午後の1時半、宿の主人の運転する車で空港に向かった。けっこう時間は正確で、夕方の6時過ぎにはタイの人となる。
日本への便は深夜の12時である。私はドンムアン(タイの空港)の列車の駅を越えたところにある、テント張りのレストランで、エビを食べて時間をつぶし、空港に戻った。
ところがこの頃から、次第に寒気がしてくる。空港のクーラーのきき過ぎかと思っていたのだが、飛行機に乗っても寒気は変わらなかった。
私の乗ったTG622便はJALとの共同運航で、スチュワーデスは日本人であった。通りかかったスチュワーデスに、もう一枚毛布をくれないかとたのんだのだが、「一人一枚になっていますから」とつれなく断られてしまう。
こういったとき、たいがいの国では、どこからか融通を利かせてくれるのだが、個人の要求より全体の決まりを重んじる、日本人気質といったところか。
私は仕方なく、土産に買ったロンジーを出し、体に巻いた。寒気は関空に着いても、おさまらなかった。
結局この熱は、夕方には40℃まで上がり、ビックリして近くの医者に、ふらふらになって駆けつけた。何か大変なものにでもかかったかと心配したが、抗生物質を呑むだけで、翌日は何とか、仕事に出ることが出来た。
悪かったのはあのエビだろうか、それともヤンゴンで食べた、油こってりの串揚げだろうか、或いは前日にパゴダで飲んだ生水か。
いずれにせよ、当たり前のすぐ隣にいる危険を垣間見せられたようで、改めて無事ということの有難さを、思い知らされたのであった。
第3章 ミャンマー 完