もしもイエスが人間だとして はじめに  イラクに侵攻した米軍の最前線に、牧師が定期的に訪れ、ミサを行っているというニュースがテレビから流れてきた。戦争の応援に出かける牧師=Aそのちょっと奇異に思える取り合わせに、気にはなりつつ今まで置き去りにしていた、福音書の私なりの解釈を、そのまま空白にはしてはおけないように思えて、何とか挑戦してみることにした。とはいうものの、気持ちばかりで、出来はお粗末極まりないが、まあ何とかこれで、私の手作りの思想地図の空白に書き込んだつもりになろうかと思っている。出来れば拙著「魂の顔」の第二部価値マンダラからの眺望の一つの章として読んでいただければ幸いである。  なお、テキストは「聖書」(日本聖書協会)と「福音書」(岩波文庫 塚本虎二訳)を使用した。従ってここで描いた私のイエス像は、その垣根を越えるものではないことをお断りしておきたい。 第1章 気になる奇蹟  福音書を通して読んでみて、「右の頬を打たれれば、左の頬を…」といった、驚くべき原理がまるで稲妻のようにズバリと述べられていたり、あるいは「悲しんでいるものは幸せだ…」といった、なんとも逆説に思える言葉に首を捻ったりはするものの、何よりもとまどってしまうのは、いくつも登場する、イエスの奇蹟の話である。  5つのパンで5千人のお腹を満腹にさせたり、暴風を静めたり、湖面を歩いたり…しかし、なんといっても多いのは、病気の治療の話である。  イエスは、らい病を治し、中風を治し、手なえを治し、盲人を見えるようにし、長血を治し、癲癇を治す。本当だろうかと思ってしまう。  ひとたびそう思ってしまうと、福音書全体がぐらついてしまうようで、所々に光る鋭く素晴らしい言葉に惹かれはするものの、なんだか真剣に捉える気力を無くしてしまう。奇蹟の話は、現代人にとって、福音書の魅力を半減させてしまうかのようである。  この奇蹟をめぐっては、三つの立場があるらしい。  第一は、イエスは神なのだから、文字どおりの奇蹟はあったのだとするもので、科学を超越するわけである。  第二は、奇蹟は奇蹟ではなく、何らかの科学的説明がつくはずだとする考えで、現段階で説明がつかないのは、いまだ研究が不十分なためだと考えるらしい。  そして第三は、福音書は神の言葉だけれど、古代人によって書かれた物であるから、現代語に翻訳して読む必要があるという考えである。  私はこの第三の立場がもっともらしく思えるのだが、奇蹟を何か別のこと、例えば、「イエスは神である」と言うに等しい単なる表現手段だとすると、あまりにも書かれている内容が具体的なように思える。それに、彼がメシアであることの表現手段としてのみ奇蹟を用いているとしたら、あまりにも話がセコ過ぎないだろうか。何らかの事実に縛られていないとすれば、もっとスケールの大きい話になってもよさそうである。  そこでもう一度、病気治療を読んでみると、「多くの悪鬼を追い出した」「らい病は清まった」「中風の人の罪は赦された」「唖の霊に憑かれている倅」…などなどとなっている。  病気の原因と考えている事が、どうやら我々とかなり違うようなのである。だとすると、治ったという意味も、我々のイメージとは違うということも考えられる。  そこで、いくつかの解決できない問題はあるものの、発想を逆転して、「奇蹟はあった」と肯定してみると、どのようなことになるだろう。 第2章 「奇蹟」はあった    勿論文字通りの奇蹟ではない。言うまでもなく、福音書は21世紀に使われている科学の概念で語られたものではない。だから、そこに語られていることを科学的概念で理解しようとすると、どうしても無理が生じてしまう。けれど何らかの病気が、イエスの言葉によって、実際に治ったとしても不思議ではない。例えば、精神的なトラブルから生じる身体的な障害というのもあるようで、語りかける心理療法で実際にその障害が取り除かれるということもありえることである。  よって私は、福音書に記されている奇蹟は、奇蹟でもって何か別のことを言いたかったのではなく、文字通りを科学的概念で理解してというのではないが、当時の人が奇蹟としか思えない現象として、実際、イエスの言葉によって、いくつかはもたらされたのであろうと思うのである、少なくとも病気治療のいくつかは実際の事実にもとづいていると。