第2章 メキシコ  《 第4部 小さな旅あれこれ 》
第1話 血にまみれたチャックモール第2話 テォティワカンでのこと第3話 武装ゲリラが出るという
第2章 メキシコ
第1話 血にまみれたチャックモール No.044No.044
メキシコ地図

 真っ赤な血にまみれた肉の塊は、どす黒く染まった石台の上で、まだヒクヒクと痙攣させるのを止めない。生きたまま心臓をえぐり取られた、捕虜の死体は運び去られ、かわって、焚かれた香の煙が、ピラミッドの頂上に立ち込める。

 神官が、ようやく白みかけた天をを仰ぎ、厳かに祈る。太陽よ、今日も昇れと。 そんな光景が毎日毎日繰り返されたという。毎日毎日である。

 メキシコ人類学博物館の薄暗い室内で、幾万という人の生き血を吸ったであろうその石台・チャックモール像は、スポットライトに照らされて、もっとないのかといった表情で、こちらを見つめていた。

 その表情には、悪を悪とは知らぬ、子供の無邪気ささえ漂っているように思える。洗い落とされたのか、かつての血の跡は、今は見えない。

写真  チャックモール像。腹に抱える台の上に心臓が捧げられたという。
【アスティカ帝国】 南米のペルーでインカ帝国が栄えたのとほぼ同じ15世紀頃、メキシコ地方を支配した国。

 アスティカの宇宙観によると、太陽は夜な夜な恐ろしい暗黒と、戦わねばならなかった。その太陽に、生贄を捧げ、戦う力を与えなければ、この世はその恐ろしき虚無と暗黒に支配されてしまう。彼らは真剣であった。彼らにとって、生贄は、むごい殺人ではない。それは、この世の救済であった。

 こう話すと、昔の人々は何とバカな事をと、心の押入れに片付けて、安心してしまう人も多いことであろう。しかし私にはそうも思えないのである。

 我々日常は、だいたいにおいて、「惰性の船」 に乗って生活している。それがけっこう大きくて、船であることを気にせずにいられる人も多い。

 しかし、その船の船長でなくても、人は自分の進路を決断せねばならない時がある。つまり未知との対決の時である。

 そんな時我々は、無意識から湧き出るイメージにピッタリの物語に 「自分の今」 を包み込み、明日に向かってジャンプする。明日がその物語のように展開すると信じて。よくある、御祓いや縁起かつぎは、そういった物語の小道具といえよう。

 しかしこの物語は、現実を超えた未知の闇に描かれるが故に、一つ役どころを間違えると、とてつもないグロテスクなものに仕上がってしまう。しかもそれは、現実の外に描かれるので、一度信じられてしまうと、なかなか修正出来ない。

 例えば、オーム真理教では、その殺人を 「ポア」 という 「物語」 の中に正当化していたようである。また、異教徒を殺して死ぬことが、天国への道という 「物語」 を信じて、幾百人と道づれに、ジャンボ機ごとビルに突っ込んだ人もいる。決して遠い昔の話としては、片付けられないのである。

 アスティカの人々は、生贄の儀式を要求する神、ウィツィロポチトリを信仰していたのであるが、同時に、その生贄の儀式を否定する、ケツェルコアトルの神も信奉していたという。羽毛もつ蛇として知られる農耕の神である。

 つまり彼らは、彼らの宇宙観の中から、その宇宙観を否定する原理を、拭い去ることが出来なかったのである。

 物語の初めのところで、少しそのボタンをかけ違えてしまい、どうすることも出来なくなってしまった、アスティカの人々の悲鳴が、そこから聞こえてくるような気がするのは、私だけであろうか。

 100ペソ紙幣の絵柄にもなっている、花の王子ショチピリの像にも、どことなく不安が漂っている。

 「青春と詩と、愛と踊りの神」 とガイドブックにはあったけれど、足を組み、天を仰いで座るその姿は、喜びよりも、この悲劇の宇宙観への、畏れを感じているように思えてならない。

 像の背景に、一面の花畑を想像してみたけれど、私はそれよりも、青白き月夜の方が、似合うように思えてならなかった。

写真  花の王子ショチピリ、青春と詩と、愛と踊りの神とのこと。

 博物館には、アスティカのみならず、トルテカ、オアハカ、マヤ、等など、12の部屋があり、とても1日では見尽くせない内容であった。

 畢竟、上辺だけの鑑賞とならざるを得なかったけれど、当時の事情をよく知らない私から見れば、ユーモラスに見えてしまうものも多く、バリで驚いたような芸術センスを感じてしまう。

