価値マンダラ思考 第17回 靖国政治 (6)
価値マンダラ思考 第17回 靖国政治(6) / 2006年5月14日
【 第4節 政教分離 】
国家の原理は強制 / 意識は宗教を裁けない / 国家と宗教の結合は「空想」の強制 / けれど、おうおうにしてその結合が / 国家は価値観を共有し、価値観は宗教を背景にするけれど / 価値観を支える背景は多様 / そこは国家の強制の踏み込んではならない所 / 特に死観は微塵たりとも / 目的・効果基準に立つとすれば、画すべき一線は
靖国政治 目次 ⇒
第1章 いくつかの原理的確認
第4節 政教分離
国家の原理は強制

 国家の原理は強制である。例え「自由主義」と名乗っても、それは変わらない。「自由主義」という名のルールを強制する。

 国家の強制は全員を捉える。例え直接にはタッチしない人も、邪魔は許されず、税金として強制的に徴収された資金が、その運営に当てられる。国民はその領土に留まる限り、この強制から逃れられない。

意識は宗教を裁けない

 ところで宗教とは、意識の経験する領域を超えて拡張した世界での舞台設定を根拠に、経験の意味を描き上げた物語であった。だから意識は、自らの領域の外を根拠にする宗教を、裁く力を持たない。

 例えば科学の理論は事実に屈服するけれど、宗教の論理は事実に屈服しない。仮に「信じれば御利益がある」という宗教があるとして、もし入信したその日に大怪我をしたとしても、「入信のおかげで死なずにすんだ」と、否定どころか肯定にさえ解釈され得る。

国家と宗教の結合は「空想」の強制

 国家がこの宗教と結合するということは、その強制原理の根拠を、この「空想」の物語に置いてしまうということである。勿論、ここで「空想」と言っても、無意味でいかなる実体もないという意味ではない。「鰯の頭も信心から」とまでは言わないけれど、信じる人にとっては、それは実体ともなり得る。

 けれど《 信じる信じないに関わらず、万人が経験を強要される客観的事実ではない 》という意味で、やはり宗教は「空想」なのである。

けれど、おうおうにしてその結合が

 ところがこのことが、おうおうにして国家を宗教と結合させてしまうところでもある。

 というのも、もしも全員を動員しなければならないような大問題に差し迫られたとき、この事実の客観性に屈しないという宗教の特質は、直面する現実に意味を与え国民の多くをその気にまとめるのに、手軽で、手っ取り早い手段となり得るのである。

 なにしろ事実の客観性という鎖から解き放たれた物語のこと、都合の良いように描けるのみか、現実での失敗の事実も、その物語の破壊とはなり得ない。

 60余年前の日本では、絶望的な戦況をも「神国日本には、そのうち神風が吹く」という物語の一幕として語られていたという。

 いや、そればかりではない、一度国家と結びついてしまうと、もはや大問題が取り除かれた後になっても、容易には崩れない。だからこの宗教と国家の結合は、歴史上多くの例を持つのみか、今なお少なからぬ国で見られることである。

 けれどいずれの歴史や現状も、人々を全体主義的統一へと駆り立てるのは、あくまでこの最優先されるべき大問題という現実の深刻さであって、宗教のよって立つ「空想」の物語は、単なる一つの道具立てでしかない。

国家は価値観を共有し、価値観は宗教を背景にするけれど

 いや、「宗教に結合しない国家など有り得ない」と言う人もいるようである。何故なら「どんな国家も共有する価値観を持ち、そして、どんな価値観も究極的には宗教に関わってくる」のだからと。

 確かにどんな国家も共有する価値観を持ち、どんな価値観も究極的には宗教に関わる。だから、価値観と宗教は切っても切れない関係にあると言う事が出来るかもしれない。けれど、社会の共有する価値観が、ある一つの宗教のみの産物とは、決して言えないはずである。

価値観を支える背景は多様

 我々の社会が共有している価値観は、それぞれの人の、いろんな宗教、いろんな人生観、いろんな主義、いろんな信念等々を背景に支えられている。時には否定し合う宗教や主義でも、そこにおいては共有することもある。

 だから、社会が一定の価値観を共有するからといって、そのことは、国家がそれを一つの宗教観に固定すること、すなわち価値観の共有を超えて、宗教の共有を強要することの根拠にはなりえないのである。

そこは国家の強制が踏み込んではならない所

 要するに、いかなる価値観も究極的には宗教とかかわりを持つけれど、国家の強制が立ち入ることが出来るのは、それよりこちらの現実のルールまでで、その向こう、それを支える背景は、決して踏み込んではならない世界なのである。

 何故なら、そこは「不明」が支配するところ、万人に強制する合理性を、人は持たないのだから。合理性の無いところ、その強制は力による抑圧以外に道は無いのだから。

特に「死観」は微塵たりとも

 とりわけ我々が注意しなければならないのは、国家がその権利を独占している〈人を殺す権利〉に関わる死の問題に関してである。

 国家はこの点では、微塵たりとも宗教と結合してはならない。決して国家は、死の意味を、経験可能な客観的事実の世界を超えた、宗教的物語から位置づけてはならない。

 何故ならそれは、それでなくてもブレーキの無い問題を、フロントガラスに宗教画を貼り付けて、先を見えなくして突っ走るようなものだから。

 戦死者は国家が責任をもたなければならないとしても、「死後は靖国神社の神となる」などと、人の死を空想から描き上げて、国家の強制機構の中に組み入れるのはもってのほかである。

目的・効果基準に立つとすれば、画すべき一線は

 政教分離を謳った憲法20条の適用をめぐっての法廷論争としては、各種の整合性を満たすのに複雑な側面があるのだろうけれど、もしも、現在の司法界でおおむね踏襲されているという、いわゆる「目的・効果基準」というのを、政教分離の判断基準として肯定するとすれば、その「目的・効果」として一線を画するべきは、この死観に関してだと私は思う。

 建物の地鎮祭と靖国神社では、国家というものの性格上、その政教分離の重要性はまったく異なってくるのである。

つづく

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