第7回 愛国心 2003/1/3
価値マンダラ思考  第7回 愛国心  2003/1/3
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【 愛国心 】
日本は最低 / 徴兵制にしてやり直さねば… / 未体験ということは / 愛国心に燃える国こそ… / 私にとって愛国心とは / 個が確立すれば、愛国心は… / 敵対国がなければ愛国心は… / 愛国心は郷土や個人のライバル心とは区別されねばならない / 愛国心の全体像 / 全体を見なければとんだ怪物が
■ 日本は最低

 昨年の12月、チェンマイからの夜行列車で、タイで働いて30年になるという男性に出会った。タイ語が上手で、てっきりタイ人だと思っていたら、「扇風機のスイッチを入れてくれませんか」と日本語で話し掛けられて、これはこれはということになった

 挨拶がわりの、あれやこれやの話が終わって、一区切りした時、立ち上がって鞄の中をもぞもぞしだしたかと思うと、会社のパンフレットを取り出して、仕事の説明が始まった。

 いろいろ聞いていると、彼の胸の、積もり積もった不満に、火がついたようだ。

 大使館の依頼で、仕方なく日本からの関係者の見学などを受け入れているが、来る人来る人、見学とは名ばかりで、みんな夜の遊びのことしか頭に無く、まったく今の日本人は情けない、というのである。説明していて、ばかばかしくなると。

 役人はというと、任期が何事も無く終了し、日本に帰って出世することばかり考えているという。第一タイに派遣されていて、タイ語が話せず、どんな仕事が出来るというのか、上は何故そんな人間を選ぶのだと、日本の役所のだらしなさを嘆いた。

 アメリカなどは、タイではタイ語で交渉しているという。あの国の人はこうだ、この国の人はこうだと、いろいろな体験を例に上げ、日本が一番情けないと嘆いた。

 第一、中国・瀋陽の、日本総領事館での対応は何だという。事後処理もまったくなっていないと。それに、北朝鮮に拉致されているのがわかっていて、何十年と何にも出来ないなんて……と、話は国際問題に広がっていった。

■ 徴兵制にしてやり直さねば…

 そして彼の結論は、「自分の国を自分で守れないなんて最低だ。第一守ろうともしていないじゃないか。そんな国がどこにある。日本人は愛国心を忘れている。もう一度徴兵制にして、やり直さなければだめだ。」というのである。

 「ちょっとその結論への飛躍は、無理があるのでは……」と言ってみたものの、とりつくしまなく、彼の主張をたたみかけられてしまった。

 会社のパンフに綴じてあった彼の身分証明には、1949年生まれとあった。彼も、私と同じ戦後世代、徴兵も戦争も未体験の世代である。

■ 未体験ということは

 人にとって未体験の空白は、自らの感情をそこで造形する、格好の場所のようである。何事も体験するまでは、期待であれ不安であれ、事実以上に膨らむもの。

 襖を開けて実際を見れば(体験すれば)、美しい女房が、実は鶴であったとか(鶴の恩返し)、りんご(知の実)を食べて、エデンの園から追放されるというお話は、昔から語り継がれたテーマである。

 いずれも体験前と体験後の世界の変化を、語っているとも読むことが出来よう。仏教はその虚実を、良く見極めるよう諭す。明らかに見れば、日本語でおなじみ《諦め》になる。

 彼の日本批判には、老練な目の確かさが煌めいているように思えたが、その結論には、未体験がゆえの思い込みで、彩られているように思えてならなかった。

 とはいえ、未体験は人ごとではない。これからの日本は、戦争未体験世代で占められていく。帰国後のテレビからは、イージス艦の派遣のニュースが、流れてきていた。

 彼のような結論が好きな人も、嫌いな人も、単に突っ張り合いに終わるのではなく、どこが未体験が故の思い込みなのか、つまり自分の好きな側面のみの膨張なのか、しっかりと見極めるすべを、鍛えておく必要があろう。

