第5章 ヴェトナム  《 第4部 小さな旅あれこれ 》
第1話 戦争第2話 ホーチミン第3話 フェの平和 第4話 天井の異変
第5話 ホテル浸水第6話 一路ダナンへ【前編】 第7話 一路ダナンへ【後編】第8話 ダナン脱出
第9話 その手は食わぬ
第5章 ヴェトナム
第1話 戦争 No.056No.056
ヴェトナム地図

 現実とは、何時でも何処でも、このようなものなのかもしれない。

 「戦争には、良い戦争と悪い戦争がある。」

 確か毛沢東だったと思う。若い頃に読んだ一説の記憶が、悲しいほどうなだれた姿で、蘇ってきた。

 忘れもしない、1975年4月30日、解放戦線の金星紅旗が、サイゴンの大統領官邸に翻るのを、テレビで見た時の興奮を。

 けれどその中に、オリンピックの国旗掲揚にも似た感情が、混ざり込んではいなかったと、はたして言えるだろうか。

 現実から距離を置くことの出来る立場の人間は、その戦いを「意味」だの「意義」だのから描きあげることが出来る。

 けれどはたしてそんなものが、この引き裂かれた肉の山を、越えることが出来るのであろうか。

写真  切り落とした、ヴェトナム兵の首を前に、記念撮影をする米兵。
 ホーチミン市戦争証拠博物館パンフレットより

 私は、ホーチミン市の戦争証拠博物館に展示された、数々の写真の前で、鉛のように沈み込んでいく気持ちに、締め付けられていた。ヴェトナム戦争は私にとって、現実の世界であった。

 人の感情というのは妙なもので、生まれる前の出来事は、それが実際にはつながっているにもかかわらず、ある種の断絶で切り離されてしまう。血の通う世界とは別の、淡々と散らばった出来事の世界として。

 私の子供の頃はまだその辺に、戦争で破壊されたビルの残骸や瓦礫の山が、残ってはいたけれど、私にとって先の戦争は、やはりその断絶の向側。たとえ広島で学んだとしても、それは後付けの感情である。

 けれどヴェトナム戦争は、海の向こうの出来事ではあったけれど、血の通う感情に彩られた、こちら側での出来事。私の青春時代と絡まって、今も記憶の中で生き続けている。

写真  青森県の有志から送られた、支援の寄せ書き。
 ホーチミン市戦争証拠博物館にて。

 博物館の壁に貼られた、青森の有志からの、連帯の赤旗が、当時の私を、記憶の底から引きずり出す。決して無意味であったとは言わないけれど、決して、そんなに明快な英雄物語ではなかったのである。

 戦争がもたらす、この残酷な肉の現実を前にしては、いかなる精神からの美化も、哀れな茶番のように思えてならなかった。

 やむを得ざる道というのは認めるとしても、戦争は何一つ物事を解決しはしない。何一つ。

 それがもたらすものはせいぜい、スタートラインに過ぎない。夢には、包まれているかもしれないが、その実は、より悲惨で、より複雑な状態からの。

 私は日本からの飛行機で、偶然隣に乗り合わせた、日本在住のヴェトナム青年を思い出していた。

 皆が社員旅行に行っている期間を利用して、里帰りするのだという。日本への再入国許可証を見せ、「ヴェトナム人でも、日本人でもないのです」と笑って見せた。

 その彼は、ヴェトナム戦争を、「負けた」「負けた」と表現していた。彼にとっては、南が北に負けた敗北の戦争だったのである。

 どういうわけか、ホーチミンには好感を持っているようであったが、現政権を「北のバカモノが」と、憎しみいっぱいに吐き捨てた。

 私の構図では、ヴェトナム戦争は、ヴェトナム人の大勝利となっているのだが、そうは単純にいかない、捩れた現実の一端を見せられたようで、私は黙ってしまった。

 「自由と独立ほど尊いものはない。」ホーチミンのこの言葉は、今でも私の胸に響くけれど、夢というのは、思っている時と実際で、その輝きを変えてしまうものでもある。

 未来を信じて命をささげた人だとしても、もし振り返って、物と化した己の肉片を見ることが出来るとしたら、彼らはいったいどのように思うことであろう。私はやるせない思いを引きずって博物館を後にした。

 10月のホーチミン市の空は、そんな気分に追い討ちをかけるように、どんよりと沈んでいた。

 朝の8時に目を覚ました時は、気温26度、湿度89%で、シトシトと小雨が降っていた。着替えた時はカラッとしていたシャツが、見る見るシトッとしてしまう。

 10時前、ホテルを出る頃には雨は上がったものの、日本の梅雨時を思わせるジメジメの空模様であった。そんな中、通りいっぱいに広がった、バイクの群れが、疾風の如く走っている。

