第1話 ニッと笑う仏像の謎 | 第2話 神妙な中で | 第3話 タイ の ヤタイ |
なんとも愉快な表情ではないか。どうしても笑ってしまう。仏像というと、厳粛な気持ちと、ペアーになっているように思ってしまう私は、このタイの仏像が、どうしても場違いのように思えてならない。
私はタイ・バンコクの北80キロの古都、アユタヤに来ていた。14世紀の半ばから約400年続いた、アユタヤ王国の遺跡である。
1767年のビルマ軍の侵攻によって、陥落したというこの都跡は、レンガ造りの土台部分のみを残す寺院や、あちらこちらに無造作に置かれた仏頭が、いかにも廃墟といった感じをただよわせていた。
私はこういった遺跡も嫌いではない。むしろ立派に修復されたものよりも、味わいがあるように思えることもある。というのも、その欠けた部分が、時には私の想像を、よりかき立てたりもする。
修復はそれを学者の科学で補うのであろうが、そういったものに邪魔されることなく、自由な想像の世界を旅するのも悪くはない。
数百年の時を経て、木の根に取り込まれてしまった仏頭。その目は何を見てきたのだろう。 |
アユタヤの船着場からそう遠くないワット・プラ・マハート寺院跡には、放置された仏頭が、長い年月の間に、木の根に取り込まれ、まるで首絞めにあっているような状態で、こちらを眺めていた。
科学的にいえば、単に根が石に巻きついただけ、ということになるのだろうが、その光景は、それ以上の何かを、私に語りかけているようであった。捧げられた花や線香は、その思いが決して私だけでないことを物語っている。
はたして締めつけているのは、木の根だろうか、それとも、戻るを許さぬ時の流れか。
じっと見ていると、あらがえぬ定めに呑み込まれていった、人々の声が、遠い遠いアユタヤの昔から、聞こえてくるような気がするのであった。お前らも同じだと。
私は、感傷的なドラマの主人公になったような気分で、歩いていた。崩れたままのレンガ塀は、そんな思いにピッタリの背景である。
ところが、その塀の向こうから現れた、この2メートル余の仏像に、ちょっとどぎまぎしてしまう。
というのもこの仏像、何というか、「ウフッ」と笑った顔で、こちらを眺めているのである。照明が一転して、舞台は喜劇になってしまったかのよう。役者は戸惑ってしまう、演じていたのは喜劇だったのかと。
何故か神妙になっている自分が滑稽に思えてきて…。 |
島の西端のワット・ロカヤスタには、長さ約30mという涅槃仏がある。
黄色の布をまとい、はすの花を枕に、ゆったりと横になるその寝釈迦さんの顔も、よく見ると「ヘッ」と笑っている。なんだか少しからかわれているよう。
また、北の端にある高さ80mの塔、チェディ・プー・カオ・トンの正面にある寺院の、ユニークな仏像の顔も忘れられない。
大小、白黒、さまざまな仏像は、その表情がとても愉快なのである。中でも黒い仏像の「スットンキョ」といった表情が、なんとも印象的であった。
場違いのように思えてしまうのですが… |
勿論、深い瞑想を思わせる仏像も多くあるのだが、こういった愉快な表情を見てしまうと、どうしても印象がそちらに引きずられてしまう。
このように見えるのは、どうしても日本人の表情を基準にしてしまう、私の偏見だろうか。それとも何かの表現だろうか。
一般に「スットンキョ」な人というのは、その場の人が共有する心配事を、まったく違った心組みの中で見ている人でもある。
だからこの表情は、ひょっとすると、世間のあれやこれやに心悩ます我々を、別の心組みから見ている仏陀の姿であると、いうことが出来るのかもしれない。それともそのように思うのは、私の空想の膨らませすぎだろうか。
アユタヤを包み始めた黄昏は、その答えも覆い隠すかのように深まっていった。もう一度いつの日かここに来よう。もっとゆっくりと。私は宿題を出されたような思いでホテルに向かった。
