第1話 不吉な予感 | 第2話 「大事件」 | 第3話 仲間だったのだ | 第4話 西のパリなら、東のバリ |
第5話 「ちゃんと」 |
「アッ」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。私はあたかも急に足を無くしたように両手をついてその場に崩れ落ちた。
次の一瞬、激痛が脳に突き刺さる。まるで焼ゴテを当てられたよう。息も出来ない。あえぐこと、数秒、ようやく事態が呑み込めてくる。挫いたのだ。
ジャワ島ジョグジャカルタの北、ディエン高原でのことであった。海抜2,000mのこの高原は、赤道直下のインドネシアとはいえ涼しく気持ちが良い。私はパンダワのヒンドゥ遺跡から、ワルナ湖、瞑想の洞穴へと午後の観光を楽しんでいた。
ディエン高原、パンダワ寺院郡。ジャワ最古のヒンドゥ遺跡とのこと。ディエンとはサンスクリット語で「神々の座」という意味だそうだ。 |
思えばインドネシアの旅はとんとん拍子でここまで来ていた。バリに到着したその日、タクシーは私の指示したところとは違うホテルに連れて行ったが、そこは14ドルで庭にはプールもあり、平屋で天井も高く、窓も大きい。申し分ない。これはラッキーとそこに決めた。
さっそくそのベッドに横になり、前日日本にいたなどとはとても信じられない思いで、ゆっくり回る天井の扇風機を見つめていた。
出入国も慣れてくると、だんだんと事件ではなくなってくる。そうすると次第に、外国との心理的距離というのも、短くなってしまう。
私は、ひょぃとつっかけ履きで出て来てしまったようで、なんだか大事な忘れ物をしているような不安に駆られながら、あの初めての旅の前日の、気合の入れようを思い出していた。
2日後、ジャワ島の古都ジョグジャカルタに行くべく空港に向かったのだが、クタの私のホテルから歩いてみようと早めに出たところ、意外に近くて、出発の3時間以上前に着いてしまった。
まだ早いだろうとは思ったが、念のためにカウンターで聞いてみたら、一つ前の便に空席があるが乗らないかと言う。
サンキューと言うと、用意してくれたボーディングチケットはビジネスクラス、食事は出なかったが、幅広い肘掛け椅子はとてもデラックスな気分であった。
空港からジョグジャカルタのバスターミナルまでは、道路で手を上げてバスをひろうのだが、これもすんなりOKで、私はその日のうちにボロブドゥールまで来る事が出来た。
きっとインドネシアにはたくさんの日本人観光客が訪れ、彼らもその扱いに慣れているのだろう。
ボロブドゥール遺跡。19世紀初めに掘り起こされるまで、1000年以上密林の中で土に埋もれていたという。 |
ボロブドゥールの遺跡には、それを物語るかのように、多くの日本人観光客がいた。声をかけてみたが、どうもインドなどの場合と勝手が違う。受け答えがよそよそしい。
日本の公園で「こんにちは」と見知らぬ人に声をかけた時のよう。けげんな構えが消えない。これはどうしてなのだろう。
そんなある団体の日本人が、不要になった傘を捨てようとしていた。インドネシアのガイドさんは、もったいないからやめろと止めていたが、彼は「お金を払えばいいのだろう」と言って捨ててしまった。
ガイドはそれを拾って持って行ったのだが、彼等がそれを鼻で笑い合っていたのを忘れられない。
旅をしていると時々、日本での価値観、日本での習慣を、そのまま引きずっている人達に出会う。
それはそれで良いのだが、そのような人々の中には、そこから外れた価値観なり習慣に出合うと、それを否定しあって、優越感にひたる人達がいる。どういうわけか、そういう人達に出会うと私は、とても不愉快になってしまう。
とはいえボロブドゥールの遺跡は素晴らしいものであった。小山全体で曼荼羅を描いているこの仏教遺跡は、その一辺が124m、高さが42mというもので、頂上に行くにも息が切れる。
