第2章 チベットを回って  《 第8部 中国 編 》
第1話 上海元気第2話 ゴルムドの乾いた空の下で第3話 バス、何と69時間
第4話 チベットの心、五体投地第5話 ラサと近代化第6話 峨眉山の迷い後
第7話 成都、年月の妙の住まう街第8話 強国富民第9話 大理の勤勉と五体投地
第10話 四方街の火にゆれて第11話 南の国シーサンパンナ第12話 避けえぬ道
第13話 桂林の絵の中で第14話 笑顔の陽朔第15話 黄山、ぼったくりの中で
第16話 南京に思う
―  その1  ―
第2章 チベットを回って
第1話 上海元気 No.127No.127

写真 一に図々しさ、二に図々しさ、それが旅のコツかもしれない。上海虹橋(ホンジャオ)空港からのバスの中、困るべきは私なのに、困っているのは車掌さんであった。

 行くところは、前回とは全然違うというのに、中国二回目と思うと、何だか緊張感が緩んで、締まらない。そのせいか、市内までのリムジンバスを探して空港前をうろうろしてみても、なんとも要領を得ない。

 私の都会度の定義からすると、上海ほどの大都会、誰でもスイスイと行動できるようになっていなければならないはず。そんなことを勝手に決めて、自分の不備を人のせいにし、ついついイライラする。けれど実は目指すホテルの近くへは、なんというバス停で降りればよいのか、その名前を私は知らない。

 それらしきバスの車掌さんに地図を見せたら、「延安路?」と聞き返された。とりあえず「そうだ」と言ってみたら、チンフェイカンファンと返ってきてしまう。

 「えぇ?」と聞き返してはみたものの、聞き取れたとしてもわかるはずがない。しばらくキョロキョロしていたが、エエィ面倒だと乗り込んでしまった。

 動き出してしばらくして、切符を切りに回り始めた車掌さん、私の乗っているのを気づくと、困り果てた表情で私を見つめる。けれどどうもいけない、彼女が困れば困るほど、何とかしてくれそうで、申し訳ないほど落ち着いてしまう。とんだよけいな仕事を背負い込ませてしまったのに。

 手帳を出し「請写一下(チン シェ イ シャ[バ])、通じたのはしぐさなのだろうが、少々ホッとした表情で、「925」と書いてくれた。確か925は人民広場行きのバスの番号。しばらくして下ろされたところで、メモを手にそのバスを待った。

写真  昔ながらの雰囲気も残る上海

 初めてのバス路線は、乗るのも大変だが、降りるのもまた一苦労。ましてや、下りるべきバス停名を知らないとなればなおさらである。窓の外をキョロキョロし、停まる度に情報を拾い読む。

 そんな目に「静安寺」なる文字が飛び込んできた。目指すホテルは確かその寺の近くだ。リュックをつかみ、急遽バスを降りる。

 工事中の道路の、烏魯木斎(ウルムチ)北路の文字は確か地図にあった通りの名。この点、漢字の国はありがたい。これがアラブの国だったりしたら、なんともならなかったことであろう。

 ところでこの道路、チベットをぐるりと回って帰ってきたら、すっかり出来上がっていた。上海はまさに日替わりの勢か。

大都会上海 写真

 翌日地下鉄に乗って、人民広場前に来た私は、目の前の高級ホテルのロビーに居た。ジャケット姿の私が不似合いであった為か、少々けげんそうに、けれどとても愛想よく、カウンターの向こうの女性は私を迎えてくれる。

 「このホテルに本屋さんありますか?」

 そう、暇つぶし用の本が欲しかったのである。何しろ次の目的地のチベットまでは、何日かかるかわからない。ラサへのバスが出ているゴルムドまででも、列車で約3日、正味で計算しても、55時間は列車の上。

 日本から持ってくれば良いようなものだが、なんとなく現地調達の楽しみを残してやってきたのである。

 〈英語の本が欲しければ、本屋ではなく、旅行者の集まるところへ行け〉これが、チリでガイドブックを無くした時の教訓である。それに、大きなホテルなら、英語も通じるだろう。

 そう思ってこのあたりをあたってみているのだが、残念ながら的外れ。外国書籍なら、少し南の福州路文化街があるから、そこを薦めるというのが彼らの一致した答えであった。

 仕方なくそちらに向かってみると、あるにはあったけれど、残念ながら全て中国で出版されたもの、しかもいわゆる「文部省推薦」の名作のみ。

 読みなれたペーパーバックのサスペンス小説といった輸入本コーナーは見つけることが出来なかった。何らかのままならぬ事情でもあるのだろうか、それとも私が探すところを知らなかっただけなのか。

 とにかく無いよりはいいと、「武器よさらば」を13.5元(約1.6ドル)で買って、ついでにバンド地区まで歩くことにした。

 「どちらへ行かれますか?」
 「バンドまで、ぶらぶらと」
 「じゃぁ、ご一緒しましょう」

  若い女性が日本語でそう話し掛けてきた。願ってもないこと。派手な看板の列に頭上を占領された、モダンな上海南京東路を、あつかましくも、すっかり気分はデートを楽しむ若いカップル。彼女の上手な日本語が心地よい。

写真  繁華街南京東路。正面向こうにかすかに突き出て見えるのが、川の向こう黄浦地区のテレビ塔、東方明珠塔。

 「近くに美味しい店があります。食事に行きましょう。」

 おやっ?誘う彼女が微妙に怪しげ。どうやら楽しい旅の出会いではなかったようだ。

 人間何事も、欲の出口が、敵の入り口。ここらが潮時と、とぼけて別れることにした。

 けれどまあ、〈欲も無ければ面白くない〉とも言えるかもしれない。そんな欲を、あたかも煽り立てているかのよう。上海テレビや、CCTVの英語ニュースは、上海の経済発展を、連日大々的に取り上げていた。