翌朝7時にチェックアウトして駅に向かった。途中托鉢の僧に出会う。手に持ったビニール袋には、果物や野菜が入れられていた。とても静かで、それでいて確かな足取りであった。
旅をしていると、よく宗教は何かと聞かれることがある。初めのうちは、「別にありません」と答えていたのだが、多くの国では、無宗教というのが理解に苦しむらしい。
まじめに説明しようとすると、とても込み入ってしまう。例えば、教会で結婚式を挙げたかと思うと、神社のお守りを車に付け、苦しい時には神だのみをし、葬式はお寺でといった宗教観をどう説明すればよいというのか。
そんなこともあって、いつの頃からか「仏教です」と答えるようになった。これはそう言っておくと、説明が簡単であるという為でもあるが、まんざらそればかりではない。
というのも、日本では生活習慣そのものの中に、かなり仏教観が浸透しているように思えるからである。
何を尊び、何を卑下し、何を哀れみ、何を憎むか、こういった日本文化の精神の多くが、仏教の影響を受けているように思えるのである。
例えば、咲いては散る桜に集まる花見の文化は、仏教の「無常観」と関係しないだろうか。
あるいはまた、日本人は何かにつけ事成ると、必ずといっていいほど「おかげさまで」と言う。つまり、陰の力を常に意識しているのである。ここに、他をもって自分をなす、仏教の「縁起説」を見てしまうのは私だけであろうか。
だからはっきりとした宗教観を持っている人は別として、先の例に挙げたような人でも、そう言いたければ、仏教徒と言っても、お釈迦さんは怒らないだろうと思うのである。
日本ではあまり見かけることのない托鉢の光景が、目にやさしく映ったのも、そんな事情によるのではないだろうか。カメラを向けたら、穏やかな眼差しが返ってきた。
朝食は、駅前の屋台で済ませ構内に向かった。次の目的地はコラートである。私は59バーツ(2.4ドル)の3等切符を手に、フォームのベンチに座っていた。
すると、皆一斉に立ち上がったではないか、列車が来たというのでもないのに、いったい何が始まるというのか。
私もつられて立ち上がった。ポケットから出した時計は、8時をさしていた。確かコラート(ナコーン・ラーチャシーマー)へ行く列車は8時15分と聞いたが、少し早く到着するのだろうか。私はリュックを肩にレール際へと歩き始めた。
けれど誰も動こうとしない。妙だなと思っていると、ホームのスピーカーから音楽が流れ始めた。見ると皆それに集中している。どうやらスピーカーから流れているのは国歌のようだ。
私は今さら座るのも気がひけて、みんなと同じように、ホームに流れる金属音に神妙になっていた。日本での論議を思い出さずにはいられなかった。
国歌や国旗にどのような態度をとるべきか、それは皆さんの意見の分かれるところであろう。けれど馴染みない曲を神妙に聴いている人々に混じって私は、ある種の滑稽さを感じてしまうのを拭い去れなかった。
タイの人々には誠に失礼なことではあるが、所詮価値観というのは、それを共有しない人から見れば、多少なりともそんなものである。
恐らく我々にも、異国の文化から見れば、単なる「こと」や「もの」に畏まっている、滑稽な姿が多くあることであろう。
ひょっとすると、神妙になれない私は、あの「スットンキョ」な仏像と、同じような表情に見えていたかもしれない。
8時15分、ホームが騒がしくなった。今度こそ列車が入るのだろう、乗る準備をしなければ。
私は近くの駅員に切符を見せ、次の列車かと聞いてみた。答えはイエス。念のためにもう1人に聞いた。やはりOK。私は安心して、入ってきた列車に乗り込んだ。
インドでなら実際の列車を指差して、もう一度確かめる所だが、ここはタイ、そう何度も野暮なことと、窓の景色を楽しんでいた。
しばらくして、ガイドブックで次の駅を確かめようとしていると、後ろの男が話しかけて来た。コラートまで行くのだと言うと、この列車はチェンマイ行きで、コラートには行かないと言う。