 北京の自転車の洪水も凄かったが、このホーチミン市のバイクの洪水も、目を見張るものがある。こちらは、道幅は少し狭いかもしれないが、スピードがある分迫力がある。

写真  道いっぱいに、かなりのスピードで走り抜ける、バイクと自転車の群れ。ホーチミン市にて。

 悲惨なあの写真とこの元気、私はそのギャップに少々戸惑いを感じていた。

 私にとって、戦前がそうであるように、ヴェトナム戦争を、断絶の向こうに感じている若者が、ここヴェトナムでも増えているのであろう。

 ひょっとしてそこに、人の持つ逞しさの源があるのかも知れない。けれどそれは、悲劇を繰り返してしまう愚かさと、抱き合ってはいないだろうか。

 いつもとは違った気分での旅の始まりであった。

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第5章 ヴェトナム
第2話 ホーチミン No.057No.057

 私はホーチミンに二つのことを教えられた。

 一つは、「牛小屋は、牛にあわせて作らなければならない。」という事である。小屋に入らないからといって、角を切り、足を切っては牛が死んでしまう。

 私はその時、世間に合わせて自分のあれやこれやを、切り捨ててはいなかったかと、ハタとしたものであった。

 もう一つは、「決意をすれば、もう半ば以上、事は成ったも同然である。」という事である。

 これを読んだ時は、やたら決意表明が横行していた時で、決意ではなく実行が大事だと思ったものである。

 ところが、決意とはそのようなものではなかったのだ。一般に我々は決意というと、あれをしよう、これを得ようと決意する。

 ところが世の中、そんなに甘くはないもので、一つを得るには、一つを手放さねばならない。

 なのに、得る方ばかりを決意するので、いざ手放す場面になると、もう決意がぐらついてしまう。

 決意に必要なのは、得る方ではなく、手放す方なのだ。それさえ腹を決めれば、あとは淡々と実行の日々である。続ければいつかは必ず前進する。

 このことがわかったのは数年後のことであった。腹を決めた後の川崎の街が、急にさわやかに感じた日のことを、今でも忘れられない。

 そのホーチミンの眠る廟が目の前に見えてきた。ガイドブックによると、彼の遺体はガラスケースに入れられて、安置されているということであったが、行ってみると、手入れの為モスクワに行っているとかで、中に入ることは出来なかった。

 そのせいか、辺りはひっそりとし、正面の広場に独り立つ、金星紅旗の姿のみ印象的であった。けれど私は、このひっそりとした姿こそ、彼に似合っているように思えた。

写真  中央郵便局に掲げられたホーチミンの肖像。(ホーチミン市)

 表面のみの旅で、確かなことは言えないのだが、北の政権を毛嫌いしていたあの彼も、ホーチミンを悪くは言わなかったことといい、ヴェトナムの人々にとって彼は、釈迦やキリストのような、ある種の宗教的な存在になっているような気がするのであった。

 彼は現実的な政治家ではあったけれど、彼が身をもって残したものが、答えではなく、生き方として受け止められているとしたら、ホーチミンは、ヴェトナムの人々の抱える、それぞれの問題に、今も語りかけているにちがいない。

 もし国家が彼の象徴を、政治的に利用することがなければ、彼は人々の心の中に、いつまでも生きつづけるにちがいない。

 けれど昨日見たテレビの番組で、人々が粛々と生前の彼の家を訪れている映像に、どこにも笑顔がなかったのは、少し気になるところである。

写真  繁華街の中心に、静かにたたずむホアンキム湖。湖の周りは市民の憩いの場でもある。中央かすかに見えるのが、亀の塔。(ハノイ)

 その日の夜はホアンキエム湖近くで、水上人形劇を見る予定であった。八時の開演まではまだ時間があったので、ガイドブックに紹介されていた、劇場近くのコム・トゥアン大衆食堂で、夕食をとることにした。

 ところが近くまでは来ているはずなのに、なかなか場所がわからない。通りの男に道を聞けば、つっけんどんに「ノオ」とただ一言。

 もう少し言い方というものがあろうにと、イライラする中、やっと見つけたコム・トゥアン食堂は、入り口近くの大きなテーブルに、おかずの入った洗面器のような入れ物が、所狭しと並べられていた。

 こういう食堂は私にとって大変楽である。名前を知らなくても、指差せば何とかなるし、それがどのようなものなのか、見て大体の見当がつく。

写真  コム・トゥアン食堂のメニュー。好きなものを指差せば皿に盛ってくれる。美味しくて、満腹になって、安い。(ハノイ)

