国家は政治の道具である。政治は人々に偏りをつくることであり、我々はその傾きに生じた力を利用して、社会に手を加える。国家はその力を一つに囲うための道具である。
序章でも述べたが、偏りである以上、すべての人に満足にとは行かない。いやこれは偏り以前の問題、つまり人が破壊 ―― 食べるということ ―― の上にしか存在し得ない以上当然のことかもしれない。
いずれにせよ、無人島に一人というのなら、話はまた違ったものになるのかもしれないが、人が人と関係しあって存在する社会にあっては、すべての人が100%好き勝手というわけには行かない。
にもかかわらず社会が定常状態を一定程度維持しているということは、社会には共有する一定の価値観があり、構成員はそれを「守っている」ということだ。「守っている」ということは、十人十色を考えれば、社会はそれを「守らせている」ということでもある。
守らせるには、イソップ物語の「北風と太陽」ではないが、その気にさせる「太陽」と、無理やりさせる「北風」が必要である。
つまり価値観に意味を与える「物語」のほかに、どうしても許容範囲を超えて外れてしまう人達を排除する何らかの強制力がなければならない。
何しろ人の価値観の出所は、意識のコントロールの届かない「不明」にあるのだから、たとえ多数に依拠するとしても、説得にはどうしても限界がある。
近代国家における立法・司法・行政というのも、社会の複雑さに見合って、仕掛けは大げさだけれど、内容はそういうことだ。
とはいえここまでは、例えば会社や組合、政党や教団、あるいは家族といったものとも、程度や形態、あるいは結び付けている絆は違うとしても、基本的には同じである。
けれど国家は、これらの他の集団組織とは、決定的に異なる点がある。それは人を殺す権利を持っているということだ。
果たしてそれが良いのか悪いのか、あるいは遠い将来どうなるのかはわからないけれど、現状としては、地球上のほとんどすべてがそれを認め受け入れている。いやそれのみか、国家はそれを独占し、他の集団組織には、たとえ国連たりへとも、明け渡してはいない。
我々が国家を考えるとき、この違いがもたらす意味を忘れてはならない。つまり国家とは、家族や故郷のそのままの延長ではない。
たまたま国家の偏りと方向を同じくしている人には、無風のように思えているかもしれないけれど、国家は構成員一人ひとりの喉元に、刃を突きつけている暴力装置を不可欠なものとしているのである。
勿論、国家は取り締まるばかりではない、偏りで力をつくりだし、ばらばらではとても出来ない仕事をする。だから、国家が暴力装置だからと言って、無い方が良いと結論するアナーキストの立場には、私は賛成しない。
けれどこの決定的な点を曖昧にして、あたかも国家を、家族の大きなもののように無邪気に描いて見せたり、懐かしい故郷のイメージで感傷的に謳い上げる巷の愛国論者(=実質の愛国家論者)にも、私は同意できない。
何故なら、その国家の暴力装置を押さえつける、国家より強力な道具を我々は持ち合わせていないのだから。
あまり良い例えではないかも知れないが、ブレーキのない車のようなもので、絶えず国家に批判のメスを入れ、エンジンブレーキのみで小まめに制御していなければ、ぶつかるまで止まれない。
国体を神聖化し、愛国(愛国家)で批判を封じて、次第にコントロールを失ってしまったのが、明治以降の道ではなかったのだろうか。
批判勢力の存在は、それがいかに風雲急を告げるときでも、国家にとっての生命線。いくらそれが耳ざわりだからと言って、「愛国」という感情に訴えて、無批判の一心同体を夢見るのは、大変危険なこと。
それに社会の共有する価値観を、合理性を超えた感情にまでの底上げをしようとすることは、例の「不明」を強要することで、頼るべくは暴力装置の底上げしかないのである。
このことは、愛国を高く掲げた日本が、治安維持法や憲兵と抱き合わせであっただけでなく、世界のイデオロギー国家や宗教国家が、程度の差こそあれ、秘密警察と一体であることからも一目瞭然といえよう。
国家はあくまで政治の道具。たとえそれが、暴力装置の序列の一番上に君臨しているからといって、神聖であろうはずがない。問うべきは、その道具に「忠誠」かどうかではなく、その道具で何をするのかということだ。
つづく