価値マンダラ思考 第18回 靖国政治 (7)
価値マンダラ思考 第18回 靖国政治(7) / 2006年6月15日
【 第5節 慰 霊 】
黙して語らぬ死者なのに / 死者との交流を前提にしている / 聞こえるのは己の声 / それは価値観を確かめ合う儀式 / 死者の権威を利用しての押しつけ / 何故靖国神社でなのかこそ具体的に / 事は過去ではなく未来の問題だから
靖国政治 目次 ⇒
第1章 いくつかの原理的確認
第5節 慰霊 ― 死者は語らず
黙して語らぬ死者なのに

 死者は何も語らない。死者は何も語れない。死者は何も語ってはくれない。

 それなのに我々は死者の声を聞いている。いや、聞いているように思っている。例えそれを意識していない人でも、死者の声を前提にした発言に、なんら違和感を持たない人が多いと思う。

 「殉国の英霊に対して、感謝申し上げ、お慰め申し上げるということは、何処の国でもやっている普通のことなので、わが国におきましても、そういう真心をささげるということは、大事なことではないか…」

 これは1983年の中曽根首相の国会での答弁だそうだが、彼固有の思想というより、参拝を主張する人の多くが共有している思いだと言っても良いと思う。

 もっとも賛成者もいろいろで、その奥に様々な思想が見え隠れするのだけれど、多数の支持を得るために、素朴で当たり前の心情として、今もいたるところから聞こえてくる意見である。

死者との交流を前提にしている

 ところがよく考えると、この「お慰め申し上げる」という思いは、慰められることを喜ぶ対象の存在を前提にしている。そしてその行為は、対象が喜ぶことによって、正当化されるという構造になっている。

 つまり「慰める」として行われる行為が、行為者の一方的主観ではなく、それから離れて、対象が実際に喜んでいるという客観として主張されているのである。

 けれど死者は何も語らない。「どうもありがとう」とも、「ちょっと待った、私は命を捧げたのではなく、奪われたのだ。その責任はどうなっているのだ。」とも口にはしない。

 もっとも、私はまだ死んだことがないので、死者の世界が有るとも無いとも、断定は出来ないのだけれど、少なくともこの世には、あの世からの情報は一切届かないということは、皆さんと共に確認できると思う。

聞こえるのは己の声

 それなのに、こういった発言に違和感をもたないということは、声は外からではないのだから、内から、つまり意識の下に潜む自分自身の声を聞いているのに他ならないのだろう。

 だから「お慰み申し上げる」という行為は、いわば自作自演の、生者が自分の価値観を満足させるための行為ということになる。

 とはいえ、この点さえ明確にされていれば、それはお互い尊重しあうべきことでこそあれ、なんら問題とはならないと思う。けれど片思いも、相思相愛と錯覚してしまうと、いろいろ問題が起きてくる。

それは価値観を確かめ合う儀式

 先の当たり前という素朴な感情に訴える論者は、ほとんどがその慰霊の思いを、どういう形で表現するのかという点には、知ってか知らずか、おそらく故意にだとは思うのだけれど、立ち入ろうとはしない。

 靖国神社の持つ国家観、歴史観、戦争観などは、かなり特徴を持っているにもかかわらず、それをなんら語ることなく、いや、時には別の衣に身を包んで、その価値観を確かめ合う儀式の中に、国家を組み入れようとしている。恋の表現も、片思いを一方的に押し付けるとストーカーにもなる。

 もしも実際に相手からの評価が受け取れるのなら、そんなにこだわる事はないかも知れない。たとえ独りよがりの表現であっても、次第に修正されて客観性を獲得することができるだろう。けれど残念ながら、死者は何も語ってはくれない。

 慰霊はあくまで、死に追いやられた彼のではなく、戦死をまぬがれた人の、生のぬくもりからの一方的な死の意味付け。何処まで行っても、生者の価値表現であることから抜けられない。そう、それはあの「不明」に根を持つ世界、客観的判定の出来ない世界。

死者の権威を利用しての押しつけ

 それなのに、実際に死者がいて喜んでいると錯覚しているかの人は、死者が物言わぬことを良いことに、己の思いを死者の思いにすり替えて、その権威で皆に押し付けようとしていることに他ならない。

 「慰霊するのは日本人として当たり前のこと、それなのに、国家の代表が靖国神社へ参拝することに異を唱えるとは、中共の手先か!」

 そんな主旨の発言は、首相の参拝を推し進めようとする人達の間から、良く聞こえてくる主張である。特定の価値観なのに、それを死者への感情で覆い隠し、異を唱えれば、非国民呼ばわりするとすれば、それはあの全体主義の道。

何故靖国神社でなのかこそ具体的に

 慰霊という感情は、多くの人が共有するとしても、死者が生者に何を望むかは、想像の域を出ないのだから、あたかも死者が自分の想像通りを求めているかのように、責任を死者にすり替えて、日本の方向を固めようとするのは、だまし討ちに等しい。

 国家が靖国神社で慰霊することを主張している人は、「死者に申し訳ない」といった感情に訴えることで事を済ませるのではなく、慰霊の表現として、なにゆえ靖国神社なのかを、具体的に論ずるべきだと思う。

 そうすると自ずと、政教の分離のみならず、歴史観や戦争観、そして日本の未来をどのような方向に向けることを意味しているのかも、表に出てくることであろう。

事は過去ではなく、未来の問題だから

 試しに、1983年に党の小委員会でまとめられたという、奥野氏の見解の一部要約とその裏返しを、パロディタッチで並べてみた。

「国の独立を守ることは国民の最も崇高な義務である。靖国神社は、国家のために命を捧げた戦没者を祀るところ。多くの人が訪れるのは、戦没者が国家のために尊い命を捧げたという事実に対し、感謝と敬意を表し、みたまを慰め、訪れるものの決意を表明するなどの意図に出るものである。」

「国民の命を守ることは、国家の最も崇高な義務である。靖国神社は、にもかかわらず、国家のために命を奪われた戦没者を祀るところ。多くの人が訪れるのは、戦没者が国家のために尊い命を奪われたという事実に対し、反省と責任を感じ、みたまを慰め、訪れるものの決意を表明するなどの意図に出るものである。」

 どうだろう、無理に類似させたので、少々難はあるかもしれないけれど、どちらも慰霊を賛成している。けれどおそらく後者には、奥野氏も靖国神社も憤慨されることであろう。そこをこそ、正面から論争の光に曝すべきだと私は思う。

 事は感情の問題でも、過去の問題でもない。国家の骨組みの問題、未来の問題である。

つづく

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