壁面のレリーフは、いくつもの石を積み重ね、全体で一つの絵のキャンバスに仕立てている。この方法は、ジョグジャカルタのもう一つの遺跡、プランバナンのヒンドゥ寺院でも同じであった。
インドではアジャンタやエローラは論外として、同じように石を積み上げて作ったカジュラホや、サーンチの場合、像の体がつぎはぎされるということはなかった。
この違いは何なのだろうと妙に心に残った。単なる石材の問題だろうか、それとも個と全体の比重の置き方にでも起因するのだろうか。
回廊には素晴らしいレリーフがぎっしりと残されている。 |
激痛にうずくまったのは、そんな思いにふけりながら瞑想の洞穴近くを歩いていた時であった。見ると木の根が、まるで勝ち誇ったかのように、足元に隆起していた。
恐る恐る靴の紐を解いた。考えてみればこの靴も失敗であった。私は先の旅で底の剥がれた馴染みの靴を止め、くるぶしまである、登山靴タイプの革靴を履いていた。新品である。
靴というのはちょいとはいただけでは、足に合うかどうか、なかなか分からないものである。買った時は良いように思えたのだが、足を踏み出すたびにかすかに圧迫される薬指を、次第に痛く感じ始めていた。
足首を手に持って恐る恐る動かしてみた。激痛は走らなかった。やれやれである。どうやら骨は大丈夫のようだ。骨さえ大丈夫なら何とかなるだろう。私は痛みの治まるのを待って立ってみた。足を引きずりながらなら何とか歩ける。
一歩一歩声をかける思いで歩くこと30分、やっとの思いでホテルに帰った。
ホテルで紹介された、診療所のようなところに行ったところ、誰もいないので、近くの住居のような所をノックしてみると、白い服の男が出て来た。足を見せると、飲薬を調合し始める。
私は飲薬は副作用が心配であまり好きではない。塗り薬をくれないかと言うと、それならばと近くの薬屋を教え、薬の名のメモを書いてくれた。
宿で薬を塗ったが、足首は熱をもって腫れ始めていた。明日はジョグジャカルタへの移動日である。私は早めに眠る事にした。これ以上ひどくならないことを祈って。
しかし悪い事はこれでは済まなかったのである。
ディエン高原の日の出ツアー。朝の4時にホテルを出発。日の出と共にサンドロ山(3136m)がその雄姿を現す。 |
あれっ、富士山が二つ並んでいる。あれっ、あちらにも。
日本ではどの絵を見ても富士山は一つである。その映像が頭にこびりついている私は、バスの窓に現れる並んだ富士の山に、まるで支離滅裂な夢の世界に、入り込んでしまったような錯覚に見舞われていた。
いや正確には富士山ではない。よく似た形をした山である。そんな山がディエン高原からジョグジャカルタへの道にはいくつも現れた。バスが高原を下るに従い、やはり赤道直下のインドネシア、次第に汗ばみ始める。
私は窓際の席で、リュックを脚の間にはさみ、カメラバッグを膝の上に置いて、景色を眺めていた。
横の男が、邪魔そうに膝に乗せている私のバッグを指差し、少し尻をずらして、横に置いてはと勧めてくれた。少しその誘惑に駆られたけれど、やめておくことにした。バッグを載せた膝はもう既にかなり汗ばんでいた。
「そこには札束が詰まっているのかい?」
横の男が冗談を言って笑った。彼はマゲランのバスターミナルから私の横に乗ってきていた。歳は30歳くらい、丸顔で英語を話す。
ディエン高原ワルナ湖。熱帯のインドネシアでも、高原はけっこう冷える。 |
今朝目を覚ましたら、心配した足はやはり青く腫れ上がっていた。私は昨日買った薬を塗り、裂いた布を巻いて足首を固定した。何とか歩ける。
出来ることなら、このディエン高原の宿でもう1日休んでいたかった。けれど2日後にバリへ戻る飛行機の予約が入っていた上に、このブウ・ジョノホテルはあまり気に入ったものではなかった。
