人は必ず死ぬ。なのに我々はそのことをあまり考えていない。いや、むしろ敢えて目をそらせ見ようとしていないように思う。
おそらく死への恐怖がそうさせるのだろうが、科学の思考方法というのも一役買っているように思う。というのも、科学はものを外から見て捉えようとし、その捉えたもののみで世界を組み立てようとする。この見方からすると、死は無に帰することであって、考えても仕方ないことになる。
確かに、科学は多くの出来事をかなり正確に捉えることが出来、我々その恩恵に預かっている。もはや我々は、科学なしでは世界を組み立てることが出来ない。けれどこの世は、その外から捉えたもののみで出来ているのでもない。
例えば、恋愛一つをとっても、外から科学的に捉えれば、〈単なる子孫繁栄のための交尾の衝動〉といったものになろう。あるいは、主体を遺伝子に移して、〈単なる遺伝子の複製現象〉とでも語られようか。
けれどその中に入って、体験する世界から見れば、それは、はるかに多様で、はるかに複雑な人間模様の世界なのである。
そう、例えば〈人の命は地球より重い〉といった考えも、科学的に考えれば、〈何をばかげたことを〉というようになるはずである。けれどそうはならないのも、我々が実際はこの世界を内側から体験しているからである。そこには科学の方法では捉えきれない世界がある。
人の死もそう、科学的には単なる生命活動の終わりであっても、我々にとっては決してそれで片付けられない問題なのである。
中には、死後の世界を経験したという人もいるけれど、そしてそれはそうなのかもしれないけれど、一般に我々は、死の世界を経験としては語れない。だから、死の体験の考察は何処までいっても、いわゆる検証できない仮説である。科学がその世界に挑戦しようがないのも当然といえよう。
だとしたら、そんな世界を考察することに何の意味があるのか。それは、死は我々の行き着く先として、人生を考える時、欠くことのできない最終章だからである。その最終章に何が待ち受けると考えるかによって、生の意味、生の体験も違ったものになってくるからである。
「目は美しい色を見たいと望み、耳は良い音色を聞きたいの思い、口はうまいものを味わいたいと願い、心の欲望は満たされたいと望むものだ。
ところが人の寿命は最高の長生きでも百歳、中の長生きは八十、下の長生きは六十で、病気とか親戚の死亡とか心配事の期間を除くと、中間で口をあけて笑っていられる楽しい時は一月の間にやっと四、五日程度だ。
天地自然は尽きることがないが、人間の死は必ずやってくる。有限なこの身を無限な大自然の中に寄せているのは、忽然とした瞬時のこと、まるで駿馬が戸の隙間を通過するようなものだ。己の欲望を満足させ己の寿命を養うことの出来ないやつは、すべて道に通じたとは言えない。…※1」
荘子の雑篇第二九の盗賊と孔子の論争である。ここで盗族は死の先には何もないという、いわば科学的な死観の上に立って生の意味を述べている。これに対し、孔子はほうほうの態で逃げ帰ったということになっている。
勿論、荘子の側から見た書であるからそれは当然なのだが、そうではなくても、孔子はこの盗族に論争では勝てないと私は思う。というのも、孔子には死観がない。論語の十一の十二には、死について問う弟子の季路に対し、「いまだ生を知らず、いわんぞ死を知らん※2」と突っぱねている。
死は生の外、生の消え入る先、いわば生の根っこのようなもの。根っこのない論理は、それが何であれ、その外に根を張った論理には勝てない。
インドの仏教思想は、中国に浸透したのに、あれだけ優れた中国の思想が、インドへ浸透しなかったのは、思惟方法の違いもあるだろうけれど、この死観の欠如も理由の一つではなかろうかと私は思っている。
とはいえ、盗族の死観は科学で捉えたような意味の見出せない世界。だからそれを根っこに生える彼の人生観は、いわば尻尾のない凧のように、キリキリ舞しているようなところがある。
もう一つコーランの一節を紹介しておこう。
「誰でもみんな一度は死の味を見ねばならぬもの。みんな我らの下に連れも戻されて来る。信仰し、義しい行いにはげむ人々は我らが天国の高殿に宿を与えようぞ。
