第3回 テロと我々 2001/10/10
価値マンダラ思考  第3回 テロと我々  2001/10/10
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【 テロと我々 】
事実と物語 / 世界の経済 / 不均等と均等 / イスラムの絶望 / テロリストが提供する「今」の意味 / 要求される方向
1 事実と物語

 2001年9月11日、アメリカに於いて多くの人々がテロの犠牲になった。そして10月7日、米英軍はアフガニスタンへの報復爆撃を開始した。

 私はビンラディンなる男がアメリカへのテロの張本人なのかどうか知らない。しかし、彼がテロリストである事、そして今回のテロに賛同している事、また、アメリカが彼を犯人と見なしている事、これらは事実と考えてよいようである。

 つまり、例え真実がどうであれ、世界はこの役どころを基に動き出したのである。このことはまさに事実なのである。

 ではこの事実は、それぞれの陣営でどのような物語の中に配置され受け止められているのであろう。小泉さんはブッシュさんとの会談で、ゲリークーパーの「真昼の決闘」を引き合いに出したとか。

 人は知らず知らずのうちにこういった物語の中に自分の「今」をダブらせて、その意味を汲み取っているものである。

 そして一見、イメージの遊びに見えるこの物語は、それぞれにおいて同じ今を違った「今」に仕立て上げ、結果としてその先を異なる事実へと押しやって行く。

 したがって、一定の事実をどういった物語で包み込むかという、その物語自体の検討は、我々に欠くことのできない作業なのである。

2 世界の経済

 私はそれほど多くの世界を旅したわけではないが、旅の印象として一般にイスラムの国々は経済的に貧しいようである。

 ちょっと日本を中心にもってきた世界地図のような見方ではあるが、世界の経済は米欧日が牛耳り、アジア諸国がそれを猛追しているような観がある。中国や東南アジアを旅行すると、明日の豊かさを夢見た活気のようなのが感じられることが多い。

 つまりそこでの人々の多くは、例え今日の現実は貧しくとも、その「今」を明日の成功への一環として実感しているようなところがあるのである。

 ところがもう少し西のイスラム諸国へ行くと少々雰囲気が異なるものに思える。具体的にはイラン、エジプト、モロッコでの私の印象をもとに話しているのだが、何というか、現実として既に歴然と存在する欧米との経済格差の前に、追い着け追い越せといった掛け声が現実味を持たないように思えるのである。

 ひょっとしてこれは逆の連鎖なのかもしれない。つまり、夢を持たないから現実味を持たないのかも。

 しかしいずれにせよ欧米的豊かさという観点からすると、そこへの具体的道が見えず、途方に暮れたような雰囲気がある。

 私自身は物の豊かさへの価値観には少々疑問を持っているのだが、旅で出会う多くの人々は、自動車や電化製品のあふれる日本を羨ましいと言う。つまり世界経済の不均衡を肌で感じ、それに不満を感じているのである。

3 不均等と均等

 実は不均等と均等は相関の関係にある。簡単な話、何かを売って儲けようとするなら、周りに買うだけの豊かさがあることが必要である。自分のところに富を高く積もうとするには、その周りも一定の高さである事が要求されるのである。

 この相関関係をどのようにうまく調節するかは古来より社会の大きな問題であった。多くの思想はこの課題をめぐって誕生してくる。そして政治は形態は異なれど、均等により価値を置くものと、自由(不均等)により価値を置くものとの間で揺れ動く。

 例えばアメリカでは共和党と民主党とでこのサジ加減がされているようである。どちらかというと民主党が均等により価値を置き、国の力で何とかしょうとするのに対して、共和党は自由放任に重点を置く政策のようである。日本に於いても戦後この関係は、自民党と社会党のバランスのもとに展開してきた。

 世界的規模でのこの拮抗を担ってきたのは共産主義勢力であった。勿論共産主義が均等のほうである。しかしあくまで両者は相関の関係であり、どちらかに偏りすぎるとその全体は死んでしまう。多くの共産主義勢力がかくして崩壊したのは、皆さんよく御存知のところであろう。

 その結果、均等に価値を置く有力な思想勢力がなくなってしまった。けれど現実には、社会の不均等はなくなろうはずがなく、その不満エネルギーは方向性を失い右往左往せざるを得なくなったのである。

 エネルギーとは現実にあるものを糸口にし、そこから流れ出、結実するものである。その現実にあったものが、「神のもとの平等」を説くイスラムの思想であった。現代のイスラムはそういった意味合いの中にある。

4 イスラムの絶望

 人は夢につながる物語の中に自己と事実をはめ込み、「今」の意味を感じ取る。追い着け追い越せというアジアの人々は、明日の豊かさへの物語として、毎日の苦労の意味を感じ取っているという事が出来よう。

 ではイスラムに組織されると、この物語はどのようなものになるのであろう。それは「信仰篤い私が価値ある未来へと突き進む」といったものとなる。

 この物語自体は、すばらしいものの一つであると私は思っている。しかし問題はこれが国家宗教となることである。

 つまり人々に物語の選択肢を与えないということである。というのも、「価値ある未来」というのは人によってさまざまであり、それを欧米的物質の豊かさに求める人も当然のこととして多くいるはずである。

