第1章 ペルー  《 第5部 南米編 》
第1話 とかく案じ事とは第2話 殺人現場の意味は第3話 ナスカの地上絵第4話 コンドルは飛んで行く
第5話 カタリナ修道院第6話 何も見えない第7話 富士より高い船の上第8話 頭に置かれた山高帽
第9話 インカの石組み第10話 裸でフロント第11話 マチュピチュ
第1章 ペルー
第1話 とかく案じ事とは No.065No.065
ペルー地図

 「それじゃあ、お気をつけて」

 そう言うと彼女は、張りつめた気持ちの私を残して、シアトル空港の人ごみの中へと消えた。彼女にとってここはホームタウン、そのリラックスした後ろ姿がうらやましい。

 成田から同席した彼女は、シアトル在住の奥さんで、一年ぶりの里帰りだったとのこと。主人もカメラ好きだとかで、私のコンタックスT2を見て、主人のと同じだと話が弾んだ。

 その彼女、南米は恐ろしいですというのである。何でも、つい最近のニュースで、気が付いたらホテルのバスタブに寝かされていて、内臓が切り取られていたというのを聞いたという。

 切り口には応急の手当てがされており、病院の電話番号と電話が近くに置かれていて、何とか命は取り留めたそうであるが、それを聞いて震え上がったという。その他にも、ブレスレッドを盗るために手首ごと切り取ったという話もあるという。

 私は特別仏教徒というわけではないが、何故か仏教の伝統を持つ国というのはなじみやすい。また、旅をして、イスラムの国というのも、少しはなじみになった。けれど南米はまだ未体験であった。

 良かれ悪しかれ、初体験を前にしては、想像が膨らむもの。それでなくても銃撃戦の末、リマの日本大使公邸での人質事件が解決されたのは、まだ記憶に新しい。不安はさらに膨らんでしまう。

 何事も土俵に上がる前の不安というのは厄介なものだ。いざ上がってしまえば、取り組む相手が具体化し、必ずしもうまく行くとは限らないとしても、一つ一つ切り崩す糸口が見つかるものだ。

 けれど想像で膨れ上がる不安というのは、はなから全体を気力で押し返さねばならない。これが結構しんどい。

 私は成田の待合室で知り合ったペルー人の家族を待った。彼らとは何もない成田の待合室で8時間も一緒に時間をつぶした仲である。

 というのも、私は名古屋から成田乗継で来たのだが、案内のままに進んだら、名古屋で出国してしまい、成田ではすでに国外の人となってしまっていた。

 そんなわけで、空港を出ることが出来ず、朝の10時から夕方の6時まで、彼らと私だけのガランとした待合室で、ひたすら時間のたつのを待ったのであった。その彼らもペルーへ行きますと言ったら、開口一番、気をつけてくださいと言うのであった。

 心配そうな顔をすると、街中での鞄の持ち方などいろいろ注意を教えてくれた。その上心配だから、空港からホテルまでのタクシーをつかまえてくれるという。有り難いやら、よけい不安になるやらではあったが、とりあえず見失わないようにしなければ。

 このシアトル空港は乗り継ぎであったけれど、米国では一度入国しなければならないということで、手続きのカウンターに並んだ。

 やっと終わって出てくると、ただの案内人だと思っていた別の係官に、突然、所持金を聞かれた。とっさに答えた私は、金額を一桁多く間違えてしまう。二三歩進んでから間違いと気づいて言い直してももうダメ、申告組みの列に並ばされ、変更を許してもらえない。

 私の番がきて、その旨を係官に告げたのだが、しっかり荷物を調べられ、乗り継ぎの時間に間に合うかヒヤヒヤさせられてしまう。

写真  リマの街は、太平洋に面した断崖の上、砂浜の上には海岸道路が走る。どんよりとはしていたが、雨はほとんどないという。

 それからどれくらい乗ったであろう。シアトルからマイアミへと乗り継いで、ペルーの空港に着いたのは、まだ朝も明け切らぬ早朝であった。それにしても長かった。

 日本からの無調整の時計は20時を指している。名古屋を出てから12時間ということはないから、もう一回りして36時間ということか。

 乗り継ぎのよい便というのも考えようによっては問題である。連絡が悪いと、仕方なくホテルで一泊という事になるのだが、トントンと乗り継いでくるとかなりの時間狭い機内に閉じ込められてしまう。内蔵がまだフワフワと空を飛んでいるようであった。

 空港の外には彼らの迎えの車が来ていた。久しぶりの再開なのだろう、抱き合って喜び合っている。その彼らの車に私も便乗させてもらって、リマの街に向かった。

 途中車を止めてタクシーを拾ってくれた彼は、ここまでのタクシー代かわりにと差し出したお礼を受け取ろうともせず、もしも何かあったら連絡してくださいと、住所と電話番号のメモを渡してくれた。

写真  店のガードマン。野球のバットを持って立っていた。その姿は、まじめな顔とはうらはらに、少々ユウモラス。

 お守りのようにそれを握りしめ、さていよいよ一人になったかと緊張する私を乗せたタクシーは、リマの南、ミラフローレス地区のオスタルラルコの前で止まった。

 ところがラルコの正面は前面鉄格子が下ろされ、ひっそりと人気もない。あたりをうろうろしたあげく、営業していないのかと思い立ち去ろうとしたら、私を見かねたそのタクシーの運転手は、わざわざ降りてきて、呼び鈴でホテルの人を呼び出してくれた。

 どうやらホテルといえども間口が開け放たれているとは限らないらしい。中から人が出てくるのを見ると運転手は、笑顔で私に別れを告げ去って行った。その人なつっこい表情に私は、ことのほか緊張している自分がなんだか滑稽に思えてくる。

写真  よく見れば、どこにでもある普通の街。やたら緊張している自分が滑稽に…。

 旅をして実際に接してみると、どこの国の人達も、皆いい人達だ。どうして人と人が、戦争するほど憎みあうことが出来るのか、不思議なくらいだ。私の旅はそんな人の親切に乗っかって成り立っているといっても過言ではない。

 勿論そんな中に混じって、ごくわずかにキツイ人達がいる。しかも彼らは旅人を狙って近づいてくるから、数は少なくても出会う確率は無視できないものとなってしまう。だから油断は出来ないのだけれど、この地球上それがどこでも、決して怪物の国を旅しているわけではないのである。

 次第に輪郭を際立たせ始めたリマの実際を前にして、今までの得体の知れない不安は、まるで闇にうごめく魑魅魍魎が、朝日とともに消え去るように、目の前の景色から姿を消し始めていた。

 ひょっとして人の恐怖や偏見は、この実体のない魑魅魍魎を相手にしているのかもしれない。

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第1章 ペルー
第2話 殺人現場の意味は No.066No.066

 腰の周りにわずかな布を巻いた裸の男の死体は、十字架に両の手と足を釘で打ち付けられ、人々の前に晒されていた。彼を包む薄暗いその空間は、冷たく重く湿り気さえ帯びて沈んでいる。

写真  ペルーの征服ピサロが、自らその礎石を置いたというペルー最古のカテドラル前にて。

 私はリマのアルマス広場の正面にある、ペルーで最も古いというカテドラルに来ていた。磔にされた死体とは勿論キリスト像のことである。もしこの表現が信者の人の心を傷つけるとしたら、お詫びしたい。けれどキリスト教とは違う価値観から見れば、イエスの像はそのように見える。

 カトリックの教会には、どこにでもあるといえる像なのだが、私にはどうも納得がいかなかった。というのも、像の作者は、その死体をよりリアルに、より残酷に、描き出そうとしているように、思えてならないのである。

 祈りの空間に、何故こうも生々しいものを、置こうとするのであろう。日本人なら、年月とともに、もっとさらっとしたものに変えていくのではないだろうか。それなのに、ここの人々は、あたかもそんな流れに必死に逆らっているかのように、よりリアルに、より残酷に描こうとしている。

 いったいどのような感情が、そのような方向に人々を駆り立てるのであろう。私は冷たく沈んだ石壁のカテドラルの中で、彼の像が創り出す私の心を見つめていた。

 希望というより絶望。始まりというより終わり。笑いというより涙。優しさというより厳しさ。磔にあったイエスの像は、私の心をそのような方向に傾かせた。決してそばにいて快い方向ではない。そんな空間に人々は何を求めているのだろう。

 しばし思案の中を彷徨っては見たものの、納得のいく答えを見つけることが出来ないまま、カテドラルを後にしなければならなかった。

 ひょっとして作者をよりリアルな表現へと駆り立てているのは、神への思いではなく、当時現場でそれを見ていたであろう、像のこちら側の人々の、その心情への何らかの共感であろうか。