 何だか、見ていると、緊迫した戦況報告のようにさえ聞こえてきてしまう。まるで経済の発展に遅れをとることが、「敵」に負けることかのように。

 前回の北京でも思ったのだが、民主より全体に比重を置く体制が生き続けるには、なんとしても「敵」の存在が不可欠。その「敵」が、かつての日本軍から、徐々に経済競争や科学技術の誇示に移りつつあるのだろうか。

 けれど経済が発展し、ものが豊かになればなるほど、民主の欲求に強いる我慢を納得させる「敵」の姿は見えなくなるはず。それは同時に、一党独裁の長所を際立たせた、輪郭の消え入るところ。

 アヘン戦争以来、この黄浦江(フォアンプージャン)沿いで、中国近代の歴史をずっと見守ってきたバンド地区、これからどのような上海を目撃するというのであろう。

写真
租界時代の建物の残るバンド地区。黄浦江沿いは気持ちの良い遊歩道。
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第2章 チベットを回って
第2話 ゴルムドの乾いた空の下で No.128No.128
写真
明日を背負うゴルムドの子供達。それぞれの性格が素直に出ているようで…。

 「我是日本人、去西寧」
 そう書いて差し出した手帳に男は、
 「我也是去西寧」と書き込んで顔を崩した。

 どうやら彼も西寧(シイニン)まで行くらしい。さりげない一言が通じると、一挙にその場の雰囲気が変わる。「西寧まで行きます」 と口で言った時は、やはり通じなかったのだろう、少々けげんな表情だった彼も、既に仲間の顔。つられて向かいの母娘もその和に加わる。

 「リーベンレン」 そんな言葉が聞こえてきたから、私を紹介してくれたのだろう。彼女の目が挨拶をしている。

 上海から西寧までの約45時間、彼らとはほとんどまる2日を、顔つき合わせて過ごすことになる列車の上。「チベットまで行きたい。行けますか?」 さっそくそう書いて聞いてみた。

 ガイドブックによると、チベットへの個人旅行は原則として禁止されていて、入境許可証を得るには、旅行会社が主催するツアーに参加しなければならないという。

 だから外人に許された唯一の陸路の起点ゴルムドで、旅行会社のバスツアーに申し込み、数人集まるのを待って出発するとあった。けれどそのツアーさえ、許可されないことがあるという。

 成都から飛行機にすれば、結構人は集まるらしかったが、やっぱり陸路が魅力である。もしゴルムドで3日待っても、見込さえ見えなかったら、西安まで引き返そうと思っていた。1週間ほどのロスになるが、それでもやはり、陸路にかけてみたかったのである。

 「わからない」 手帳を見た彼は、そう言って首を振った。やはり答えはゴルムドまでおあずけのようだ。

 「英語は?」 そう聞いてみると、向かいのお母さん、得意そうに娘を指差した。

 上海で経営学と貿易を専攻しているというその娘さん、旧正月の休みで母の実家に帰るところだというのだが、その綺麗な英語は驚きであった。特別英語を習っているのかと聞いたら、そうでもないという。視聴覚教材の進歩した現在、日本の学生さんも、こんなに綺麗な英語を話すようになっているのだろうか。

 「正月レストランは開いているのですか?」

 たどたどしい私の英語で、そう聞いてみる。実はもう一つ気がかりなことがあった。それは一週間後に迫る旧の正月である。

 中国では旧正月の方を盛大に祝うという。もし店が全て閉まるようなら、食料の準備をしておかなければならない。

 「正月は、3日〜1週間で、ほとんどの店は営業しています。」どうやら大丈夫のよう。

 「ところで、野菜の多い料理を注文したい時、どう言えば…?」
 「そうですね…」

 時には男の通訳をして、時には母に相談して、楽しい4人の文化交流に、いつしか窓の外は闇の中。

正月用の提灯でしょうか、西寧の街で。 写真

 西寧でまた別の夜行に乗り換え1晩と半日、上海を出てから3晩を続けて列車で眠った4日目の、やっと着いた砂漠の新興都市ゴルムドは、広々と大きな空の下であった。

 ガイドブックに280元(約34ドル)とあったゴルムド賓館は、オフシーズンということで何と77元(約9.5ドル)。喜んで受付を済ませたものの、そんなオフシーズンで、チベット行きの仲間がいるのだろうかと、その心配もふくらんで、さっそくロビーの旅行社へ行ってみた。

 〈今はオフシーズンでダメです〉そんな答えを恐れながら、日本語の上手なマスターに切り出すと、「多分ですが、今は一人でも大丈夫でしょう」 と返ってきた。

 ラッキー!しかも1,660元(200ドル、ちなみに飛行機でも、運賃だけなら、ラサ・成都間、1,270元[約150ドル]だから、諸経費諸サービスを含んでいるとはいえ、かなり異常な料金設定)のツアー参加費は、これまたオフシーズンのため、1,380元(170ドル)でよいという。

 さっそく喜んで申し込んだのだが、あまり喜びすぎたのか、あくまで役所の許可が下りたらのことだと念を押されてしまう。

 けれどどうもニュアンスは行けそうである。私は3日間の列車の疲れも何処へやら、心も軽く、ゴルムドの街に出た。

写真
正月用の御札。右が、飾られた玄関先。

 正月準備でにぎわうゴルムドの市場には、いろいろな赤い御札を売る屋台が並ぶ。日本のしめ縄のように、正月の玄関先を飾るのだろう、来る年の福を願って。

 そんな人ごみを東に抜けると、回族の人達だろう、白い帽子の男達が、「鮮鶏店」と看板が掲げられた広場の一角の、無造作に置かれた台の上で、ニワトリをさばくのに余念がない。

 周りにはむしられた羽根の山。が、その横では、次は己のニワトリ達が、籠から伸ばしたその首で、せっせと餌をついばんでいる。なんと…。

写真
セッセと餌をついばむニワトリたち

 多かれ少なかれ、我々の運命もこんな光景なのだろうか。

 まぶしく光り踊る、ゴルムドの冷たい風。黒く煤けた鍋から、立ち昇っては消える白い湯気。その鍋から取り出された裸のニワトリの、垂れ下がる白い首。それを知ってか知らずか、横の籠で、無心に首を上下の、ニワトリ達の食欲の凄まじさ。