そんなはずはと、別の男に確かめてみたが、答えはやはり「ノオ」。さて大変。時間のある旅ならまだしも、1週間の休暇では1日のロスは大きい。
間違えて乗り込んでしまったチェンマイ行きの列車にて。 |
それにしても日本の習慣は、どうしてこうも休みが短いのだろう。目的と手段が入れ替わり、働くために生きているようだ。
私にとって最も貴重なのは、「時間」なのだが、何とそれをおろそかにし、やたらあくせくしている人が多いことかと思ってしまう。
けれどひょっとして皆は、「時間」を得るために「時間」を使っているのだろうか。だとしたらなんとも悪循環ではないか。 「ウシロムキニススメ」という、ミヒャエル・エンデの童話「モモ」に出てくる亀の話を思い出してしまう。
とは言うものの、何をもって大事と考えるかは、人それぞれなのだから、こんな話は、何とでも言いくるめることが出来る屁理屈かも。
けれど時には立ち止まって、自分の場合を省みてみるのも、まんざら意味のないことでもないだろう。
まあ、それはさておき、どうしたものか。彼は次のロッブリーで降りて、バスで行けと言う。どうしようかとうつろな表情でいると、紙にタイ文字でなにやら書いてくれ、これを見せれば大丈夫と渡してくれた。
そうこうしているうちに列車はスピードを緩める。そのロッブリーである。決断せねば。「よし、最悪の場合、ロッブリーで泊まろう。宿は何とかなるだろう。」そう決めた私は、彼に礼を言ってホームに降りた。
あとで気付いたのであるが、ロッブリーも観光地で、2ページをさいてガイドブックに紹介されていた。 そんなに心配することはなかったのだ。
駅前にはリクシャマンが待っていて、コラート行きのバスターミナルまで40バーツ(約1.6ドル)で乗せると言う。列車の彼は10か20バーツだと言っていたので、高いとは思ったが、この際緊急時と乗ることにした。
ターミナルまではけっこうな距離で、40バーツもそう高くはない。後ろで見ていると、ペダルをこぐその男の、体に比べてアンバランスに太い足が、彼の毎日を物語っているようであった。
もし彼に「時間が貴重」などと言ったら、「何を甘いこと」と吐き捨てられるであろうか、それとも、「そうだと」微笑まれるだろうか。
ターミナルに着くと、ちょうど一台のバスが動き出すところであった。彼は弾む息でそのバスに乗れと私を促す。サンキュウとバスに飛び乗り、今度は何度も何度も「コラート、コラート」と確かめた。いきさつを知らないバスの乗客は、きっと、しつこい奴だと思ったことであろう。
修理屋さんだろうか、ずらりと並んだミシン軍団。(コラートにて) |
1時過ぎ、無事コラートに到着。昼食をとり、市場と博物館を見て歩き、ピマーイ行きのバスに乗ったのは午後の3時であった。
ピマーイまでは、約2時間、けっこうな距離であったが、道路の舗装は完備されていて、快適なもの。夕方の5時過ぎには、ターミナル近くのピマーイホテルに宿をとることが出来た。ファン、シャワー付きで160バーツ(6.5ドル)である。
さっそく感度400のフイルムに入れ替えたカメラを持って、にぎわいはじめた街に出る。陽は沈み、所々に電灯がともり始めていた。
タイのアンコールワットと呼ばれることもあるというピマーイの遺跡。クメール式の美しい建築である。 |
私は、笑顔のかわいいお姉さんの焼いている、ソーセージを注文した。
肉とご飯のバランスがとても美味しかった腸詰。 |
今までの旅では、お腹のことが心配で、あまりこういった屋台は利用しなかったのだが、アユタヤで食べてみたところ、お腹は何ともないし、とても美味しかった。それ以来、屋台の食べ歩きが、毎日の楽しみとなっていたのである。
私の買ったソーセージは、肉詰めかと思ったが、食べて見ると、中にご飯が混じっていて、これがなんとも肉とよく調和している。