 いずれにせよ、大きな宿題を出されたような思いであった(ところでこの宿題、二三の答えを創ってはみたものの、いまだ鞄に詰めたまま持ち歩いているので、いずれまたお話することになるでしょう)。

写真  リマ・セントロの中心、アルマス広場。正面が政府庁舎、上の写真のカテドラルはこの右手。

 そんなことを思いながら私はもう一つの中心地サンマルティン広場へ向かった。ナスカまでのバスの予約をするつもりであった。

 ちょうど広場の正面の大学公園あたりを歩いていた時である。五十歳くらいの男が、何かがくっついているといった仕草で寄って来て、指に唾をたらして私の胸を触ろうとしてきた。

 その所作が不自然である。サンマルティン広場あたりはくれぐれも注意とガイドブックにあった。半ば神の国を彷徨っていた私の心は、急遽地上の警戒に召集される。

 これはおかしい。上着を脱いで調べている間にひったくられるというのは良く聞く手口だ。私は半歩横にずれ、足早に立ち去った。

 またこんなこともあった。地元の人も泥棒のメッカと恐れるという繁華街ラウニオン通りを見物しながら歩いていた夕方である。

 通行人にハンガーを売っていた男五六人が私を囲むような配置になった。少し妙なものを感じて、足早に移動したのであるが、またしばらくすると、同じグループが私を取り囲むように商売を始め、そのうちの一人のこちらを見る目が、妙に気になる。

 君子危うきに近寄らず。私は早々に立ち去ることにした。いずれも本当のところは何だったのかはわからないけれど、私はペルーでの流行の手口が少々見えたように思えて、逆に安堵を覚えてしまう。

写真  ナスカをはじめ、ペルーの土器の模様は、とても洗練されているように思えた。(ラファエル博物館)

 ナスカまでのバスは5.6ドル、リマから約5時間で着くそうである。切符を手に入れた私は手ごろなレストランで早めの夕食を食べることにした。

 鶏肉と野菜炒めに、味付きライスは、10ソル(3.3ドル)で、美味しかったのだが、上にのっていた厚さ5mm程の赤い輪切りを、てっきりトマトだと思ってしまい、喜んでガブリとかじってしまった。

 けれどトマトの味がしない。妙だなと思って食べていたら、大変。口の中が燃え上がってきた。唐辛子だったのである。

 唐辛子というのはどうも時間差攻撃でやってくる。気づいた時はもうかなり事態は進行している。瞬く間に、口は火、鼻は水、目は涙、頭は汗、カーッと音をたて、火柱が脳に突き刺さる。私は人目をはばかったものの、スプーンを包んでいたペーパーに、吐き出さずにはいられなかった。

 あわててコーラを注文したのだが、冷たいコーラを口の中に含んでいる間は、何とか耐えられるものの、コーラというのは口に含んでいると、どんどん泡がたまるもので、すぐに飲み込まざるを得なくなってしまう。

 ところが飲み込むともうだめ、口の中に再び炎が燃え上がる。目を白黒させ、一人レストランの片隅でひたすらほとぼりが冷めるまで、耐えねばならなかった。

 この手のもの、二度とガブリとはやりません。

写真  問題の定食。とても美味しかったのだけれど…。
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第1章 ペルー
第3話 ナスカの地上絵 No.067No.067
写真  ナスカの地上絵イヌ。セスナからはその他10個ほどが見えた。乾燥した平原を覆う黒っぽい土砂を取り除いて描いてある。大きなものは300mにもなるという。

 グウゥッ…ぬれたスポンジを握りしめた時のように、胃袋が縮み上がっていくのがわかる。その胃袋から苦く酸っぱいゲップが喉元に上がってくる。血の引いた額には脂汗が冷たくにじんでいた。

 こんなに急激に酔いが始まるとは思ってもいなかった。それでも必死にカメラのファインダーを覗いた。眼下に広がるなだらかな茶紫の大地に、くすんだ絵が見える。

 「あれは犬の絵、見えますか?」

 パイロットはサービス満点、窓から地上が良く見えるよう、ほぼ真横にセスナを傾け、右に左に旋回する。ナスカの地上絵である。ツアーの参加費は45ドル、セスナにはパイロットと2人の観光客が乗る。

 出発前セスナのエンジンがなかなかかからず、倉庫から大きなバッテリーを台車で引いてきてやっとプロペラが回りだすという次第であった。そんなので大丈夫かと心配していたのだが、もうそれどころではなくなってしまう。

 乗る前は早めに切り上げられてはなるものかと、飛行時間の念を押したのだが、まったく余計な事をしてしまったものだ。

 私はのたうちまわる胃袋を必死におさえて、カメラのピントリングを回していた。何かに集中していれば少しでも気がまぎれるかと思って。

 けれどその頑張りももう限界にきていた。次第にパイロットの説明が、意味の無い音に聞こえ始めたころ、「もう帰るがよいか?」という言葉が、実に心地よい響きで私の耳に飛び込んできた。

 それはもう、まるで我慢に我慢の末、やっとトイレにたどり着いたときのような喜びであった。

 「Si」

 私は後ろのスペイン人女性とコーラスのように声をそろえていた。後ろでわからなかったのだが、彼女も酔いの苦しみにもだえていたのだそうだ。

 そんなわけで有名なナスカの地上絵をゆっくり鑑賞することが出来なかったので、白骨散らばるナスカ時代の墓地を見た後、別にタクシーをチャーターして、砂漠の中に建つミラドールに行った。

 ナスカの研究家マリアライヘ女史が建てたという十数メートルの鉄骨は、地上絵を突っ切って走るパンアメリカンハイウェイの側に立っていた。

 上に昇ると風が強い。西の大地には巨大な木の絵が、そんな風にもそよぐことなく、静かに時の流れを超え横たわっていた。

 絵は薄いアズキ色の地表の堆積物を掻き取って描いている。禁止されているが、もし描こうと思えば我々でも足を引きずりつつ歩けば描けるであろう。

 それにしてもこんな巨大な絵を何の目的で描いたのだろう。さまざまな説が述べられているようだが、いまだかつて決定打がないという。

 遠い宇宙の彼方の謎はいくつか解けても、同じ人間のやった謎が解けないとは、なんとも愉快な話ではないか。ひょっとして我々人類にとって、一番の謎は我々自身なのかもしれない。

 轟音を轟かせてトラックが2台、地上絵を切り裂いて、地平線の彼方へと走り去っていった。はたして我々人類は、いったい何処から来て何処へ行くのだろう。

写真  地上絵を切り裂いて突っ走るパンアメリカンハイウエイ。地上絵の研究家マリア・ライヘ女史の観察やぐらから。

 その日の夜8時、アレキパまでの夜行バスに乗った。私の泊まった宿からも5人程乗ったのであるが、皆のリュックが麻袋や黒のビニール袋に包まれ、厳重に鎖をかけ、南京錠でロックされているのには少々驚きであった。

 私も南京錠はかけてはあったが、こうも露骨ではない。スペインからの女性2人組みは、大丈夫だと請け負うバスの車掌に、頑として鎖で荷を結合することを要求してきかなかった。これが南米の旅の常識なのだろう。

 途中バスはレストランに立ち寄る。皆は遅い夕食に入ったが、私はもう済ませていたので、庭で一人夜空を楽しむ。綺麗な星空であったが、よく見るとオリオンと双子座が頭上に輝いている。

 南半球なのにと目を凝らしたのだが、間違いないようであった。遠い異国に来ているように思っていたが、彼らは同じ空で、見守っていたのである。なんだか妙に落ち着いた気分で、私はバスに戻った。

写真  アレキパのアルマス広場。リマの南東約1,000km、標高2,380mの、ペルー第二の都市である。

 バスがアレキパに着いたのは、朝の7時であった。ターミナルから街までタクシーで3.5ソル(約1.3ドル)、さっそくたどり着いたホテルは、シングル35ソル(13ドル)と少々高いので、疲れてはいたけれど他をあたることにした。

 ガイドブックの地図をたよりに、サンカタリナ修道院を過ぎて少し行ったところで、ソムタ・カタリナというホテルを見つける。入って聞くと、20ソル(7.5ドル)の部屋があるという。

 見せてもらうと日当たり抜群で言うこと無い。しばらくここでノンビリしよう。大喜びで私は手続きを済ませた。

 荷物を置いて一段落した昼近く、ぶらりと街に出た。しばらくいるのなら、安い食堂も見つけたい。そんな思いにぴったりの大衆食堂がホテルから遠くない所にあった。立てられた看板にはチョークで本日の定食2.5ソル(0.9ドル)とある。