■ 愛国心に燃える国こそ…

 彼と私の話は、「私はそうは思わない」との表明で物別れに終わってしまった。お互い単なる夜行列車での行きずり、くんずほぐれつの議論までするつもりはなかった。

 だからこれから先は、私の解釈にならざるを得ないのだが、彼は日本をぼろくそに言ってはいるものの、不思議なことに 《だから私は私で生きます》 という方向には、感情が向いていないのである。

 それは決別の挨拶ではなく逆に、日本というイメージを、本来はこうだと擁護するための、弁舌のように聞こえるのであった。

 彼の批判の痛烈さには、まるで自分が成した成果を、誰かに台無しにされるのを見るような、イライラさえ漂っていた。

 そんな彼の日本像は 《ピシッと悪を罰し、目標をはっきり持ち、皆が心を一つにして進み、その威厳に他国が一目置くような国》 のようである。そして、それらを貫く精神的支柱が 《愛国心》 だというのである。

 つまり、《私利私欲(あるいは個人の権利と言うべきか)ではなく、愛国心に沿ってピシッと国を統治し、愛国心に沿って目標を持ち、愛国心に燃えてそれに参加する。》 彼の価値体系の要には、《愛国心》 なるものがすえられる。

 我々戦後の人間が、親しんだ「民主主義」でも「個人の権利」でも「平和」でも「経済の発展」でもない。戦前の反動で、触れることなく置き去りにしてきたものの、消え去ることのない感情、《愛国心》 が基礎にすえられるのである。

 この点、こういった考えを、新鮮に受け止める人が、近年出てきているのではないだろうか。

■ 私にとって愛国心とは

 私の場合、愛国心かなと思うのは、オリンピックでの日本選手の活躍に、心躍らせる時くらいかもしれない。でも、外国選手でも、馴染みの人がいたり、苦しい国内事情を克服して、出てきていることを知らされたりすると、知らず知らずに観戦に力が入る。

 近年政府は、国歌や国旗の法律を制定し、それに国民が神聖な思いを抱くよう、躍起になっているようである。しかし、一つの図柄や、一つのメロディーを、神聖に感じることそれ自体が、法律をつくるほど重要な事のようにも思えない。法律は社会秩序の問題である。この法の背後に、秩序構築に向けた目的があるはずである。

 八十七歳になる女性に、「愛国心とは何」と聞いてみた。「愛国心とは、兵隊にとられても文句を言わないこと。死んで悲しくても、『名誉なことです』と言うこと。」と返ってきた。非常に具体的である。戦争体験者の彼女には、愛国心なる言葉に、ロマンの入り込む余地は、まったくないようであった。

■ 個が確立すれば、愛国心は…

 ロシアの革命家レーニンは、「真理は常に具体的」と、口をすっぱくして言っていたが、私は逆に、「具体的なものには、必ず真理が潜んでいる」と言いたい。そういった目で見ると、彼女の言葉の中に、愛国心なるものの、一つの特徴が見えてくる。

 それは、愛国心が求める態度は、自分の気持ちと、対立してしまうことである。つまり、愛国心は一般に、〈我(ガ)〉の感情と対立するのである。

 勿論現実的には、両者の混ざり合った妥協として、存在するのであろうが、例えば、研究者として自分をはっきり自覚している科学者は、戦争などにおいて、研究を続ける環境を求めて、亡命するといったことは、よくある話である。

 愛国者から見れば、国を捨てた裏切り者に見えるだろうが、自己のアイデンティティを、研究者として自覚している人にとっては、愛国心なるものにうなされている人の気持ちこそ、理解に苦しむものであろう。

 つまり、自分の人生の意味を、具体的な形にして、自覚していればいるほど、愛国心として煽られる感情からは、遠ざかるものとなると言う事が出来よう。

 民主主義は、この自立した個を前提にし、その自己の存在を全うするために、国が必要だと考えるが、愛国心はその逆に、国の為につくすことによって、自己の存在意味を感じるというものである。

 主語は国になり、個はそれに感情的に融合する。日本批判は、日本人であるあなたへの批判であるかのように、イライラする。主語のあいまいな日本的精神文化は、この点、愛国心を受け入れやすい体質と言えるのかもしれない。

