賛成の根拠は / 想像の産物 / 想像即ち無意味ではないけれど / 虚・実の見極めは必須のはず
※注 賛否の意見というのは、各種マスコミ及び別記の本(その他もっか読書中)を参考にしています。
靖国参拝肯定派の立場の本は、まだ偶然図書館で手にした2冊を読んだだけだけれど、どちらもその根拠とする足場の材質は、かなり想像の産物である。もっとも宗教的ことがらを取り扱ったことだから、当たり前と言えば当たり前のことである。
それに、想像というと意識の意図でつくる像のようなニュアンスがあるけれど、この場合必ずしもそうではない。むしろ意識の外(無意識と呼ぶことにして)から与えられる衝動をその根拠に想像を組み立てているようである。
例えば、新野氏が「日本と靖国神社」の中で、
「日本では断絶した個はありえない。『○○藩のだれそれ』が死んでも○○藩は残る。このときだれそれの霊魂は○○藩の守護神としてこの世に残り、しめなわのむこうでわれわれをまもる。それが国家的スケールとなったのが靖国神社である。日本の死は例え肉体が滅びようとも、たましいはこの世に帰属する。死んで天界に去りゆく西洋の宗教観・生死観とはそこがちがう。3千人もの若者が、神風特攻隊として散華していった理由がそこにある。」
と言う時、どこまでが経験で、どこからが彼のつくる想像の産物か、意識されているのであろうか。おそらくそれが意識の外に源を発するが故に、はかりがたく、その意味で神のような絶対のものに見えているのではないだろうか。
けれどこの点こそ、我々が思想を読むとき、あるいは思想を述べるとき、必ずメスを入れておかなければならない点である。もしそれを怠れば、良くも悪くも、それはとても危険なものになる。
勿論、想像すべてを無意味というつもりはない。例えば気分の良い夢は、目覚めをさわやかにする。その意味で夢もまた実像である。
けれどその夢と気分は、横の人とは共有できない。夢が実体たり得るのはあくまでその人個人の範囲の中、なのにそれを一般定義にまで押し広げて、例えば彼が「日本人は」というとき、私は日本人であることから追い出されてしまう。
なぜなら彼にとって日本人とは、日本国籍を持つ具体的な人ではなく、彼の想像、つまり客観的には彼の虚像の中に棲まう人なのだから。これが今でも時々登場する「日本人なら当然…」とか「そんな人は日本から出て行けばよい」といった主張になる。過去の「非国民」と根は同じだ。
なのにこの点を、知ってか知らずかあいまいのまま論を組み立てる。おそらくあいまいのままの方が、感情には訴えやすいのを知っているのだろう。
同じメロディに酔える人はそれでも良い。けれどそうでない人がきちっとお相手しようと思うと、いちいちの論旨の中の、この虚実の区別から始めなければならない。結構大変な作業に思えるのだが、ぼちぼち挑戦してみようかと思っている。
けれどその前に、切り分けたその「虚像」を我々はどう扱うべきかの基本的なところを明らかにしておかなければならない。でないと、切り分けるその意味が理解できないばかりか、せっかく切り分けてもまた融合するということにもなりかねない。
そこで、数回にわたって、話は少々抽象的になるかもしれないけれど、その作業を進めようと思う。具体的には、肯定論を紹介した後でないと良く呑み込めないかもしれないが、価値マンダラ思考の第一帰結でもあるので、必要の都度読み返していただければ幸いである。