靖国神社をめぐる諸問題は、国家のあり方を方向付ける重要な問題を孕んでいるけれど、もっともらしい理屈を積み上げている人も、要は、先の日中戦争から太平洋戦争に至る戦争を「良し」とするか「悪し」とするか、どちらに感情が傾いているかだったりもする。
もっとも、もう少し掘り下げれば、この感情も、単なる客観的歴史事象への感情ではなく、自分という存在価値への感情と密接に関わっていて、むしろ私は、そちらの方に興味があるのだけれど、靖国の問題を考えるにあたって、その祭神の祭神たる所以の戦争に関して、戦争とは何か、またその戦争に対して、どのような精神的態度をとるべきなのか、その基本的なところを整理しておこうと思う。
よく巷の論者にあっては、戦争を政治から切り離し、SF小説のような宙に浮いた設定の中に語る人もいるけれど、歴史は如何なる歴史も、例え革命のように不連続に見える変化でさえ、今日が、昨日を生きた彼や彼女でつくられる以上、決して不連続ではあり得ない。だから戦争もまた、戦争以前、つまり政治の段階とは切っても切れない関係にある。
いや、そればかりではない。戦争とは、破壊・殺戮の手段を用いて、自分たちの意思を他者に強要する行為にほかならない。
だから、戦争そのものも、クラウゼヴィッツがその「戦争論」で明らかにしたように、政治なのである。つまり戦争はあくまで、自分たちの意思の実現を目的としており、軍事的な手段を用いているとはいえ、政治の一形態なのである。
そのため戦争では、何の為の戦争かこそ重要で、その目的さえ前面に出せば、それで正当化できると思われてきた。
確か毛沢東だったと思う、「戦争には、良い戦争と悪い戦争がある。」と歯切れが良かった。そして「階級闘争を前進させる戦争は良い戦争である。」と続いたように記憶する。
こういった明快な論理は、若い昔の私には、とても分かりやすく、その気にさせられたものだが、どうもそんな気になるのは、私だけではないのではと心配している。
「この戦争は神の命じた聖戦、ジハードだ!」「この戦争は、民主主義を守る正義の戦争だ!」「この戦争は、東和の共栄を目指す崇高な戦争だ!」…、
数え上げればきりがないが、立派な目的で飾り立て、若者を戦争に駆り立てる。けれど〈不明の原理〉は、その目的の持つ価値というのは、あくまでその個人に根をもち、決してその人から離れて、万人への強要を正当化し得る絶対的地位は手に出来ないと主張する。
「いや、ジハードは人の意思ではなく、神の意思だ」という人がいるかもしれない。しかし、もしそうだとしても、それは「貴方の信じる神」にしか過ぎない。
「いや、神は一つだ」という教えもあるようだ。けれど、もしも世界の人々に信じられているさまざまな神に、優劣や本末があるとすれば、その決着は神に任せるべきで、それを、下界の人間の殺し合いで決しようというのは、まるで選手をよそに、観客の乱闘でサッカーの勝敗を決めるような、滑稽な光景に私には見える。
少々極端な表現を使えば、戦争は、如何なる目的を掲げようとも、貴方のエゴを超えて善とすることは出来ないのである。だから戦争を、その目的を理由に、良いの悪いのと断じることは、筋違いといわざるを得ない。
このことは、取り立てて何も言ってないようではあるが、例えば「平和のための戦争」などという、まるで無限ループの迷路のような詭弁に迷い込むこともなくしてくれるだろう。
ところでこの、目的においては良いも悪いもない戦争も、その手段においては、そうでもない。
〈不明の原理〉は、どのような人の存在も、その価値において比較しようがないのだから、平等であるとするのが最も合理的であると結論する。
ところが戦争は、その一方の存在を暴力的に抹殺しようとする行為にほかならない。だから戦争とは、如何なる戦争も、その手段において悪であると結論せざるを得ない。
つまり、あちらが悪いこちらが悪いという、双方の言い訳には関係なく、戦争とは、総体として悪政の結果であり、悪政の極まりなのである。
ところが、世に戦火の絶えたためしがない。我々は、昨日までは表情を持って生きていたその顔が、今やただの肉片に変えられ、土にまみれて、その名前すら、いや、時には人数にすら数えてもらえない人々のニュースを、毎日毎日重苦しく聞かされている。
