史観の詩(うた)

ヘーゲルは間違ってはいなかった、けれど半分だけ。

マルクスも間違ってはいなかった、けれど半分だけ。

でもどちらも間違っていたと思う、人が地上から離れられるという前提が。

人は道具をつくり、その道具もまた人をつくる。

とはいえ道具のなすことは、能力として引き出される、人の側面を変えるだけ。

けれど側面が変われば、人と人との関係も変わる。関係が変われば、社会も変わる、価値観も変わる。

ところが道具と人とでは、世代をつなぐレールが違う。

道具は情報を外に蓄積し、世代を超えて進歩する。

けれど人はそうはいかない。知識は外から学べても、心は外から学べない。

少しは利口になれたとしても、体験の世界はそれぞれの世界。

誓ったはずの教訓も、世代と共に色あせて、いつまでたっても人は人。

やむなく道具を追い駆けて、社会は地上を模様変え、けれどやっぱり模様変え、悪もどこかに鎮座して。

これが歴史の大車輪。

だから良くも悪くも健康な政治はモグラ叩き。敏感・迅速・適切がその理想。

もっとも何が適切かは大問題で、そこには宗教やイデオロギーも顔を出すだろうけれど、足元見れば正体は、みんな生身の感情で、それが誰であろうとも、一員の身分は越えられない。

だとすると、少々しゃくではあるのだけれど、多数を正義とせざるを得まい。

正義がそういうものだから、忘れてならないことがある。「平和のための戦争」なんて、何でも正義にしたがるけれど、目的は手段を帳消しには出来ない。

現実とは、はかりしれない多元の世界で、手段はそこに手をつける。

意図せぬ縁起もきしませて、怨み辛みも産み落とし、グルンと車輪を回すもの。

未来はそこにしか根を張れない。

価値マンダラ史観 2009/3/1
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