第2章 文化の中でのサバイバル    《 第1部 インド編(その1) 初めての海外 》
第1話 ごまかしの一手第2話 サイのように歩め第3話 何を食べれば第4話 人差し指の威力
第2章 文化の中でのサバイバル
第1話 ごまかしの一手 No.004No.004

 タクシードライバーは、私をそこに待たしておいて、クリーム色のアンバサダーに乗り込むと、前と後ろの車をバンパーでぐいぐいと押しのけた。

 映画の一シーンのようなことが、じっさいに行われているのである、案の定何処からとも無く一人の男が現れ彼に抗議をする。日本でなら即弁償問題に発展するところである。

 またまたトラブルか。街灯の赤い色が印象的な空港の広場で私は成り行きを見守った。

写真  ドアの取っ手が取れたまま私をホテルまで運んでくれたのと同型の車。どういうわけかどの車にもバックミラーが付いていない。

 英国航空機がデリーのインディラガンディー国際空港に到着したのは夜中の1時になっていた。果たしてこんなに遅くに宿が見つかるのだろうか。

 旅先での宿といえば予約して泊まることしか知らなかった私は、なかなか荷物の出てこないターンテーブルを、イライラしながら見入っていた。

 本来ならここは、ゆとりをもって立ていたはずである。というのも、初めての海外ということで、私は、第一日目だけ宿を日本で予約していたのである。

 ところが3月4日のフライトが、インドから飛行機が来ないということで、キャンセルになってしまう。自動的にその夜の宿の予約もキャンセルせざるを得ない。

 かくて私は夜中の1時を過ぎてからはじめての海外で宿を探さなければならないはめになったのであった。

 空港の外は誰もいないかと心配したが、意に反して、いや、その逆に、出口付近でひしめいている人々の多さに驚かされる。構内には各種の予約カウンターがあり私も数人の日本人にまみれて宿の予約をしてみることにした。

 私は、とりあえず、泊まる予定であったホテルの名を叫んでみたら、なんと、すんなりOKになってしまう。案ずるより生むが安である。最大の難関に思えたことがあっさり一声でOKとなってしまう。

 怒鳴りあいが始まったのはそんなホッとした矢先であった。

 ところがドライバーはなんのたじろぐ様子も見せず、なにやら激しく言い返すと、平然と車に乗り込み私の横にスーと車を止めたのであった。

 長居は無用。私は事がそれ以上こじれないうちに乗り込もうと後部ドアの前に立った。一呼吸、二呼吸、オットット、ここはインド、自動ドアなどよその国のお話であった。

 私はリュックを置きドアの取っ手に手をかけた。しかし開かない。ドライバーは体をよじってこちらを見、引っ張れと言う。でも開かない。もう一度引っ張ってみた。今度は腰の反動を使い気合を入れて。

 「グキッ」なんと鈍い音をたててドアの取っ手がもげてしまったのである。

 その取っ手からは直径3ミリ程のワイアーが延びドアにつながっていた。背筋に冷たいものが流れる。

 決して私のせいではないと叫びたいところであるが、とてつもない賠償金を請求されるのではないかと青ざめてしまう。どうするか。ごまかしてしまえ。心の中の誰かがささやく。

 私は、あわててそのワイアー15センチ程をドアに押し込み、そ知らぬ顔で反対側のドアから、座席にもぐりこんだのであった。インド初日の不安など吹っ飛んでしまう。

 彼は客のご機嫌をとろうと色々と話し掛けてくれていたが、私はばれないか気が気ではない。そんな私の上ずった声を乗せてタクシーは、一路夜のデリーを、コンノートプレースに向けて突っ走っていったのであった。

写真  タクシーの中から。渋滞するボンベイの街。
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第2章 文化の中でのサバイバル
第2話 サイの角のように歩め No.005No.005

