第1話 ヴォタ | 第2話 ヴォタの正体 | 第3話 上達したのは図々しさ |
"・・・・can get ヴォタ"
軍服のようなのを着た男が、近づくなりそう言ってきた。周りには誰もいない。私に話しかけているのである。
「ンン?」
思わずそう聞き返してしまった。「パードン」とか「ソーリィ」と言うのがスマートなのだろうが、そんな言葉が出ようはずがない。
"ヴォタ"答えは同じであった。顔は笑っている。どうやら敵意はないらしい。もう一度聞き返してみた。
"ヴォタ"やはりそう聞こえる。何のことやら。
まるでコンピューターがピタリとフリーズしたように、私の頭の中は黒く張りついてしまった。夜中の二時は過ぎていた。独りで立つ異国。薄暗い受付で何とかチェックインを済まし、エレベーターを待っていたときのことであった。
3月の北インドはまだ少々肌寒い。ここ、デリー官庁街に建つヤトリニヴァスホテルの鉄筋の高い天井はよけいにそう感じさせた。こんなはずではなかった。私の頭には、英語テープを聞き始めたときのとても印象深い夢の映像が張りついていた。
それは殺風景な広い下り道に一人立っているシーンである。そこはまるで月の上のように、空は真っ暗で地面のみが白く輝いていた。夢ではそこが異国だと思っていた。私は帰り道を知らなかった。
日本を発つときはもっと自信があった。私はインドまでエアインディアの予定であったが、航空会社の事情によりJALで香港へ、そこから英国航空でデリーまでに変更された。
そのJALの中、日本人スチュワーデスの英語放送に思わず口元を緩めていたものである。
「フムフム、私も英語が分かるではないか」と。ところがその微笑も香港までであった。
香港では7時間の待ち時間があった。東京での生活は15分の電車待ちも、とても長い。7時間など考えられない。私は外に出ることにした。私にとってはこの世に生を受けて45年にして初めて踏み出す異国の地であった。少々感激しながら入国手続きをしたのである。
私は持っていた書類をすべて係官に提出した。私達の乗ってきた便は代替機であったため、その旨がどこかに記されていたのだろう。
係官曰く「6時半までには戻らなければならないけれど良いのですか」と。
もとよりそのつもりである。英国航空に乗るまでの暇つぶしである。「イエス」とでも答えればよかったのであろう。そう言ったつもりであった。
ところが口から出てきたのは「はい」という日本語だったのである。彼は通じなかったと思ったのだろう、もう一度繰り返した。ところが、私の口から出てきたのは、またまた「ええ」という日本語なのであった。
思えば私はオーソンウエルズの綺麗なナレイションは聞いていたが、未だかつて誰とも話したことがなかったのであった。テープ学習を始めたとき、「英語というのは頭で覚えるのではなく耳で覚えるものか」、などと独り納得していたものであるが、口でも覚えなければならなかったのである。
JALのスチュワーデスの英語を聞いたときの余裕は、儚く消え去っていた。
「はい」と答えた香港国際空港 |
夜の八時過ぎ私は英国航空のジェット機に乗り込んでいた。いよいよ次の着陸地はインドである。JALではまだ日本の新聞とか日本語の放送とかに日本の香りが少しは残っていたが、英国航空ではそのようなものはすっかりなくなっていた。
機内放送は生粋のブリティッシュイングリッシュである。そのブリティシュイングリシュを聞いて私はまたまた叩きのめされた思いであった。機長の英語がさっぱり聞き取れなかったのである。「ブツブツブツグツ、グツグルブツブツ、…」私の聞いたのはそんな音であった。
「イエス」と言えなくてふらついてしまった私の自信は、この機長の英語で完全にKOされてしまう。自信が無くなるとパニックになってしまう。
パニックになると落ち着けば聞き取れるものでも聞き取れなくなってしまう。聞き取れないとますます自信が無くなる。とんでもない無鉄砲をしてしまったのではないだろうか、そんな不安に私は包まれてのインド初日であった。