つまり、「奇蹟」はあったと。  こう仮定してみると、すなわち、福音書に記載された奇蹟を疑うのではなく、逆に積極的に肯定してみると、例えば、「右の頬を打たれれば、左の頬を…」といった、人とは思えぬ彼の価値観の出所の不思議に翻弄されることなく、むしろよりピンとのあった福音書の景色が見えてくる。いやというより、「奇蹟」こそがイエスの思想の要であったように思えてくるのである。 第3章 再編された価値体系  イエスは当時の人が、奇蹟としか思えない方法で病の人を幾人か治した。しかし、「奇蹟」を「奇蹟」として語り継いだ所で、それは単なる昔話である。決定的に重要なのは、彼がその「奇蹟」を神による現象だと確信したことである。  「…神は来てあなた方は救われる…そのとき目しいの目は開かれ、耳しいの耳はあけられる。そのとき足なえは、しかのように飛び走り、……」(イザヤ書)  彼は自分の治療行為を当時信じられていたこの内容で理解した。  そう彼は自分のもたらした「奇蹟」を通して、絶対者、神に触れてしまったのである。その衝撃は彼の見る世界を一変させる。今までただの偶然に思えた出来事が、神の意図に包まれる。絶対者はそこにいたのだ、常に力をふるって。なのに人々はそれに気づかず、その神を侮って、好きほうだいしている。福音書によく登場する、主人と僕の例えを、現代風にアレンジして語るなら、社長がそこで見ているのに、それに気づかず、仕事をサボって好きに遊んでいる仲間を見るときのような、そんな焦燥感に駆られていたのではないだろうか。何とか神の存在を知らさねば。彼はその使命感に満ちていたに違いない。  「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」(マルコ福音書第1章)  これが彼の第一声だという。  神が彼のすぐそばにいるのを実感しているような、差し迫る臨床間を漂わせている語りかけとは言えないだろうか。  その彼は聖書学者に、全てのうちで第一の掟は何かと問われて、  「イスラエルよ聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ。第二はこれである、自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」(マルコ福音書第12章)と答える。  彼と神との関係の根幹である。  一般に愛するということは、その愛する対象と己の心が、未分化の心理状態を意味する。だからもし、あなたに愛して止まぬ人がいるとするなら、その人が愛する対象もあなたは愛せずにはいられないだろう。例えば、愛する子供が、何かに夢中なら、きっとあなたもそれを応援するに違いない。但し、その対象が、あなたと愛する人との分離を強要しない限りにおいて。もしそのことが分離を強要するとしたら、あなたはその分離を恐れ、その対象を憎むことであろう。それが嫉妬である。そのときはもはや、愛はこわれ、その感情は〈我(ガ)〉―― 自分には何らかの価値があると無意識に思い込む自我の意 ―― の欲望へと変化している。  「神を愛せよ、そして、己を愛するように、隣人を愛せよ。」  「奇蹟」を体験することによって、神に触れた衝撃は、イエスの〈我〉を、神に融合してしまった。つまり、イエスは心理的に神になってしまったのである。そしてその神は、病める人を癒そうと働きかけている。つまり人々を気にかけ、人々を愛して止まない。だから当然イエスもその人を愛せずにはいられない。だとすると、この「隣人を愛せよ」という教えは、人の命をもっとも尊いものと考え、だから人を愛せよという思想と、少々意味が異なるように思えてくる。つまり、己と隣人の間には、一度神への愛があり、その愛の具体化として、隣人を愛せよと言っていることのように。このことは、私に言わせると、ではその神に「決してお赦しにならない」といわれている人、つまり、イエスの認める神をないがしろにする異教徒は、どうなるのだということになる。福音書の中でも、いろんな罪は許されるのだが、神を信じない人にはけっこう冷たい。