7月5日、長野県議会は、田中康夫知事不信任決議を、賛成多数で可決した。詳しいことは私の知るところではないが、知事と議会多数との間に、抜き差しならぬ対立があることは事実のようである。
ではどのような対立か。
報道によると、田中氏の「脱ダム宣言」が、そもそものきっかけとか。けれど不信任決議にはそのことは触れられていないそうである。
どうやら問題は、ダム賛成、反対といった、単純な二者択一ではないようである。
世の中のこと全てそうだと私は思っているのだが、「ことの本質」という見方は、全て主観的な見方であると思う。つまり主観に響き合う客観が、その主観にとっての本質と映るのではないだろうか。
だから本質は、主観の違いによって幾つでも出来てしまう。だとしたら、むしろものごとは枝葉末節の集まりと見たほうが、間違いが少ないのではないだろうか。
そうすると、出来るだけ多くの枝葉末節を集めたほうが、その実像に近づくことになる。そんなわけで、部外者の私が、その枝葉末節の一つを描いて見たいと思うのである。
皆さんよくご承知のように、田中知事不信任に含まれる問題は、ダムと自然の問題であったり、河川と安全の問題であったり、公共事業と地方経済のかかわりの問題であったり、或いは県財政の問題であったりする。
けれどそれらは、それぞれまた別の枝葉末節にお任せするとして、私が注目したいのは、議会と知事のこじれの大きな原因とされている「田中氏の手法」の問題である。というのもここに、我々人類永遠のテーマの一つ、「民主と独裁」の問題が、顔を覗かせているように思えるからである。
我々は「民主と独裁」という場合、だいたい「民主」には「好」の感情を、「独裁」には「悪」の感情をしみこませている。「民主主義的にやろうよ」と言う時、「フェアーなやり方でやろうよ」という意味が含まれ、「あいつは独裁者だ」と言う時、「あいつは悪者だ」という思いが含まれる。
けれどよくよく考えれば、この意味あいは、動き出した全体の、どちら側に自分が位置しているかという違いに過ぎない。
だから例えば、ある「独裁者」も自分の側に位置していれば、「改革の旗手」であり、「民主主義」も自分と反対側に進めば、「理不尽な数の支配」と非難を浴びせる。
勿論、どれだけ多くの人が、支持しているのかということは、そのことの世間における意味を左右はするけれど、移り行く世間の人気で、鉄を金に変えることは出来ない。
そこでこの「民主と独裁」の概念から、しばらくは好悪の感情を取り去って、考えてみることにしよう。嫌われる「独裁」も「民主」と同じ一つのあり方の概念として。
そうすると、民主と独裁は、人々が集まって一つの事をする場合の、両極の姿であることが見えてくる。極端な独裁は、個人の意思を無視して、問題解決のために最も合理的な形に全体を強制する。
だから、方針さえ間違わなければ、最も効率的に事が運ぶ。国家の危機、会社の危機などに、こちらに針が振れるのは、よく目にする所である。
逆に、極端な民主は、個々の利益が重視されるあまり、犠牲を強いられる全体の問題は、いっこうに解決に向かわない。
こういった中で、実際の我々は、その両極の間のどこかで、妥協し、ことを進めている。
「議会制民主主義は動き出すのに時間がかかって、もどかしい。独裁的なのは困るが、トップダウンで、パーッと何かやってくれる変化には魅力を感じてしまう。」
田中氏は99年の都議選の時、朝日新聞のインタビューにそう答えたそうである。
「独裁的でないトップダウン」、先に仮定したように、独裁から感情的意味を取り去ると、そんなものはない。
だとすると、彼の言いたかったのは、「多くの人に喜ばれる独裁に魅力を感じる」ということであろう。
孔子の言葉を借りれば、「徳をもってする政治」ということであろうか。
ギリシャのプラトンも優秀者のトップダウン的政治を最良としている。古来の賢人達は、あまり民主主義を良い政治とは、考えていなかったようだ。
確かに理想を追求すれば、そうなるのかもしれない。
けれど人は、人以下でもないが、決して人以上ではない。
歴史はそんな理想的な人など、現実には決して存在し得ないことを、我々に教えてきたといえよう。
独裁は始めは理想に燃えていたとしても、必ず人々と乖離し、多くの悲劇をもたらしてきた。
独裁は効率が良いだけに、ひとたび足を踏み外せば、谷底まで転落し、自ら止まるを知らない。だから、人類は、いろいろなぶれはあるものの、長い目で見れば、「民主と独裁」の妥協点を、ぐいと民主の方に引きずり寄せてきたのである。
多少の効率を犠牲にしても、悲劇を避け確実に進むために。我が日本でも然りである。
しかし戦後半世紀以上が過ぎ、いろいろ歪が見えて来る中、いっこうに修正されぬ現状に、もっと効率よい体制、つまり妥協点をもっと独裁にずらした体制に寄せようとする動きが、出てきているのも事実のようである。
身動きならぬなら、それは必要なことであろう。我々は独裁という言葉の、負の呪詛に捉われるべきではない。むしろ独裁を使いこなすべきである。
しかし何事であれ、変革の向こうに、決して楽園はない。変革の向こうも、やはり人の国である。
より独裁にシフトした歪は、必ず現れてくるであろう。そのときは速やかにブレーキを踏める準備をしたいものである。そのためには、独裁を何か別のロマンチックな言葉で隠すのではなく―――選挙用に使うのはまあお任せするとして、少なくとも判断する我々の方は―――どういう独裁を許すのかという点を、見極めておきたいものである。
我々は常に独裁者の側に位置することが出来るとは限らない。もし反対側に位置した場合、その仕事の効率を求める「手法の変革」は、どんな権利を捨てているのかという視点である。
その意味で、長野の問題は、すぐれて全国的な問題のように私には思える。