如何に国を守っていくかという問題は、おそらく人類にとって永遠に続く問題でしょう。
しかし、国の「何を守るのか」という点は大いに変わりゆくことです。過去の人が命をかけて守るべきことのように思えたものでも、今ではそのような価値がなくなってしまっているものも沢山あります。
だから、古来、人々の感情に訴えた「国を守る」という言葉が語られるとき、いったい国の何を守ると言っているのかを、詩的に描くのではなく、具体的に考える必要があります。守るものと、その為に要求される犠牲とを天秤にかけて。
国防の問題を考える時は、まずこの点を明らかにしなければなりませんが、とりあえずそれは、いずれまたの機会にということにしておいて、今回は、守るべき何かを我々が共有していると仮定して出発することにします。
その昔、私の若い頃には、非武装中立論というのがありました。その賛否は別にして、これも国を守る一つのアイディアだったわけです。
その当時護憲論者の多くは、多かれ少なかれそういったアイディアに立脚しての議論だったように思います。つまり、九条をめぐっては、護憲論者も改憲論者も、国を守るという共通の土俵があって、その上で突っ張りあっていたわけです。
ところが、月日は流れ、状況は変わり、非武装中立論なるものは聞こえなくなってしまいました。けれど、護憲論者も改憲論者も、どちらも大して変わらずに存在し続けています。
しかし、護憲論者はずいぶんと浅瀬まで後退してしまったようです。つまり何故護憲なのかというところに信念が見うけられません。せいぜい「なぜ今、改憲なのか」と問い返し、論敵のあやふやさを突いて良しとしている程度です。
先日もテレビ討論で、改憲を訴える議員に対し、護憲を主張する議員の反論を期待したのですが、「私達は護憲の立場ですから云々」というのでした。護憲だからこうだとは言うけれど、何ゆえ護憲なのかという点がどうも響かないのです。
つまり改憲論者はどのように国を守っていくのかという深さで問題を語っているのに対し、護憲論者は、憲法がそれを禁じているからという浅さで反論していて、どのようにして国を守るのかという点で上滑りをしているようなのです。
けれどまあ、考えようによってはどちらもどちらかも知れません。どちらも、展望ではなく、既成事実に立脚した後ろ向きの押し合いとも見る事が出来ます。
つまり、一方は押しも押されぬ自衛隊の存在を頼りに「事実としてあるものは、あるものと、認めざるを得ないだろう」とせまります。
他方は、なかなか憲法は変えられないだろうということを盾に、「憲法がそうなっている以上、仕方がないだろう」とせまります。うがって見れば、こんな両者のおしくら饅頭のようにも見えます。
けれど筋道立てた改憲論を公にする人も出始めております。冷静に論理の筋だけを追えば、彼らに軍配が上がることでしょう。何故なら、現に武力紛争は存在し、今後も存在し続けるでしょう。
また自衛隊はどう見ても軍隊です。そして憲法九条はどう読んでも、その軍隊を持つ事を禁じています。それに憲法は人のつくったもので、神から授かったものではありません。だとしたら、人の背丈に合わせるのは当然のことです。何故に矛盾のままにしておくのか不思議なくらいです。
実は私もそういったスジの通る明白な社会が好きです。けれど残念ながら世の中、そんなに漫画で描いたように、くっきりとは描けないというのが真相のようです。
では、誰が考えても改憲(もっともどのように改憲するかは別の問題として)に向かわざるを得ないと思われる論理の中で、何故護憲論者が存在し続けるのでしょう。
答えは、その力は感情に根ざしているということでしょう。つまり、いくら論理で掃き清めても、論理では決して拭い取ることは出来ない感情がそうさせるのです。
ではそれはどういった感情でしょう。それは恐れです。何を恐れるのか。それは他国の脅威ではなく、自国の軍隊です。
現在の護憲論者を支える感情は、他国への恐れよりもはるかに自国の軍隊の暴走への恐れです。おそらく他の国の人から見れば、これはなんとも不思議な現象に見えるのではないでしょうか。
でも根拠のないことではないようです。
私は世のさまざまな決まりは人々の道具であると思っています。だから主語はあくまで人の方です。身近なたとえ話で言えば、「我々は何々と決めているから、何々をしてはいけない」と表現されるべきものでしょう。
ところが日本では、「そのように決められているから、やってはいけない」と表現するのが一般的です。
忘れもしません、私が胸ときめかせていた、新社会人であった頃、私の入社した会社のもっとも充実した年頃のある長が私に「怒られるからやめろ」といったことを。
何についてであったか具体的には忘れてしまいましたが、何か安全についてだったと思います。私はその時、「『怒られるから』とは、まるで幼稚園児と話しているようではないか。
どうして『こうこうだから』と、その訳を言えないのだろう」と、大人というのを少々バカにしてしまいました。それから何十年、「怒られるからやめろ」という言葉は、いい大人の間でも、未だ現役として私のまわりで飛び交っています。
何が問題なのかというと、この言葉で表現される精神に於いては、ことをコントロールする主客が逆転してしまっているということです。コントロールするのは、その人ではなくて、誰か怒る「えらいさん」という第三者です。