 アショカヤトリニワスホテルは結構立派なビルで、タクシーはその正面に横付けされた。まだ取っ手のことは気づかれていない。私はサンキュウサンキュウを連発してホテルのロビーに逃げ込み、とりあえず胸を撫で下ろしたのであった。

 ロビーは薄暗くガランとしていたが受付の人は起きていた。ハウマッチと恐る恐る聞いてみたら、1泊220ルピー、約900円とのことである。

 日本での予約料金は7500円であったから、キャンセルとなりハラハラはしたけれど、6500円以上安く上げたことになる。世の中、何が幸運やら不運やらわからないものである。

 私は少々得をした気分で部屋に向かった。私の部屋は4階、さあ部屋へと上を見上げて驚いた。ホールから見上げる2階は瓦礫の山なのである。本当にホテルなのだろうかとさえ思ってしまう。

 改装中なのか、使わなくなってそのまま放置されているのか、分からなかったけれど、2階3階は瓦礫の山で、4階部分を客室として使っているのである。考えてみればそういう使い方もあり得るだろうが、インド第一夜は、予想だにしなかった光景のホテルで、泊まることになった。

 例の「ヴォタ」に頭を悩ましやっと部屋に入ったのは夜中の3時近くになっていた。シャワーは青さびの出た水道管からの水である。私はふるえながらそのシャワーを浴びた。あたかもその日にピリオドを打つかのような気持ちで。思えばこの一日、予想外の連続であったような気がする。


写真  暖かいシャワーを期待したのだが、無残にも裏切られ…

 それは既に成田から始まっていた。私はそれまで海外旅行どころか、飛行機にも乗ったことがなかった。ガイドブックを何度も読み返し、インドのあれやこれやは学習したものの、「成田での飛行機の乗り方」などというテキストがあろうはずがない。チケットがあるのに、チェックインだのボーディングチケットなど、いったい何なのだろうとよく理解できなかった。

 実際、成田で飛行機に乗れずに、旅に出られなかったなどとなったら、笑い話にもならないと真剣に心配したものである。一度でも経験をしている人と、全くの未経験の者とは、技術的には大した差は無いとしても、心理的には雲泥の差があるものである。

 そんなわけで成田発は昼の十二時半であったが、九時半にはもう成田空港に着いていた。ところがいっこうにチェックインが始まらない。エアインディアはすでにインドの雰囲気をただよわせ、日本の列車の遅れの時のように詳しい説明も今後の予定明示もない。ただ「飛行機が来ないので待て」というだけであった。

 私は初体験を前に、心臓の鼓動に少々ピリッとしたものを感じる緊張の中、空港内で待つこと五時間。かなり気だるくなった午後の三時、ついにその日の便はキャンセルとなってしまう。

 いざリングに上がろうとはりきって、そのステップで足を滑らせ、目を白黒させているボクサーのよう、いきなりガイドブックにはないハプニングから、幕が切って落とされたのであった。

 説明によると、明日どの機にのるかは不明、あとで連絡。今晩はホリデーインに泊まれるように手配するからバスで行ってくれ、とのことであった。

 私は当然ホリデーインまで誰か係員が先導し、我々はぞろぞろとついて行き、部屋を割り振られ……といった光景を想像したのであるが、係員は言い終わるなりさっさと消えてしまう。私は「あれ…」といった思いで立ちすくんでいた。

 同じ便の乗客もしばらくそこにかたまっていたが、一人二人とどこかえ消える。自分で行かなければならない。案内や先導など鼻から頭にない。そればかりか代替機を知ったのは、私が偶然トイレの起きた夜中の3時であった。

 入り口のドアの下に白い紙が差し込まれているのを、不審に思い拾い上げた時である。そこには、JALで香港まで行くから7時半のバスに乗るように、と記されていた。私への連絡は後にも先にもそれだけであった。

