靖国政治
価値マンダラ思考 第14回 靖国政治(3) / 2006年3月8日 / 4月8日改定
【 何故に 信仰の自由 】
憲法違反だから反対 / 護憲だけでは / 信仰とは虚像を信じること / 勿論、虚像にも意味はあるけれど / 客観的には点としての我々の存在 / 歴史の教訓だから? / 誰しも根拠は不明 / 「不明原理」 / 信仰の自由はその帰結 / 宗教とは経験界を外から包んだ物語 / 靖国神社の儀礼は宗教
靖国政治 目次 ⇒
第1章 いくつかの原理的確認
第1節 信仰の自由
1、憲法も人のつくるものだから
憲法違反だから反対

 テレビ討論などを聞いていると、首相の靖国参拝に反対する人は、外交問題を別にすれば、その根拠を「信教の自由・政教の分離」を唄った憲法20条においている人が多いようである。

 勿論、憲法は守るべき社会の骨として、我々は共有しているのだから、それで良いのだけれど、憲法もやはり人のつくるもの、なぜにその憲法条項が必要なのかは、例えそこで論争しないとしても、論者の思想の中には、一貫して据えられていなければならない。

護憲だけでは

 でないと、いくら論陣を張っても、砂上の楼閣に棟を積み重ねるようなもので、例えば新野氏が

 「現在の日本国憲法がフィリピンの憲法と似ているのは、この2つともアメリカの占領命令書を書き直したものだからである。命令書の『神道指令』は、スタッフ・スタディ≠ニなって担当部署に配られた。『神道の国家からの分離を達成し、神道を教育制度から除却することを命令された』とある。これが憲法に反映されて20条の『政教分離』となった。金科玉条のように扱われている同条文も、もとをただせば、JCS命令書の丸写しなのである。」

 と、憲法そのものを認めない論を展開すると、同じレベルでは太刀打ちできなくなってしまう。ましてや自衛隊をめぐって、ほとんど解釈改憲といった扱いを受けている日本の憲法である、何故必要なのかの確信がなければ、20条とて骨抜きにさてもおかしくはない。

2、信仰とは
信仰とは虚像を信じること

 信仰とは虚像を実像と信じることである。勿論、先にも述べたように、虚像すなわち無意味という意味ではない。

 よく例にあげられることではあるが、砂漠の真ん中で残されたコップ一杯の水を「まだこれだけある」と思うか「もうこれだけしかない」と思うかで、その水の意味も、それを手にしている人生の意味も、ずいぶんと違ったものになってくる。

勿論、虚像にも意味はあるけれど

 だからその意味で、ものの見方というのも、実体あるものといえる。しかし、「まだある」も「もうない」も、信じる者のみに意味のあるいわば虚像、経験を通して、いやが上にも万人に共有を強いる実像ではない。

 我々は「今」という現実の前後に時間軸を張り出し、そこに虚像で物語を描く。そしてその「今」という一幕を、その物語の一シーンとして感情し、その幕を演じる。我々の「今」は、その物語によって勇気もつヒーローにもなり、ヒロインにもなる。

客観的には点としての我々の存在

 しかし忘れてはならない、我々は人間であって神ではない。未来のことは誰も知らないし、生まれる以前のことも、いろんな情報をもとに、それらが矛盾しない想像を組み立てるだけで、誰も体験したわけではない。

 いや、生きている今も、我々は個としての体験であって、決して全体を体験しているわけではない。我々が全体と思っているのもやはり、その個から帰納的に拡張していった壮大な建造物なのである。

 我々は主観的には線や面として自身を捉える能力を持ってはいるけれど、客観的には、点としてしか存在し得ない。過去も未来もこの世もあの世も、その一点の上に幹を延ばした大樹なのである。

 勿論、その一点は、諸関連の産物としてあることは言うまでもないけれど。

3、信仰の自由は何故
歴史の教訓だから?