思うにタイの人々は、ご飯をいろんなことに上手に使っているようだ。昼間に食べた、葉に包んだおやつも、ご飯を甘く仕上げたもので、新しい発見のような味であった。
隣の屋台の女将さんが、まだ口をもぐもぐさせている私に、これも食べろと、自分の鉄板を笑顔で指差した。皆知り合いなのだろう。
三つの街を見ただけで、全体を推し量るのは無謀な事ではあるけれど、恐らくどのタイの街でも、このようなにぎわいが、あちらこちらに出来るのだろう。毎日が縁日のよう。けれど日本の縁日とは少し雰囲気が異なる。
子供から大人まで、にぎわうピマーイの夜。 |
というのも、日本の縁日には少し日常からはずれた、異次元のような所が感じられる。けれど、ここタイの縁日は、日々の生活の匂いのするにぎわいである。
恐らく街の人々の多くは、毎日ここで顔を合わせているのではないだろうか。こんな日常があれば、人々の関係も変わってくるように思える。
ちょっとオーバーな考えではあるけれど、タイの国が安定しているのは、こういった日常の関係を、基礎にしているからではないかとさえ思えてしまう。
例えば宗教は、ある心の形を共有させることで、人々を結びつける。宗教国家は、その結びつきの上に乗っかる。かつては、そういう人々の結びつきを、労働の工場制に求めた人もいた。
ひょっとして、この毎日の縁日が、そんな役目の一つを担っているなどということは、はたしてありえないことだろうか。
とまあそれはともかく、ここには今の我々が、いつの頃からかどこかに置き去りにして来てしまった、人と人との関係の別の形が、今に息づいているように思えるのであった。
翌日は昼までピマーイの遺跡で過ごした。タイのアンコールワットといわれるこの遺跡は、寺院一つ一つの大きさは、インドのカジュラホくらいで、いくつもの石を集めた上に一つの絵柄を刻んでいるのは、インドネシアのボロブドールやプナンバナンを思い出させた。遺跡内は訪れる人も多くなく、静かなひと時であった。
次の日、バンコクへ帰るべくバスに乗り込んだ。2歳くらいの子供を膝に乗せたお母さんの隣が空いている。笑顔に迎えられてその席に座ったのであるが、しばらくしてまずかったかなと思い始める。
というのも、膝の子供が長い間そこに留まっていそうもない。きっと横に座らせ、3人掛けとなるのでは。
案の定、30分も走らないうちに、子供が間に割り込む。とても窮屈である。「エーイ、仕方がない」と私は、彼を膝の上に乗せた。この方が楽だ。母親はありがとうといった表情で子供をあやしていた。ちょっと我慢で、旅は楽しくである。
ところがその状態で30分ほど過ぎたであろうか。それまで窓の方を向いていた子供が、急に下を向いたかと思うと、ゲボッと私の膝をめがけて、もどしてしまったのである。先程からよく食べるなあと思っていたら案の定である。
あ〜あっ!
周りの人が異変に気付き、ちり紙などを差し出してくれたものの、濡れた両膝からは異臭が鼻をつく。
「おいおい」という思いであったが、もう元には戻せない。二人は間もなく降りていったが、私はバンコクまで、冷たい膝の感触と、そこから立ち昇る、酸っぱい異臭に付き合わねばならなかった。
このとき以来私は、常に口に何かを運んでいるような子供の隣は、できるだけ避けるように心がけている。
バンコクのホテルで、さっそくズボンのその部分を洗った。ズボンはお腹から膝辺りまでぐっしょりと濡れてしまう。いくら南国とはいえ、それを履くと乾いている下着まで濡れてしまう。
けれど短い旅で、ズボンの替えは持ってきていない。かといって、最後の一日を、まだ日も沈んでいないのに、ホテルに閉じこもっているのも残念な話である。
さてどうしよう。思案の末、大きなビニール袋を裂き、ズボン下のように下にまとい、その上に濡れたズボンをはいて街に出た。
明日は日本である。
第1章 タ イ 完
ワット・プラケオと王宮。バンコク観光の中心地である。 |