 7時半といえばいつもはまだ眠っている時間である。偶然トイレに起きることが無かったら、またまた成田に取り残されていたかもしれない。

 ちょっと勝手が違う思いがしていた。今まではだいたい、なるだけハプニングを避けるようにと、予定の中で動いていたように思える。けれど今回はそんな小賢しさなど笑い飛ばされるかのようであった。

 何が起こるかわからない。あたって砕けるしか術が無い。要求されるのは、事前の手際よさではなく、それへの図太さである。

 ええい!もしタクシーの運転手が、明日文句を言って来たら、その時はその時でなんとかするさ。

 私はとにかく、ベットにありつけたことに満足して、毛布にくるまったのであった。


写真  ヤトリニワスホテルの部屋。毛布1枚では寒くて、次の日はもう1枚借りた。借り賃は10ルピー(約33円)であった。

 「寒さと暑さと飢えと渇えと、風と太陽の熱と虻と蛇と、これらすべてのものに打ち勝って、サイの角のようにただ独り歩め」〔岩波文庫 ブッダのことば 中村元訳〕

 「地球の歩き方」のはじめにも引用されているこの仏陀の言葉が、急にむっくりと起き上がり、私に向かってニタリと意味ありげに笑ったように思えた。

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第2章 文化の中でのサバイバル
第3話 何を食べれば No.006No.006
写真  オートリクシャ。乗る前に必ず値段交渉をする。多すぎても、少なすぎても足元を見られる。相場を知ってピタリと言えれば、とても便利な乗物である。

 オートリクシャ(小型三輪)に揺られながら私は、左右の景色に見入っていた。観光を楽しんでいたのではない。昼食をどうするか、頭を悩ませていたのである。

 インド第一日目であった。昨夜のタクシードライバーが文句を言いに来ているのではないかと、恐る恐るホテルを出た私を待ち受けていたのは、ワッと押し寄せるオートリクシャの方々であった。

 以降はこのうるささに悩まされるのであるが、この時ばかりは、うるささよりも、すぐに人ごみにまぎれることが出来て、ホッとしたものである。一日過ぎてしまえばもうこちらのもの。後はうやむやになるだろう。

 私はそのうちの一人、若いシム君と、デリーの見所4箇所を50ルピーで案内してもらうことにした。

 食事をどうするか、次なる課題に必死で取り組んでいたのはその彼のオートリクシャの上でであった。食堂に入って食事をする、ただそれだけの事が、私にとっては大問題なのである。

 日本でなら、「のれん」があったり「食堂」とか「そばうどん」といった看板がある。それに大概は見本入りの陳列ケースもある。考えてみれば至れり尽せりである。すぐ食べるところを見つけることが出来る。今まで気にとめたことも無かったが、こういったことを知っているだけで、それはもう日本文化の通なのである。

 ところがここインドでは、食堂がどういったところに、どのようなスタエルであるのか、さっぱり見当がつかない。レストランなどといった看板はどこにも見つからず、食べている人をチラッと見かけることはあっても、家の軒先で食べているようで、食堂とも思えない。

 私はドライバーのシム君に、奢るから何処かレストランへ連れていってくれるようにたのんだのであった。

 シム君ははりきったのであろう、その後私が利用するようになる大衆レストランとは、全く趣の異なる、小綺麗いなレストランの前でリクシャを止めた。ところがなかなか一緒に入ろうとしない。

写真  インド初日、小奇麗なレストランに案内してくれたシム君。

 今から思えば身分差別の問題とかが、あったのかもしれないが、私はそんなこと気づこうはずがない。「私が払うから大丈夫」と日本人的遠慮と勘違いして疑わなかったのであった。

 なんとか席を共にした二人に運ばれてきたカレーのライスを口にして、私は途方にくれた。長さ一センチはあろうといういわゆる外米である。世界的にはこちらの方がポピュラーなのだが、日本のジャポニカを米と思い込んでいた私は、その匂いと味に食欲を一気に奪われる。

 私は仕方なくおかずのようなのを口にするが、これもダメ。わずかにその上に乗っていた、ゆで玉子四半分をやっと口に入れたのであった。これは日本と同じ味であった。

 結局そのレストランで私が食べたのは、そのゆで玉子だけであった。これではどうしょうもない。これから、何を、何処で、どのように注文していけばよいのか?