イラク攻撃に踏み切ったブッシュ大統領が、キリスト教徒、しかも熱心なキリスト教徒だと聞いて、「…悪人に手向かうな。もし誰かが、右の頬を打つなら、ほかの頬を向けてやりなさい。…」とか、「敵を愛せよ、自分を迫害するもののために祈れ」といった福音書の教えと、自分の中でいったいどのように、気持ちの折り合いをつけているのだろうと不思議に思ったのであるが、ひょっとしてこんな所にその答えがあるのかも知れない。  まあ、それはさておき、奇蹟を、いわゆる当時の人の言うところの「奇蹟」と読み替えて、「奇蹟」はあったという仮定に立つと、この「神を愛せよ、隣人を愛せよ」というイエスの言葉も、心理的に神と融合した彼の心の世界の描写から出た自然な言葉として理解することが出来る。 第4章 イエスの価値原理  イエスは神に触れ、神の存在を実感した。その神は、人の外にあって、人々を導き、病める人を癒そうと働きかけていた。これが彼の価値原理の原体験である。つまり、正義は人にではなく、天の神にある。そして、その内容として、神は人を癒そうとしている。これが正義の内容である。だとすると、その逆、人を傷つけるのが悪という事になる。  人が人を傷つけるのは、だいたいにおいて、自分のためである。自分の欲望の実現の過程で、人を傷つける。では、その欲望は、どこから来るのか。それは天の神とは反対側、意識にとっては得体の知れない人の心の奥深くの闇、肉に近いところから湧き出てくる。  福音書には、イエスが伝道を開始する前、40日にわたって、荒野でいわば苦行をし、悪魔の誘惑に打ち勝ったことが述べられている。  苦行、そして、悟り、なんとなく釈迦を思いうかべてしまうが、その内容も、これまた執着をめぐって悟る所のあった釈迦を思い出させる。  「…悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、この世の全ての国々とその栄華を見せて、言った。『もしあなたが、ひれ伏して私を拝むなら、これらのものをみんなあなたにあげよう』。…」  イエスは、この世の栄華か、神への服従か、その選択を迫られるのである。勿論イエスは、 「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」とその誘惑を退ける。  福音書によるイエスの答えには、少々決断めいたニュアンスがあり、執着するでもなく、執着しないでもない、いわゆる解脱の境地の釈迦の悟りと、少々形において違うようなところがありそうであるが、この点はまた後ほど取り上げるとして、ここでイエスは、この世の栄華を求める心を、悪魔の誘惑として放棄したのである。  ところで、この栄華を求める心というのは、突き詰めれば、己の栄華を求めているわけで、とりもなおさず、己の〈我〉への執着である。釈迦はこれを苦の原因と見、ここから離れることを説いた。また、人間性解放の思想(例えば、ルネッサンスの原動力などはそうだと思うが)は、その執着をめぐる喜びや悲しみにこそ、人間性があるとし、むしろ積極的にそれを肯定する。そしてイエスは、それを悪魔の誘惑と見、そこに人の罪を見た。  となると、イエスにとっては、釈迦と同じく、人の自我形成そのものが問題になってくる。だとすると、悪魔との戦いの最前線を、行為にいたるかどうかの決断時ではなく、もっと先の、この自我の形成の戦線まで前進させねばならない。  「昔の人々に『殺すな、殺すものは裁判を受けねばならない』といわれていたことはあなたも聞いていることだろう。しかし、私はあなた方に言う。兄弟に腹を立てるものは皆、ただそれだけの理由で天国で罰せられる。……」腹を立てるとは、〈我〉の対立である。その〈我〉は天にいる神の反対側、心の闇からわき出て来る欲に支えられている。その悪魔の誘惑に煽られ腹を立てるのが罪でなくてなんであろう。  「あなたたちは昔の人が姦淫してはならないと命じられたことを聞いたであろう。しかし私はあなたたちに言う。欲情を持って人妻を見る者は、既に心の中でその女を姦淫したのである。」欲情を持って見るということは、既に悪魔でもって心が形成されているのだから。