第1回 日の丸 20011.5.10
価値マンダラ思考  第1回 日の丸  2001.5.10
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【 日の丸 】
何故こうも歴史が違うのか / 皆さんはどちら / 同じ土俵では / どうして美しくなければいけないのか / 汚れもまた貴重な象徴 / 是非両方を受け入れてこそ
1 何故こうも歴史が違うのか

 日本の歴史教科書の内容が、またまた国際問題になっています。

 変われば変わるもので、一昔前は国が検定することに非難の声が上がっていたのが、今はその逆で、検定が甘いということで批判の声が上がっているようです。それにしても一つの歴史事実を記述するのにどうしてこうも違いが出てくるのでしょう。

 それは言うまでもなく、事実は一つであったとしても見る場所がそれぞれ異なるからということによるのではないでしょうか。であるのに人は知らず知らずに自分の視点を唯一と思い込んでしまいます。そればかりかこの思い込みにがんじがらめに縛られてしまいます。

 ところで、もしこの鎖を断ち切る事が出来れば、そこには異次元にも似た世界が開かれるに違いありません。このページではこの「見る側の問題」を中心に私の世界を紹介していきたいと思っております。

2 皆さんはどちら

 さて、皆さんは日の丸を国旗とすることに対し、どのようにお考えでしょうか。

 愛国的な立場から好ましいこととお思いでしょうか。それとも日の丸はあの帝国日本の象徴として葬り去りたいと思っておられるのでしょうか。

 あるいは「そんなことはどうでも良いけど、国旗はどこの国でもあるのだし、日本としても決まっていたほうが良いのでは…」といったような態度なのでしょうか。

 思うに、これまでの議論は主に前の二者に於いてなされてきたのではないでしょうか。そして次第に上の第三の立場が増えるにつれ、その「あった方が…」に乗じて賛成派が勢いづいて来たように私は思っております。

 ところでこれまでのその議論というのは、どのようなものだったのでしょうか。

 かいつまべば賛成派は、誇りある日本民族の象徴として、またその歴史と伝統の象徴として、日の丸を見ようというのに対して、反対の側は、それは過去の誤れる歴史の象徴であり、それを国旗とすることは過去の過ちを正当化することであるという主張であったかと思います。

 一見正反対のように見えます。確かに正反対です。ところが良く見るとそうでもない側面が見えてきます。

 つまり、この二者はまったく正反対のようで、実は同じ土俵の上に立っているのです。私にはそう見えます、同じ土俵の右と左のように。

3 同じ土俵では

 というのはどちらも、国というか、我々のアイデンティティというか、そう言った自分自身の核といったものは、神聖にして美しく輝いていなければならない、といった観念が暗黙の大前提として不問のままに置かれているように思うのです。

 自分達自身をどういった感情に包んで見るかという点に於いて、どちらも同じく「自惚れ」の中に見ているように思えるのです。

―― 「自惚れ」と言うと少々語弊がありますが、カッコつきの言葉は文脈からその意を拡張してご理解くださるようお願いします。私としては当たらずとも遠からずといった気持ちで書いております。

4 どうして美しくなければいけないのか

 賛成派は日の丸を掲げて歩いた歴史を、「是」である自分達と結び付けようとします。従って歴史を書き換えたく思うでしょう。いやそれこそ真の歴史であると思い込んでしまうことでしょう。

 反対派は日の丸を掲げて歩いた歴史は「非」であって、「是」である自分達と結びつきません。だからその歴史の象徴を我々の象徴とすることには反対です。

 「是」である我々の象徴は「是」である何かに変えたく思うのです。でないと今の我々が「非」に汚染されるような気持ちになります。あるいは逆に言えば、象徴にするということは「非」なるものを「是」と認めたことだと。早く汚れた下着は脱ぎ捨てたいのです。

 だからどちらも「是」である自分を「是」で包みたいという気持ちの上では変わりがないのです。私はここに問題があるように思うのです。我々自身を「是」と「自惚れる」ところに。

5 汚れもまた貴重な象徴

 何故、我々の国の象徴は良いものでなければいけないのでしょうか。何故、我々は良い民族でなければいけないのでしょうか。

 現実の我々は決してよい面ばかりではありません。人はどこまでいっても、いつまでいっても、人であって神にはなれません。だとすると、我々の象徴は誤りの象徴でもあるべきだと思うのです。

 日の丸の赤は、先の戦争で流された血の色と同じです。貴い血の色と。私は日の丸を我が民族の過ちの象徴としてみています。過去が教える今の我々自身の不完全さの象徴として。

 もし民族の誇りという言葉が好きな方は、自分たちの過ちを認めるその勇気こそ、誇りに思うべきだということが出来るのではないでしょうか。

6 是非両方を受け入れてこそ

 あの戦争を過ちだとすると遺族の人の立場はどうなるのだ、という意見があるようです。

 それは自分達自身を「是」のかたまりと思い込んでいるところからくる不安なのではないでしょうか。

 「非」に命を捧げた人達は、「是」である自分達とは無関係な彼方に葬り去られるではないかという不安です。けれど我々があの自分達の「自惚れ」から脱することができれば、彼らもやはり我々に連なる貴い石杖に思えてくることでしょう。

 ところでこの見方には現実として一つの欠陥があることも認めなければなりません。

 それは黙っていると賛成派と区別がつかないということです。ですから賛成派が勢いづく昨今にあって、意に反して彼らをますます勢いづかせるのではないかという心配です。

 正直言ってこの点をどうするか、私自身未解決であることを白状しなければなりません。けれど日の丸を自分達自身の不完全さの象徴として見るという態度は、意味のある事のように思っております。

 
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