というのも、マンディルームという、トイレと水溜のあるいわゆる共同バスは、暗くて狭く、当然お湯も出ない。ところが、ディエン高原の朝夕はけっこう寒く、とても水をあびる気にはなれなかったのである。
今朝などはそのバスルームで、棚の上に持参のトイレットペーパーを置いて、用をたしていたのであるが、終わってそれを使おうと、へっぴり腰で手を伸ばしたら、ポンポンポンとお手玉をしてしまい、そのマンディの水溜の中に落としてしまった。
悲劇!本当にトイレットペーパーというのはよく水を吸う。一瞬にして拾い上げたつもりでも、もう丸々使い物にならない。仕方なくインドネシア方式で、手と水で洗い流さなければならなかった。
まあそれは仕方がないとしても、やはりシャワーでさっぱりしたい。それに、日当たりの良い部屋も恋しくなっていた。
朝の7時、宿の前からミニバスに乗った私は、まず26kmほど南のウノソボへ、そこから馬車で別のターミナルに移動し、またバスに乗って3時間、マゲランに着いたのはちょうど昼時であった。私はターミナルの一角の小さな食堂でバソを注文した。
バソとはインドネシアでソバのこと、ちょうど日本のラーメンである。ギリシャのタベルナも面白かったが、なんだかゴロ遊びをしているようで楽しい。気に入った私は、そのバソの写真と、そこの女将さんの写真を撮らせてもらって外に出た。
次のバスの出発までには、まだ少々時間があったので、ターミナルの人々の写真を数枚撮って、バスに乗り込んだ。
私は後ろ出入り口からそう遠くない席に座った。そこには既に一人座っていたのだが、この彼が来てなにやら話すと、何処かへ行ってしまった。それ以後、彼はその英語で私の相手をしてくれていたのである。
こういう時の会話は、だいたい決まっている。「何処から来た、何処へ行く……」私はガイドブックを見せながら、ジョグジャカルタの予定などを話していた。
と、あるバス停で動きかけたバスが止まった。見ると先程降りていった私の前の席の男が、再び乗り込んできて、しきりに座席の辺りを探している。
何か忘れ物らしい。私もリュックを持ち上げて、探しものの協力をしたのだが、彼は何も見つけることが出来ず、けげんな顔のまま降りていった。バスは動き出し、再び彼と私は、旅の話を続けた。
布の絵柄も「富士山」が二つ |
どれくらい走ったであろう。バスは繁華街を走り抜けていた。と突然彼は、ジョグジャカルタで降りるのならば、次のバス停で降りるのが便利だと、席を立ち道を開けて、私を促した。
終点のターミナルまで行ってしまうと、街を通り越してしまうとは、ガイドブックにも書いてあった。どうしよう。彼には泊まろうと思っているホテルも話したのだから、何処で降りるべきか知っていても不思議ではない。しかし彼を信用しても良いだろうか。
止まりかけたバスの中、私はとりあえず出口へ向かうことにした。カメラバッグを肩にかけ、重いリュックを両手に持ち、足をかばって立ち上がった。降りる人が後ろの出口に殺到した。ラッシュである。
出口付近の男に聞いてみた。ジョグジャカルタかと。彼は大きくうなずいた、イエスと。どうやら間違いないらしい。
体の前に掛けていたカメラバッグは、何時の間にか後ろの人ごみにひっかかって動かない。私はグイッと体を捻じってそれを引っ張り出し、ステップを降りた。足首にニヤリと痛みは走ったものの、何とか無事着地出来た。
ワッとベチャの男が客取りに押し寄せた。ベチャとはインドで言うリクシャで、いわゆる輪タクのこと。インドネシアではインドと違って客を前に乗せる。
「ノオ」
私は彼らを振り払って、とにかくその囲みから出ようとした。でも少し妙だ。感じが違う。私は左の脇にぶら下がったカメラバッグを見た。
チャックが開いている。
おやっ!空である。
アッ、カッ、カメラが無い!
どうしたのだ! どうすればよいのだ!
