資料 扶桑社教科書(2002年2月15日発行)抜粋

 扶桑社「新しい歴史教科書」の、気になる表現箇所を集めてみました。検討の参考にして下さい。但し、部分引用は、内容を正確に伝えない場合がありますので、実際の判断は、原文をお確かめください。なおNo欄の「コ」はコラムの略です。
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No 引   用 特徴※
序章 …日本の歴史はいかに長く、豊かであるかが、かえってここからはっきりわかってくるはずだ。……皆さん聖徳太子の名前を知っているだろう。5cm9mmで登場する。そのころヨーロッパは、まだ存在しない。フランスやドイツやイタリアがはっきり姿をあらわすのは12〜13cmで、日本でいえば鎌倉時代である。 齟齬比較
優越感
第1章
原始と古代
の日本
24 …といった山の幸。それに豊富な貝類。このように比較的、食料に恵まれていたので、日本列島の住民は、すぐには大規模な農耕を開始する必要はなかった。 弁解
1−1 24 …かつて土器のルーツといわれた西アジア(メソポタミア)の壷は最古のものでも約9000年前である。それに対し日本列島では、およそ16,500年前にさかのぼる土器が発見され、現在のところ世界最古である。… 優越感
1−1 24 …西アジアの土器は食べ物の貯蔵用のものだが、縄文の土器は早くから煮炊き用に用いられ、そこに加熱の跡を残している。このことは、大きな規模の農耕生活がなくても、豊かで発達した食生活が得られることを物語っている。 弁解
1−1 28 …縄文時代の食料は、おもに狩や漁や採取によっていたが、簡単な畑作も行われていた。今から約6000年前には、米作りも部分的ながら始まっていたと考えられる。 過大?
弁解
1−1 30 …けれども、日本語は現在、地球上で話されている人口数で、7番目の大きな位置をしめる言語である。 齟齬比較
1−2 32 …「倭」も「奴」も決して好意的な意味ではない。中国皇帝の権威を示すために、中国の歴史家は常に周りの国を見下す言い方をした。… 優越感
1−2 33 …使者に聞いたことを…邪馬台国を訪れてもいないし、日本列島を旅してもいない。 ――
1−2 35 …わけても、日本最大の大仙古墳の底辺部は、エジプトでも最大のフク王のピラミッドや秦の始皇帝の墳墓の底辺部よりも大きかった。 齟齬比較
優越感
1−2 38 …(日本朝貢する)…大和朝廷と百済があえて宋の朝貢国になったのは、そうの力を借りて高句麗をけん制するためであった。 弁解
1−2 7 39 …日本は、古代において朝貢などを行った時期はあったが、朝鮮やベトナムなどと比較し、独立した立場を貫いた。 弁解
1−2 7 40 …わずかなことで満足し、他人を助け、愛することが大事と説いた。 ――
1−2 42 …景行天皇の皇子に日本武尊という英雄がいたことを、古典は伝えている。景行天皇の時代…(以下神話が2ページ) 天皇
1−3 45 …太子の隋にあてた国書には「日出づる処の天子、書を日没すると処の天子に致す。恙無きや」と書かれた遣隋使は隋から見れば朝貢使だが、太子は国書の文面で対等の立場を強調することで、隋に決して服従しないという決意表明を行ったのだ。 弁解
優越感
1−3 45 …わが国は、中国から謙虚に文明を学びはするが、決して服属しない――これが、その後もずっと変わらない、古代日本の基本姿勢となった。そのかわりに、わが国は学ぶ時にはどこまでも徹底的に学ぶ。 弁解
優越感
1−3 9 50 …蘇我蝦夷と入鹿は天皇気取りで、とりでのような屋敷を構え、…おどろく天皇に、皇子はひれふして、ことのしだいを述べた。… 天皇
1−3 10 53 …こうして、豪族たちの個別の立場を離れて、天皇を中心に国家全体の発展を計る方針がようやく確立することになった。 天皇
1−3 11 54 …東アジアで、中国に学びながら独自の律令を編み出した国は、日本の他にない。新羅は、唐の律令の中から自国に役立つ内容だけを拾い出して用い、自ら律令をつくろうとはしなかった。 優越感
1−3 11 54 …とはいえ、唐の律令は内容の深さと分析の精密さにおいて、古代史上、例を見ないほどすぐれた法律の体系であった。日本の官僚たちはこれに圧倒されながらも、徹底してここから学ぶという基本方針をとらざるをえなかった。 感情誘導