 さっそく入って注文したら、出てきたのは、スープと野菜の前菜、それに鶏のメインディッシュにパンとお茶であった。

 今まで観光客用のレストランが多くて、だいたい1食10ソル〜15ソルであった。少々質は落ちるものの、日本の大衆食堂の定食のようで、思いようによってはこちらのほうが庶民の味がする。なのにこの安さはたまらない。

写真  アレキパの定食屋。チョウクで書かれたMENUが本日の定食。だいたい、魚か鶏肉に、スープ・ライス・お茶と付いて、2.5ソル、1ドル未満。

 その夜少し遠いところに別の定食屋を見つけた。テーブルは三つほど並んでいたが、その横は通りつらいほどの店の幅である。

 入り口左手の炊事場で男が料理をしていた。裸電球に照らされた店内はペルーの人でにぎわっていた。私はその横をすりぬけ、一番奥のテーブルに席を取った。

 どうやら普段ここは、事務机も兼ねているようで、伝票の束が積まれている。私は料理名がわからないので、一つ手前のテーブルで美味しそうに食べているスープを指差して注文した。

 どんぶり一杯に入れられて出てきたスープは、カレー味で、人参やフキのような野菜と米が煮込まれていて、なかなか美味しい。喜んで食べていると、中に白い芋虫のようなのが見え隠れする。

 ちょっとドキッとして恐る恐るすくい上げてみた。芋虫が1匹、2匹、3匹…

 「ゲッ!」

 なんとニョキッと出てきたのは、足の形にくっついたままの、ニワトリの指ではないか。どうしましょ…。

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第1章 ペルー
第4話 コンドルは飛んで行く No.068No.068

「気分はどうです」

 窓の外ばかり見ていた私に気をつかって、オランダからの女性が話し掛けてきた。

「とても良いです。空が綺麗ですね」

「すばらしいですね」

 そう言ってまた会話は途絶えてしまう。先ほどから前の席では、ハロウィンの思い出話に花が咲いていた。どんなコスチュームでどれほど馬鹿騒ぎをしたか、そんな話で大いに盛り上がっている。

 私は一人ミニバスの後ろで無口な日本人を演じていた。一泊二日のコルカ渓谷ツアーでのことである。

写真  コルカ渓谷のツアーで立ち寄ったドライブイン。高山病に良いという、マテデコカ(コカのお茶)を飲み、昼食をとる。

 ペルーの観光地は、アジアのように町や村の中にあるという所が少ないようで、自然と旅行会社のツアーで行くというスタイルになってしまう。

 このツアーもコルカ渓谷へコンドルを見に行こうというもので、個人で行けなくもないようであったが、バスの便が悪い上、最寄りの村から1時間は歩かなければならないというので、アレキパの宿に勧誘に来たジミーに誘われて、参加することにした。宿、食事つきで26ドルである。

 ところでそのジミーなる名前、同乗しているイスラエルの青年に教えてもらった。彼は16歳までアメリカで育ち、以降イスラエルに移り住んでいるということであったが、若いのに多くの国を旅しているようで、いろんな言葉に堪能であった。

 その彼、驚くほど早く人の名前を覚える。と言うより、彼の場合、物事の理解がまず主語から始まっているようなのである。

 そんなことに気がついて私の場合を思ってみるに、私はどちらかというと、述語のほうに注意が集中して、主語はというと、その述語から推測しているようなところがある。

 だから例えば、ツアーに誘われているような場合、大事なのは旅行に勧誘されているということであり、勧誘しているのは、旅行会社の誰かであって、それがジミーであろうが誰であろうが、たいした問題には思えない。

 だから始めに名乗りあったとしても、すぐ忘れてしまう。その場にいた彼は、後で話した時、ジミーなる名前にキョトンとしている私を、不思議でならないといった顔で見つめていた。

 余談にはなるが、この主語をまず意識するという考え方、英語のペーパーバックの小説を読む時など、かなり役立っているように思える。

 関係詞でだらだらと続けられた文を、動詞に注目して読むと何が何だかわからなくなってしまう。そんな時常に主語を意識していると、ある程度すらすらと頭に入る場合がある。英語と日本語の思考の違いなのかもしれない。

 その彼は、前の席でハロウィンパーティでのハチャメチャぶりを話して皆を笑わせている。いったい何がそんなに面白いのだろうと思ってしまう。

 おそらくそんな風に思ってしまうのは歳のせいなのだろうが、愛想笑いも出来ないのは、文化の違いにも原因するだろう。もし日本にも習慣のある、エイプリルフールか何かであったら、私も薄笑いくらいは浮かべて参加できたのかもしれない。

 ところがツアーに参加していた彼らは、オランダ、スペイン、ドイツ、アメリカそれにイスラエルの面々で、長時間バスの中に閉じ込められていると、どうしても水から油が分離するように、文化的乖離を感じてしまうのであった。

写真  渓谷への途中の景勝地で土産物を並べる少女。「写真を撮ってもいいか」とたずねたら、「Si]と澄んだ声で微笑んでくれた。

 そんな気分も影響したのだろう。午後の2時過ぎ、標高3,600mの町チバイに着いた時には、次第にこめかみのあたりがズキンズキンとし始めてくる。ツアーはこのチバイの町で一泊する。

 町ではアンデスの青い空によく似合う、派手な色合いの民族衣装の女性達でにぎわっていた。ガイドの説明によると白い帽子と黒い帽子で、所属が分かれているらしい。なるほど女性たちの装いは二組に分かれていた。

写真  白いハットと黒い山高帽。チバイの朝。

 このチバイの町は温泉が湧き出ることでも有名である。夕食の8時にはまだ時間があったので、皆で一風呂浴びることにした。

 町のはずれの温泉は、ちょうど小学校のプールのようで、心地は良いものの風情がない。やはり温泉は日本に限る、などと思っていたのであるが、この一風呂が、よけいいけなかったらしい。宿に帰ったころには、頭の中がガンガン鳴り始める、高山病である。

 8時の夕食に集まったレストランでは、テーブルの隣でフォルクローレの演奏があった。私はメキシコで聞いたとき以来、すっかりフォルクローレのファンになっていた。世の定めを知りながらも、その日の喜びを、アンデスに吹く風のように奏でるメロディーは、心休まるのみならず、力強いものを感じてしまう。

 けれどこの時ばかりは、それどころではなかった。いつもなら心地よいチャランゴの響きが、痛い頭をかきむしる。美しい音色のケーナが、うずく脳みそに突き刺さる。そんな思いの夕食であった。

 ところでちょっと面白く思ったのは、日本でいう「蛍の光」が演奏された時である。

 元々はスコットランドの民謡だそうだが、早いテンポで軽快に演奏されると、とても楽しい曲になるのである。ちょっと口ずさんでみてもらいたい。

 「蛍の光」というと、しんみりとした気持ちになってしまう私であったが、どうやらそんな感情は万国共通ではないらしい。

 翌朝6時起きで朝食を済ませ、バスでコルカ渓谷の展望地点に着いたのは、10時頃であった。

 展望地点といっても特別の整備はなく、陣取った斜面は、下を見ると深い渓谷に転げ落ちそうな恐ろしさを感じてしまう。

 日本でなら責任問題を恐れてこんな斜面はきっと立ち入り禁止にしてしまうであろうと思いながら、声をひそめて待つこと1時間、いっこうにコンドルは現れてくれない。

 もう帰ろうかとガイドの声がかかり、皆ガッカリ諦めかけた時、ゆっくり下のほうからコンドルがその雄姿を現せた。

 まったく羽ばたくことなく風に乗って舞うその姿は、あの名曲「コンドルは飛んで行く」のメロディーを目で追っているようであった。

写真  目のくらむような深さのコルカ渓谷を、悠然と風に乗って舞うコンドル。
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第1章 ペルー
第5話 カタリナ修道院 No.069No.069

 周りの壁は、外の騒音を遮断しているというより、院内の静けさを、ぎゅっと閉じ込めて、外に逃さないようにしているかのようであった。

 雲ひとつないアンデスの青い空の下で、赤い葵の咲きほこる、白いパティオがまぶしい。その暖かい中庭を抜けると、小さな建物の赤い土壁で仕切られた、おもちゃの国の迷路のような小道が続く。

 その回廊を巡っていると、なんとなく可愛らしい雰囲気を感じてしまう。世を捨てたとはいえ、やはりここは女性達の居た所のようである。私はアレキパのサンタ・カタリナ修道院に来ていた。