しかもそれを実行した人は、何とでも言いつくろえる目的を、絶対であるかのように思い込み、自分のなした現実を理解しようとさえしない。残念ながら、それが人の世の現実だと私は思う。
勿論、この地上から、戦争のなくなる日を信じて活動する人達を否定するつもりはない。けれど、人は人であって、犬猫ではないけれど、神でもない以上、この世から戦争はなくならないだろうと、私は少々悲観的だ。
だとすると、不手際な政治が窮まって、他者が破壊・殺戮の手段に訴えてきた時、どのような態度を取るべきなのか、基本的な考え方としても、検討しておくことは、無意味なことではないだろう。
〈不明の原理〉は、他者に自分の価値観を強要する権利は剥奪するけれど、それと表裏の関係として、自分の価値観の存在する権利は擁護する。
だから例えば地球国日本自治州のような構造にでもなれば、話は別だが、殺傷与奪の権を国家が独占しているという、いわば地球的に見て無政府状態の現状では、破壊・殺戮には破壊・殺戮で対抗せざるを得ないのではないかと私は思う。
確かに戦争に対して戦争で応えていては、無限の繰り返しから脱出できない。そればかりか、人々のねじれを、より一層複雑にしてしまい、その回復には更に何世代も経なければならないという事態を生んでしまう。
だからかつて、目には目を歯には歯をという、自然発生的な感情の連鎖に囚われていた人々の中に、「赦す」という、まるで別世界の原理を持ち込んだイエスは、それだけで神と言っても良いと私は思っている。
いや、近代にあっては、不服従、非協力、非暴力を貫いて、インドを独立に導いたガンディーなる偉人もいた。
いやいや忘れてはならない。
「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」
瓢箪から駒かもしれないが、哲学的にも鳥肌が立つほど素晴らしく、未来ある原理だと私は思う。
けれどたとえば健康も、養生なくしてありえないのは確かだが、時には手術がやむを得ぬ時もある。
だから、人々の納得が、キリスト教の「隣人への愛」でも、イスラム教の「全てをアッラーにゆだねる」でも、仏教の「執着から離れる」でも、我々がよく口にする「水に流す」でも、あるいはこの不明の原理の受け入れでもかまわないけれど、目には目を的な原理の放棄までのプロセスから、目線を離さないことを条件に、自衛の戦争は、認めざるをいないと私は思う。
ところが「自衛のための先制攻撃」などと言う人もいる。「自衛」と言ったところで、先の「平和のための戦争」と同じく、これまた白を黒と言いくるめる、目的という名の妖怪が現れる。
だから、一つには、いったい何を自衛するのかということを、具体的に明らかにすること、そして第2には、出来るだけ多くの他者(国々)の同意を、必要条件に挙げるべきであろう。
これは決して、他国の顔色を伺うことでも、主体性のなさでもない。不明の原理から規定される絶対性の否定は、具体的支持者を集めることで、より普遍に近づけるより道がないのである。
けれど忘れてはならない。いくら支持者を集めたとしても、敵対者がいる以上、その目的は、相対的であるという限界を超えられない。よってそれは、その戦争を決して正当化するものではなく、止むを得ずとはいえ、悪いことをすることにはかわりはない。
だから、戦争の勝利は、敵を殲滅するところにあるのではない。勝利はあくまで、一日も早い停戦にこそある。
また、不幸にも戦死した人は、あくまで悪政の犠牲者である。どれほどその死を讃えようとも、どれほど皆の心に生きていると言おうとも、それは生者達の御都合。当の本人は、生きる道を奪われ、二度と戻れぬ広大無辺な死の闇に、追いやられたことに変わりはない。
我々は彼らの霊を慰め、彼らに感謝するとしても、彼らを死に追いやった責任から逃れられるものではない。責任は何よりもその自覚から始まる。自覚は決して自虐ではない。
ひょっとして戦死者を、死者ではなく神として祭り上げるという賛美は、その昔、人に怯えを感じさせる生き物を、神として祭り上げ、難を逃れようとした心情に似て、この責任の重さから、逃げようとしているのではないかと、私は疑っている。
つづく
兵者、不祥之器、非君子之器、不得已而用之、恬淡為上、勝而不美、而美之者、是楽殺人