 私はスープと煮込みを注文した。スープは私の好みにはまあまあであったが、煮込みは美味しかった。15,000ドン(約1ドル)で満腹になって私は、八時の人形劇に向かった。

 劇場では、偶然年配の日本人夫婦と隣り合わせた。話し掛けると、「私はカメラのプロなのだが」と言って、コンパクトカメラしか持って来なかった事を、さかんに悔やんでいた。

 となりで奥さんが「セミプロ」と言い直して笑っている。私はおもむろに一眼レフを取り出した。

 勿論何で撮ろうとたいした違いはないのだが、悔しがる彼を尻目に、重い思いをしていつも持ち歩いている苦労が、少し報われたような気持ちになるのであった(とはいっても出来た写真は、哀れなもので、やはり問題は腕、機材ではありません)。

 水上人形劇とは、千年の昔から続いているもので、水面をいろんなものに見立てて、その上で人形が見事な動きをする。

 言葉がわからなかったのは残念であったが、横で演奏される音楽にあわせて操られる人形の、コミカルで機敏な動きに目を奪われてしまう。

 どういう仕掛けになっているのかと、目を凝らしたが、上から糸で吊るされている形跡もない。

 よく見ると、水中に棒をのばし、その上につけた人形を操っているようである。とはいえ、時おり水面を飛び跳ねるような動きもし、とても見事であった。

 終わって後ろの幕から出てきた人は9人、水の深さは腰の高さまでもあり、思ったより大掛かりで重労働のようであった。

 お土産の扇を手に劇場を出た時は、夜もふけていた。ドッと出てきた観客も、それぞれ迎えの車が来ていて、瞬く間に外はひっそりとしてしまう。

 私は、もう少しホアンキエム湖のほとりを歩くことにした。治安は結構良いようであった。

写真 Water Puppetry(水上人形劇)
 もともとは農民が、収穫の祭りの催しとして演じていたものとのこと。(ハノイ)
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第5章 ヴェトナム
第3話 フェの平和 No.058No.058
写真  王宮前の木陰で、のんびりと昼寝。フエの平和を満喫しているかのよう。

 ツエン・ツ・ホテルとある。ホテルに違いない。昼前の太陽が、二階のテラスをまぶしく照らしていた。

 久しぶりの太陽である。旅はやはりこうでなくてはと思う。天気が良いと気分も晴れる。手にしたコンパスは、南西の方角を指していた。窓は南東が理想だが、そう贅沢も言っていられないだろう。

 私はフエの旧市街の入り口で、良さそうなホテルを見つけた。ガイドブックに紹介はなかったが、見たところ清潔で日当たりも良さそうである。入ってみることにしよう。

 出てきた宿の主人は、中国系の人であった。思えば、ホーチミン市のピンクホテルに始まって、ヴェトナムでは全て中国系の人のホテルに泊まってきた。

 どうも彼らは旅行者の望むツボをおさえているようで、泊まって快適な所が多い。シングルで10ドルとのこと。部屋を見せてもらったら、エアコンにテレビも付く贅沢さ。

 更に先ほど外から見たテラスがなんとも素晴らしい。喜んで手続きをした私は、さっそくテラスにテーブルと椅子を出して、沸かしたお湯でネスカフェのひと時を楽しむ。

 旅をしていて、宿が決まり、リュックを下ろす時は、文字通り肩の荷を下ろす感じで、ホッとする。コップから昇るコーヒーの香りは、そんな気持ちにぴったりであった。

 昨夜は列車の中であったが、眠くはなかった。いや、むしろ快適であった。

 私は夜の車内が寒くはないかと心配して、ハノイで10ドルのジャケットを買ったのであったが、掛け布団が配られ、その心配は無用であった。

 列車を予約する時、エアコン付きソフトベッドは50ドル以上するというので、木製3段ベッドの下段にした。それでも40ドルである。

 ハノイの駅には外人専用の窓口があり、綺麗な英語の対応で、とても分りやすかったが、その分しっかり外人料金を取られてしまう。

 列車は定刻どおり夜の7時にハノイのホームを滑り出した。コンパートメントに乗り合わせた6人の内3人は、フエまでとのこと、降りるところが同じというのは心強い。

 ベッドは板にゴザといったもので、こんなので朝まで大丈夫かと思ったのであるが、これがなんとも快適なのである。

 その上で一晩過ごしたが、節々が痛いなどということはまったくなく、目覚めは気持ちが良いものであった。

 湿気の多いヴェトナムでは、このゴザが一番のようである。やはり郷に入っては郷に従えといったところか。

 朝食には肉まんとミネナルウオーターが出されたが、私のミネラルウオーターだけ、みんなの倍の大きさであった。倍の料金の見返りのつもりだろうか。

 朝の9時半、列車はこれまた定刻どおりにフエの駅に着いた。ヴェトナムは律儀な国のようである。駅では例によってシクロ(リクシャ)の客引きがさかんであったが、久しぶりの好天にさそわれてここまで歩いてきたのであった。