しかし易に「極まれば転ずる」という言葉がある。なまじっか覚えがあるとそれにこだわり、どうのこうのと心配する。しかし何も無くなるとジタバタしようにもするものが無い。分からなければ聞くより仕方が無い。
「ヴォタですか?」私は聞き返した。あまりのしつこさに彼が怒り出すのではないかと心配しながら。
"イエス、ヴォタ"やはり分からない。
分からないままエレベーターは4階に。もう分かったような振りをして生返事で分かれようかと思った時、やっとその意味が形となって頭に飛び込んできた。彼は「水はあの売店で買えるよ」と教えてくれていたのである。"ヴォタ"と聞こえたのは「ウオーター」だったのである。
インドの人達の「W」音は私には「V」音に近く聞こえた。リクシャマンの話す腕時計の「ウオッチ」が「ヴァッチ」に聞こえ、デリーから少し南の「グワリオル」と言う地名が「グヴァリオル」に聞こえた。
腕時計を「ウ゛ァッチ」と言っていたデリーのリクシャマン |
また「th」音は「タ」に聞こえてしまう。「サンキュウ」は「タンキュウ」に聞こえる。
インド2日目だったと思う。露天で買い物をし、いくらかと問えば「タ―ンティ」と帰ってきた。私は「トゥエンティ」つまり20ルピーだと思った。
ところが50ルピー渡した私に返ってきたのは20ルピーなのである。50−20=30。釣りは30ルピーのはずである。
ごまかされてなるものかと「トゥエンティ」だろうと念を押すと「イエス、ターンティ」との答え。じゃ釣りは30ルピーだと言うと彼は平然と20ルピーだと答える。しばらく押し問答が続いたが彼は動じない。私は負けざるを得なかった。
この謎が解けたのは数日後のインドエアラインズのオフィスでのことであった。サリー姿のちょっと太めのお嬢さんが綺麗な英語で「サーティ」とも「ターンティ」とも聞こえる発音で喋っているのを聞いたときであった。
お釣りが20ルピーか30ルピーかでもめたニューデリーのメインバザール |
インドでは「th」音のTが発音されるとガイドブックにあったのを思い出した。彼の言っていた「ターンティ」は「トゥエンティ」の訛ったものではなく、「サーティ」つまり「ターティ」の訛ったものだったのである。彼の計算は間違ってはいなかったのである。
また日本語で言う「ツアー」を「トゥアー」と発音して全然通じなかったこともあった。これも何度やり取りしても通じないので、紙に書くことになった。それを見て曰く。「なーんだ、トゥールのことか」と。
そういえば「ガーデン」を「ゴルデン」、ハンバーガーの「バーガー」を「ブルガー」と言っていた。R音も我々が教えられたよりもはっきり発音されているようであった。
世の中にはいろんな英語があるのだなと思った。そう考えれば私の英語も「ヘンな英語」として、大きな顔はできないにしても、遠慮なく使ってみてもよいのではと思えてきたのであった。
首を斜めにかしげるなり、テーブルの向うの駅員は、何かを言って、差し出した私の用紙を投げ返した。ニューデリー駅の二階にある外人専用切符売り場で、マトゥッラーまでの切符を買おうとしていたときの事である。
ニューデリー駅前 聖なる牛は堂々と |
「えっ」私は目を点にして口ごもった。その様子を、後ろにいたヨ−ロッパ人が興味ありげに覗き込む。
当然どうしてなのかと聞き返すところである。ところが私は、肩越しに覗き込んでいるそのヨーロッパ人に私の英語を晒すのをためらって、何も言わずに席を立ってしまったのであった。
「いろんな英語があるのだから-----」
頭では分かってみたものの、気持ちがついつい邪魔をする。つまり、恥かしいのである。
というのも、かつて私の周りで英語が飛び交っていたのは、教室という空間の中だけであった。だから英語にはどうしてもそのときの感情、つまり成績への思いが絡みついてしまう。へんな英語を喋りたてるのは、落第点の答案を見せてまわっているような気持ちになるのである。
考えてみれば妙な感情と絡まってしまったものである。もしある人が地方へ行って、その土地の言葉を間違い間違い話したとしても、恥かしいなどとは恐らく誰も思わないだろう。