それはもう神を裏切る罪なのである。  また富に対しては次のように言う。  「…あなたに足りないことが一つある。かえって持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に宝を持つことになろう。……財産のあるものが神の国に入るのは、なんともむつかしいことであろう。富んでいる者が、神に国に入るよりは、駱駝が針の穴を通る方がもっと優しい。…」富への欲は〈我〉を悪魔に委ねる。  更に彼は自我を形成することそれ自体も問題にしている。  「また昔の人に、『いつわりを誓うな、誓ったことは全て主に対して果せ』といわれていたことはあなた方の聞いているところであろう。しかし私はあなた方に言う。いっさい誓ってはならない。……」と。ところでコーランの「明日何々すると約束してはならない」という一節は、この考えの影響を受けているのだろうか、それとも、絶大なる神の存在を受け入れると、自ずと生じる自然な心理なのだろうか。いずれにせよ、約束は〈我〉の決定を神に優先させるものだ。それはほかならぬ、神をないがしろにする罪である。  イエスは思ったのであろう。《〈我〉を主張することはすべて悪魔に屈することだ。〈我〉を張らず、すべてをその実在する神に任せよ》と。「けれどそんなこと言われても、その神はどこに」と私のような不信心者は聞いてみたくなる。しかし、イエスにとって神は、我々よりはるかに身近な存在であった。 第5章 具体性もつ神  「『目には目を、歯には歯を』といわれたことはあなた方の聞いていることである。しかし私はあなた方に言う。悪人に手向かうな。もし誰かがあなたの右の頬を打つなら、他の頬も向けてやりなさい。……」マタイ福音書第5章に述べられる有名な言葉である。こんな人間離れした原理を思いつくイエスは、やはり神かと思ってしまう。  しかしこの句の述べられたほんの少し後に「…もしも、あなた方が人々の過ちを赦すならば、あなた方の天の父もあなた方を赦して下さるであろう。もし、人々を赦さないならば、あなた方の父もあなた方の過ちを赦して下さらない。」と述べられている。  おやおやと思ってしまう。《赦したものは赦され、赦さなかったものは赦されない》これは先ほど放棄した《目には目を、歯には歯を》の原理そのものではないかと。  しかしこの矛盾も、イエスは「奇蹟」を行ったという仮定に立って解釈を進めてくると、さしたる矛盾でもなくなってしまう。  つまり、目には目を、歯には歯をの原理は、やはりイエスの中でも生きていたのである。ただ、その裁きを実行するのが、彼にあっては人ではなく神なのである。人はエデンの園で善悪を知る木の実を食べてはいけなかったのだ。悪に対して怒ってもいけないのだ。何故ならそれは〈我〉の裁きだから。何故ならそれは、悪魔のささやきに立脚した〈我〉の怒りだから。そう、従業員同士なじりあって仕事をおろそかにしてはいけない。社長が裁きを用意して、そこで見ているのだから。そう、絶大な力をもった、神が、その手で実際に病める人を癒すほど間近にいるではないか。  こう考えると、これこそまさに神の原理かと見惑うイエスの驚くべき主張も、一般の人間のもつ感情からの発想と考えても、そんなに無理のあるものでもなくなって来る。  ちなみに、十字架にかけられたイエスは、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫んで息を引き取ったとマルコとマタイの福音書は伝えている。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という意味だそうだ。喜んで磔にあったというイメージと少々響きが違う。けれどこの叫びこそ、神が彼にとってどれほど現実的な存在として感じられていたかを物語っているのではないだろうか。  イエスはやがて捕らえられるであろうという危機迫る頃ゲッセマネという所で祈り悩んだという。「わが父よ、もし出来ることでしたら、この杯を私から過ぎ去らせて下さい。しかし、私の思いのままにではなく、御心のままになさって下さい」と。イエスはその死を覚悟していたのであろう。