 そんなセンスを引き継いでいるのか、メキシコでは芸術が街に息づいているように思える。お上品な日本のモニュメントに比べ表現が大胆で、街を歩いていて、広場や公園を飾る彫刻に、ハッとさせられることも少なくない。

 そんな街並みを楽しみながら私は、レフォルマ通りを、チャプルテペック公園から、ソカロ近くのホテルまで歩いて帰った。辺りはすっかり暗くなっていた。

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第2章 メキシコ
第2話 テォティワカンでのこと No.045No.045

 メキシコシティの北50キロメートルの所にある、テオティワカンでのことである。私はちょっとしゃれた角度から、今登ってきた、太陽のピラミッドの、写真が撮れないものかと、コースを外れ、道なき所をさまよっていた。

写真  月のピラミッドから見た、太陽のピラミッドと死者の道。テオティワカン。
【テオティワカン】 テオティワカンという地名は、廃墟となっていたこの地を訪れた、アスティカの人々が、『神々の場所』という意味で、そう呼んだもので、繁栄当時何と呼ばれていたかは、わかっていない。
 

 考古学者によると、地層から発見された遺物の広がりによって、一つの文化が広域を支配した形跡が、メキシコには3度あるという。

 その一つが、前回のアスティカであり、その前の時代が、ここテオティワカンを中心とした文化である。アスティカ時代を遡ること約千年、4世紀半ばから最盛期を迎えたこの文化は、巨大なピラミッドをここテオティワカンに残し、7世紀中頃、忽然と姿を消した。

 太陽のピラミッドというのは、その遺跡の北、3分の1ほどの所に立つ大ピラミッドである。エジプトのピラミッドとは違って、上で儀式か何かを行う用途をもっていたのか、頂上が平地になっており、そこまで登れる階段がついていた。

 65mと、高さはエジプトフク王のものの半分ほどであるが、上が平らな分周囲は大きい。しかし一つ一つの石の大きさは、人が持てる程度で、その分迫力に欠ける。

 そう思いながら登ってみたのであるが、いざ登ってみると、やはり迫力を感じてしまう。頂上には何もなく、平原から風がただ吹きつけるだけで、テオティワカンの神は何も語ってはくれなかった。

 けれど、高い所というのは妙なもので、豆粒のような地上の人を遠くに見ていると、少し自分が、彼らとは違う空間にいるような気分になる。

 その空間に直接包まれて、何というか、気持ちが自分に集中し、もしそこに誰もいなければ、心の中のあれやこれやを、虚空に向かって話しかけていそうである。

 テオティワカンの人々が、この高みを、神聖なる所のように感じたであろう気持ちが、わかるような気がした。

 ところで登る時は、そうも感じなかったのであるが、いざ降りようとすると、その急な階段に、立ちすくんでしまう。私はやむなく体を横に向け、横降りをするありさまであった。

 私も歳を取ったかなと、思ったものの、そんな格好をしているのが、私だけではないのを知って、少々安堵したものである。

 そんな思いで降りてくると、登る前はただの高台のように思えたところも、妙に愛着が湧く。そんなわけで、一つその雄姿を、ベストアングルで撮ってやろうと、草むらの方を、ウロウロし始めた。そのついででの出来事である。

 私は立ち木の向こうに回ったのだが、声がなお近づいてくる。小便をしようとした仕草を見て、何か注意でもしに来たのだろうか、少々ヤバイ予感。エジプトでは写真を撮ろうと、少し高い所に上がって、えらく怒られたものだ。私はそ知らぬ顔で歩き始めた。

 と、明らかに私を呼び止める声がする。私は振り返った。声の主は、中学生くらいの、可愛いお嬢さん達だった。何だろう、ガールスカウトか何かで、遺跡清掃のボランティア活動でもしていて、注意にでも来たのであろうか。私は次の言葉を待った。

 するとリーダー格の少女が、英語交じりで言うには、一緒に写真に入ってくれないかというのである。「えっ」と思ったが、勿論OKである。キャッキャッと嬉しそうな、彼女たちに混じって、特上の顔をつくったのであった。

 いったい私が何に見えていたのであろう、彼女達にとって東洋人は、絵になる程珍しい存在だったのだろうか。そんなことを思いながら、私はメインストリート「死者の道」に戻った。けれど悪い気分ではなかった。