 シム君に教わり、それを手がかりに、と思っていた私のもくろみは、はかなくも失敗に終わったのであった。シム君は美味そうに食べていた。

 奇妙な光景であった。人のあふれる大都市デリーで、まるで無人島に独りで置き去りにされたように、サバイバルのための格闘をしていたのである。

 水は何処で手に入れるのか、何処が店なのか、食堂は何処で、また何をどうやって注文すればよいのか……、

 日本では何の苦労も感じなかった生活の為の何でもないこと一つ一つが格闘なのである。私は人というものが、如何に文化というものの恩恵にあずかっているかということを、いやというほど思い知らされたのであった。

 私は文化というと何か知的な事のように思っていた。学生時代の文化祭は体育祭に対立する形で、体を使うのが体育、頭を使うのが文化などと思い込んでいたようである。

 しかしここデリーで、使い慣れた日本の文化から外れてみて、文化の何たるかがはっきり見えたような思いであった。

 文化とは人が生きる様式なのである。何処で何をどのように飲むか、コーヒーにしてか、お茶にしてか、あるいは他の何かにしてか……、何処で何をどのように食べるか、材料は、味付けは、器は……、人と人はどのように付き合うか、何を怒り何を悲しみ何を大事にして、そしてどんな言葉で…、休息はいつどのような形で…。またどんな娯楽を楽しむかも文化である。だからスポーツもやはり文化の一部なのである。

 インド、デリーにポツンと一人立ち、先ず水を求めることから始まって、食べること、住むこと……、生きるために必要な一つ一つが、そのどうしてよいか分からない、やり方の一つ一つが、インドの文化なのであった。インドの人達はその文化の中をスイスイと泳ぎ、私はアップアップしていたのである。

写真  シム君のオートリクシャに乗ってのデリー観光。ムガル帝国第二代皇帝の古城、プラーナ・キラー
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第2章 文化の中でのサバイバル
第4話 人差し指の威力 No.007No.007

 シム君と別れ途方に暮れて歩いていた夕暮れ時、さん然と輝いて私の目に飛び込んできたものがあった。それは、黄金色に輝くバナナである。

 「そうだ、果物を食べていれば死ぬことは無い。」

 嬉しくなった私は、道端の彼から、バナナとりんごを袋一杯買い込み、ホテルに急いだのであった。

 次の日の朝、宿をコンノートプレイスから、ニューデリー駅前のメインバザールに移した。コンノートプレイスからニューデリーの駅前までは、歩いても15分程の距離であるが、風圧ならぬ人圧がすさまじい。

 特に駅前あたりから、メインバザールに入ると、それはそれはたいへんである。「ガイドをしよう」「列車の切符はどうだ」「ホテルはこちら」「リクシャに乗れ」「これはいらんか」「お金をくれ」「 名前はなんというのだ」………荒波のように押し寄せる彼らを、かき分けかき分け、まさに、かき分けかき分け進まねばならない。

 立ちはだかるのは彼らばかりではない。牛が歩き、牛が糞をする。リクシャが人ごみを掻き分け、その横をオートリクシャが回り込む。そして時には荷を積んだトラックが通せんぼ。まさに混沌である。ここを歩くだけで神経はかなり図太く鍛えられる。

写真  断っても断っても、次から次へと、何やかやの押売りが押し寄せる。ニュデリー駅前、メインバザール。

 その混沌の中にアショカホテルはあった。「いくらか」と問えば、なんと110ルピーとのこと。400円少々である。ヤトリニワスホテルの半額である。私はガイドブックの教えどうり、部屋を見せてくれと言う。それが当たり前になっているのだろう、二つ返事で案内してくれた。