写真  可愛らしい建物の並ぶ、サンタ・カタリナ修道院は、まるでおとぎの国に迷い込んだかのよう。けれどここでは、1970年まで実際に修道生活が営まれていたという。

 十六世紀末に建てられたというこの修道院では、ついこの間の1970年まで、実際に修道生活が営まれていたという。その建物の中は、外観とは違って、凛としたものが感じられた。

 私は小さな棚と、粗末な板のベッド以外何もない冷たい部屋に立っていた。まるで牢屋のようなこんなところで、一切外との関係を断ち、黙とした生活を、死ぬまで続けた人達がいるのである。しかも自分の意志で。

 いったいどのような思いの、毎日であったのだろう。白い壁に残された汚れと、ベッドのキズが、それをつけたであろう人のぬくもりを、感じさせる。

 人は外への興味を、ことごとく断ち切られると、心の中を感じる力が、鋭く研ぎ澄まされるのかもしれない。

 そんな鋭敏な精神が描き出す、生き生きとした心の出来事を、神の体系で理解するとしたら、神は彼女たちの毎日に、実在していたに違いない。

 何世紀にもわたって、彼女達を受け入れてきたその部屋は、何もないが故に、よけい彼女たちの心の世界の豊かさを、語っているように思えるのであった。

写真  今しがた、一人の修道女が、粗末な衣のすそをなびかせて、音も無く通り過ぎたばかりのような…。さすがに内部は凛としたものを感じさせる。

 そんな思いで院内を巡っていると、小太りした尼さんの写真に出会った。下のスペイン語の説明は読めなかったが、その飾られ方からすると、この修道院で地位の高かった人のようである。

 おそらく院の発展に貢献した、何代目かの院長なのだろう。なるほど立派な人と思うべきなのかもしれないが、その表情に、先程の想像が崩されるようで、私は少々落胆してしまう。

 というのもその前を見つめる女性の表情は、安らぎを求める尼さんというより、神経のアンテナを外に向かって張り巡らせた、にらみのきく組織の長といったイメージなのである。

 どうやら修道院といえども、それが人の世のものである以上、何処かで誰かが、俗世間の泥に足を入れ、付き合わねばならないのだろう。ひょっとするとそれをどうするかが、神を語る者の最大の問題なのかもしれない。

写真  騒然とした市場にあって、まるでここだけは、自分だけの空間であるかのよう、まるで、修道院の静けさの中のよう。(アレキパの市場にて)

 このサンタ・カタリナ修道院から、1kmほど南へ歩くと、市場に出る。修道院とはうって変わって、人々の熱気あふれる、アレキパの台所である。

 スリ置き引きの最も多いところと、ガイドブックには書かれていたが、やはり人々の集まるところは歩いていて楽しい。

 このアレキパは食べ物が豊かなところとしても知られている。さまざまな食材の山にうもれた店の人にカメラを向けると、ほとんど気持ちよく応えてくれた。やはりラテンの人達は開放的である。またたく間に、36枚のフイルムを撮り尽くしてしまった。

写真  りんご、洋ナシ、キウイ、葡萄…豊かな果物に囲まれて。キウイは1kg3ソル(1.2ドル)。

 私はここアレキパで、美味しい果物にすっかり魅了されていた。特にキウイと洋ナシが美味しく、毎日ホテルに買って帰って、朝夕舌鼓を打っていた。

 そのキウイが5個、アレキパ最後の日の朝、まだテーブルに残っていた。けれどリュックに詰めるのも邪魔だし、かといって捨てるのももったいないので、荷造りの前に、全部平らげてしまった。

 果物だから大丈夫かと思ったのだが、これがいけなかったらしい。注意していたはずなのに、またまた食べ過ぎである。

 夜の列車までにはまだ時間があったので、リュックをホテルに預けて街に出たのだが、次第に体がけだるくなってくる。

 私は何もする気力がなくなってきて、カンパニーオブチイセスという、商店ビルの二階のテラスで、ぐったりと横になっていた。

 そんな私に、学生と称する2人が、インタビューにやってくる。英語の勉強をしたいというのである。考えてみれば私もここでは、立派な外国人である。

 とりあえず聞いてみたら、彼らの質問が結構やさしかったので、そのまま「先生」を通してしまった。この「先生」、つい先日まで、「イエス」とも言えなかったのに…。

 かしこまってインタビューする学生さんと、笑顔で答える私。早く終われと願いつつ。苦笑!苦笑!

 とはいうものの、体のけだるさは、いっこうに良くならない。陽も傾きかけた頃、荷物を取りにホテルに帰り、そこでトイレに入ったらもう完全なる下痢である。

 トイレから出てきたかと思うと、また駆け込むありさまで、お腹の中はすっかり空になってしまったのだが、同時に力も抜けてしまったようで、リュックを担いだ時は、少々足元のふらつくのを、感じたほどであった。

 プーノまでの移動を、バスではなく、列車にして良かったとつくづく思う。途中4,000m級の峠を越えなければならず、結構冷えるということだが、列車ならトイレが付いているから、何とかなるだろう。

 私は同じホテルのホランド人と、タクシーの相乗りで、駅に向かった。

 ―― ところがその列車のトイレでは、思いもかけぬ難問に直面してしまうのである。―――

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第1章 ペルー
第6話 何も見えない No.070No.070

 ただ目をつむっていただけなのか、夢を見ていたのか、その境の分からぬまどろみから覚めれば、列車は闇の中で止まっていた。

 しかし何かが違う。何だろう、そう、車内がまったくの闇なのである。普通ならこういった場合、最低でも足元の安全灯くらいはついているのだが、何もない。何も見えない。目の前一センチに何かを持ってこられてもこれではわからない。

 連結作業待ちだろうか、遠くで列車のきしむ音が、かすかに聞こえる。どうやら発電機のある車両と、切り離されてしまったらしい。

 また一眠りして動き出すのを待てばよいだけの話であるが、私の場合そうもいかなくなっていた。キウイの食べ過ぎによる下痢のお腹が、騒ぎ出してきたのである。

 しばらくガマンはしたものの、いっこうに動く気配がない。やむなくトイレに向かうことにした。しかし懐中電灯はリュックの中、今となってはそのリュックさえ、網棚の上でどれがどれやらわからない。いや網棚すらもわからない。

 私は座席の背もたれをたよりに、手探りで歩き始めた、一つ、二つ、背もたれを数えて。数えておかなければ、帰って来られない。

写真  旅行会社のジミーは、切符はエグゼクティブと、ふんぞり返ってデラックスぶりを表現したが、少々期待はずれ。

 目をつむって見えないという体験はあるものの、目を全開にして何も見えない漆黒の闇というのは、また違った感覚であった。

 目の中に粘土か何かを詰め込まれたようで、開けても見えないじれったさと、鼻のあたりがこそばゆくなるような不安を感じてしまう。

 これに比べると、月明かりのある夜は、昼間のように明るく思える。電気のない時代、月の満ち欠けが大きな関心ごとであったわけが、良くわかるように思えた。

 背もたれを七つ数えた時、手は壁板に触れた。連結部まではほぼ手の幅ほどである。ここがトイレに違いない。ところが、右に左に上に下にと撫で回してみたものの、ドアのノブが見つからない。

 ノックをしてみたものの、何の応答もない。ドンドンガタガタ、私は少々あせり始めていた。とその時、連結部の扉が開いた。「トイレ?」必死の思いでそう聞いた。

 私に答えてくれたのは、かわいい女性の声であった。何のことはない、入り口が、進行方向に向いていたのだ。だから一度連結部へ出てから、入らねばならない。

 日本でならだいたい、入り口は横向だ。とんだ思い込みであった。それにしてもさぞかし、中にいたあの女性は、驚いたことであろう。壁をドンドン叩かれて。

 ところで、やれやれと中に入ったのであるが、まだ問題は解決していなかった。便器が見えない。これは大変と目を凝らしたら、窓の外の星明りでか、かすかに白い輪が見えたような、見えないような…。

 けれどもうお腹は待ってはくれそうにない。私はかまわず座り込まざるを得なかった。

 ところが、一難去ってまた一難、今度はどうして流すかわからない。私は足で便器の周りをあちらこちら踏んでみた。ありがたいことに、そのうちの一つがペダルにあたり、水の流れる音がした。

 皆さん!懐中電灯が本当に必要な時とは、それをあちらこちら探すことの出来ない闇の中なんです。

  この至極当たり前のことを忘れ、リュックにしまいこんだがために、とんだ「大事件」とはなったものの、再び座席を数えて、手探りでわが席に着いた時には、それまでが嘘のように、お腹はケロッとしてしまう。