1−3 12 58 …自分達の言語にこれを利用するまでには、4〜5世紀にわたる長いためらいと熟慮と工夫の期間が必要であった。 感情誘導
1−3 12 59 …いわゆる訓読という読み方の発明だった。ここには、古代日本人の深い知恵と強い決断があった。 感情誘導
1−3 13 60 …建国の由来等の物語であるが、ここでは『古事記』のあらすじを紹介する。(4ページにわたって、歴史事実と同列に、古事記の内容として、神から天皇への系譜を紹介) 天皇
1−3 14 64 …今に残る世界最古の木造建築であり、調和の取れた優美な姿の五重塔や金堂が、中国では見られない独特の配置で立ち並んでいる。 優越感
1−3 14 66 …遣唐使を通じてもたらされた唐の文化の影響を取り入れながら、世界にほこりうる高い精神性を持った仏教文化が開花した。 優越感
1−3 14 66 …阿修羅像…日光・月光菩薩、…四天王像等の傑作が残されている。その美しさは、ギリシャの古典彫刻についていわれた「高貴なる単純さ、静かなる偉大さ」という言葉が良くあてはまる。 優越感
1−3 14 66 …また、東大寺の大仏は銅でつくられた世界最大の仏像である。 優越感
第2章
中世の日本
18 84 …頼朝は朝廷の承認を受けて、地方の国ごとに守護を、荘園や公領に地頭を置いた。 天皇
2−1 19 87 …そのときの手紙の内容は日本を見くだし、「もし言うとおりにしなければ、武力を用いることになろう」と脅すものだった。しかし、朝廷と幕府は一致して、これをはねつけた。… 天皇
2−2 21 97 …室町幕府は朝廷の権限の多くを吸収し、全国的な統一政権としての性格を強めた。しかし、将軍が天皇から任命されてその地位につくという原則に、変更はなかった。 天皇
2−2 108 …どちらにしても、天皇の権限を頼りにしている。それが武家の権力の限界だった。
…頼朝が全国の武士から頭として心服された背景には、頼朝自身の指導者としての力量のほかに、清和天皇の血統を受け継いだ源氏の出身という要素も影響した。
天皇
2−2 109 …(足利)義満は、…また、明の皇帝に服従する形をとって日明の貿易をさかんにし、幕府の財政を豊かにしたことも有名である。このように、政治家としてきわだった力をもっていた義満は、それまでの武家の権力者が行わなかった、天皇の権威への挑戦を試みた。……やがて上皇に匹敵する権威と権力を兼ね備えることを目指していたと見られる。しかし、急な病気にかかって、むなしく世を去る。その後、代々の将軍から義満のまねをしようとする者はあらわれなかった。 天皇
第3章
近世の日本
25 113 …のちにヨーロッパ人は、この時代の世界進出を「大航海時代」とよんで自画自賛したが、実際には壁のように立ちはだかるイスラム教徒の力への恐怖を前提としていた。 優越感
3−1 27 120 …その頃、特にスペインの宣教師達は、南アメリカで行ったのと同様に、中国や日本を武力で征服してキリスト教を広めようという計画があった。 弁解
3−1 27 121 …2度にわたって行われた出兵の結果、朝鮮の国土や人々の生活は著しく荒れ果てた。明も日本との戦いで衰え、豊臣家の支配もゆらいだ。 誇大
3−2 29 126 …江戸幕府の統治のよりどころは、徳川家が朝廷から得た征夷偉大将軍という称号であった。そこで、幕府は朝廷をうやまいながら同時に統制しようと努め、…… 天皇
3−2 30 129 …のちの鎖国とよばれる制度は、こうして完成した。しかし、幕府には国を閉ざす意図はなかった。幕府はキリスト教の流入を防止し、貿易と海外情報の収集を幕府自身が管理することで、…… 弁解
3−2 31 132 …身分の間で相互に依存する関係が、戦乱のない江戸期の安定した社会を支えていた。
3−3 148 …先祖伝来の家業に勤勉に励むことが、人間としての安心立命につながるという考えが広がった。…… 優越感
3−4 35 153 浅間山の噴火が世界の気候に影響し、ヨーロッパでは、それによる不作が原因の一つになって、フランス革命(1789)がおきたという説もある。 誇大
3−4 163 …何よりも、浮世絵は西洋の芸術家に、新しい時代にふさわしい人間や自然の自由な見方を教え、日常生活の中に美があることを示したのだった。 誇大
優越感
第4章
近代日本
の建設
40 168 …産業革命はまずイギリスに起こり、その後、100〜120年の間に、フランス、アメリカ、ドイツ、日本にも広がった。 誇大