 ひょっとして、明日がどうなるかを、我々から隠したのは、最も素晴らしい神からの贈り物なのかもしれない。それを夢いっぱいに描ける白地でやさしく包んで。

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第2章 チベットを回って
第3話 バス、何と69時間 No.129No.129
写真
 チベットのラサ、ジョカン(大昭寺)の回りのバルコルの巡礼。着ているのは、チュパと呼ばれる袖の長いチベットのドテラ。だいたい片肌脱いで着る人が多い。

 〈あれっ、あれれ、あれれれ、倒れていくぅぅ…。〉

 あわてて伸ばした手はバスに届いたものの、まるでスローモーションの映画のように、そのままズルズルと傾いていく体を止められない。

 〈あれっ…、あれ、れれ…〉

 横の男があわてて抱き止めてくれた。

 おかげで地べたまで倒れこむのは免れたものの、抱えられた腕の中で、まるで操り人形のように足が定まらない。

 「OK、OK、ありがとう」

 あせりながらそう言って、バスに背をベタリともたせかけ、今にもカクンと曲がってしまいそうな膝を必死にこらえて、大きく息を吸ってみる。鼻先を切るような冷たさが、鼻筋を通って目の下まで突き刺さる。

 空には、こぼれんばかりの星が瞬き、空き地の先のスス汚れた窓ガラスには、「炒菜 米飯 羊肉」の文字が、赤いストーブの光に染められてうかんでいる。その中へ、ドテラ(チュバ)の片袖をダラリとたらした男を先頭に、バスから降りたチベットの家族が、ゆっくりと吸い込まれる。

 チベットへのバスの第一夜、いったいこの体に何が起きたというのだ。少々頭は痛いが、アンデスで味わった脈打つような高山病の痛さではない。だとするとどこが…?

 そう言えば小便が全然出なくなっている。午後の2時、ゴルムドのバスターミナル前で、うどんを食べた時以来、水は控えていた。なんといってもトイレのままならぬバスの旅、よけいな我慢はしたくない。

 けれど明るいうちは、バスが止まるたびに不思議なほど良く出た。ところが日が暮れる頃から、これまた気持ち悪いほど、ピタリと止まってしまっている。思えばそれからも水は飲んでいない。

写真  度々止まって、トイレタイムの心配はまったくなかったのだが…

 私は、フラフラになりながらゴールした、ロス五輪でのアンデルセン選手の映像を思い出していた。脱水症状なのだろうか?けれどこうも急激に症状が現れるのだろうか?どうも今ひとつ信じられなかったが、とにかく水を飲もうと、はうように席に戻った。

 ところが、ナップサックから出した、用意のペットボトルは、3本とも、ガチガチに凍ってしまっているではないか。なんとも不覚!ペットボトルの中でしっかりと凍ってしまった氷は、まるで用をなさない石の塊。未練たらしく直径2cmほどの口元を、尖らせた舌でチョロチョロ舐めてみても、ただただ冷たいのみ。まさかバスの中でこんなに凍るとは…。

 けれど幸い、立っていられないだけで、どこも痛いというわけではなかったので、そのうち何とかなるだろうと、そのまま汚い布団にくるまった。

 この布団、バスに乗り込んだ時は、きちっとたたんであったとはいえ、その汚さに辟易した。チベットの人達の着ているドテラを見ると、彼らには、洗濯という習慣がないのではと思ってしまうのだが、この布団もそれに負けない。

 けれどあまりの寒さにくるまっていると、そんなに汚いとは感じなくなっているのも不思議である。

 ところで、アジアのバスといえば、ギュウギュウに詰め込まれるのが相場だが、ありがたいことにラサまでのこの寝台バスは、オフシーズンということもあるのか、乗客はチベットの家族の他は数人で、席は2人分を一人で占領させてくれる。布団も二人分で暖を取る。

 顔は深々とコートのフードをかぶる。このフード、風も防いでくれるが、顔にあたる布団の汚れも気にならなくしてくれて、大変便利。ただ、鼻や口がなんとも冷たく眠れないので、タオルをマスク代わりにし、これでOK。

写真  ゴルムドからラサまでの寝台バスの中。旅行会社によるとだいたい35時間ぐらいと言っていたのだが…

 何時なのだろう、目が覚めればバスは、闇の中に止まっている。どうも故障のようだ。このバス、度々故障して、小休止は頻繁にある。

 手摺りを伝ってバスの外に降りてみた。ダメだ、よりひどくなっている。ちょうどぐるぐる回転して目が回った時のように、脳の中が、どんどんと止めどなく倒れていく。やはり水を飲まなければ。

 けれどボトルの水は凍ったまま。一時布団の中に入れてはみたものの、せっかくの布団、氷を抱いていては寒くてたまらない。

 そうだ、みかんがあった。ナップサックから取り出したみかんとりんご、喉を鳴らしてぺろりとたいらげてしまったのだが、その味のとても美味しかったのは覚えている。

 そう、それは記憶している。けれどその後が思い出せない。

 確か昨日はまる一日、バスの中で過ごしたような気がするのだが、はたしてその一日が、あったのやらなかったのやら…。

 私は目覚めたバスの中で、そんな記憶をたどっていた。白みかけた空の下の、ただ広いだけの殺伐とした広場の端の小屋からは、立ち昇る煙が見える。ここは何処かのドライブインだろう。行ってみよう。

写真
 どのあたりだったのでしょう、3日目の朝、目が覚めたらバスは大きな広場に止まって、運転手は下にもぐって、私はまだふらついて…

 そう思って靴を探した足元に、空のボトルが転がっている。それでも少しは水を飲んだようだ。

 立ってみたら、まだふらつくものの、何とか歩ける。その足で、皆のいる食堂までたどり着き、朝飯にと注文したそのうどんの2・3本を口にしたのだが、その辛さに急に胃袋が踊りだし、吐きそうになってしまう。