写真  列車は整備のためか時々止まる。何しろ4,000mを超える峠を越えねばならない。写真は、プーノ・クスコ間にて。

 朝の9時、列車はフリアカに着いた。プーノの北50kmの所である。列車はここで長時間停車するとガイドブックにあった。

 ところがしばらくすると、客は全部降り始める。どうやらここより先へは、行かないらしい。さしたる説明もなく、良くわからなかったが、同じ車両の外人旅行者に混じって、ホームで待った。

 彼らの中にはスペイン語に堪能な人が多い。一緒にいれば、英語に翻訳してもらえる。ぽかぽかとした朝の光を浴びて、30分も待ったであろうか、迎えのバスが来た。

写真  ティティカカ湖の横をゆっくりプーノの街に向かう貨物列車。

 プーノでは客引きの男に誘われて、言われるままにトミーなるホテルに行ってみた。見せてもらった部屋は、大きな窓は北向きであったが、ベッドが4つも有り、広々として申し分ない。1日15ソル(約6ドル)で泊まることにした。

 ところが荷物をおいて、窓から外を見ると、太陽が見える。妙だと思って考えたら、ここは南半球、太陽は北の空を回る。実は北向きの窓は正解だったのである。

 けれど一つだけ難点があった。それはシャワーが、電気シャワーなのである。温度を調節しようと思って、つまみを触って飛び上がった。漏電している。

 ロビーではティティカカ湖の島々を巡るツアーを募集していた。一泊二日で、ウロス・アマンターニ・タキーレと巡って40ドルであった。

 このティティカカ湖はペルーの南端、ほぼアンデスの山脈の中央にある湖で、なんと海抜3,890mだそうである。富士山より高い湖である。しかも面積は琵琶湖の12倍もあるという。

 何でも汽船の航行する最高地点だそうである。先程手首で脈を測ったら、1分間で104になった。空気が薄いのだろう。

写真  ティティカカ湖は、全てが生まれた所として、崇められているという。青い空の下のその姿は、異教徒の私にとっても神秘的。

 余談になるが、3年後のボリビアで、このティティカカ湖の名前にまつわる、面白い説を聞いた。

 ティワナコ遺跡のツアーで、我々アジア人にも、お尻に青い蒙古斑を持って生まれるという話をしていたら、日本語で両親のことを何と言うと、ヨーロッパの旅人が聞いてきた。

 不審に思いながら、「父と母」と言うと、やっぱりといった感じで、数人がうなずいている。何だと聞いてみると、「ティティカカ」の語源は、日本語の「チチハハ」の語源と同じだというのである。

 そういえば「ハ」の音は「カ」とも聞こえる。例えば、蒙古の英雄ジンギスカンは、ジンギスハンともいう。ティティカカ湖は、インカ以前には「全てが生まれた場所」と呼ばれていたという、ガイドブックの記事を思い出していた。

 この話を、ラパスの街で会った日本の若者に話したら、「それは嘘だ」と即座に否定されてしまった。けれど私は、そうかもしれないという思いを楽しんでいる。

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第1章 ペルー
第7話 富士より高い船の上 No.071No.071

 ちょっと信じられない、この水面が富士山より高いとは。しかも行く手の湖面は、見渡す限りまぶしくきらめき水平線の彼方へと消えている。まるで海の上だ。

 なのにここはアンデスの上、海抜3,890m、気温は高くはないものの、直射日光の当たる肌は熱い。

 補色を組み合わせた、派手な色合いの風呂敷包みを持った、島の娘さんが、ボートにころがっていた、油で汚れたような、四角いプラスチック容器を拾いあげると、身を乗り出して、湖面の水をすくい上げた。

 手でも洗うのかと思っていたら、ごくごくと美味しそうに、飲み干した。チチカカ湖ツアーの、船の上でのことである。

 プーノの桟橋を出てから、すでに30分はたったであろうか、船はウロス島に着いた。観光客が下りると、島の子供達が寄ってくる。

 町角の公園ほどの広さのこの島は、トトラと呼ばれる、葦を積み重ねて、出来ているという。島というより、大きな草の筏である。

 なるほど足の下は、少々フワフワするようであった。周りを小屋で囲まれた中央の広場では、美しいデザインの布や干魚を、土産に売っていた。

 子供が、絵葉書大の画用紙に、カラーペンで落書きしたような絵を売っていた。二枚で1ソル(0.3ドル)だと言う。何のことはない落書きのような絵なのだが、こういったところで見せられると、その稚拙さが、記念になるように思えて、買ってしまった。

写真  湖に群生するトトラ(葦)を積み重ねた浮き島ウロス島。こんな生活が出来るということは、チチカカ湖にひどい嵐はないのだろうか。

 30分ほどで、ウロス島を切り上げ、船がアマンタニ島に着いたのは、お昼を過ぎていた。チチカカ湖のこの島は、紀元前から人が住んでいたらしく、インカ以前の遺跡も残るという。

 人口4,000のこの島の船着場には、10人程の村人が、我々を待ち受けていた。旅行会社は村人と契約しているのであろう。ガイドがツアー客を割り振り、我々は村人に付き添われて、一人二人と、それぞれの家へと向かった。この島にホテルはない。

 私が案内されたのは、二階に白い壁の客室を二つ持つ農家で、4畳ほどのその部屋には、素朴なベッド以外は何もなく、ただフジモリ大統領が、壁にかけられたカレンダーの中で、耳おおいのついたカラフルな民族帽ゴロをかぶって、笑っていた。

 '92年に議会を強権的に解散させた彼は、このとき既に国の内外から、非難を浴びていると聞いていたが、ペルーに来てみると、意外に庶民には人気のようであった。

 けれどその人気は、少し別の所にあるようにも思えてくる。というのも、両替等で銀行に行くと、カウンターより中にいるのは、必ずと言っていいほど白人なのである。肌の浅黒いインディヘナの人達を見かけるのは、せいぜい入り口のガードマンである。

 そんな光景を見ていると、ペルー社会の歪が、見えてくるような気がするのであった。ひょっとするとペルーの人達が、フジモリ氏を選んだのは、〈白人ではない誰か〉と言う意味が、ひと押ししていたのかもしれない。

 そんなことを思っていると、家の娘さんが、食事を運んで来てくれた。香りの良いお茶に、お米とジャガイモの入ったカレー味のスープ、それにメインディッシュは野菜炒めライスである。

 どれも素朴な味ではあったが、遅い昼でお腹がすいていたせいか、とても美味しかった。特に野菜炒めライスは、肉類は何も入っていないのに、味にこくがあるようで、少し驚きであった。アンデスの野菜は、なんというか、味がしっかりしているように思える。

写真  我々が泊まった宿の台所。まな板を使わずに、器用に野菜を切っていた。

 三時半から、島の高台へ遺跡を見に行くと言うので、中央の広場に、ツアーの皆が集まった。他の町同様、正面には教会がある広場で、元気な子供たちが、ボールやコマで遊んでいた。

 私の子供の頃もそうだったはずなのに、ファインダーに飛び込んできた、夢中で遊ぶ子供の顔に、二本の鼻汁がだらりと垂れ下がっているのを見て、少し気持ちが引いてしまったのは、日本の変わりようの象徴だろうか。

写真  元気に遊ぶ島の子供達。この島にもちゃんと教会があり、広場がある。チチカカ湖アマンタニ島にて。

 広場から少し歩いて村を外れると、石を積み上げた垣に囲まれた道が、山へと連なっていた。山といっても、ちょっとした高台程度なのだが、十メートルも進まないうちに息がきれ、立ち止まって一息入れなければならなくなってしまう。

 私も歳かと思ったが、そんなことをしているのは、私だけではなかった。何しろここはアンデスの上、空気が薄いのである。幸いチバイで体をならしたせいか、高山病の頭痛はなかったものの、やはり元気よくは登れない。