 その場合現実の問題として日々の信仰行為と未来の物質的豊かさとは同質的には繋がらない。一部の幸運な人を除いて、基本的には未来の物質的豊かさに繋がる「今」は、あくせくと何かの活動をしている「今」である。従ってこの物語に於いては、それを求める人の未来と「今」とが切断されてしまう。

 というのもイスラムの信仰儀礼を忠実に実行し、アッラーを称える人々の典型として世界の豊かな国があるのではなく、むしろイスラム教徒から見れば不貞の輩こそ世界では豊かな富の中に住んでいるのである。

 かくて物語は命を失う。その主人公である自己は価値を失う。「今」の意味が汲み取れなくなる。イスラムに組織された人々の多くは、このような絶望に直面しているということが出来るのではないだろうか。

5 テロリストが提供する「今」の意味

 テロリストが自己の意味を実感する物語は単純である。それは「敵と戦う戦士」である。7日にカタールのテレビで放映されたというビンラディン声明の中にイラクの子供達やパレスチナの人々の苦境が語られているが、彼らがそれを語る意図はその改善ではない。

 彼らにとってそれらの事実は、敵を敵として描き上げる道具なのである。彼らが自己を実感するためには敵の存在はなくてはならない。敵がより鮮明になればなるほど、彼らの存在も確実なものになり、実感する「今」の意味も生き生きとしたものになる。その敵として選ばれたのがアメリカなのである。

 彼らテロリストはこの物語を、イスラムの人々に提供する。

 このモデルは、「今」の意味を喪失した人々の息を吹き返らせる。つまり信仰篤き自己と豊かな物質生活とが繋がらなかったのは、「その間に敵が介入しているから」ということになる。つまり「打倒アメリカ」で夢が閉じられてしまい、問題であったそこから先は不問に付される。

 そのことにより、夢と現実の自己が同質となり、物語が脈打ち始める。つまり信仰を深めることの未来には、敵を打倒するという大任が直結する。信仰行為は、異教徒と戦う事となり、その「今」は大敵打倒の未来と同意となる。「今」が意味を取り戻す。自己の存在に尊厳が蘇る。

 現在のイスラム圏の人々とテロリストとの間には、このような関係への道が常にあることを我々は心にとめなければならないであろう。

6 要求される方向

 事態を以上のようにみるとするなら、具体的方策は出ないとしてもいくつかの精神的態度は導き出せる。

 その第一は、テロリストはひとつの自己の存在のあり方であるから、決してこの世から無くならないであろうと言う事である。従ってテロの根絶は、ある特定の組織の根絶という意味ではありえるとしても、一般的には無理と考えざるを得ない。

 だとすると、重要なのは、テロリストの世界観の拡大の阻止である。先にも述べたようにテロリストにとってなくてはならないのは「敵」である。敵が敵として鮮明になればなるほど、テロリストは生き生きとする。

 米英のアフガニスタンへの報復爆撃は、現実として止むを得ないものがあるとしても、テロリストの望む方向であるということも自覚しておかなければならない。

 第二に、そしてこれがより重くより重要であると思うのだが、その根底にある先に述べた「イスラムの絶望」という問題である。断っておかなければならないが、「イスラムの絶望」と言ってもイスラム教が絶望的であると言っているのではない。先にも述べたように、イスラム教が代弁して抗議している不均等の問題であり、それとイスラム的物語との乖離の問題である。

 これは一朝一夕には解決しないであろう。イスラム的には「富は神の与えたものだからみんなに分配せよ」となるのかもしれないが、他の世界は違った所有観を確立させている。それに先に相関と述べたように、不均等そのものはこの世からなくならない。

 私は我慢を越えた不均等には圧力を加えるとしても、ある程度内の不均等は、自己の物語の中で解消することによって人の世は成り立っていると思っている。この後者の道なくして落ち着くところはないだろう。だとすると物語の自由、ひいては宗教の自由というのが問題になってくる。

 私の考えでは、この信仰の自由というのがイスラム諸国のとるべき方向のように思えるのだが、それはそこの人たちが決める問題、我々のなすべき事は、そのような方向が醸し出されてくるのを忍耐強く待つことである。

 そしてその忍耐が醸成へと報われるためにも、我々は、テロリストの世界観が人々と短絡的に結合する事を阻止しなければならない。つまり敵として登場しないよう常に気を配る必要があるということである。

 以上、私の考えでは、アメリカの報復攻撃も、日本がやろうとしている米軍支援も、テロを増殖させこそすれ決して絶滅へは導かないであろう。

 しかし、世の中一つの境遇の人ばかりで成り立っているのではない。テロを憎む多くの人が世界中に存在するのもこれまた事実である。テロへの対処をなおざりにし、これらの人々の夢への物語を破壊し絶望に追い込むのも避けなければならない事である。

 だからあれだけのテロが行われた以上、その怒りを何らかの形にするのもやむをえない事とせざるを得ないであろう。しかしそれが止むを得ざる負の手段である事もしっかりと自覚している必要がある。日本の米軍支援もこの点を忘れてはならない。それは決して華々しき世界舞台への晴れ姿ではない。

 
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