 やっぱりまだどこかがおかしい。食べるのをやめにして、お湯のお変わりをし、ゆっくり胃袋を落ち着かせた。

 隣の雑貨屋の棚の上には、凍っていないミネラルウオーターのボトルがあった。さっそくその3本を買い、久しぶりにゴクンゴクンと喉を鳴らす。

 目が覚める、時計は1時。けれどバスは止まっている、朝の広場に。運転手と助手は車の下にもぐって修理に余念がない。

 2時、ようやく動き出す。けれど広々としたその広場でのUターンに、10回ほどもハンドルを切り替えしている。しかもそのたびに「ウンショ、ウンショ」と掛け声を掛け合って、2人してハンドルを回して。

 エンジンの故障なら止まるだけだが、ハンドルやブレーキの故障では、たまらない。チベットの谷間へまっさかさまなどという記事のねたにはなりたくない。そんなことを思ったのだが、いつしかまた眠ったようだ。

 目が覚めた。バスは闇の中で止まっている。チベットの家族連れが出て行くところである。どうやら言い合いをしているところを見ると、このバスに見切りをつけたようだ。出来ることなら私も彼らについて行きたい。

 それにしてもこんな真夜中に…。一人の女性が必死に止めているようであったが、彼らは悠然と闇の中へ消えていった。

 ところで、どこかで肉汁を食べたような記憶があるのだが、あれはいったい何時のことだったのだろう…。

 目が覚めた。バスは明るい中を走っている。また1日巡ったのだろう。いったい今日は何日なのだ…。 

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第2章 チベットを回って
第4話 チベットの心、五体投地 No.130No.130
写真
ラサ、ジョカンの周囲、バルコルの巡礼。

 「ギェッ!」

 突拍子もない声を上げ、柱にしがみついた。巡礼の人でにぎわう、ラサ最大のお寺ジョカンの薄暗い境内、まわりのみんなが注目している気配はあるが、それどころではない。

 顔はゆがんだまま、息は止まったまま、体は傾いたまま、全神経を腰に集中し、徐々に徐々に体を立てる。そしてやっと息をする。

 ゴルムドから、バスで69時間、ラサのターミナルに着いた時は、脱水症状と思われるフラフラは、何とか回復していたのだが、腰のところで少し折れたベッドに、ほとんどまる3日、同じ姿勢でへばりついていたためか、ミリミリと腰が痛み始めていた。

 それを大事に大事にしていたのだが、時がたつにつれ、まるでひび割れが進行するように、痛みが深くなってくる。

 それがほんの20cmほどの敷居をまたごうとしたその一瞬、まるで脳まで電気が流れたかのような激痛となって突き抜ける。一難さってまた一難である。

 背骨を一切傾けず、そろり、そろり…。骨ではなく、筋だろうと思えることは、唯一の救いではあったが、せっかくのラサなのに、腰にばかり注意がいってしまう。

 そんな思いで、出てきた寺の正面では、チベットの人達が、所狭しと自分の場所を確保して、五体投地に余念がない。

写真 ジョカン前の五体投地

 一般に五体投地というと、体を大地に投げ出した身の丈だけ前に進むのであるが、ここではその場で足踏み状態。

 余談にはなるが、私はあのダイエット用のランニングマシンなるものが、どうも納得いかない。歩いたり走ったりするのは、移動する為との思い込みが抜けず、あのぐるぐる巡る板の上で、ただただ汗を流すというのは、頭ではその合理性を理解できても、何だか本末転倒のように思えて、気持ちが乗らない。

 そんな気持ちの延長からか、前に進まないこのジョカンの五体投地も、何だか少し本物ではないように思えてしまったのだが、それは不信心者の思うことなのだろう。

 老いも若きも、男も女も、そんな気持ちなど微塵も見せず、倒れこんでは起き上がり、倒れこんでは起き上がり、すっかり入り込んだ祈りの世界で、我々の見えぬ何かに余念がない。いったい何をそんなに祈るのか…。

 真剣な人達の横での興味本位の見物は、少々悪いようにも思えたが、何だか立ち去りがたくてじっと見ていると、その世界が、ああして欲しい、こうして欲しいと、我々がよくわずかばかりの賽銭と引き換えに思うような、欲の皮の突っ張った願い事の世界ではないように思えてくる。いやむしろその逆のように。

 人の心は、何かをセッセと行う時、気持ちの揺れから逃れることが出来る。そのセッセが厚ければ厚いほど、不安は向こうに追いやられ、こちらの世界は安定する。例えば日本のお百度参りというのも、願い事への不安をかき消す為の、このセッセの行為なのではないだろうか。

 だとすると、彼らの五体投地は、この厳しいチベットの大自然の中で、なんともちっぽけな人という存在が、しっかりとその生きている「今」に根を張る為のそのセッセ、つまり彼らの精神の形なのではないだろうか。

 おそらく、いくら富を集めても、いくら権力を集めても、このチベットの天と地の狭間では、なんとも頼りないものに思えたに違いない。

 そんな中、五体投地という過酷な祈りの形態をもってはじめて、そこに生き抜く精神を造り得たのではないだろうか。

 ここラサのポタラ宮殿には、千にのぼる部屋があるという。それを確かめたわけではないが、その入り組んだ構造の中には、多くの仏像が安置されている。

 一応ツアーということなので、初めの3日間、私を案内してくれた、ゴルムドの旅行会社と契約しているチベットのガイドさんは、さかんに各部屋を説明してくれていたが、不信心な私などには、どれも皆同じに見えて、どれかを代表で祈ればいいように思えてしまう。

 けれどチベットの人達にはそうではないらしい。その一つ一つに心を込めて祈って回る。腰が痛いこともあって私などにはまるで「苦行」。けれど彼らにあっては、その「行(ギョウ)」にこそ、仏のご利益が宿っているかのようだ。

 そのポタラの宮殿を下りれば、ぐるりと回る小道が、宮殿の建つ丘を一周している。正面の大通りも含めれば、おそらく1kmは越えるだろう。

 歩いてみると、その道筋にも、マニ車がずらりと取り付けられている。マニ車とは、それを回すことによって、お経を唱えたのと同じ功徳があるというもので、人々はそのマニ車を回しながら一周する。

