小泉さんは政治家である。宗教家ではない。もっとも個人的なところでは何かの篤い信者なのかもしれないけれど、少なくとも政治家として国家の職務を担っている。これを忘れてはならない。なのに昨今の靖国論戦を聞いていると、どうもこの点がはぐらかされているように思えてならない。
で、彼が職業としているその政治とはそもそも何なのかと考えるに、平たく言えばそれは、社会に意図的な偏りをつくることである。
勿論その偏りをもって偏りを是正するとも言える。だとしても、政治行為自体は、力となり得る偏りをつくることにかわりはない。つまり、分散していては力になりえないので、結集させて方向を一つに偏らせるのである。
一つである。あらゆる方向ではない。だから当然、そこに光と影が出来る。その力の恩恵に浴する人たちは喜び、浴さない人達は喜ばない。勿論、現実はもっと複雑だけれど、一つ一つを見ればそういうことだ。
それにまた、浴さない人達の方がはるかに多いのも事の性質上避けられないこと。だからそのままではその人達がブレーキとなって、事が運ばない。かといって力をその影に満遍なく振り分ければ、せっかく集中した力も、また霧散してしまう。
そこでなんとかこの偏りを、少なくとも多数がイエスと思うような物語の中に、飾り付けなければならない。これが政治家としてなすべき重要な仕事である。
この飾りつけは、原理としてはそれほどむつかしくはない。光のところは実像で、影のところは虚像で飾る、〈未来で…〉という空手形を付録に付けて。そうすると、光と影の現実も、キラキラ輝く全体になる。これが政治マジックの種あかし。
とは言っても、だから良いとか悪いとか言っているのではない。ここで少々マイナスの感情をにじませているのは、政治家にエデンの園への案内を期待しては、〈気づけば後戻りできない深みに…〉ということにもなりかねないからである。政治の選択は〈どこに光を〉ではあるけれど、それは同時に〈どこを影に〉でもある。我々は虚像の煌きに隠れた影の実像を見ていなければならない。政治の選択は犠牲の選択でもあるのだから。
このような観点で靖国問題を見ると、参拝が決して彼が言うような「心の問題」ではない姿に見えてくる。
小泉さんは国会での追及に「一年に一度くらい、二度と戦争はしちゃいかんという気持ちで参拝するのがなぜいけないのか、私にはわからない。」と言っているけれど、この言葉はそっくりそのまま、彼にも返ってくるはずだ。『一年に一度くらいしか行かない信仰なのに、どうしてそんなにこだわるのか。』と。
それに「二度と戦争をしちゃいかんという気持ちで」と言っても、靖国神社というのは、墓地ではなく、明治以降の戦争を讃えて祭祀を行うところだから、例えば忠臣蔵を演じておいて「吉良家の名誉を守りたい気持ちで」と言っているようなもので、なんとなくこじつけに聞こえてしまう。
信仰の自由の問題はあるけれど、政治家としてのこの答弁は、要するに何とでも言える目くらましなのだ。彼が政治を知らないわけはないのだから、これは反対者をなだめるために故意についている、ここで言うところの虚像の「嘘」。
政治家小泉純一郎はその先で、しっかりと仕事をやっている。政治、つまり人と物語の再編を。彼が相手をしているのは、決して死者の霊ではない。生きている貴方を組織しようとしているのである。
そもそも儀式というのは、何の儀式かという事よりも、それをどういった形で執り行うかということにこそ意味がある。
古くは政治を「祭り事」と言ったそうだが、儀式の中には、人の組織が価値観と共に、ぎゅっと詰まって表現されている。誰が上座で、誰が下座か。何を敬い、何を忌み嫌うか。誰を褒め称え、誰を退けるか。どういう行為を賞賛し、どういう行為を蔑むか…。
我々の身近な結婚式や葬式、あるいは卒業式や入社式にすら、そういった価値観が凝縮し、参加する人々の意識下に、鋳型となって影響を及ぼす。
社会が儀式を共有することは、事に当たって人々を、知らず知らずのうちに同じ方向に向きやすくさせ、偏りへの合意も、物語の受け入れも、自ずと出来やすくする。これが儀式の意味、「祭り事」が「政(まつりごと)」たる所以である。
太平洋戦争が終わって60年、戦後生まれの第一世代も、そろそろ定年を向かえ、社会の第一線から退こうとしている。この間戦争の体験を伝える努力は、さまざまなされてきたけれど、体験というのは、知識とは違って、人から人へ、親から子へと、そのままには引き渡すことは出来ない。
というのも、心はかなり肉に近く、例えばイチロー選手の話を聞いて、次の日から貴方も3割バッターとはいかないように、文化がいくら伝えようとしても、伝わるのは知識としてであって、体験とは別の物。
戦後社会を束ねた「平和と民主主義」は、戦争を体験した人々がいたからこそ、その輝きが理解され、未来へ導く力強さを持っていたけれど、良くも悪くも人の性、戦争を体験せぬ世代の中では、次第に輝きを失い始めたのだろう。
私はむしろ、多様という意味で歓迎したいのだが、アイデンティティを国によりかかっている人達には、タガの緩んだ桶のようで、国家、即ち己の存亡の危機に映るのかもしれない。まるでパンドラの箱の蓋を開けてしまったかのように、封印したはずの思想まで、ポンポンと公の場に息を吹き返し始めている。
そんな時、隣国から向けられる反日の敵対は、それが適度である限り、日本のアイデンティティを際立たせる格好の絵筆の役をする。緩んでしまった内なるタガに変わって、外からの圧力は結束を生み出す。かつて、唐の膨張が大化の改新という中央集権を生んだように、かつてペリーの来航が、維新政府という中央集権を生んだように。
ここに彼が参拝の強行で引き起こしている、外交問題の実像があるように私は思う。だから〈意に反して敵対を生んでいる〉のではなく、事態はむしろその逆で、進んで敵対を求めているのかもしれない。
つまり、隣国の敵対を梃子にして、日本人の共有する物語を再編しようというわけだ。憲法、教科書、自衛隊、領土…、流動化をはじめたさまざまな問題に立ち向かうヤマトビトの自画像を、靖国神社のもつ価値観を復活させて。
なのにそれを、あたかも個人の心の問題であるかのように、政治の虚像の中に隠している。このことこそ問題だと私は思う。
事態がこのようだとすると、具体的今後の政治が、靖国神社参拝をめぐって展開するかどうかはわからないのだけれど、「靖国政治」は、単に小泉さん限りの問題ではないことになる。
なんだかここを入り口に、大問題が口をあけているように思える。