また逆に、上京して標準語がうまく喋れなくても、田舎者と思われるのが恥かしいという人はいるかもしれないけれど、成績の悪さを見せびらかしているようで----等と誰が思うことであろう。英語とて同じ一つの言葉のはずなのに-----。
私は待合室で少し時間を取って仕切りなおしをすることにした。このまま立ち去ってしまえば、マトゥラーに行けないばかりか、悔しさが私をつつく。今度は質問の英語を準備して、なるべく人がいないのを見はからって。
よく聞けば私の用紙の、ファーストクラスだの指定席だのにチェックが入れてあるのが問題だったようである。マトゥラーまでならすぐ近くだから普通で行けると言うのである。
不思議なもので、通じれば恐怖の英語は、喜びの英語に変わる。なんだか英語が喋れるような気分になり、嬉しくなってくる。
けれどよくよく考えてみれば、ホテルへ行って、なんだかんだと言っていれば、それはもう泊まりたいということであるし、食堂で喋りかければ、何かを食べたいのであるし、駅でうろうろしていれば、何処かへ行きたいのである。その場に行くだけでもう半分以上は通じているのである。
なんか上達したような気分になっていたけれど、たくましくなったのは、変な英語を撒き散らす、面の皮の厚さだったようである。
けれどこの図々しささえ身に付ければ、旅をするための最低限はなんとかなるものである。
グヴァリオルと聞こえた GWALIORフォト。青いタイルがとても美しかった |
考えてみれば我々の日常は、日本語英語で満ち満ちている。それらを交え、身振り手振りを総動員して表現すれば、何とか通じるものである。
一つ通じれば、一つ自信がつく。一つ自信がつけば、その表現を手がかりに次ぎを表現出来るようになる。こうしていくとだんだんと落ち着いて話せるようになる。落ち着くと、流暢とまではいかないけれど、何とか表現手段が見つかるものである。
例えば、蚊取り線香がほしかった時、「蚊取り線香」なる英語が分からなかったけれど、それらしき店に行き、蚊に食われた痕を見せ、「困っている、蚊を殺したい、何か無いか」と言ったら、それで蚊取り線香を出してくれた。
徐々に私のへんな英語は、恥かしげも無く大手を振って、インドの街を歩き始めたのであった。
ところで外国語を学ぶと言うことは、その国のことを学ぶということが半分以上大事なことに思えたのもこの旅であった。
と言うのも、私はNHKニュースの英語放送を聞いて、ある程度は理解出来るつもりになっていたのだが、インドでニュースを聞いてみると、さっぱり分からないのである。何が違うかと言うと、私が、日本のことは知っているけれど、インドのことは知らないという事である。
たとえば当時のニュースで「ノボルタケシタ」と言えば、これはだいたい政治の話で、消費税についてか何かであろうと察しがつく。固有名詞一つで、それは多くの情報が引き出されているのである。
ところがインドのニュースでは、そういった事がさっぱり分からない。人名なのか地名なのか或いは他のことなのか、などと思っている間に、そのニュースは終わってしまう。外国語に通じると言うことは、そこの国のことに通じることでもあるのである。
だから、旅に関して言えば、なまじっか言い回しを覚えていくよりも、そこの地名なり、列車名なりを、なるだけ現地の発音に近く言えるようにしていった方が、はるかに役に立つ場合が多いのである。
最後に、言葉不慣れで旅をしようとする人のために、必要最小限の情報を得るための私の奥の手を紹介しておこう。それはまず、「私は何々したい」と言う言い回しを覚えておく事である。これさえ通じれば、後の質問はたとえ通じなくても、何とか相手は推理してくれる。
そしてペラペラと話してこられて、これは駄目だとなったら、答えが「イエス・ノオ」になる形の質問を、こちらからたたみかけることである。「イエス・ノオ」なら、初めての言葉でも何とか聞き取れる。
つまり例えば、駅に行きたくて色々聞いても良く分からなかったら、「駅は何処ですか」と言う形でではなく、「駅はこちらですか」と言う形で聞き返すのである。勿論これは手探りに似て効率は悪い。しかしイエス・ノオを繰り返せば50%づつ正解に近づいていく。話せない言葉の国を旅する一つの手段に思っている。