私はまだ止まっているバスに飛び乗った。
「カメラ!」
私はそう叫びながら、座っていた席に向かった。リュックを手に持った身では敏速にことが運ばない。バスの皆が私に注目する。私は強引に人を押しのけた。椅子を見た、無い。下を見た、無い。
目を通路に向けた、とその時、入り口近くに立っていた男が「男が持ってあちらに走ったぞ」とバスの後ろを指差した。
「サンキュウ」
私はバスを飛び降りた。足が痛いなどと言っていられない。
私はリュックを右の肩に引っ掛け走った。十歩ほど駆けたであろうか、様子がおかしい。もし誰かが走って逃げたのであれば、音がしているとか、通行人の目線がそちらに向くとか、何か気配があるはずだ。それがまったく無い。
「カメラ、カメラ」と青くなって叫ぶ私に、ベチャの客引きが、場違いの顔をして、私に着いてくる。私は尻のポケットに手をやった。財布が無い。
「シマッタ!」
ここで初めて事態が呑みこめた。何とトンチンカンなことをしていたのだ、カメラは落としたのではない、バスの中でスリ盗られたのだ。
私は振り返った。既にバスは10mほど先を黒煙を上げて走っている。もう追いつけない、二歩三歩駆け寄る頃には、もうそのバスは、まわりの車の群れに溶けこんでしまった。
バックの異変に気付いてからこの間、20秒もたっていなかったろう。私は呆然と立ちすくんでしまった。隣で乗れ乗れといい続けるベチャマンの声が遠くでかすかに聞こえていた。事態がまるでパタパタとめくられる掲示板の字のように、私の頭の中におさまっていった。
私はマゲランのバスターミナルからずっと窃盗団に狙われていたのだ。私の隣にいた男も、私が立ち上がったときラッシュのように出口に詰め掛けた男たちも、「後ろに男が逃げた」と言った男も、みんな仲間だったのだ。ラッシュのように見せかけ、バックを後ろに引っ張り、人ごみに隠して、カメラを抜いたのだ。
少し前のバス停で、探し物をしていた男は、落としたのではなく、スリ盗られていたのだ。それを気付かなかったとはなんとも不覚。しかも私の空のバッグを見た時、一瞬盗られたと思わなかったのも間抜けな話である。例え数十秒とはいえ、その間に敵は充分態勢を整え、知らんぷりする余裕を得てしまう。悔しさが全身を駆け巡る。しかもサンキュウなどと言ってしまうとはかえすがえすも情けない。
ポケットの財布はあまり問題ではなかった。こんなこともあろうかと、一日分程度しか入れていなかった。けれどカメラはなんともショックである。
日本のアマチィアカメラマンの多くはカメラマニアでもあるようだ。私もそのうちの一人で、いいカメラを持つと、いい写真が撮れるような錯覚に陥ってしまい、自分の腕もかえりみず、退職金を奮発してニコンのF4を買ってしまったのである。当時、デスカウントショップで、ボディのみでも十七万円程度だったと思う。
重くて旅行には向かないなと思いつつも、どういうわけか持っているだけで、楽しい気分になれたのである。客観的に見れば、その姿はコメディアンなのだが、マニアには大なり小なりそんな所がある。そのカメラが私からもぎ取られてしまったのだ。
私はタクシーでターミナルまで行き探そうかとも考えた。しかし異国の人の顔というのは、だいたい皆同じような顔つきに見えてしまい、特定が難しい。それにマゲランでは適当なバスに乗ったので、何というバス会社のバスだったかよく覚えていなかった。
それに例え見つけたとしても、知らぬ存ぜぬだろう。盗品を首にかけて歩いているほどバカではあるまい。悔しいけれど、悔しいけれどもう出てこないだろう。
私はとにかく警察に行くことにした。私を乗せたベチャの男は、いつも旅行者に言っているような愛想を言いつつ、のんびりとペダルをこいでいた。彼には罪はないとは知りつつ、私はその笑顔に、どうしてもイライラしてくるのを隠せなかった。
こういった場合警察は盗難証明を書くだけで、捜査など毛頭頭に無いようである。逆にもっと外国では用心しなければいけないと、説教をされてしまう次第であった。