写真  この中に混じって、彼女達のアルバムに私もいるでしょうか。

 次の日曜日私は、街の中央広場ソカロに向かった。途中ずらりと並んでいた歩道の物売りが、一斉に商品を片付け、蜘蛛の子を散らすように逃げ去る場面に出会った。

 彼らは20m程離れた人ごみの中から、こちらをうかがっている。どうやら警察が、取り締まりの巡回に来たようだ。何か複雑な事情を、うかがわせる一コマであった。

 ソカロでは先住民の人たちが、民族衣装に身を包み、輪をつくって踊っていた。中心には儀式用の小道具が置かれ、頭に羽根毛、足に鈴の十人ほどが、その周りをリズムをとって回る。

 じっと見ていると、気持ちが踊りの中心に引きずり込まれていくような、そんな不思議を感じてしまう。明らかに観客を喜ばせる、ショウダンスではない。また、神に捧げる踊りでもないように思えた。

 そもそも彼らにとっての踊りとは、踊る人達が踊ることによって、心の模様をある形に整えていくための、手段だったのではないだろうか。方向は違うけれど、その意味では東洋の座禅のように。

 近くで白人が、彼らの焚く香の煙を浴び、日本でいう「お祓い」のようなのを受けていた。いつの世も人は、合理的なもののみでは、生きていけないようである。ここでは彼らが、その神秘的なものを求める精神の、一つの象徴の役目をしているようであった。

 踊りが一段落すると、リーダーがなにやら演説を始め、カンパを集めていた。どうやら神秘的な力のみでは、解決することの出来ない具体的問題も、抱えているようである。

写真  中央広場ソカロで、輪をつくって踊る、先住民グループ。踊りの後カンパ活動をしていた。
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第2章 メキシコ
第3話 武装ゲリラが出るという No.046No.046

 多くの旅人の中で、私の友人が遭遇するということは、かなりの確率でそういうことが起こっているように思える。

 どうもアメリカ文化圏というのは、簡単にピストルが使われてしまいそうで、薄氷の上を歩いているような恐ろしさを感じてしまう。途中に過程がなく、いきなり結論といった恐ろしさである。

 私はタスコに行くバスに乗るところであった。ガイドブックには、メキシコシティ〜タスコ〜アカプルコの路線には、今も武装ゲリラが、西部劇のように出没するから、十分注意するようにと、二箇所にわたって記述されていた。

 注意といったって、ピストルを向けられたらどうしようもない。

写真  配色がとてもカラフルなメキシコデザインのお土産が並ぶ、タスコの町。

 実のところ私は街並みが世界文化遺産に指定されているグアナファトのほうに行きたかった。けれどちょうど十月の国際セルバンテス祭の期間にあたってしまい、予約なしに宿は無理だろうというのである。

 仕方なく同じ中世都市として、白い街並みが美しいタスコに行くことにした。こちらの方が宿が安いというのも魅力である。

 防弾チョッキを着込んだ警官が、厳重に乗客の荷物をチェックしている。私も覚悟したのであるが、日本人とわかると、拍子抜けするほどあっさりとパスであった。

 バスに座っていると、車掌が、両サイドのカーテンを閉めてまわる。実際には何か別の理由があったのかもしれないが、いざ敵陣突破のような雰囲気で、緊張してしまう。これからタスコまではノンストップである。

 がここでも、案ずるより産むが易しで、バスは2時間半ほどで、無事タスコのバスターミナルに到着、ホット胸を撫で下ろしたのであった。

 タスコの町は18世紀に銀の発掘で栄えた町である。なにしろ植民地時代の約250年間で、メキシコとペルーからスペインに運ばれた銀は、10万トンにのぼるという。

 ちょっとピンとこないが、比重を10として計算すると21m四角の塊ということか。その一角をここタスコの鉱山が支えたのだ。けれどその後、鉱脈が尽きると町も発展を止め、それが逆に幸いして、銀山華やかなりし頃の町並みが、そのまま残ったという。