 何事もそれを「行」に仕立てずにはいられないのがチベットの世界であるかのように。

写真 ポタラ宮の建つ丘の周りに取り付けられたマニ車の列を、廻しながら巡礼するチベットの人。

 このジョカンの周りもそうだ。商店が所狭しと建ち並ぶ、バルコル(八角街)と呼ばれる周辺道路も、ぐるぐると右回りに歩く巡礼路、五体投地で進む人もいる。ここにも「行」が用意されているのである。

 みんなと一緒に、私もバルコルの巡礼に混じる。右回りの流れに乗って。チベットの女性たちの黒髪を飾る、青いトルコ石の並ぶ横には、古い仏具が並んでいた。

 チベット記念に何かをと思っていた私は、古い鈴(鉢?)を35元(約4ドル)に値切って買った。本当かどうかは知らないけれどチベットの人が使っていたものだという。

 「り〜ん」

 透き通るような澄んだ音が、長い尾を引いて、ラサの青い空に消えた。敬虔なチベットの人々の心の音色のように。

写真
ポタラ宮とラサの空
  Top 旅・写真集 Lasa [2]
第2章 チベットを回って
第5話 ラサと近代化 No.131No.131
写真
独特のスタイルで問答修行する、ラサ、セラ寺の修行僧。

 「間違っていたよ、明日正月だ、忘れていた。」仲間と話していた彼は、近づいた私に、そう英語で言って、笑って見せた。

 庭に集まった若い僧たちが、小豆色の衣を肩まではだけ、座る受け手に独特のポーズで問答を投げかけるセラ寺の午後。

 確か日本の暦で調べたら、旧の正月は24日となっていたはず。それなのに、昨日彼は明明後日だと言う。日本の暦と少し違うのだろうかと、納得がいかなかったことである。

 春節として、日本での正月のように祝われるという中国の旧正月、それを間違えるとは…と、妙に思ったが、むしろそこに彼の気骨がにじんでいるように思えてくる。

 チベット人の彼、ラサに着いた第一日目、まさかガイドが付くとは思わなかった私が、一人で街に入り、宿を探していたそのキーレイホテルで、私の名を呼んだ。

 「どうして私の名を…?」ときょとんとしていると、旅行会社の者で、バスが着いたというから、ターミナルへ迎えに行ったのだが、私が見当たらず、泊まりそうなホテルを探していたのだと言う。

 「遅かったですね、3日待ちましたよ。」と顔を崩した。とても親日的。

 けれどどうも中国を、あまり良く思ってはいないらしい。案内の端々に「中国が来る前は…」と以前の説明を入れ、表だっては何も言わないものの、チベットの誇りを胸に秘めているようであった。

 そんな彼、「旧正月なんて、チベットには関係ないよ」とでも言いたかったのではないだろうか。

 どうもそんなことを感じているのは、彼だけでもないようであった。

 大晦日にあたる23日の夜も、各所で爆竹は鳴らされていたものの、「中国最大のお祭り」という、ガイドブックの記述から想像されるほどのものではなく、夜の12時を過ぎると、ホテルの回りはいつもの静けさに戻っていた。

写真 旧正月の大晦日、ならされる爆竹に耳をふさいでおおはしゃぎの漢族の子供達。

 明けて旧の元日も、目だって店が閉まっているというのでもなく、私のいたチベット地区は、ほとんど日常どおり。そんな街の様子が「チベットはチベット」と、人々が心の中で確認しあっているように思えてしまう。

 けれどそんなラサにも、確実に漢民族の近代化の波が押し寄せている。

 あのラサのシンボル、ポタラ宮も、実はとてもチベットらしからぬ景色の中に建っている。周りを公園に囲まれて、少しは雰囲気を守ってはいるが、西からカメラを向けると、近代都市の雰囲気に囲まれて、なんとも色あせて映ってしまう。

写真
ラサは東西で、チベット族と漢族のエリアに二分されている。西の漢族のエリアは、近代的な建物も多く、同じラサとはとても思えない。写真は漢族エリアからのポタラ宮の姿。

 思うに経済発展というのは、基本的には人間の欲に立脚しているもので、一般的に言って、宗教とは相対立するものを孕んでいるとは言えないだろうか。前者は個から世の中を見ようとし、後者は個を越えたところから語ろうとする。

 極端に言えば、無節操、無批判に富に執着する者こそが、経済戦争を勝ち抜くとも言えよう。そんな中、宗教は、それが何教であれ、欲の衝動には、何らかの制御を試みる。それは人の道に反すると。

 私がそんなことをはじめて思ったのは、エジプトからギリシャを経てトルコに渡った時であった。同じイスラムの国であっても、政治経済を宗教から一定程度切り離したトルコは、経済発展という点では、エジプトとはかなり雰囲気が違っていた。

 そんな目で見ると、日本が、明治維新から戦後の復興へと、めざましい発展を遂げ得たのも、日本人の《どちらかというと宗教的にあいまい》という傾向に関係はしないだろうか。

 中国、漢の人達も、そんなに宗教的には厳しくないようである。欲を満たすべく富を集めることは、褒められこそすれ、批判の対象になろうなどとは、夢にも思わぬといった勤勉さである。

 けれどチベットの人たちは少々違うようだ。富より大事な価値を持っているのだろう。少しでも多くを稼ごうと動き回る時間を、五体投地に捧げて、生きる意味を汲み取っているように見える。

 だとすると経済格差は益々広がるのではないだろうか。そしてそれは同時に、経済発展を我慢への切り札とする、今の政治の流れとも溝を深めることになりはしないだろうか。

 何だかそこに、チベットの人達のジレンマがあるように思えてくる。政治的には益々乖離しつつも、経済的には益々依存してしまう現実。

 ガイドの案内してくれる3日間が終わり、1人でもう一度行ったデプン寺への道、見事な並木が、道路わきに何本も無惨な姿で切り倒されていた。

 その先では、人民軍姿の7、8人がむらがって、さらにもう一本なぎ倒そうとしている。道路の拡張工事である。まだまだ充分広いように思えるのだけれど。何だかチベットがなぎ倒されていく姿のように思えてしまう。