調子の良かったインドネシアの旅は、私にとって真っ暗なものに一変してしまったのである。その後ジョグジャカルタの人の目つきが、急に悪いように思えてしまう。
マリオポロ通りの屋台とベチャ。新たに購入したコンパクトカメラにて。ジョグジャカルタの写真は、何をとったのかわからない、この一枚のみ。 |
次の日私は、気を取り直して予算を組みなおし、何とかお金を捻出し、小さいコンパクトカメラを買った。旅の後半はそれを持って歩いたのだが、旅人のカメラを見るたびに、悔しさが疼き、決して楽しい気分にはなれなかった。
ちなみにこのときのショックに、私は盗難に対する考え方を変えた。
それはまず第一に、敵はプロ、私より数段腕が勝るという事を、認めることである。だから一旦狙われたら、防ぐのは困難と考えた方が良いだろう。
だとすると、それを防ぐには、まず狙われないように工夫することである。
例えば、鞄には南京錠をかけておくこと。これは、ナイフを使われれば何の役にも立たないけれど、錠の有るのと無いのとがあったら、敵は無い方を選ぶであろう。ここに貴重品がありますと言っているようなのもまずいけれど、全てにわたって、こいつは手ごわいと思わせることである。
第二は、気をつけようという気持ちは置いておいて、つまり自分はボーッとしているということを前提に、対策を立てることである。
例えばチャックを開ければそこに大事なものが顔を出すといったようではなく、その上をハンカチか何かで覆っていたとすると、敵はそれをのけるのに一、二秒必要とする。一、二秒は長い、私が気付く確率はグッとアップする。
そして特に体を接しても自然なところ、例えば乗り物の中とか、混雑した市場などは、必ずその態勢を整えておくこと。また、気安く話している中で、彼がお金の話題を出してくるようなら、それが何であれ、その相手は要注意とすべきだろう。
とはいえ、その後の旅で、決して完璧とはいえないのは、また別のところでお話することになるだろう。
客待ちをするベチャ。ジョグジャカルタの写真がありませんので、のんびりとしたボロブドールの写真をご覧ください。 |
あ〜あっ!
フルーツたっぷりの朝食を眺めながら、思わずため息をついてしまった。
贅沢な話である。好きな旅をし、壮快な目覚めを迎え、申し分のない朝食を前に、何の不足があろう。頭では分かっている、分かり過ぎるほど。けれど気持ちはそうはいかない。
こだわりから離れればボンベイのペテン師は楽しいマジシャンになった。そうなのだが、まだ私はカメラへのこだわりから離れられないでいた。東洋で言う「智」に、修行を伴う必要があったことがよく分かる。頭では分かっても、なかなか気持ちでは分からないものだ。
とはいえ、このバリに戻って、ウブドの彫刻芸術に衝撃を受け、少しずつ私の気持ちも蘇っていた。先日もモンキーフォレストの南の木彫博物館に行って来たのであるが、その精神に私は驚かされた。
というのも、そこに展示されていた様々な生き物の木彫は、どれもその形がとてもユニークなのである。大きく分厚く強調された唇、むき出しの歯、いびつに歪んだ目、どれも一部がデフォルメされ、決して美しさを表現しているとはいえないのである。どちらかというと醜さを表現しているように思えた。しかし、醜さを表現したかったのだろうか。私はしばし見入っていた。
放置しておくと、瞬く間に自然の生命力に呑み込まれそう。 |
バリを旅して圧倒されるのは、その自然の持つ旺盛な繁殖力である。ムッとむせかえるその空気は、それ自体でも何かが潜んでいるような、妖気が漂うのであるが、その地上のあらゆる所に生え出る緑は、まるで大地の殻を突き破って、ニョキニョキと頭をもたげる「地の精」のよう。
そしてそれらの成長は、あたかも大地が歪みゆく過程の1シーンのようなのである。ひょっとすると生命というのは、このような歪みなのかも知れない。