 遠くから見ると、白壁の家々が、ちょうど散った桜の花びらのように、緑の斜面にまぶしくへばりついていた。

  私はまず町のシンボル、サンタプリスカ教会を目指して坂を登った。銀の大鉱脈を発見し、一躍大金持ちになったボルダが町に寄贈した教会である。

 坂がけっこうきつい。この坂の町で毎日生活するのは、ちょっとの買い物でも大変なことであろう。フォルクスワーゲンが、少し派手な音を立て、私の横を走り抜けて行った。

 目指すロスカスティジョスホテルは教会からそう遠くない裏通りで見つかった。3階4階といった建物が立て込んでいて、日当たりは少し期待できないものの、窓からの眺めは、いかにもスペインコロニアルといった雰囲気で、調度の先住民ふう木彫もなかなか楽しい。

 一泊23ドルと、私には少々高めではあったが、無事の到着を祝って泊まることにした。

写真  石畳と白壁が美しいタスコの街。ホルクスワーゲンガ狭い路地をすり抜ける。

 翌日はカメラを持って町を歩いた。道は何処も美しい模様入りの石畳である。アスファルトの道の慣れている私は、石畳の持つその贅沢な雰囲気が少々驚きであった。

 というのも、石というのは我々に、それが経たであろう長い時の流れを感じさせる。そんな上を歩いていると、そこを歩いたであろう昔の人の足音が聞こえるようだ。

 道というものの姿形が、その空間に与える芸術性を、改めて知ったように思えた。便利さも良いけれど、こういう「空間の演出」という道の機能も、捨てがたい。

 私は時々立ち止まり、シルバーラッシュに沸いた頃の、この道を想像していた。いや、白状すると、時々立ち止まっていたのは、そのためばかりではない。

 何しろ山の斜面にへばりついた町である。何処へ行くにも坂道、下りはテッテッテと歩けても、上りはきつい。ついつい一休みしてしまう。

 その上、私は昨日からお腹の調子が思わしくなかった。 どうやら、前々日の夜、ハンバーガーを少し食べ過ぎたようだ。

 というのも、テオティワカンに行ったその日は、食べる機会がなく、飲み物以外は夕方まで、ろくな物を口にしなかった。そこで栄養をつけなければと、夕食後にハンバーガーを2つ買って帰り、ホテルでまた食べたのである。

 すこし多いかなとは思ったが、せっかく買ったのだしと、平らげてしまった。次の日から調子が悪い。またまた深く反省の昨日今日である。

 教会の前の広場で休んでいた私の前に、子供たちの蹴ったボールがころがって来る。この街では子供のボール遊びもままならない。所々の教会の前にある小さな広場が、唯一のボール遊びの出来る所である。

 見ているとその横で車の付いた板に乗って遊んでいる子供がいた。これは坂ならではの遊びである。ハンドルも付いていて、少し大人の協力の跡もうかがえるが、子供というのはどんな情況でも、遊びを見つける天才だ。

 タスコには2泊しか出来なかった。3日目、私は再びメキシコシティへのバスに乗った。来る時はカーテンの中であったが、帰りは真ん前の席で、雪をいただいた5452mのポポカトペテルの美しい姿が印象に残った。

 メキシコシティに着いたのはちょうどお昼、ターミナルの屋台に群がる人々に混じって、私もタコスを注文する。

 どうもややこしい、銀山の街はタスコで、小麦粉を焼いた上に色々な具をのせて食べるのはタコス。私はインドネシアの蕎麦「バソ」を思い出しながら口に入れたのであるが、これが実に美味しい。

 今までも何度かタコスを食べたが、このターミナルのタコスは絶品に思えた。しばらくお腹をこわし食事を制限していたせいかとも思ったが、人々の群がりようを見ていると、そればかりでもないようであった。

 やはりどこでも美味しい所に人は集まる。逆に考えればこれは、見知らぬ地で、美味しい所を見つける一つのコツといえよう。

写真  レストランのタコス。だいたい1枚0.4ドル程度。

 宿に荷を置き、アラメダ公園をぶらついて、ラテンアメリカタワーに昇った時は、辺りはもうすっかり暗くなっていた。

 地上42階の展望台から見下ろすその世界は、大きなお盆にキラキラ光るダイアモンドを散りばめたようであった。

 ネオン輝く赤い灯青い灯というのも良いかもしれないけれど、こういった、墨を塗ったような闇に、朱色の輝く点を、無数に散りばめた夜景というのも、格別の美しさである。

 東の空にジャンボ機が一台降りていった。きっとあの中には、この宝石散らばる夜景の美しさに、胸震わせている旅人がいることだろう。

 明日私は、あそこから日本へ飛び立たねばならない。

第2章 メキシコ 完

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