 はたしてこの先、ここチベットで、宗教原理が何らかの形で巻き返すことがあるのだろうか。それともこのまま富の魅惑の力を借りて、経済原理が、徐々にそれを蚕食してしまうのだろうか。

 ミニバスはうなりを上げて、デプン寺への坂を登っていた。

写真
 最盛期には10,000人の僧侶が居たというデプン寺なのだが…。
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第2章 チベットを回って
第6話 峨眉山の迷い子 No.132No.132

 成都の空は、上から下まで、重い灰色であった。透き通る青空のラサから来ると、いかにも悩み多き人間界に下りてきたような気分になる。

 ゴルムドからラサへのバスは、69時間もかかったのに、直線距離ではそれより遠いはずの成都までが、飛行機ではなんと2時間。

 朝の9時過ぎ、ラサの南約100kmのクンガ空港を飛び立った中国西南航空公司4402便は、出された食事も忙しく、お昼前には成都空港へと降下をはじめていた。

 とても楽ではあったが、何だかとても残念でもあった。まあ、その人の好みにもよるが、やはり旅は低くを行くほうが面白い。

 けれど時間の節約にはさすがに文明の利器。成都の北駅に着いてもまだ12時になったばかりなので、その足で峨眉山まで移動することにした。

写真  峨眉山山頂の金頂、標高3,077m。雪とツララの世界。残念ながら仙境を思わせると言う雲海は見えず。

 中国4大仏教名山の一つ、古くから仙人の住む山と讃えられる峨眉山。駅前のターミナルで誘われた旅行会社の女性に、ガイドブックのカタカナどおり、「アメイシャン」と言ったら、「オメイシャン」と返ってきた。

 その女性に言われるままにバスに乗り込み、下りた峨眉山市では、待っていたホテルの呼び込みにおとなしく従って、その車に乗り込むことにする。ハイハイハイとお金を払わされた気もするが、ポンポンポンと峨眉山ふもとのホテル街まで来てしまう。

 フロントで手続きをしていると、英語を話す女性があらわれ、いろいろ案内をしてくれる。どうもホテルに雇われている様子でもなかったから、フリーのガイドだったのだろうか。

 それとも町で雇っているサービスだったのか、とりあえずの質問がなくなった頃、新しく来た客でも見つけたのか、あるいは稼げそうな人を見つけたのか、「Excuse me.」と、遠くを目線に席を立った。

 さすがに中国を代表する聖山の一つ、外人への気配りも整っているのだろう。言葉が通じれば、旅はがぜんしやすくなる。

 通じない、その言葉が通じない。どうしましょ。

写真  峨眉山頂上から、ロープウエー口の駐車場まで、下りで1時間半。買った草鞋を靴に縛り付ける。草鞋そのものは結構すべり止めになるものの、しっかり靴に固定できないのが難点。写真は籠に担がれて登る人。後ろ向きに座ればと思ったのだが…。

 標高3,078m、雲の上の峨眉山山頂へは、日の出前にも着くようにと、未明にバスは出発する。目覚ましは4時半に合わせていたのだが、起きた時はもう5時45分になっていた。

 あわてて支度を整えて、向かいの交通賓館(ホテルかと思っていたら、なんとバスターミナル)に駆け込み、切符を買って待ち受けるミニバスに飛び乗った。

 家族連れも含め、15人ほどを乗せたそのバスは、1時間ほど、真っ暗な淋しい山道をくねくねと登って、大きな駐車場に乗り入れた。

 「標高2340mの雷洞坪まではミニバスで登り、頂上の金頂まではロープウエーがある。」そう彼女も言っていた。ここがその乗り場だろう。

 まだ正月休が続いているのか、既に10台ほど同じバスが止まり、下りた乗客が、建物の入り口に群がっている。私もその中に混じり、並んで入った中では、写真を撮られ50元(約6ドル)を支払わされる。

 さてこれで、次はロープウエー待ちかと、そのまま出口を出ると、そこにはゴンドラではなくミニバスが横付けされていた。

 乗り口までこれで移動するのだろうか?そう思ってステップに足をかけると、中の車掌に止められてしまう。

 「どうして?」

 「●×▲□…」判らぬ言葉でさかんに説明してくれているその女性、スッキリと涼しい顔立ちではあったが、目が鉄のように堅い。

 その目に押し戻される私の横を、1人、2人、中国の人達が、ミニバスの明かりの中に消えていく。

 「ガチャン」冷たくドアがしめられ、目の前の景色は、闇のアスファルトに変わる。

 どうして?

 続いてすべり込んできたバスには、運転手と車掌以外は誰も乗ってはいなかった。一つ遅れたけれど、このバスの方が楽かも。そう思って入り口に片方の足をかけると、またまた、車掌に行く手を塞がれてしまう。

 「●×▲□…」

 建物から出て来た乗客は、次々と私の横をすり抜け、温かそうなバスの中へと消える。 

 《ええい、乗ってしまえっ》かまわず強引に乗り込もうとすると、体を張って阻止する彼女。

 どうして? どうして?

 ドアが閉められ、エンジンの音を闇に残して、またまたバスは走り去る。

 どうして? どうして? どうして?