デフォルメされた木彫を見ていると、妙にそこに命が息づいているように思えてくる。しかもその生命は、その部分一つ一つに妖精が宿るような生命、例えば、動物を一つの命と見るのではなく、目は目で、鼻は鼻で、口は口で、それぞれ精神を持つ生命であるかのように。
デフォルメされたその部分は、命という意味では、ちょうど大地からムクムクと頭をもたげた草や木なのだろうか。
そう思ってみると、バリの絵もこの旺盛な生命力の表現のように見えてくる。私はバリの美術史的な知識を何一つ持たないが、キャンバスの隅々まで、手抜きなしの精密さで、草木や花や鳥や人が描かれるのが特徴のようである。
そしてその隅々までの精密さが、見るものに与える印象は、ちょうどバリで、寺院の裏など、少し人の手の届かぬ所に足を踏み入れた時に、そこのあらゆる所から生え出ている雑草の勢いに圧倒された時のようなのである。
素晴らしいバリの絵画、絵葉書より。 |
バリの絵が我々に訴えているものは、その構図や配色の美しさもさることながら、何よりも、この何ものをも呑み込んで展開していく、自然の旺盛な繁殖力ではないだろうか。
だとすると、そこに描かれている、木や花や、動物や人は、それそのものというよりは、デフォルメされた自然の一部だと言っても良さそうである。ちょうど木彫芸術の魚の歪んだ唇のように。
ウブドでは五夜連続で寺院で催される踊りを見に行った。悪を退治するのではなく、なだめて共存しようというバロンダンスのテーマにも、非常に興味のあるところであったが、それよりもどの踊りにも共通する、異常に張りつめ反り返った指や、そのピクピクとした痙攣、また大きく見開いた目の動きがとても印象に残った。
いったい何なのだろうと思っていたのであるが、何度も見ているうちに、これも一種のデフォルメ表現ではないかと思えてきた。
人の体は絵や彫刻のように、大きく変形させることは出来ない。そこでその部分を異常に動かすことによって、同じような効果を引き出しているのではないかと。
目と指の動きとが、とても印象的なバリの踊り。 |
何か全てに共通するものがあるように思えてくる。ちょっと強引な解釈になるかもしれないが、バリの芸術精神は、このような形で、旺盛な自然の生命力を受け止めているところに始まるのではないだろうか。つまり個々は全体のデフォルメとして。
だとすると悪も切り捨てることが出来なくなる。善と同じ生命の、一つのデフォルメした形なのだから。悪との共存に終わるバロンダンスの哲学も、ここから来る自然な展開のように思えるのであった。
私はこういった精神を発信し続けるバリ芸術を、もっと世界に宣伝したい思いにかられていた。西のパリ、東のバリ、ちょうどゴロも良い。
ところで私は、踊りの会場につめかける観光客のカメラの放列に、毎夜悔しさの世界に連れ戻されていた。やはり私は、執着から離れられない煩悩の人のようである。
プジュンのライステラス(バリにて) |
「ビユーティフル」「ワンダフル」ヨーロッパ人旅行者が、そう連呼しながらシャッターを切っている。
何のことはない、段々畑ではないか、ちょっと私はひねくれていた。いい被写体に出会うと少々嫉妬してしまう。キンタマーニツアーの帰り道であった。
そう、キンタマーニ、バリ島北の景勝地である。ちょっと日本人には言いにくい。しかし、英語の中ならそうでもない。私は旅でよく使うようになった決り文句を思い出しながら、ウブドの旅行会社にツアーの申し込みをしていた。
するといきなり「日本語で話してください」と言われてしまう。インドネシアには多くの日本人が来るのだろう、日本語はサービスの必須のアイテムらしい。サービス満点と言ったところだろう。けれど少々拍子抜けでもあった、なんとなく異国のムードが色あせそうで。
とはいってもここはインドネシア、ムードを言うならインドネシア語なのだが、まあそこはご愛嬌。ところでその英語で「ちゃんと」というのはどのような表現になるのだろう。これはインド以来の疑問であった。