けれど、ひょっとして、神が何とかしてくれるに違いないと、少しの可能性を信じていたのではないだろうか。死刑中止の権限をもつ裁判官が、意味あげな微笑を浮かべてこちらを見ているのを見たときのような現実性のある期待を込めて。「私に任せなさい」という仲間の言葉に、悠然と会議の前日を過ごし、いざ出席した席で、彼は風邪で休みだと聞かされた時の戸惑いを思い出してしまう。「話が違うじゃない!」そんな思いが、「どうして私をお見捨てになったのですか」という、彼の叫びとなって出たのではないだろうか。彼にとって神は、理想でも、観念でもなく、私が実際に約束した私の仲間のように、それほど現実的で、具体的だったのであろう。 第6章 イエスの説教の一貫性  このように考えてくると、一見逆説のように見えるイエスの説教も、比較的一貫したものとして、その姿を現してくる。  彼は言う。  「神によりすがる貧しい人、悲しんでいる人、踏みつけられてじっと我慢している人、神の義に飢えている人、憐れみ深い人、心の清い人、平和をつくる人、信仰のため迫害される人、は幸いだ」と。  このうち、半分ほどは一般常識と合致するものの、どうも逆ではないかと思えるものも少なくない。「貧しい人、悲しんでいる人、踏みつけられている人、迫害されている人」この人たちがどうして幸せなものかと思ってしまう。むしろ不幸なのではないかと。  しかし、ここに実際に力をふるう神を介在させると、そんなに逆説にも思えない。先の主人と僕の現代版、社長と社員の喩えで言うと、もし、社長という存在がないとすると、そこで人を押しのけお山の大将になった者が、幸せで、そこから落ちこぼれた者は不幸せということになる。けれどそこに、絶大な力を持つ社長が隠れて見ているとなると、話は違ってくる。その社長を出し抜いて、私利を肥やしている従業員を社長が許そうはずはない。とすれば、現在その罪を犯していない、つまり人を押しのけることに失敗した不幸な立場の人たちは幸せだということになる。  また、ルカによる福音書15章に、一見不合理な平等観が述べられている。それは、異国で父から分けてもらった財産を、放蕩に使い果たしてしまった息子が、食べるにも困って、父のもとに帰って来るという例え話である。「私が悪かった」と謝る息子に、父は上等の着物を与え、子牛をほふってお祝いをするのであるが、それを見て、それまでまじめに働いてきた兄が、「私は今まで父の言いつけを破ったことはなかったが、子山羊一匹もらったことはない」と不平を漏らす。  それに対し、イエスの用意した父の答えは、「あなた(兄)は、いつも私と一緒にいるし、また私のものは全てあなたのものだ」というものであるが、あまりかみ合った答えのようにも思えず、我々の感情からすれば、むしろ兄の言い分の方がもっとものように思える。  けれどこれは、例えていえば、その仕事を生きがいとしている人と、その仕事を他の価値実現のための手段としている人との違いに似ている。前者は自分のことではなく、その仕事自体のなりゆきに、あるいは心を痛め、あるいは心を躍らせる。後者は、その仕事に当たっての己の評価に心を悩まし、高い報酬に心を躍らせる。イエスは神の信仰に前者の態度を求める。例えば、右手で食べ物を取って、口に入れ空腹を満たす喜びを味わったとき、右手は左手よりよけいに働いたのに見返りが少ないなどと文句をいうだろうか。イエスは信仰者に、一つの体のように有機的に結ばれあった神の国の一員として、考え、感じ、行動することを求めているのである。神と同じ方向を向き、神と同じ喜びを喜び合うことを。  イエスの名を語って悪霊を追い出している偽者をどうしようかと弟子が問うた時、イエスは放置しておけと答えている。問題なのは、誰がどうのこうのというより、事態がどう前進するかこそが問題なのである。  このように読み解くと、一見不合理に思える彼の平等観も、一貫した彼の感情の表現として描くことが出来る。 第7章 存在矛盾とイエス  人は自分というものを、何らかの価値を有するものとして、他と区別をつくり、ひとまとまりの己として自覚する。〈我〉である。  これは自己保存の本能に由来する、心的エネルギーを燃やす心の形でもある。だから、これなくしては人は生きられない。