 あたりを見回すと、警備員か、あるいはバスの誘導員か、制服を着た男が立っていた。

 「峨眉山に行きたい」近づいてそう言うと、やはり言葉は通じなかったが、バスの番号を指差した。どうやら乗ってきたバスに乗れという意味らしい。

 「えっ!」と思ってしまう。

 お金を払ったこともあり、ここで今までのバスはもうおしまいと、完全に気持ちは次に移ってしまい、降りたバスなどすっかり頭の中から消え去っていた。

 けれどここは、ロープウエーの乗り場ではなく、峨眉山へのチェックポイントで、バスはそのためにちょっと降りただけだったようだ。

 けれど今さら乗ってきたバスと言われても、この闇の中、しかも、あわてて飛び乗ったバス、その上、皆同じデザインのミニバス、それが10台を超え、次から次へと到着し、次から次へと去っていく。

 《わからんわ、どれがどれだか》

 今までも途方にくれたことは結構あったけれど、この闇がいけない。それに片言も通じないというのは、その闇を鉛のように重くする。その上、みんなが流れに乗って次々と去っていく中、私ひとり取り残されるというのは、なんとも惨めな光景。夢であったら覚めてもらいたい。

 《もうっ、やぁ〜んぺか!》

 何だか腹立たしいような、泣きたいような、やけっぱちな気持ちでそうつぶやく。それにしてもこんな山中、歩いて帰るとでもなったら、おそらくただただ歩いて、1日仕事。

写真  峨眉山なかほどの清音閣。水墨画の中に入ったような…。

 そんなことを思いながら、とにかく気を静めて次の手を考えようと、人ごみを離れた時、一人の女性が駆け寄ってきた。

 車掌さんである。私の乗って来たバスの車掌さんである。私を見つけて喜んでいる。

 私は良く覚えてはいなかったのですが、さすがにプロ、彼女はしっかり覚えていてくれて、何処へ行ったのかと、探し回っていたようなのです。

 「シェイシェイ(謝謝)、シェイシェイ」

 もう、嬉しかったですね。

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第2章 チベットを回って
第7話 成都、年月の妙の住まう街 No.133No.133

 「ホテル、イ パイ イエン(百元)」

 リュックを背負って歩く私に、2人連れの男がそう声をかけてきた。

 峨眉山から戻った成都北駅前、ラサから来た時にはただ通り過ぎただけだったけれど、一度見てある景色というのは、ぐんと気分もリラックスするもの、そんな気持ちも手伝って、着いて行ってみることにした。

写真
 成都駅近くの通りに並ぶ、うどん屋さん。高級なところは知りませんが、成都で食べた小吃はとても美味しくて。

 入ったホテルは、駅からそう遠くないビル。エレベーターを降りて見せられた部屋は、南向きの窓も大きい。

 「本当に100元(12ドル)?」

 ガイドブックでチェックした成都のホテルは、一番安くても150元はする。この部屋で100元は文句ない。

 ところがどうも様子が妙だ。手続きをしに受付に行こうとすると、私が代わりにしてきてあげるからお金を渡せという。そんなこと出来るわけがない。会ったばかりの男に100元を渡す人などどこにいるだろうか。そのままドロンされても、誰も同情さえしてくれまい。

 断ってエレベーターで下りると、彼らも後を追って来て、先回りしたカウンターで、何やら言って係りから用紙を受け取り、私をロビーのテーブルへとさそった。過ぎる親切。

 そう思ってみていると、その用紙に書き込んだ名前は、中国人名。

 「大丈夫、大丈夫」
 名が違うと言う私に、そう言って取り合おうとしない。

 意味がわからなかったが、納得がいかず、止める彼らを振り切って、カウンターに行って、用紙をくれと言うと、少し困った顔のお嬢さん、彼らをチラッと見ながら、カウンターの下から出して見せたビニールに覆われた紙には、「このホテルは外国人の宿泊は許可されていません」と英語で書かれていた。

 そういうことだったのである。

 どこの国でも、規制のあるところ、それを利用すれば、ぼろい儲け口があるということか。おそらく中国人料金はもっと安いのだろう。

 彼の名義を借りてここに泊まれば、彼らも儲かり、ホテルも儲かり、私も良い部屋が安上がり、3者3得で、いたって平和のように思えたが、もしものトラブルを心配して、そこはやめにした。

 結局ホテルは、駅近くの成都大酒店、3ツ星なのに150元(18ドル)。

 そのホテルのだいたい反対側、成都市の中心、天府広場をやや西に越えたところに、あの三国志で名高い、劉備玄徳と、諸葛孔明を祀った武侯祠(ウーホウツー)があった。

写真 武侯祠の古木。どれだけの年月を生き抜いているのだろう。ところで、こういう造形の美しさを、花壇の文化の人は、どのように感じるのだろう。

 私が三国志の世界に初めて出会ったのは、吉川英治の小説でであった。友人から借りて読み始めたその小説は、なんとも難しい登場人物の漢字の名前を、やっと覚えたと思ったら、もう次のページで死んでしまうといったもの。

 だいたい小説というと一人の主人公を巡っての展開というのに慣れていた私は、そのスケールの大きさに驚いた。何だか無理やり天の目線でこの世を見せられたかのようで、人というものの、儚さというよりもむしろ、100年、200年といった年月さえも、決して止まらぬ時間の前には、瞬きの間にさえ等しいように感じたものである。

 石壁でぐるりと取り囲まれた、10mほどの高さの盛り土の、劉備玄徳の墓を巡っていると、その時の気持ちが蘇ってくる。

 我々にとっては遠い遠い昔のように思える彼らの時代、けれど果たして彼らの熱い思いと、我々の間に、いったいどれだけの隔たりがあるというのだろう。

 いや、100年や200年なんて、それどころか1000年も2000年も…。

 そんなことを言いたそうに、武侯祠から南バスターミナルに向かった私の横で、南川はせせらいでいた。

 成都の平原を潤す多くの川々、そのほとんどは、約60km北の、都江堰(ドゥージャンイエン)の恩恵に今もあずかっているという。

 その都江堰、中洲によって岷江の流れを外江と内江に分け、増水時は、飛沙堰を越えて再び本流にあふれた水が戻るという見事なしかけ。工事が始まったのは、何と紀元前3世紀のことというから驚きである。

写真
都江堰。正面に流れ込む水が、今も成都平原5,300平方kmを潤す。人々の歩いているところが飛沙堰、増水時にはここを超えて水は右手の本流に流れ込み、成都を洪水から救うという。そんな仕掛けが、紀元前と言うから、驚きである。