写真  神聖な場所とされている、アマンタニ島の山の上から。決して高くは無い丘だが、海抜では4,000mを超えている。登るのは息が切れた。

 夜には村の人達が、フォルクローレの演奏をしてくれると言うので、宿の若者に連れられて、会場に向かった。

 闇の中、彼の懐中電灯に照らされて、かすかに見える足元の、溝や畦を上ったり降りたりしていて、ふと気が付いた、小銭入れを置いてきてしまったことを。

 しまったと思ったものの、ちょっと走って取りに行くということが、出来るような状況ではない。そのまま会場まで行ってしまったのだが、やはりカンパの請求がきた。

 貴重品として持ち歩いている札入れを調べたら、1ドル札が1枚残っていた。仕方がない、奮発する。ところがしばらくすると、もう一人やってきて、袋にお金を入れろという。

 さっき出したと断り続けたのだが、なかなか引き下がらない。あと残るのは5ドル札以上になってしまう。断り続けると、かなり不満な様子で去って行った。

 後で知ったのであるが、演奏グループは二組あって、別々にカンパを集めていたようだ。ちょっと申し訳ないことをしたかなと、思っているうちに、村の公民館のような建物には、楽しいフォルクローレの曲が流れ、何人かが踊り始めた。

 と、壁際に腰掛けて眺めていた私に、小学1、2年ほどの少女が2人、私の手を引っ張ってきた。いったい何なのだろうと、どぎまぎする私であったが、少女達は、私の手を握って見つめるばかり。

 どうしたものかと、あたりをキョロキョロしていると、向かいの壁際にいたガイドの人が、助け舟を出してくれた。踊ろうと言っているというのである。

 「エッ」と思ってしまう。どう理解したらよいのか、見当がつかない。純粋に踊りを楽しみたいのだろうか、それとも小遣い稼ぎのサービスか。

 リズム音痴のおじさんが、ヘソの高さほどの少女と、音とちぐはぐに、腰を振っている姿は、ちょっと想像したくない。

 私は丁重にお断りしていた。

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第1章 ペルー
第8話 頭に置かれた山高帽 No.072No.072

 「チチカカ湖は土砂降り」そんな言葉が、わけもなく思い出された。ビッグコミックの劇画、ゴルゴ13の一コマである。

 こんなせりふを覚えているのは、世の中広しといえども、私一人くらいのものではないだろうか。おそらく当の作者も忘れているに違いない。

 別にこれといって理由があるわけではない。何故かしらないけれど、頭に残っているのである。確か南米のゲリラが、無線で打電している暗号だったと思う。

写真  チチカカ湖は土砂降り。降りつける雹は、リャマの子も殺すことがあるという。

 そのチチカカ湖が、文字どおりの土砂降りで、見えなくなっていた。あの台詞は、まんざら空言ではなかったようだ。母屋の屋根には、叩きつける雨の水煙にまじって、白い粒がはじいている。雹である。

 先ほどから、屋根のトタンをたたく、パシパシという音は、そのせいだろう。前の空き地のロバは、隣接する建物の土塀に、ピタリと身を寄せ、じっと動かない。

 彼にとってはなじみの雨なのだろう、気持ちばかりの雨宿りである。まるで慣れっこになった主人の小言を聞いている時のような、伏せ目がちなその姿がいじらしい。

 雨の上がった七時半、我々はキターレ島へのボートに乗った。途中もう一度大雨に襲われたが、キターレ島を歩く頃には、すっかり晴れ上がっていた。

 晴れると日差しはきつい。お茶を飲みに入った食堂で、鏡に映った私が、何がしかインディヘナの人達に似てきているのに気が付いた。

 というのも、ホホと鼻頭と唇が、日焼けで赤茶にただれ、治りかけた擦り傷のカサブタのように、少しひび割れ始めているのである。

 インディヘナの人達のそんな顔を見て、てっきり汚れだと思っていたのであるが、どうやら彼等も日焼けするのであろう。それほどアンデスの陽射しは強い。

写真  アマンタニ島の船着場。チチカカ湖は晴れると陽射しがとてもきつい。

 キターレ島では、美しいインカデザインの、小さなポーチを22ソル(8.5ドル)で買った。少々高かったけれど、島の産業へのささやかな支援の気持ちも兼ねて。

 ツアーの皆でマスの昼食を食べ、プーノの桟橋に戻ったのは、夕方の5時を過ぎていた。

 次の日、宿の主人に教えてもらった、アコラ行きのミニバスに乗った。日本でならきっと名所となるのではと思える、奇岩の山肌を見ながら揺られること40分、バスは運動場ほどの広さの市場に停まった。

 美味しそうな野菜の山、それに数々の日用雑貨、各種修理屋、大道芸人、なんでもありの市場は、色鮮やかな民族衣装の女性達でにぎわっていた。

 背負われたカラフルな風呂敷包みも、彼女たちのファッションの一部になっているよう。鮮やかな赤青緑の原色は、真っ青なアンデスの空の下、補色同士が弾き合い、互いに元気よく跳ね合っているよう。

写真  民族衣装で商売に励むアコラの人々。写真を撮ろうとすると、ほとんどに嫌がられた。

 それにしても、美しく編み上げられた三つ編みの髪の上に、ちょこんと乗せられた、かぶるというには小さすぎる山高帽と、ガッと横に四角く広がったスカートが、ユニークである。

 失礼はお詫びしたいが、私の目にはどうしても、そんなファッションがユーモラスに映ってしまう。

 必死で流行を追いかけている人達を思う時、彼女達がこういった民族衣装を、どのような思いで着ているのだろうと考えてしまう。

 思うにファッションを追いかける心理は、憧れの存在を、形でまねるということではないだろうか(あるいは形で演出すると言うべきか)。

 つまりファッションは、単なる美的センスのみならず、その向こうに、憧れとする人物像があるように思えるのである。だから映画の主人公がかっこよく着ていたりすると、流行になったりもする。

 ということは、ファッションの向こうに、その人の持つ憧れ、つまり価値観があるということだ。

 例えば、既存の体制に反抗することを憧れる人は、反体制的なファッションに傾く、かつてのヒッピーのような。あるいはまた、多くの異性を魅了する人に憧れる人は、よりセクシーに。

 だからいろんなファッションは、いろんな価値観をもつ自由な社会の証とも言えよう。けれどそれは見方を変えれば、だらしなく無秩序とも見える。歴史はその間で揺れ動く。

 彼女たちが、その一見ユーモラスに見えるファッションで追い求めている憧れとは、いったいどのようなものであろう。

 カメラを向けると、ほとんど全ての女性に嫌がられてしまった。あのオープンなアレキパの市場の人達とは、ずいぶんと雰囲気が違う。

 はたしてそれは、こぞって山高帽をかぶっている、そのファッション心理と関係するのであろうか。それともただ単に、ものめずらしそうにやたらカメラを向けたがる、外人観光客への食傷だったのだろうか。

写真  落っこちそうな山高帽に三つ編みの髪、何枚ものペティコートでガバッと広げられたスカート、それにカラフルな風呂敷。ある種の制服なのだろうか。
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第1章 ペルー
第9話 インカの石組み No.073No.073

 その石は息を止めて、じっとこちらを見つめていた。

 その上も、その横も。石たちは互いに顔と顔をピタリとすり寄せ、息する隙間も与えない。まるでその向こうの、インカの世界への侵入を、微塵たりとも許さないかのように。

写真  数々の大地震にもかかわらず、インカの石組みはびくともしなかったという。その上に建てられたスペインの建物は、大きなダメージを受けたというのに。

 かつてのインカ帝国の首都クスコに残る石組は、単に石を積み重ねたという代物ではない。複雑に入り組んだ角と角を、ピタリと組み合わせたその面からは、インカの人達の気迫すら漂ってくるようである。

 1メートルは超えるであろう目の前の岩は、わざわざ12角に切り込まれ、ピタリとはめ込まれている。かつてはインカの宮殿を支えていた石組である。

 鉄を持たなかったというインカの人達は、どのようにしてこの石を切ったのであろう。いやその前に、何故石をこのように複雑に且つ精巧に切ろうと思ったのであろう。私はアルマス広場の北、宗教芸術博物館の石組の前で、ただただ途方にくれていた。

 インカの人達は、太平洋に現れたスペイン人を、彼らの神話の中で理解し、創造の神「ピラコッチャ」だとクスコに報告したという。

 また、メキシコ地方を支配した、アスティカの王モンテスマも、メキシコ湾に姿を見せたスペイン人を、「他の国の人間」とは理解出来ず、彼らの宇宙観の中にあった神、「ケツェルコアトル」の化身に違いないと恐れたという。

 どうやら人というのは、どうしても持ち合わせのイメージでしか理解出来ないようだ。逆に言えば、まず頭の中にイメージを持たないと、体験している現実が理解できないのだろう。

 だから現代の観念しか持ち合わせていない私には、ただの土台のための石としか見えないのだが、これに要した時間と労力を考えると、それ以上の世界がここにあったに違いない。

 インドのエローラでは、出来上がった結果ではなく、振り下ろす鑿の一撃一撃にこそ、意味があったのだろうとは前に述べた。けれどここは、石を組み合わせる目的で削っているのだから、一撃に意味があるのではなく、結果に意味があったはずだ。