つまり日本的精神に於いては、各個人は知らず知らずに事をコントロールする主体から滑り落ちてしまっているのです。皆、ズルズルと滑り落ちてしまうから、いったい誰がコントロールしているのか良く分からなくなってしまいます。
皆が誰かに、時にはそれが「世間」とか「時代の流れ」とか呼ばれたりもしますが、そういった何かにコントロールされているような気になってしまいます。得体に知れない怪物に。
別にこのことは悪いことばかりでもありません。この精神は全体の調和に貢献します。調和は、人と人、あるいは人と自然に於いても、欠かすことの出来ない重要な価値です。
しかし 《世の良いことは同じだけ悪いもの》 です。
主体が消えてしまうということはまるで舵をとる人がいなくなった船に乗り合わせるようなものです。もしそんな船でも自由に乗り換える船が多数あるなら、この欠陥は補うことも出来るでしょう。危なくなれば乗り換えればよいわけです。しかし国家はそうはいきません。
「戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続にほかならない」 [戦争論 岩波文庫]
戦争論で有名なクラウゼヴィッツの言葉です。つまり国家間の戦争というのは神話の国の怪物退治ではないわけです。やむを得ずその手段をとるとしても、それは政治の一環である以上、事後の政治を常に念頭に置かなければなりません。
ということは、出来るだけ双方の歪み少なく、被害少なく、そして一刻も早く終結させるということが戦略課題となるわけですが、その話は戦争論として、これまた別の機会に残しておいて、ここで確認したいのは、いったん始めればもっとも難しい「如何に終わらせるか」という課題に、即直面するということです。
ところがこの自分でブレーキを踏むということが、日本的精神の最も苦手とするところのように思えるのです。
始めるのは、ぎりぎりまで我慢して、あの得体の知れない何かに迫られやむを得ず、というのは良いとしても、終わるのが、ぎりぎりまで突き進んでやむを得ず、というのでは、大惨事です。 特に国民全体を巻き込まざるを得ない現代にあっては、なおさらです。
なるだけ早く終わらせるには、自分たちの意思でブレーキを踏み、終わらせなければなりません。ということは、状況に於いても、組織に於いても、意思がすべてを統制している必要があります。
つまり、「決められたことは守れ」とか「怒られるからやめろ」ではなく、「決めたのだから守れ」「これこれだからやめろ」と、自分の意思が主体になっている精神の集合体になっている必要があります。私は前にも述べたように、この点きわめて否定的です。
では日本的ブレーキとは、いったいどのようなものであるのでしょう。私の見るところ、それもやはりあの主客の逆転した精神であったように思います。
しかしコントロールがうまくいくのは、その全体が一つではなくて、二つに対立している時です。我々の調和的精神は、状況に応じてその対立するどちらかに移動して、結果的にコントロールします。
しかし、この移動すべき他方の全体が無いと、調和的精神は一つに合流します。主体なき全体に。憲法九条は、それを阻止する、この他方の全体を象徴する天守閣のような役目をしているのではないでしょうか。
しかし今やその牙城も、かなり外堀が埋め尽くされた観があります。そればかりか、その石垣すら日に日に持ち去られていっているように思えます。
そんな中で護憲論者はそのブレーキを失う恐れをひしひしと感じているのでしょう。本音と建前が分離し、規則が死文化し、得体の知れない何かに飲み込まれていく体験は、日本社会のあらゆる日常で経験することが出来ます。
改憲論者がどう説明しようとも、そういった言葉による規定が、役に立たなくなることを護憲論者は肌で知っているのです。だから、護憲論者の恐れの感情は、一見スジの通らぬ保守的感情のように見えるけれど、その実は、軍事の最も要の問題を敏感に察知しているのだともいえるのです。
つまり、憲法九条の問題を考える場合、スジ論のほかに、また、国際情勢のほかに、あるいはそれら以上に、自分たちの姿の特徴というのを考えてみる必要があるということです。
道がどうであるというだけで、あるいは他の車のスピードがどうだからというだけで、アクセルを踏み込むのは非常に危険です。それらと同じく、あるいはそれら以上に、自分の車の性能に目を向けなければなりません。良くも悪くもそこから逃げられないのですから。
「 いや皆同じさ」と言われるかも知れません。あるいは「我々の方が優れている」と思いたい人も多いことでしょう。それとも「変わらなければ」と言われるでしょうか。
しかし私には、戦争をめぐっての過去の自分達の姿を、きちっと受け入れることの出来ないその姿には、彼らが何を言っても危なっかしいものに聞こえてしまいます。
また、指揮権を国連に委ねることによって、日本の軍事活動を拡大しようという人達もいるようです。その人たちは自分たちが判断するのではなく国連が判断するのだから良いだろう、と訴えます。確かに一つの考え方です。しかし見方を変えれば、ここにこそ自分たちでブレーキを踏めない、その姿を暴露しているとも言えるのではないでしょうか。
いずれにせよ、自分達自身をどのような姿に見るかということは、意見の分かれるところでしょう。
しかし、憲法九条の問題を考える時、護憲論者も改憲論者も、我々自身をどのように見ているかということは、欠くことのできない視点だと思います。
それを人気取りの甘い言葉ではなく、現実の苦さで語る口と、聞く耳を論議の中に加えたいものです。