見おろせば、せんせんと川は流れ、そこに常とわまでもすみつくことになる。精出して働いた人間の報いはなんと有り難いものか。すなわち、何事もよく辛抱し、己が主に全幅の信頼を寄せまつる報いは。
…この世は、ただつかの間のたわむれにすぎぬ、遊びにすぎぬ。来世こそまことの命。…※3」(メッカ啓示 蜘蛛)
やはり死観は、死後の実際の世界というより、そこへ向かう生の世界観としてあるのである。生を光とするならば、その光を描く為になくてはならない影なのである。
だから死観まで描かないと、その人の人生観は頭ではしっかり生の意味を認識しているつもりでも、時にフッと訪れる死への不安に、針路を狂わされたり、とんでもない道に入り込んだりもしかねない。
以上がだいたい私にとっての死観の意味である。で、次に私はどんな死観をもっているのかということであるが、その前に、断っておかなければならないことがある。
それは、先にも述べたが、死は生の延長先としてしか描けない以上、その生がどういう状態かによって、違ってくる可能性があることである。
例えば医師に余命あと何ヶ月を宣告された人、あるいは、明日をも知れぬ戦場に置かれている人、あるいは、頭では分かったようなことを言っていても、気持ちでは我が命は永遠かのように錯覚している人。
これらそれぞれによって、それは全く違ったものになりかねない。なのにそれらは検証できない。つまり想像への信仰でしかありえない。
だとしたら、いろんなモデルから、自分にあったのを選ぶか、あるいは自分で納得いくのを工夫するしかない。信仰はあくまで自由であるべきだ。
これから紹介するのは、そんな私の工夫のファンタジーである。幸い私は今のところ、死は、頭では分かっていても、気持ちではまだまだ先のことと錯覚している部類に属する。
だから人によっては、何を甘いことを言っているのかと、お叱りを受けるかもしれない。けれどそれはそれで、そのままお受けせざるを得ない。
どちらも検証できないのだから。それに、私もいずれ体験するのだから、事の是非はそのときのお楽しみにしておこう。
チベットにバルド・ソドルという死者の書がある。
私は おおまえまさのり さんの訳でしか知らないのだが、この書は、科学的方法になれた目で、死の世界を自分の外の世界として理解しようとすると、受け付けないかもしれない。けれど自分の内側で体験する世界として読むと、大変面白い。
要約すれば、意識が次第に消え行く過程で、さまざまに体験する出来事が描かれているのだが、意識は下降するにつれ、今までの人生で押さえつけてきたさまざまな自分に出会い、恐怖し、そして最後に、自分を生み出した精神エネルギーの母体とでも言うべきものと融合し、分離の苦しみから解き放たれるといったことだと思う。
死者の書は、輪廻思想に基づき、その後状況によって、魂はもう一度別の肉体に宿ったりするのだが、その部分は別として、ここに描かれた意識が消え行く体験が、死の世界だと私は思っている。
どこかで「アキレウスは亀に追いつけない」というゼノンの定理を紹介したと思う。
足の速いアキレウスが亀の居た場所まで来た時には、既に亀は少しは前に進んでいるはずだというのである。更にアキレウスがその亀の所まで走りついた時、同じく亀も少しは前に進んでいることになる。
その次も、その次も…。こうやって足の速いアキレウスは、永遠に亀に追いつけないというのである。
なんと、時間はどれだけでも区切れるのだ。たとえ一秒の間でも、無限に細かくすることが出来る。
また、あのカントが、時間と空間は我々の外にあるのではなく、我々が先験的に持っている外界の理解の形式だと言っているのに初めて触れた時も、私は愕然とした。
彼は時間空間は、実体として外にあるのではなく、我々自身に備わっている物差しだというのである。
方法は違うけれど、アインシュタインも時間と空間の伸縮性を相対性理論の中で紹介した。
つまり、時間は、意識が思い込んでいるように、固く不変のものではないのである。少し違った意識でこの世の体験をすれば、時間は違ったものとしてある。