つまり、善くも悪くのそれを持つ種が、進化の中で残ってきたのである。けれどそれは量的違いはあるとしても、人に嫌われるエゴである。人類の精神史は、このエゴとの闘いの歴史であると言っても過言ではないと私は思う。  「魂の顔」(※)でもざっと紹介したが、その〈我〉を肯定する立場からは、人類はスポーツとか、競技といった、レフリーとルールの中で競い合う文化を造り上げて来た。  他方において、〈我〉を否定的に捉える立場から、多くの宗教や教えが説かれた。  ご存知のように、仏教はその〈我〉の「無」を説く。無我である。イスラムはその〈我〉を全てアッラーに委ねよという。勝者はアッラーのみぞと。孔子は、学び習うことによって、身分相応の〈我〉を人工的に作り変えようとする。仁である。そしてそれをはみ出した人に、社会は圧力を加える。礼に反すると。  イエスの荒野での、悪魔の誘惑への決別は、意識による決意であったように福音書は読める。イエスは〈我〉の衝動を罪として描きあげることによって、悪魔の側に立つのか、神の側に立つのかと、意識に決断を迫る。  ヨハネによる福音書の第8章に姦淫の罪を犯した女を、石打の刑にしようとイエスに詰寄るところがある。そのときイエスは「あなたたちの中で、罪のないものがまずこの女に石を投げつけるがよい」と言う。さあどうだと迫るわけである。結果は誰も女を罰することが出来ず去っていく。  ところで、罪だと突きつけたところで、背後に違反者を取りしまる暴力の後ろ盾がないイエスの場合、人がそれを罪と感じなければ、それはなんの意味も持たないであろう。けれど人はどうも、そうはいかないようだ。イエスの言葉を無視できない事情があるのである。  我々は、自己保存の本能とともに、種の保存の本能も持っている。なぜかと問う必要はない。それがたまたまか、あるいは神のなせることか私は知らないけれど、持っているからこそ、この生態系の中で人類は存在し続いているのである。  ところが、この二つの本能は、原理において、互いにあい矛盾する。自己保存はいつまでも己の栄華を望むのだけれど、種として存続するためには、若い世代に命を交替させねばならない。我々は存在そのものが、その仕方において、矛盾なのである。だから、人の心理も、この二つの矛盾する原理を秘めざるを得ない。  自己保存は〈我〉を押し上げ、エゴを活発にする。けれど、種の保存はそれを押さえる。己ではなく仲間こそ重要だと。この感情が、イエスの提示する罪の宣告に呼応して響く。エゴにうしろめたさを感じさせる。だからイエスに「それは罪だ」と突きつけられる時、人にはそれを無視できない内なる心が疼くのである。  ところで、自分の衝動を罪として自覚するには、自覚する主体〈我〉が必要である――あるいは、罪があるということは、〈我〉が出来ているという事だという言い方でも良いが――。だからイエスの教えの中では、〈我〉を罪として押さえることを要求してはいるけれど、それを本人の決断においてさせようとしているということは、その押さえる主体としての〈我〉の形成を、暗に要求していることになる。  「…また門番には目を覚ましておれと、命じるようなものである。だから目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、ニワトリの鳴く頃か、明け方か、分からないのである。あるいは急に帰ってきて、あなた方が眠っている所を見つけられるかもしれない。目を覚ましていなさい。…」(マタイ福音書13章)  いつ審判の日がくるかわからないから、いつもはっきり自覚していなければならない。彼は信者に常に目を覚まし、意識をはっきりさせていることを要求する。〈我〉が何をしているか自覚のない没我の中にいてはいけない。この点が、無我を説く文化や、身分相応を説く全体主義の思想、あるいは、〈我〉を放棄する教えなどと、特徴を異にする所であると私は思う。  つまり、イエスは、人が心的に家族や共同体から分離し、独り裸で神と対峙することによって、己の中の罪を自覚し、それによって、悪魔と決別し、神の側に立つことを要求するのである。