 では何故に信仰は自由でなければいけないのだろう。ある人は憲法にそう規定してあるからと答える。またある人は、信仰を強制することによる数々の悲劇を我々は歴史から学んできたからと答える。あるいは、なんびとも犯すことの出来ない基本的人権だからと答えるのかもしれない。勿論信仰の自由を否定する人もいることだろう。

誰しも根拠は不明

 けれどいずれにせよ「何故そうなの?」と問いかけを続ける時、根拠をいくつ掘り下げることが出来るだろう。例え一つ二つ掘り下げることが出来たとしても、必ずや「とにかくそうなんだ」と開き直らざるを得ないところに来てしまう。いわば虚像の証、万人共有の客観に飛翔できない主観の端末。

 例えそれを「神の摂理」と装飾しようと「人は本来」と独断を宣言しようと、あるいは「日本人は…」と当然のこととして語り始めようと、事態は変わらない。

 話はそれるので、あまり詳しくは展開しないけれど、釈迦や孔子やイエスやマホメッドたちは、この端末に人の思いつかなかった驚くに値する原理を据えた。私はその天才的閃きに、彼らを神の使いと言っても良いのではとさえ思っているのだけれど、その彼らも、何故そうでなければいけないのかと問われるとき、その根拠は見つけられないはずだ。

 ちょっとわかりづらいかと思うので、一つだけ簡略化して例示しておくと、例えば釈迦が「人生の苦は執着による。執着は明らかに見ないこと(無明)による。だから明らかに見て(諦観)執着から離れることが出来れば、苦からも離れられる。」という深遠な原理を説いたとき、「どうして苦がいけないの?私には面白いけれど。」という人がいたとしたら、彼はそれに答えられなかったはずだ。つまり信じる者のみに意味があり、万人に共有を強要できない虚像の宿命である。

「不明原理」

 この端末に直面して、哲学者の態度は二分する。一つはその端末を当然のことと不問にして、それよりこちらの世界の整理に取り組む人達。

 もう一つは、その端末の向こうへ、エイヤッとばかり身を躍らせる。けれどそこは意識の限界をはるかに超えた世界、太刀打ちできようはずもなく、たちまち呑み込まれ、未だ成果を得て帰った人のない旅路。

 私は独断も冒険もやめた。ハイゼンベルグの不確定性原理ではないが、この端末より先は不明として、不明のまま受け入れることにした。

 つまり《いかなる思想も宗教も、その価値構造を支える根底は、意識は解き明かすことは出来ない》というのを原理に据えたのである。

 はじめは単なる意識の屈服だと思っていた。けれどどうもそうではないように思えてきている。この原理を受け入れて、端末よりこちらの世界を見てみると、それはそれで辻褄のあった一つの世界へと、次第にものごとが並び始める。

信仰の自由はその帰結

 実はその話をしたいのだが、テーマからそれるので「魂の顔」の宣伝にとどめ、信仰の自由の問題に話を戻すと、それは経緯としては歴史の悲劇から学んだ知恵ということだろうけれど、論拠としては、この「不明の原理(価値マンダラ原理)」の直接の結論でもある。

 つまり、信仰は根拠がその個を離れてはそもそも不明であって、たとえば個と個で不一致の場合、その是非を判定することが人は不可能なのだから、お互いを対等とするのが一番合理的だろうということである。

 つまり我々が神ではなく人である以上、信仰は自由とせざるを得ないのである。

4、宗教とは
宗教とは経験界を外から包んだ物語

 宗教とは、以上の信仰の対象ということであるが、別言すれば、意識の経験できる範囲を超えて拡張した世界を根拠に、そこから人および諸々のこの世の存在の意味をとらえかえした、物語の体系、あるいはその断片であると言えよう。

 従って、科学の方法のように、経験を通してはその是非を判定出来ず、信じるより立証の手立てはない。

 また、この意識を超えたところからということは、意識が限定を加えることが出来ないということであり、よって、信じる人にとっては、永遠にして無限なるものに映り、吹けば飛ぶようなつかの間の生の、よって立つ根拠になる。

 それほど重要なのに、悲しいかな意識はその是非を裁けない。裁くは力による抑圧しか手立てがなく、統一は他の抹殺をもってしかなし得ない。

靖国神社の儀礼は宗教

 靖国神社の祭祀は宗教にはあたらないという人がいる。けれど靖国神社はいろいろな物語が混在する場ではない。

 例えば靖国神社に祭る神は〈 戦争は尊い国家主権の行為だから、その過程で亡くなった人は神になり、再びこの地に降りて、国家を守らんとする英霊 〉という物語をもつ神であり、靖国神社で祭祀を行うということは、その価値観の再確認である。

 だから例えば〈 いかなる理由があろうとも、人を殺せば地獄に落ちる 〉という物語があるとすると、それを信じる人は排除されざるを得ない。

 政教分離の問題は、国家を整理してからもう一度取り上げようと思うけれど、靖国神社の儀礼は、立派に宗教である。

つづく

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