写真  ハノイからフエまで、外国人料金で40ドル。ヴェトナム人の約倍とのこと。ベッドはゴザであったが、いたって快適。定刻に出発し、定刻に到着。

 1968年のテト攻勢でのフエの攻防の話は、まだ記憶に残る所であったが、フエの街のようすは、静かに流れるフォーン河のようにおだやかであった。

 私は一息ついてから、遺跡の残る旧市街に出かけた。堀を渡り門をくぐると、阮朝王宮の正面が見えてくる。

 ここフエはヴェトナム最後の王朝、阮朝が都とした所で、王宮は中国の紫禁城を模して造られたという。なるほど形は似ていたが、いかんせん規模は比較にはならない。

 王宮の前の通りでは、女性が自転車を横に寝かせて、木陰の路上で昼寝をしていた。そんな平和を胸いっぱい吸い込むかのように、向かいのフラグシップタワーでは、ヴェトナムの国旗がはためいている。

 今なお弾痕の跡生々しいその台座の上で、フエの風をいっぱいに受けて翻るその姿は、何の飾りもない素朴なものであったが、その素朴さが、何故か誇らしげに見えてしまう。

 そのタワーの前の広場では、子供達がボールを蹴って遊んでいた。写真を撮ろうとすると、人懐っこく集まってきて、われもわれもとカメラの前でポーズを取る。

 こういった子供達を見れば、戦いに倒れた人達もきっと報われることであろう。

写真  フラグシップタワーの前で遊んでいた子供達。とても元気。

 次の日私は、ティエンムー寺まで歩いた。この日も良い天気で、時々フォーン河の河辺に下り、河を行く砂利運搬船の写真を撮りながら、ご機嫌であったが、さすがに遠かった。

 フエの市内から、4kmとのことであったが、私にはその倍近くあるように思えた。

 「幸福の天の恵み」という名で知られる、高さ21mの美しい8角形の塔のあるこのお寺は、1963年、政府の仏教弾圧に抗議して焼身自殺した、住職のお寺としても有名なところである。

 境内には、そのときサイゴンまで乗っていったという車が、そのまま保存されていた。

 寺からの帰り道は、また歩いて戻る気にはなれず、通りかかったシクロに乗った。王宮まで一万ドン(約0.7ドル)、歩き疲れたせいか、乗り心地のよさに大いに満足する。

 私はその足で、新市街へ夕食に向かった。橋を渡った新市街のフンブオン通りには、ホテルも多く、旅行者も多いようであった。

 そのためか、旅行会社も多く、夕食を食べたレストランの壁にも、各種ツアーの募集があった。

 ツアーといっても、片道である。移動の途中で、幾つかの観光ポイントを回って行く。私は3ドルのホイアンツアーに申し込んだ。

 列車に比べ外人料金のないバスは何とも安い。おまけに、明朝はホテルまで迎えに来てくれるという。至れり尽せりである。どうやらホイアンまでは、あなた任せで、のんびりと行けそうである。

 ところがこの日を境に、ヴェトナムの空は、とんでもない事態になりつつあったのである。

写真
 フエ旧市街からティエンムー寺までの道。天気が良くとてものどかであった。
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第5章 ヴェトナム
第4話 天井の異変 No.059No.059
写真  提灯の揺れるチャンフー通り(ホイアン)。かつてはここに、日本人町も作られていたというが、鎖国によって衰退し、名残を残すは来援橋(日本橋)のみのようであった。

 パタパタパタパタパタパタパタ

 急に天井を激しい音が走る。ただ事ではない。天井のベニヤを直接叩いている音だ。何か異変が起きたのだ。私は緊張して上を見上げた。やっと見つけたホイアンの外れ、ハイエンホテルでのことであった。

 雨の中、ミニバスを待たせてロビーに飛び込んだ時は、とてもつくりが立派なのに少々ビビッてしまったが、念のためにと値段を聞いてみたら、なんとシングルで10ドルの部屋があるという。