このことは、エゴの増長を食い止め仲間重視に導こうとする社会の要請にも合致し、そこから応援を受ける。ところが、人には自己保存の本能もなくてはならない。だから、半分は必ず悪魔の心を引きずっている。とすると、そのままでは己の中で神と悪魔に引き裂かれてしまう。これでは己は成立しない。そこで、これを「神の赦し」でもって、もう一度統合するわけである。極めて弁証法的とでもいおうか、あるいはロゴス的と言うべきか、人の心の抱える矛盾する二つの原理を、緩和するのではなく、逆に、「罪の宣告」で際立たせ、そうしておいて、再び「神の赦し」で神の下に結びつける。  これが世代交代によって存続するという存在形式に運命づけられた、人類の抱える永遠の存在矛盾――〈我〉の矛盾――に、イエスが与えた答えである。 第8章 復活  先にも取り上げたように、イエスは危機迫る中、ゲッセマネで「わが父よ、もし出来ることでしたら、どうかこの杯を私から過ぎ去らせて下さい。しかし、私の思いのままではなく御心のままに…」と祈ったという。そして、最後に十字架の上で、「どうして私をお見捨てになったのですか」と叫んで息を引き取った。どちらも少々弱気が覗く。けれどその間、捕縛から十字架に架けられるまでの間、イエスが多少なりとも迷ったような様子はどの福音書にも見当たらない。むしろ狼狽しているのは、処刑する立場にある総督ピトラの方である。どうなっていたのだろう。  私は恐らくイエスはこの間、確固たる信念に満ちた姿で、淡々と歩んでいたのではないかと思う。その姿は、前方の死という闇に際立たされて、まぶしいばかりに光り輝いて、見るものの心を震撼させたのではないだろうか。  私は学生の時空手部にいた。実のところそんなに強くはなかったが、当時は、けっこう強いつもりでいた。そんな私が、3年生の時、ヒョロヒョロの学生活動家に完璧なまでに打ちのめされたことがある。勿論肉体的にではない、精神的に。  当時の学園紛争で建物を占拠していた彼らが、それに反対する自治会の活動家によって外に連れ出された時のことである。自治会側の男が、通りざま、両腕を抱えられて連れ出されて来た彼の額を、折り畳み傘の柄で思い切りひっぱたいたのである。当然悲鳴か罵声が聞こえるところだ。額から血がたらりと流れ出る。  ところがその彼、ひるむどころか、静かに、そして静かであるがゆえによりいっそう不気味なほどの迫力で、殴りつけた彼を、そして我々を、にらみ返したのである。  私は心に雷が落ちたような衝撃であった。まさに彼の信念に打ちのめされたのである。  人は、理解を越えた強い意志に出会うとき、意識を越えた深みから衝撃を受けるもののようである。  「…それでお弟子達に、この霊を追い出して下さるようお願いしましたが、出来ませんでした。…」(マルコ福音書第9章)  どうやら弟子達は奇蹟を起こせなかったようだ。だから、イエスの「奇蹟」は見ていただろうが、まだ半信半疑ではなかったろうか。つまり、イエスほど確信をもって神の存在を信じられなかったに違いない。事実、イエスが捉えられるとき、一人抵抗した以外は全て蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまう。  その彼らが、イエスの死後、不屈の宣教を開始する。恐らく彼らは、平然と死に向かう、イエスに、鬼神を見たのではないだろうか。それは神と同席したような異次元の体験であったに違いない。  私はイエスの確信が何に支えられていたのか知らない。本当に神だったのかもしれない。あるいは、その正反対、神を身近に実感してしまったがゆえの、最後には何とかしてくれるのではという、誤解の産物だったのかもしれない。しかし、内情はどうであれ、彼の死に様は、信者に、神と同席の衝撃を与えた。つまり神体験を与えたのである。その証拠が、いったんは逃げ去った弟子達も、もはや逃げることはしなかったことだろう。何故なら、彼らもイエスと同じように、神に触れるような体験をしたのだから。つまりイエスは彼の死に様で、人々の理解を超える信念を見せることにより、第二、第三のイエスのような信念を生んだのである。  これぞまさに、イエスの復活と言わずして、何と言うべきか。 2003年5月  山田伸夫