例えば夢、夢は目覚めている時の意識状態ではない意識の体験であると思うのだが、そこでの時間体験は、起きている時とは全く異なっている。時には十年前も今と一緒に顔を出す。
私は死への意識の下降も、この夢の場合のような時間体験の中にあるのではないかと思っている。
チベットの死者の書では、死んでから第何日という表現を使っているが、その何日は、生きている人にとっては、ほんの一瞬か、あるいは数時間か、まあ冷たくなるまでくらいと考えるのが妥当かもしれない。
けれどその時間は、死に行く人にとっては、そこが越せない永遠の時間。何しろ覚めない「夢」なのだから。私はそれが死の世界だと信仰している。
大乗起信論という経典に、「一切分別、自身分別」という言葉がある。
ちょっとこの経典の趣旨からは、外れるのかもしれないが、私は、人が何かを理解するということは、自分の中にそのイメージをつくり得て初めて可能なのだと思っている。
例えばある人に出会ってその人と交流を深めていくということは、その人のイメージを自分の中でより複雑につくり上げていっているのだと思う。
それで、実際にその人と交流するということは、何処までがその人そのものとの交流で、どこまでが、自分のつくり上げたいイメージとの交流なのか、私自身ちょっとよく分からない。
おそらくかなりの部分、自分のつくり上げたイメージを相手にしているように思うのだが、少なくとも、イメージだけでも、意識にとっては、実際と区別のつかない時もある。
例えば夢ではそれを、実際と同じように実感する。私は死の世界ではそんな出会いがあるものと信仰している。人生の全てに出会えると。勿論、出会いたくないものも含めて。
いや、バドル・ソドルによると、まずその下降する意識を歓迎してくれるのは、その追い出したはずの会いたくないものたちのようだ。バドル・ソドルは、それはあなた自身であって、逃げなくて良いのだと教えている。
私は二度気を失った記憶がある。一度はバイクの事故で、もう一度は温泉で。どちらもだいぶ以前の話だが、バイク事故の時は、なんともいえない恐怖の中を、後悔の念に駆られてさまよっていたように思う。
目が覚めた寝台の上で、「あんたがぶつけたのよ」と言われた看護婦さんの冷たい言葉を覚えている。無意識の中にも加害者意識があったのだろう。
もう一つは、これもなんとも表現できないのだが、今度はとても充実の幸せの花園にいた。血圧の低いせいか、のぼせたのだろう。ほんの2、3秒らしかったが、かなりの時間そこにいたように思った。
私は、地獄と極楽の疑似体験だと思っている。
だから、生きていく以上、人を怒らせたり、人に怨みをかったりすることは止むを得ないことなのだけれど、なるべく自分の意識が納得できる道を選びたいと思っている。覚めない夢の中であの事故の中のように、うなされ続けるのもいやだから。
以上あの世に対する私の信仰をまとめれば、生きている人にとって、あの世はないけれど、死に行く人にとっては、あの世はあると思っている。
そこでは、生きている時に出会ったもののみならず、ひょっとしたら遺伝子に刻まれた体験とも出会うかもしれない。
けれどそこを体験する意識は、生きている時のようにコントロール出来るものではないだろう。
夢の中のように受身であろう。そのあの世の舞台が、どのようなものになり、そこでのあなたの役どころが、どのようなものになるかは、この世でのあなたにかかっていると思う。
もしこの世での生活が、あなたの心を引き裂いた、ストレス強いものであったら、ひょっとして覚めない悪夢にうなされ続けるのかもしれない。
はたしてこれが真っ赤な嘘か、いずれあなたも分かること。ゆっくり、ゆっくり、生き(行き)ましょう。
※1 | 岩波文庫「荘子」金谷治 訳注 |
※2 | 岩波文庫「論語」金谷治 訳注 |
※3 | 岩波文庫「コーラン」井筒俊彦 訳 |
* | 講談社「チベットの死者の書」 おおまえ まさのり 訳編 |
* | 岩波文庫「大乗起信論」宇井伯壽 訳注 |