というのもインドの旅の初めの頃、何かにつけ心に浮かんだのは「もっとちゃんとしてくれ」といった思いであった。ところがそれにあたる英語が思い当たらない。機械的に置き換える言葉ならあるのだろうが、果たしてそこに日本語の思いが含まれているだろうかと思ってしまう。
というのも、日本人の間では、この「ちゃんと」という言葉が、ある価値の暗黙の了解を伴って語られているように思えるからである。
「ちゃんとしなさい」「あの人はちゃんとしている」「ちゃんとしたよ」……「ちゃんと」という言葉には、単なる「隙間なく」とか「終わりまで」とかいった意味以上のものを含んでいる。
例えば、「ちゃんとしなさい」と叱る親は、その背後の、例えば、危ないからとか、誤解されるからとか……そういった理由を説明する必要を感じていない。もともとは何か理由があるのであろうが、我々には「ちゃんと」を共通価値として、それ以降のみを語って用を済ませているようなところがある。
ところがどうやらこれも世界共通ではないようなのだ。私は旅に出るようになって、この感情は日本文化の特徴の一つであるように思えていた。名づけて「ちゃんとの文化」。
ちゃんと並べられたキャベツ、几帳面な性格がうかがえる。ディエン高原にて。 |
その「ちゃんとの文化」がここにはある。「ビューティフル」と称賛されているこのライステラスとは、段々畑状に幾枚も重ねられた田であるが、その一枚一枚を囲った畦には、単に水の漏れ出るのを防ぐといった意味以上に、「ちゃんと」を尊重したような観がある。その「ちゃんと」の積み重ねが、見る者を感動させるのであろう。
そういえば、ウブドの街で刈り取った稲の穂が、綺麗に切り口をそろえて束ね並べられていた。私はその光景を思わず写真に収めたのだが、あれもそうさせたのは「ちゃんとの美」ということが出来るのではないだろうか。
また、建築現場でも何本も糸を張って丁寧に合わせている光景に出会った。その時はずいぶんとインドと違うものだと思ったものである。
どうやらこのインドネシアには、我々と同じ「ちゃんと」の感情が息づいているようである。そう思うと、ちょっと見知らぬ地で、同郷の人に出会ったような親しみを、感じてしまうのであった。
綺麗にそろえられた稲の穂、ウブドにて。 |
ウブドで一週間を過ごした私は、バイクの後ろに乗って、東のクルンクンへ移動し、街の外れのラマヤナパレスに宿を決めた。宿泊者はほとんどなく、がらんとしたものであったが、シャワーを浴びようと入ったバスルームでの歓迎に、驚いてしまう。
ムッとした湿気漂うその部屋は、ゴキブリ達の天国のようであった。大きなサイズのゴキブリがいることいること、スリッパで叩きつぶしたのは七匹であった。
ゴキブリを見るとどういうわけか、何の考えもなく、反射的に殺意を持ってしまう私であるが、こんなに殺してしまうと、小気味よさよりも、少し残酷だったかなと思ってしまう。
宿の近くにはウンダ川が流れていて、近くの人々の共同浴場になっていた。陽が西に傾きかけた頃、髪をぬらした女性が、涼しげに歩いていた、手には洗濯物の詰まったバケツを持って。まるでバリ絵画の世界。近くの牛はしっかりと肥っている。バリは豊かな所である。
このクルンクンからデンパサール、クタと移動し、11月20日、私は日本に帰った。真夏から冬にひとっ飛びである。空港ではえらく厳重に持ち物検査をされた。カメラバッグは、底板を外してまで調べられ、リュックに持っていた薬も、一つづつ開けての説明を求められた。
今まではほとんど何もなくパスだったのに、何故なのだろうと思ったのであるが、どうやら私は、カメラを盗られたショックをまだ引きずっていて、とても観光を楽しんできた人の顔には見えなかったようである。きっと心に暗いものを持つ、怪しい顔をしていたに違いない。
失意のインドネシア 完