4−1 43 179 …しかし朝廷は条約締結を許さなかった。……条約は日本におけるアメリカ人の……不平等な条約であった。 天皇
4−1 45 185 …中国・朝鮮は文官が支配する国家だったので、列強の脅威に対し、十分な対応ができなかったという考え方もある。 軍事重視
4−1 187 …国歌「君が代」の君は、日本国憲法のもとでは、日本国および日本国民統合の象徴と定められる天皇を指し、 天皇
4−2 47 195 …上流階級、労働者階級、中産階級の区別に基づく三つに枝分かれした教育制度が、西洋では現在でもなお続いている。 優越感
4−2 48 198 …古来アジアには中国を中心とする中華秩序が存在した。朝鮮やヴェトナムは、すっぽりその内部におさまって、中国の歴代王朝の強い政治的影響下に… 優越感
4−2 48 200 …日朝修好条約が結ばれた。これは朝鮮側に不平等な条約だったが、長らく懸案であった朝鮮との国交が樹立した。 相殺
4−2 49 205 …文明開化の風俗については、表面的な西洋の模倣として非難する声もあったが、日本人が他の文明から有益なものを学び取る高い能力を備えている現われと見ることが出来る。 弁解
優越感
4−2 209 …(明治維新は)流血の市民革命よりも穏健でしかし根本的な変化を引き起こした。藩校の持つ特権をやめてしまい、武士階級の子どもだけが入れる特別エリート学校をつくらなかったことが、日本が現在のような平等な社会になった原因である。ヨーロッパでは必ずしもそうでなく… 優越感
4−3 50 210 …幕末に日本が欧米諸国と結んだ条約は、日本人の誇りを傷つける不平等なものだった。…… 誇り
4−3 51 214 …選挙権は満25歳以上の男子で、一定額以上の納税者に限られた。しかし、これによって日本は、本格的な立憲政治は欧米以外には無理であるといわれていた時代に、アジアで最初の議会をもつ立憲国家として出発した。 優越感
4−3 52 218 …日本は清に圧勝した。日本の勝因としては、軍隊の訓練、規律、新兵器の装備が勝っていたことが上げられるが、その背景には、日本人が自国のために検診する「国民」になっていたことが上げられる。 優越感
4−3 53 222 …東郷平八郎司令官率いる日本の連合艦隊は、兵員の高い士気とたくみな戦術でバルチック艦隊を全滅させ、世界の海戦史に残る驚異的な勝利をおさめた。 優越感
4−3 53 223 …日露戦争は、日本の生き残りをかけた壮大な国民戦争だった。……白人帝国ロシアに勝ったことは、世界中の抑圧された民族に、独立への限りない希望を与えた。 誇大
優越感
4−4 55 229 …幸徳秋水などを逮捕し、翌年死刑にした。他方で、政府は工場法を制定し労働者保護に努めたが、十分ではなかった。 相殺
4−4 235 …「…君死にたまうことなかれ」という節で始まる有名な詩を発表した。この詩は当時愛国心にかけると非難を浴びた。しかし、…晶子は戦争そのものには反対したというより、弟が…跡取であることから、その身を案じていたのだった。…実際晶子は、大正期の平塚らいてうらの婦人運動を当初支持したが… 弁解
第5章
世界大戦の
時代と日本
59 249 …この独立運動はたちまち朝鮮全土に広まった(3・1独立運動)。朝鮮総督府はこれを武力で弾圧したが、その一方で、それまでの統治方法を変えた。 相殺
5−2 62 256 …関東大震災…。この混乱の中で、朝鮮人や社会主義者の間に不穏な企てがあるという噂が広まり、住民の自警団などが社会主義者や朝鮮人・中国人を殺害するという事件が起きた。 政府不問
5−2 62 257 …共産党やその支持者を取り締まる治安維持法を制定した。しかし、合法的な社会主義政党の活動はさかんで、 相殺
5−2 64 265 …1927年南京で怒った外国人襲撃事件でも、日本は中国に対してもっとも寛大な態度をとった。これに対し日本国内では幣原外交を軟弱外交として…
〔囲み記事で〕…これを南京事件という。(1937年の同名の事件と区別して第1次南京事件とよぶこともある。)
相殺
5−2 64 265 …軍部の政治的発言権を強めようとする動きも出て、国民も次第に軍部に期待をよせるようになった。 弁解
5−2 65 267 …(5・15事件後)。こっこに年間続いた政党内閣の時代は終わりを告げ、その後世論の支持のもと、軍人や役人を中心とした内閣が任命されるようになった。 弁解