 その結果が現れるのが、何時のことやらわからないこの難事業を、持続させる彼らの心の世界とは、いったいどのようなものであったのだろう。

 私は何度も何度も石垣の周りを歩いていた。石はどの顔もどの顔も、口を一文字に締め、私をにらみ返すのみであった。

写真  剃刀の刃も通さないと言われるインカの石組み。じっと見ていると、息の詰まりそうな迫力を感じてしまう。

 アルマス広場の西の、考古学博物館にも、理解を超えるものがあった。直径5cmほどの穴をあけられた頭蓋骨である。

 切り口はまるで小さなドリルの穴をつなげたように、ギザギザに波打っていた。中には手術後も生きていた証として、新たな骨がおおい始めているのもいくつかある。

 いったい何の目的で、どのように、…… インカの謎は深まるばかりである。

写真  その技術もさることながら、いったい何の為に?(考古学博物館にて)

 クスコの東、歩いて30分程の所にサクサイワマンという要塞跡がある。

 クスコの街全体を見下ろすことが出来る高台にあるその要塞は、スペイン人の侵略に抗して戦い続けた、マンゴインガが、クスコ包囲の拠点とした所である。

 そのジグザグに巡らされた、3層からなる城壁の石にも、あいた口がふさがらない。

 こちらは要塞だけあって、小山のような巨石が、これまたピタリと合わせる石組技術で組み上げられている。

 これほどの大石は、「置きました、合いませんでした」では事が済まされない。そこに置く前にピタリと合うことが、計算されていたに違いない。

 三角や四角の幾何学形ならまだしも、このような自在な形を、どのようにしたのであろう。まるで彼らは石を、チーズか何かのように柔らかいものにする呪文でも知っていたのだろうか。

 私は考えるのをやめにして、砦の上に寝転がっていた。「人間やろうと思えば、こんなことだって出来るのだ」なんだか勇気付けられるような思いであった。

写真  これまたピタリと合わされたサクサイワマンの巨石。最大で、高さ5m、重さは360tもの巨石が組み合わされていると言う。

 しばらくして丘を下りかけると、男が話し掛けてきた。聖なる泉タンポマチャイまで、馬で行かないかというのである。25ソル(約10ドル)、往復で3時間程度だという。

 馬には一度エジプトで乗ったことがある。あの時は手に豆を作って、必死に鞍にしがみつくありさまであったが、もう一度挑戦してみたい。私は彼の誘いに乗ることにした。

 今度はエジプトでの反省を生かして、なるだけ背筋を伸ばし、腰掛けるのではなく立つ感じで。自己流の上馬術、前よりはうまくいった。足を少々蟹股にして、外に膝を開くと、馬の腹を抱えるのも少し楽である。右に左に、今度は馬がいうことを聞いてくれる。

 嬉しくなってくる。ギャロップも何とか大丈夫。すっかりこのおじさん、子供の頃憧れの西部劇気分。丘を越え野を越え、1時間ほどでタンポマチャイに着いた。

 インカの王が沐浴をしたというその泉は、一年を通して常に一定の水量が湧き出ているという。これも自然の泉ではなく、サイホンの原理を使って、何処からか引いてきているのだろうという説が、有力だそうだが、真偽はこれまた謎である。

 帰りは調子に乗って少し駆けてみた。けれどやっぱりそれはダメ。馬が本格的に走しりだすと、必死に鞍にしがみつくエジプトスタイルに戻ってしまう。ホテルに帰ったら、やっぱりお尻の皮がむけていた。今度は二箇所も。

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第1章 ペルー
第10話 裸でフロント No.074No.074

 「やあ!」

 旅で再開すると、親友にでも出会ったように親しみを感じてしまう。人々のにぎわうクスコの市場で、皆より首一つ長身の彼は、胸の前に両手でバッグを抱え笑っていた。

 ホランドからの旅人である。彼らとはプーノからの列車で同席した。女性を含め3人組みで、ペルーで出会い一緒に旅を続けているのだそうだ。旅に出てもう5ヶ月になるという。

写真  クスコの市場の食堂コーナー。市場にはあらゆるものが並んでいた。ガイドブックによると、最も泥棒の多い所だそうだ。

 ホランドという名前を初めて聞いたのは、インドのアジャンタの宿であった。その時食堂で一緒になった男は、自分の国をそう紹介した。正式名はネザーランドと言うらしい。私は何処の国かピントこなかった。部屋に帰って辞書で調べたらオランダとあった。

 以来ホランドからの旅人とは、必ずと言ってよいほど、いろんな所で出会う。数ヶ国語を自由に操り、リュックをしょい、まるで自国を旅するように歩いている。

 一度そんな話をしたことがある。ネザーランドの人は、旅好きの人が多いようだが、そのような社会の習慣でもあるのかと。

 そうしたら「日本ほどではない」といわれてしまった。何処に行っても日本人はいるというのである。まあ、考えてみればそのようだ。

 1ドルが100円台になって、ぐんと外国が近くなった。現にこんな私ですら、出てきているのである。若い時には夢にも思わなかったことである。

 けれど少し感じが違うように思うのであった。なんというか彼らの場合、旅と日常の垣根が、とても低いように思える。

 日本人の場合、旅はどうしても非日常として囲ってしまうような所がある(と私は思う)。

 例えば「法事で休みます」というのは、さしたる抵抗は感じないとしても、「旅行で有給休暇を」と言うには、私の場合、少し圧力を感じていた。

 けれどホランドの人達は、旅も日常の一部のようなのだ。現にこの30歳くらいの彼等も、仕事をやめて旅しているという。「お金がなくなってきたら、どこかで少し働こうよ」などと話していた。

 何というか、旅を人生の他の出来事と、同列に考えているように思えるのである。最も旅で出会うのは、旅好きの人達ばかりなのだから,こういったことが、はたして何処までホランドを代表しているのかは、疑問ではあるけれど、日本とは少し違った伝統があるように、思えるのであった。

 二人で市場の中を、ぶらぶらしていると、白い服のツーリストポリスが近づいてきた。何かと思えば、ここは危ないから荷物は十分注意せよ、と言うのである。私もカメラバッグを、彼のように胸に抱いた。

 市場の一角には、食堂コーナーがあった。テーブル代わりの白いタイルは、少し味気なかったけれど、スープ、焼き飯、魚フライとたっぷり食べて3ソル(約150円)、庶民の味、庶民の値段である。25円のコカの葉のお茶(マテデコカ)を楽しんで外に出た。

 帰りにリマのアメリカンエアラインズに電話をした。帰りの便のリコンファームである。OKと言う返事は聞こえたが、確認する前に電話が通じなくなってしまった。

 まあ良いかとも思ったのであるが、妙に心配になって、もう一度確認の電話を入れてみた。電話の向こうでキーを打ち込む音がしている。

 しばらく待つと、「問題ありません」と綺麗な英語で返事が来た。ホッとしている私の耳に、「19日の夜の20時までに来てください」と言う声が飛び込んできた。「 19日 ? 」 聞き返す私に「そうです20日 0:10 発ですから、2時間前には来ていて下さい」と言うのである。

 ハッとした私は、心から感謝の礼を言って受話器を置いた。彼女の声が天の助けのように思えた。

 私は日本で航空券を買った時、「帰国は20日にしたい」と注文し、「はい、20日0:10の便が取れました」と返事をもらった時からずっと、それを「20日の深夜の便」だとばかり思っていたのである。

 だから、ノートのスケジュール表にも、20日はリマを見物し、夜空港に行くように書き込んでいた。20日0時10分とは、19日の夜なのだ。

 大変なことになる所であった。もし確認の電話を入れていなかったら、私の便は飛び立っているのに、リマの街で悠然としている所であった。背筋がゾッとする思いである。

写真  昼間はきれいに片付いているアルマス広場のアーケードも、夜になるとどこからともなく現れた露天商の品で、ぎっしりと埋め尽くされる。

 その日はもう一つ震えた事があった。というのも、ホテルに帰ってシャワーを使おうとした時である。

 ためしに開けてみたら勢いよくお湯が出る。このホテルはアルマス広場に面した2階で、テラスもあり、なんとも贅沢な部屋であった。

 クスコに着いた次の日、気に入るホテルを探していて、ここに立ち寄った。聞いてみるとスイートルームとかで20ドルだと言う。高いのでやめようとしたら、15ドルでいいと値下げした。