 吊橋を渡った東岸には、工事の指揮をとった李親子が祭られていた。どうも中国では、紀元なんて物差しは短すぎるようだ。

 何だかこの国の歴史を旅すると、時間は流れているのではなく、大海のように常にそこにあるように感じてしまう。

 「日々是好日」成都の街の北の禅宗寺院・昭覚寺で修行したという、円悟の編纂した「碧眼禄」には、時間の妙を看破した雲門の、そんな言葉が収められている。

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第2章 チベットを回って
第8話 強国富民 No.134No.134

 「強国富民」そんな文字が、何だか場違いのように思えてまぶしい。

 成都から列車で24時間と30分、昆明が近づくにつれ、次第に多くなったトンネルをくぐっているうちに、成都では久しくお目にかかれなかった太陽が顔を出し、並行して走るようになった真新しい高速道路の上の、滑るように走る一台の車を輝かせている。

 だいぶ南に下ったせいだろう、2月もなったばかりというのに、日本の花見の頃を思わせる暖かさ。

 そんな陽気の昆明の、駅を背に伸びる目抜き通りは、スッキリした近代的な建物に囲まれて、ゴミ一つ見当たらない。ラサ、成都と回った私の目には、一際あか抜けて映る街。

写真  昆明の店の看板。私はこの文字の崩し方がとても気に入って、昆明の人々のセンスのようなのを感じてしまったのですが、はたして皆さんは…。

 宿はその大通りを少し歩いて、駅から15分ほどの昆湖飯店。下で温泉が湧いていると客の一人が言っていたが、シャワーに洗濯に洗面台にと、いたってお湯が豊富なのは嬉しい。なのにテレビつきの個室が、何と60元(約7ドル)。

 けれど一つだけ落ち着かないことがあった。それは共同トイレが中国式。旅で出会った女子留学生が、名付けてそう呼んでいると言っていた「ニイハオトイレ」。

 壁を横手にしゃがむ前後は、胸の高さほどのつい立で仕切られてはいるものの、その他はオープン。まさに横を通る人と目が合いでもしたら、「ニイハオ」とでも挨拶せねば、なんとも所在無い気まずさだろう。

 かと言って、別にじろじろ見る物好きもいないのだから、どうということもないのだけれど、どうも落ち着かない。習慣の違いというか、文化の違いというか。あたりまえと思い込んでいる我々の感情も、一つの文化の特徴だったのかと気づかされるところである。

 そんな違いをツアーで行った石林風景区でも感じてしまう。

写真
石林。針山の地獄絵を連想してしまいました。

 昆明の街から100km程の所にある、この石林は、無数の岩が、天に向かって鋭く尖って、まさに絶景。まるでこの世の針地獄に迷い込んだのかと思わせる、その荘厳さに目を丸くするのだが、足元を見ると、どこもきちんと舗装されている。

 別にそれが悪いということではないのだが、何だか人工のテーマパークを歩いているように思えて、自然の神秘性が、色あせて見えてしまう。

 もっとも、あたり一帯に50以上点在するこの景観をすべて見て回るには、1週間はかかるというから、私の行ったリーズー(李子)チン石林は、そのほんの一つなのだが、達磨洞でも思った、自然を公園にしてしまうエネルギーは、どうも好みが合わないようで、なんとも私には残念なところ。

 そんな少々がっかりした気分の帰り道、バスは満福寺なるお寺に立ち寄った。私にとってはあまり関心のないおまけ。ひょいひょいと見て回って、バスに帰ったのだが、戻ったのは私ひとり。15分も歩けば充分一回り出来てしまう境内なのに、しばらく待っても、いっこうに皆は戻って来ない。

 いったい何をしているのかと、イライラして戻ってみたのだが、どうも中国の人達は、先ほど石林で買った装飾品を、縁起良いものにするために、このお寺で祈祷のようなことをしてもらっているらしい。

 これは別に中国にかぎったことではないけれど、客を喜ばせようといろんなところに寄り道してくれるのは、ツアーの嬉しいサービス。けれど価値観が違うと、それは単なる道草、時間のロス、故障で止まっているのと変わりがない。

 「エエィもう、早くせんかい!」と心でつぶやきながら、もう一度回ったお寺の軒先に、その帳面は置かれていた。なんだろうとめくってみると、訪れた人々の願い事が書かれている。

「家族健康」「学業向上」「事業成功」「婚姻成就」「平平安安」…、全部で50は超えるであろうその願い事は、そういった意味あいの文字で埋まっていた。

 中国というと、「毛沢東語録」「紅衛兵」等の印象の強く残る私なのだが、もしあの頃なら、「革命万歳」とか「造反有理」なんていう文字で埋められていたのであろうか。

 いやいやきっと、お寺に来ること自体、批判の対象であったことであろう。思えばあれからもう三十数年の歳月が流れてしまったのだ。

 昆明の街で、壁新聞を見入る人々。
 文化大革命といえば、もう一つ私の印象に残るのは壁新聞。
写真

 それにしても、あの頃の彼らの感情はどこへ行ってしまったのだろう。一つくらいは名残の残る、威勢のいいものはないものかと、ページをめくっていると、あった、あった、一つだけ。

 「強国富民」さん然と輝く優等生的スローガン。50を越える記帳の中で一つだけ。

 けれどこれが自然の比率といえよう。あんなに多くが熱狂的に国家のスローガンを叫ぶのは、何かにうなされていたとでも言うべきか。それとも、そうならざるを得ない根拠でもあったのだろうか…。

 まあ、何はともあれ、帳面を圧倒するのが、我々と同じような庶民の率直な願い事の数々であることに、少々ホッとすると同時に、なんだか中国の人達の生身に触れたような、そんな温もりを感じて、彼らがお参りを済ませるのを待つ心は、穏やかなものに変わっていた。

つづく

写真  雲南省はまさに少数民族の宝庫。昆明の南8kmのところに、そんな雲南の26の民族文化を紹介したテーマパーク、雲南民族村があった。ぐるりと見て回ると、素人目には、何が何だったかすっかり混乱して…。
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