5−2 65 269 …リットン調査団を派遣した。リットン調査団の報告書は、満州における不法行為によって日本の安全がおびやかされていたことは認め、満州における日本の権益を承認した。一方で、報告書は、満州事変における日本軍の行為を自衛行為とは認めず、日本軍の撤兵と… 相殺
5−2 66 270 …日本軍は国民党政府の首都南京を落とせば蒋介石は降伏すると考え、12月南京を占領した(このとき、日本軍によって民衆にも多数の死傷者が出た。南京事件)。しかし、蒋介石は…… 過小
5−2 68 278 …アリューシャン列島のアッツ島では、わずか2000名の日本軍守備隊が2万の米軍を相手に一歩も引かず、弾丸や米の補給が途絶えても抵抗を続け、玉砕していった。こうして… 優越感
5−2 69 280 …大東亜会議を開催した。会議では、各国の自主独立、各国の提携による経済発展、人種差別撤廃をうたう大東亜共同宣言が発せられ、日本の戦争理念が明らかにされた。……しかし大東亜共栄圏のもとでは、…過酷な労働に従事させられ…そして、フィリピンやマレーシアなどのように、連合軍と結んだ抗日ゲリラ活動が盛んになる地域も出てきた。日本はこれにきびしく対処し、また日本軍によって死傷する人々の数も多数に上った。 相殺
5−2 69 281 …これに対し、戦時中、日本軍によって訓練されたインドネシアの軍隊が中心となって独立戦争を開始し、1947年独立を達成した。インドでは…ビルまでは…これらの地域では、戦前より独立に向けた動きがあったが、その中で日本軍の南方進出は、アジア諸国が独立を早める一つのきっかけとなった。 誇大
5−2 70 283 …祖国を思い出征していった(学徒出陣) 自主的
5−2 70 284 …だが、このような困難の中、多くの国民はよく働き、よく戦った。それは戦争の勝利を願っての行動であった。 戦争賛歌
5−2 288 …これまでの歴史で、戦争をして、非武装の人々に対する殺害や虐殺をいっさい侵さなかった国はなく、日本も例外ではない。日本軍も、戦争中に侵攻した地域で、捕虜となった敵国の兵士や民間人に対して、不当な殺害や虐待を行った。一方、多くの日本の兵士や民間人も犠牲になっている。例えば…60万の 相殺
5−3 72 290 …このうち、婦人参政権と労働組合法の制定は、以前から日本側の用意もあってただちに実行された。 弁解
5−3 72 292 …(憲法9条)この規定が、自衛力を含むいっさいの戦力保持を禁止したという解釈も生まれ、その後の安全保障をめぐる議論に…
5−3 73 294 …インドのラダ・ビノート・パール判事は、この裁判は国際法上の根拠をかくとして、被告全員の無罪を主張した。
5―3 73 295 …GHQは…日本の戦争を以下に不当であったかを宣伝した。こうした宣伝は、東京裁判とならんで、日本人の自国の戦争に対する罪悪感をつちかい、戦後日本人の歴史の見方に影響を与えた。
5−3 75 303 …ところが、共産党や中華人民共和国との関係を深めていた社会党など革新勢力を中心に、新安保条約への批判が強まっていた。…
5―3 306 …天皇は立憲君主として、政府や軍の指導者が決定したことに介入すべきでないとの考えから、意に反して、それらを認められる場合もあった。ただ、天皇がご自身の考えを強く表明し、事態を収めたことが2度あった。一つは、1936年の2・26事件の時であった。…天皇は反乱を断固として鎮圧すべきであると主張し、事件は急速に解決に向かった。もう一つは、1945年8月、終戦の時であった。…「これ以上戦争を続けることはできないと思う、たとえ自分の身がどうなっても、… 天皇
5−3 306 「…私は大きな感動にゆすぶられた。死をもともなうほどの責任、明らかに天皇に帰すべきでない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨の隋までも揺り動かした。」(『マッカーサー回想録』より抜粋) 天皇
※ 文章の言い回しというのは、微妙なニュアンスを含み、レッテルを貼って区別するのは困難です。従って、特徴の欄の区分けは、この表を一定の関心でピックアップする時の、便宜上つけたもので、必ずしも引用文の内容と一致しません。あくまで原文で各自御判断ください。
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