 この立地条件では掘り出し物と、私は跳びついた。お湯はどこかで沸かしているらしく、電気式と違って贅沢に出る。

 私は、鼻歌交じりで石鹸をつけた。体、顔、ついでに頭、さて流そうとつまみをひねったら、お湯はボジョッと一塊が落ちたのみで、止まってしまうではないか。

 それはないよと恨みたくなる。「出ないのなら、はじめから出るな!」と蛇口に怒っても、日本語が通じないのか、蛇口は口を閉じたまま。

 どうしよう?電話でペラペラと文句を言えば、それまでのことであるが、そんなスペイン語は持ち合わせていない。

 仕方がない、石鹸のついたまま、そこにあったバスタオルを腰に、部屋のドアを開け、あたりに誰もいないのを確かめた。幸いそんなに大きいホテルではなかったので、部屋三つほど過ぎれば受付に出る。私は小走りに受付の前に立っていた。

 その私を見て受付の女性、ポカンと固まっている。数秒してやっと事態が呑み込めたらしく、呼びに行った後ろの部屋から、おやじさんが出てきた。そのおやじさん、「あっ、いけない」といった感じで、階段を駆け下りて行った。

 どうやらバルブを閉めたままにでもなっていたのだろう。部屋に戻る私の後ろで、我慢の笑いが破裂していた。なぜか私まで、裸の自分が目に浮かび、笑いがこみ上げてきてしまう、怒る場面なのに。

 11月といっても日の沈んだクスコは寒い。私は鳥肌を立てて、お湯の出るのを待っていた。

写真  街の南、セントロ・コスコ文化センターの、民族舞踏ショウ。フォークローレはやっぱり、悲しみ基調にした喜びのメロディのように私には思える。
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第1章 ペルー
第11話 マチュピチュ No.075No.075
写真  謎に包まれた山頂の都市、マチュピチュ。1911年ハイラム・ビンガムによって発見されるまで、400年にわたって人々から忘れ去られていた。

 あれ、何処へ行ってしまったのだ。

 マチュピチュの町はにぎわっていた。かつては1万人以上住んでいたという山頂の都市マチュピチュ、1911年アメリカ人ハイラムビンガムによって発見されるまで、400年の間、この山頂に忘れられていたというマチュピチュ、その町は、かつての繁栄を取り戻したかのように、観光客でにぎわっていた。

 その一人に呼び止められた、日本語で。見ると昨日オリャンタイタンポで出会ったガイドである。日本語が上手で、もっと練習がしたいらしく、昨日もしばらく付き合った。

 今日も仕事で来ているのだが、お客は日本人ではなく、得意の日本語が使えなくてウズウズしているようなのである。

 その彼と少し言葉を交わし、私のグループを追いかけたのだが、よく似たツアーのグループにまじって、見失ってしまった。

 石段を駆け上り、石壁の間の狭い路地を右に左にと覗いても、それらしき一団は見当たらない。海外旅行で、走り去るバスに唖然と立ちすくむ所ジョージ、確かそんなコマーシャルがあったような気がする。

 けれどそんなにもあせってはいなかった。というのも、彼らとは夕方別れることになっていた。私はクスコに帰らず、麓の村アグアカリエントスで一泊して、明日もう一度来るつもりであった。ガイドも知っているはずだ。

 日本でなら一人行方不明となると問題だが、ここではもっとおおらかであろう。私は自分で歩くことにした。英語のガイドは次から次へとやってくる。何処かのグループにまじって聞けば、そう苦労することはない。

 最もそんなに難しい英語はわからないのだから、聞いても聞かなくてもたいした問題ではない。

 王女の水浴場、太陽の神殿と登った所に、石切り場の跡があった。ガイドはそこに残された作業途中の石を指して、インカ時代の石切の様子を説明していた。

 石の目に沿い、30cmほどの間隔で穴をあけ、楔を入れて割る。後はこするのだと彼は言う。確かにこの残された石を見る限りそうなのだろうが、はたしてそんなことで、あのクスコやサクサイワマンのような石組が出来るのであろうか。私は少し納得がいかなかった。

写真  マチュピチュに残された石切り途中の岩。岩の目にあわせ、木の楔を打ち、水でそれを膨張させて割ったのではと説明していたが、はたしてそれで…?

 その石切り場の奥の草地で、昼食を取ることにした。こうやって自由に出来るのも、ツァーにはぐれたおかげである。ナップサックからパンを取り出し、ハムとトマトをはさむ。

 こういったやり方は、あのホランド人に教わった。彼らはクスコまでの列車の中で、食事の時間になると、リュックからパンとチィーズを出し、いろんな野菜を切ってアルミの皿にのせてドレッシングをかけサラダにし、三人で楽しんでいた。

 プーノの所でも書いたが、アンデスの野菜は味が強くて美味しい。こういった食べ方で結構楽しめる。石の向こうで「おいしそう」という日本語が通り過ぎて行った。

 標高2,280mの空中都市マチュピチュで食べる自家製のサンドイッチは、ちょっぴり贅沢な味である。

 だいたい回り終わって広場跡に来た時、私のグループに再会した。私はすっかり忘れていたのだが、ガイドは心配していてくれたらしく、私を抱きしめて喜んでくれた。

 帰りのバスが遺跡前の乗り場を動き出すと、民族服を着た男の子が、「アディオース」と、ひときわ大きな声を張り上げて、手を振っている。

 我々も手を振って応えたのであるが、バスがヘアピンを曲がると、また彼が現れ「アディオース」と手を振っている。次も、その次も。

 我々がヘアピンをぐるりと回っている間に、彼はまっすぐ駆け下りているのである。かの有名なマチュピチュのグッバイボーイである。最後まで駆け下りた彼は、スピードをゆるめたバスに乗り込んできて、チップを集めに来た。運転手も協力的である。

 マチュピチュの麓からミニバスで20分、アグアスカリエントスは温泉が出る。

 宿に荷物を置いて早速出かけた。少し雰囲気は異なるとはいえ、何処となく日本の温泉街を思い出させる小路を、ぶらぶらと山に向かって歩くこと10分、ひっそりとした谷間に、温泉への入り口があった。

 入場料は5ソル(約2ドル)。やはりチバイと同じくプールのようであったが、山が近くに迫っている分、気分が良い。客は10人くらい、私もその中に混じって気分をほぐす。やはりお湯はいい。

写真  マチュピチュの駅プエンテ・ルイナスで土産を売っていた女の子。カメラを向けたら、はにかみながら笑顔を向けてくれた。

 翌朝再び遺跡を訪れ、太陽の門を抜け、墓地の丘からマチュピチュの町を眺めていた。正面には切り立ったワイナピチュがそびえる。

 マチュピチュが「老いた峰」の意味であるのに対して、ワイナピチュは「若い峰」の意味だそうだ。遺跡にはちらほらと観光客が姿を見せ始めていた。

 かつては段々畑に作物が実り、広場ではリャマが草を食み、人々の話し声が聞こえ、インカ道には荷を担いだ人々が行き交っていたはずだ。要塞都市だというけれど、どうしてこのような山頂に、どうしてこれほどの町を……、謎は深まるばかりである。

 けれど一つだけ思った事があった。こんな厳しい自然の中に町を造る彼らは、心のどこかで、その自然と友達であったに違いないと。

 確かに斜面を段々にし、山を切り、石を切り、水を引き、彼等も自然に挑戦している。だから自然と闘っているのは確かである。

 またここは、アンデスの東の熱帯にもそう遠くなく、山も緑に覆われ、食料も荒涼とした中央高原より豊かであったのかもしれない。

 けれどこの山頂に町を造ろうとする発想そのものは、自然を「良いとこ取りの、使い捨て」と考えていたとすれば、出てこないのではないだろうか。

 彼らにとって自然は厳しかったけれど、人と自然は同じ方向を向いていたような気がする、自然を消耗品のように思っている近代文明のようにではなく。

 ひょっとして、西洋文明との接触の後、彼らが辿った悲劇の出発点は、そんな所にあったのかもしれない。後ろの草地で二頭のリャマが、覇を競って激しく体をぶつけ合っていた。

 いつの間に来たのか、ツァーの一団から、美しいケーナの音が聞こえている。ガイドのサービスである。

 私の思いは、そのメロディーに乗って、眼下のマチュピチュの遺跡の上で、ゆっくりと羽を広げていた。あのコルカ渓谷のコンドルのように。

第1章 ペルー 完  

写真  ふもとのウルバンバ川から登ること400m、標高 2,280m の山頂に現れる謎の都市マチュピチュ。
第2章 チリ・ボリビア へ  Top 旅・写真集 ペルー抜粋