 見た目チェック、とても清潔、シャワーをチェック、なんとお湯が出る、感激である。私はここでしばらく、インドに慣れることに決めた。かくて私は、自分の足で宿を探し確保することに成功、つまり住の文化の1つをゲットしたわけである。

   その宿に荷物を置いて、身を軽くして私は、ニューデリーの駅に向かった。移動のための下見をしたかったのである。インドの駅は日本とは違ってホームへの出入りは自由である。歩いて見ると、ホームにはいろんな売店があった。その1つに、カステラケーキのようなのが置いてあるのを発見。買って食べてみた。とても美味しい。よし、これもOK。


写真  安くて、お湯が出て、清潔。喜びのアジェイホテル。

 駅の構内に、良い匂いを漂わせている一角があった。スナックコーナーである。カウンターの向うでは、2人の男がせわしなく動き回っていた。客達はそれぞれの注文を受け取ると、右手でつまんで、うまそうに食べている。私も注文してみたい。けれど何と言えばよいのか。聞き耳を立てていたのであるが、何と言っているのか良く聞き取れない。

   仕方が無い。奥の手、指差しである。

 私はカウンターに詰め寄ると、隣の男の皿を指差し、そしてその指を立てる。「これ」「1つ」である。この人差し指が実に役に立つ。へたにNHKの会話講座を聞くよりも、役に立つのではと思えたほどである。

 通じた。私の前に待望のスナック料理が置かれたのである。後はたべるだけ。食べてしまえばこちらのもの。後は攻守が逆転する。必死になるのは相手のほう。でないとお金を受け取れない。

 自分の皿を指差され、少々けげんな表情を見せていた男も、私が外人だと分かると興味ありげにこちらを見ていた。

 「これの名前は?」と彼に聞いてみた。彼は何やら言ってくれたが、どうも聞き取れない。もう一度聞き返した。でも聞き取れない。

 言葉というのはどうも聞く側に受け皿があって、その受け皿にうまく入らない音は、聞き取れないらしい。

 例えば、「lu」と「du」と「zu」と「nu」とを一緒にしたようなある音を発音されても、耳には聞こえても、頭には残らず、復唱することが出来ない。

 何度も聞き返し、私はその音を日本語の「ドゥ」に押し込めてやっと記憶することが出来たのであった。どうやら「ドゥサ」と言うらしい。うどん粉のようなのを薄く焼き、ジャガイモに巻きつけて食べる。

 勿論カレー味であるが、半分以上ジャガイモの味なので、馴染みがあって美味しい。食文化もう1品ゲットである。

 満足そうな私を見て、その隣の男が彼の皿を差し出して来た。食ってみろ、と言うのである。私は、サンキュウと1つつまんでみた。イドリーと言うらしい。これもなんとかOK。

 アジェイホテルに日本人旅行者がいた。私は会うなり「何を食べているの」と聞いた。彼は近くの食堂のチョウメンが美味いと教えてくれる。私はその日の夕、挑戦してみることにした。

 チョウメンとは日本の焼きソバのような物でなかなかいける。果物やスナック菓子のようなものしか食べていなかった私は、久しぶりに腹にこたえるものを食べた思いに、満足したのであった。

 翌日、大衆食堂でタリーに挑戦。タリーとはインドのカレー定食のようなもので金属の大皿の上に、いろいろのせて出てくる。ここでもやはりライスはパスであったが、チャパティなる小麦粉を薄く焼いたものは美味しかった。

 少々じゃりつくような所もあったが、インドでの主食を手に入れたようで、なんとかやっていけそうで、嬉しくなった。

 こうして六日目デリーからマトゥラーに移動する頃には、旅を続けるに必要な程度の最小限のインド文化はなんとか操れるようになっていたのである。それは私の気持ちでは、一年あるいはそれ以上の体験のように思えていた。

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