■ 敵対国がなければ愛国心は…

 国の為につくすと言っても、国が何をしようとしているかわからなければ、つくしようがない。自国が意思持つ主体として、他国と区別され認識されるには、対立する他国がなければならない。

 その国が敵対すればするほど、自国の像がはっきりしてくる。愛国心がどうしても戦争と結びついてしまうのも、こういった事情によるところが大きいといえよう。逆に相手もなく敵対感情――競争感情ともいえるが――も無い時、愛国心も生じようがない。

 愛国心とは、そのような状態の中で、自国という概念に融合した個の感情が、相手に勝つことをもって快しとする感情である。何とか妥協して利益を守っても、愛国心は満たされない。愛国心が求めるのは、現実的利益とか、妥協の中の平和とかいったものではなく、相手に勝って快いとする感情なのである。

■ 愛国心は郷土や個人のライバル心とは区別されねばならない

 「いやいや、敵などなくても憂国の念に駆られて……」と、反論されるかも知れない。確かにどうとでも定義することが出来る。

 先の戦争でも、日本を破滅から救うため、何とか停戦交渉に持ち込もうと、孤軍奮闘した人に光を当て、彼こそ真の愛国者だと、言うこともできよう。

 しかし、当の現場にあっては、そういった行為は、愛国心を叫ぶ人たちからは、裏切り者扱いされることであろう。なぜなら愛国心が求めるのは、解決ではなく、敵を負かすことなのだから。

 「いや、敵対ではなく、競争だ。競争なくして、発展もない。」と言われるかもしれない。

 確かに競争心は、自然な感情であり、また必要な活力でもある。私は、皆で手をつないでゴールするといった運動会は、好きではない。

 しかし問題は、その競争を、国家がすることである。なぜなら、現状として世界は、殺傷与奪の権を国家が握っているのだから。

 つまり愛国心で敵対関係を煽り立てることは、レフリーもルールもない拳闘試合を、煽るようなものである。はじめは技を競っていても、頑張れば頑張るほど、それは殴り合いになり、喧嘩になり、殺し合いになる。

 この点、愛国心は、郷土や、会社や、個人の、ライバル心とは、区別されなければならない。もし地球国家のようなものが出来たとすれば、愛国心も、純粋な応援歌に変わるだろうけれど。

■ 愛国心の全体像

 以上、愛国心というのは、他国との敵対関係を前提にし、その競い合いを、平和的に解決していこうというのではなく、敵を打ち負かして快しとする感情である。

 つまり、愛国心と平和とは、天秤の両端である。少なくとも扇動される愛国心は、この敵を打ち負かして快しとする感情をくすぐられる。

 だから愛国心の上に生まれ出る考えは、敵国に優るため、自国の能力を、経済的にであれ、軍事的にであれ、向上させる方向に団結する。愛国心を賛美する人は、この点に心を奪われる。

 けれどそれは、価値観が整備され、国のためという基準に沿わない価値は、切り捨てられていくことを意味する。多様性は見捨てられ、統一性が尊ばれる。

 だから愛国心とそれぞれの人生目的――つまり、あれをやりたい、これをやりたい、といった思いとは、一般に対立する。

 そしてこの団結は、国内的には人々を統一させるものの、視野を広げれば、国際間での分裂へと、人々を導く。

■ 全体を見なければとんだ怪物が

 以上、私は愛国心が好きでないので、少し愛国心に苦く表現しているけれど、愛国心の好きな人は、もう少し美しく描き上げることであろう。けれどどう描こうとも、ここで描いた全体像の要素には変わりはない。

 だから自国の発展を目指して、皆が一致団結している姿のみを想像して判断すると、実際に扉を開ければ、とんだ怪物が現れ出ることになろう。

 何に価値を見出すか、それは各自が選ぶ問題である。――最も愛国心が好きな人は、各自の問題などとは、決して言わないだろうが。

 けれどいずれを選ぶにせよ、ここで提起した全体像の中で判断されることを望みたい。

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