「何を見ているの?」自分では見ることの出来ないもどかしさに、ムズムズしながら、半眼でたたずむほぼ等身大のその仏像【写真1】に、そう問いかけずにはいられなかった。先ほどから15分はそうしていたであろう。
私はその像の前を20分は占領していたことであろう。じっと動かずに。
今から20年程前、東京で開かれたパキスタンガンダーラ展の会場でのこと。不思議そうに私を過ぎる、まわりの人々を忘れ、その像の表情に吸い込まれていた。
そんなことなどおかまいなしに、その仏像は、自分の内なる世界に見惚れている。まるでまぶたの内で展開する、万華鏡に魅入るかのように。
その印象が消えぬ午後、私はもう一つの会場、中国秦の兵馬俑展を訪れた。すると私の心は、まったく別の姿に変身してしまう。
私は学生の頃空手をやっていた。そこでは組み手ともなると、神経の糸が、ピンと張って、頭の後ろあたりで結び付けられ、相手に身構える。
私は、一つの兵士の像【写真2】の前で、全ての体のスイッチをオンにして、半身に構えている自分に気づかされる。まるで、あの時の道場でのように。
頭では動かぬ人形であることを熟知しているのに、気持ちの奥のほうで、何かが反応しているのである。これは面白いと思った。
《人はある表情と対峙すると、それに対応した気分をその内面にかもし出す。例えその相手が石や木で作られたものであっても。》
これがその時の発見である。ちょっと面白い発見であった。
一ヵ月もしないうちにインド、マトゥラーの菩薩像を見ることになった。私は"先ず解説を読む"という態度をやめた。知識はいくらあってもそれはコレクションとしての面白さ。それよりも生の体験をまずは…。
私は会場全体をざっと見て回り、気に入った菩薩像【写真3】をみつけ、その前でそれをじっと見つめた。
十分、二十分…、私は自分の心に問いかける。「嬉しいか悲しいか、夢一杯か絶望か、憎しみか、諦めか、踊りたいか叫びたいか…」私は初恋に胸ときめかせた頃の青春を思い出していた。
出来なかったことが次々とできるようになって行く、あのはちきれんばかりの喜び、そのエネルギーに煽られて、あばたもえくぼと全てを夢のなかに輝かせることが出来た頃の思いを。
マトゥラーの菩薩がその半眼で見ているのは、万華鏡でも敵でもなくて、己自身の明日のように思えた。
この方法に魅せられた私は、展示会に行くのがすっかり楽しくなってしまう。像と対峙して私に醸し出されるこの気分は、同じその像の前に対峙したであろうかつての人々の心と、同じとは言わないまで、も何らかの共通性を持っているとは言えないだろうか。
私はかつてその像を見ていたであろう人々の息づかいを、隣に感じるかのよう、歴史というのが今までとは違って、急に息をし始めたように思えたのであった。
人の歴史には二つの異なる次元がある。一つは頭でつくる歴史、もう一つは心でつくる歴史。
頭でつくる歴史とは、人の外に延々と蓄積される歴史である。いわゆる広い意味での文化の歴史。これは道具の歴史、技術の歴史、知識の歴史…、といった類で、人から人に伝えられ、文字にして、絵にして、記号にして保存され拡大する。
人は生まれた後でそれを学び、吸収し、それを使う。そしてそれは、先人の到達点から次の歩を進める。よってこの歴史は、直列に拡大していく。我々が教科書で歴史として学ぶのは、この歴史である。だから人の歴史は進歩であるかに錯覚する。
しかし、人の歴史には忘れてはならないもう一つの次元がある。それは、どの時代も人がその時代をつくっているという点である。
そしてその時代をつくる人とは、泣いたり笑ったり、あるいは夢をいだき、あるいは絶望し、大きな愛を示したかと思うと、時には憎しみや妬みにきりきり舞いする、そういった心をもつ人である。
つまりもう一つの次元とは、いわゆる心のつくる歴史である。この点に注目すると、歴史は変化というより宝庫である。
泣き笑い、怒り喜び、そして希望に胸膨らませる…、そういった人の心は、生物の進化といった、長い長い時間の物差しでは、多少の変化もあるかもしれないが、数千年といった文化史的な次元では、決して変わるものではない。
だからここにおいて歴史は、あたかも何度もリメイクされる、同じ原作の映画を見るよう。監督は違い俳優も異なり、その背景や映像テクニックも異なれどテーマ同じ。けれど、であるにもかかわらず、一度きりの観客は、今がこそはと感動する。
だからこそ二千年以上も前の、孔子や老子や仏陀やイエスの言葉が、今尚人々の心を捉える。人の心はその組み合わせや統括の仕方は異なるとしても、その素となる要素は、時を越え、民族や文化の違いを超えて、並存しているのである。そこは時空を超え、文化習慣の違いを超えた一つの宇宙。
この心を訪ねれば、それを見つめたその時代の人々に出会えるのではないだろうか。きっと彼らも、その外観は彼らの宗教観とか文化で装ってはいたとしても、その本のほうでは、私と同じような気分でそれと対峙していたに違いない。
だとするとガンダーラの仏像やマトゥラーの菩薩像を見たときの私の心の表情は、時と場所を隔てそれを見たであろうかつての人々と、ある種の交流をしたことにはならないだろうか。
一つの直接の交流は、百の他人の交流の話、つまり解説の山よりエキサイティングな体験である。私はまるでタイムマシンを手にしたような楽しさを覚えるのであった。
その後十年程して私は、異国を一人で旅する楽しさに取りつかれてしまう。これはまるで麻薬のよう。もういいかなと思って帰って来ても、半年もするとまたどこかへ行きたくなってしまう。
日本に居ると外国語というと英語と思ってしまうが、庶民の間で英語の通じる国は少ない。旅するたびにその国の言葉を十個か二十個暗記したつもりで行くのだが、私の場合自分でも呆れるほど物忘れが良く、実際に役に立つのはせいぜい挨拶程度である。そんな私の体験をこれから綴ってみようと思うのである。
だから決して、正確でスマートな旅行ガイドや異国紹介にはなりえないのは、請け合わざるを得ない。でははたして何を書こうというのか。
それは先のガンダーラ仏を見た時の体験をもとにした方法で、私の無知を飛び越え、異国の文化や歴史的遺跡と直接の交流を試みたお話である。
しかし、この《 自分の心を見ることによって対象を見る 》という方法は、その心が私という個のものであるという点も十分注意しなければならない。
というのも人の心というのは、皆同じ材料を基にしているとしても、それをどのような形に組み上げているかという点では、時代によっても、地域によっても、また個人によっても、それぞれの違いがあるからである。
私の違いは、私自身の環境や性格にも起因しているだろう。また私が育った日本という文化の特徴にも起因するだろう。
けれど個として生きる人なくして、普遍的人間などあり得ないことは言うまでもない。普遍性とは個の中にあるのであって、決してその逆ではない。だから個であることに十分批判的であるなら、そこに普遍を楽しむことも、十分可能であると思うのである。
従ってこれからお話するさまざまなエピソードから、異国の景色そのものを楽しんでもらっても良いし、またその逆向きに、「そんなふうに思ってしまう日本人」といったような観点を楽しんでもらうことも出来るのではないだろうか。
そしてもしそこに、貴方自身を見るヒントとなりえる普遍があるとすれば、私の幸せとするところである。