 見せてもらうと、エアコンはないものの、テレビやバスタブが付いて素晴らしい。これはラッキーと泊まることにし、さっそく荷を解いた。

 部屋の片隅に紐を張り、生乾きの洗濯物を干し、温かいシャワーを使い、ホッと一息コーヒーを飲みながら、CNNテレビを見ていたのである。

 思えば今日は朝から雨にたたられた。フエでバスに乗った頃は、降ったり止んだりの状態であったのだが、途中休んだランコービーチでは、これから行く南の空が、恐ろしいほどの黒雲に覆われていた。

 案の定ハイバル峠を越える頃から、バスの外は大雨となる。おかげで、観光地点の峠は素通り、チャム博物館は立ち寄ったが、バスから入り口までのわずかの間でも、カッパをくぐって首筋や袖口がずぶ濡れとなってしまう。

 次に休憩した、マーブルマウンテンでは、前の食堂でただ出発を待つのみで、五行山などとてもいける状況ではなかった。

写真  ランコービーチの綺麗な砂浜。黒雲の下はハイバル峠。

 バスは3時過ぎにホイアンのホテルに着いたのだが、既に路面はくるぶしまで水につかっていた。他のホテルに行く者は、そこでミニバスに乗り換えねばならない。

 私はやむなく靴を脱いで裸足で車を乗り替えた。後に続いたヨーロッパ人も、同じように靴を抱えジャブジャブとやって来た。

 ミニバスは告げられたホテルを回り、そのたびに2人3人とホテルに吸い込まれていく。満室であったり、窓がなく気に入らなかったりで、なかなか決められず、ついにバスに残るのは2人になってしまう。

 もう1人は予約がしてあるようで、落ち着いていたが、私は暗くなり始めた空を見やりながら、少しあせり始めていた。

 このハイエンホテルが見つかったのはそんな時であった。少し街から離れてはいたが申し分ない。唯一つ十秒ほどの間隔で、ポタ…ポタ…と、かすかに天井を叩く音が気になっていた。

写真  やっと見つけたハイエンホテル。雨漏りさえなければ、素晴らしい宿であったのだが。

 見上げた天井はみるみる水を含み、一斉に床に落ち始めた。大変だ、この様子では、天井のベニヤの上は直接空に違いない。

 私はロビーに駆け下りた。事態を説明する私に、受付嬢はいたってのんびり「今人をやりますから」と私を追い返した。

 部屋に戻り、いっぱいに広げてあった荷物を寄せ集めていると、やって来た人は床の掃除人である。「床が問題ではない、屋根が問題だ、この音が聞こえるだろう!」と叫ぶ私に、彼らは右往左往するのみ。

 これではダメだと、私はもう一度ロビーに駆け下り、部屋替えを要求した。

 「あいにく空き部屋はありません。」それが答えであった。じゃあ、どうしろというのか!

 「ただの雨漏りではない。屋根が吹っ飛んだようなのだ。部屋中水浸しだ。」
 「けれど満室なんです。」

 どうもらちがあかない。ここでぐずぐずしていて、夜遅くなってからでは、次の手を打とうにも打てなくなってしまう。

 「オーケー、じゃホテルを替えます。」

 私はそう言うと再び部屋に駆け戻り、急ぎ荷物をリュックに詰め込んだ。一旦リラックスした後に、もう一度仕切りなおしというのは、大変疲れるものがある。けれど、そんなことも言っていられなかった。

 やっとの思いで気持ちを立て直し、ロビーに下りて、預けてあったパスポートを要求すると、「20ドルで一つ部屋があります」と言う。

 今さら何を言うか。少々腹が立った。感情が判断を支配する。「欲しいのはパスポートだ」そういう私に、今度は、部屋の使用料を出せという。

 とんでもない、迷惑料をもらいたいのはこちらの方だ、責任はあなた方だ。ついつい声が大きくなってしまう。ホテル側は私のその剣幕に負けたのだろう。渋々私のパスポートを棚から取った。

 「サンクキュ、エニィウェイ」

 そんな言葉に送られて、ホテルを出たが、外は既に暗く、降り注ぐ雨がホテルの灯りに照らされて、カーテンのように立ちふさがる。道路は既に20センチは冠水していた。

 さて、タンカをきって出て来たものの、はたしてこれからどうしたものか。

 ホテルの前で呆然と立ちすくむ私に、救いの手が差し伸べられた。隣の食堂の娘さんが、バイクに乗らないかと声をかけてきたのである。

 捨てる神あれば拾う神ありといったところか。そんな思いで、いくらだと聞けば、父親を呼びに行った。

 カッパを着て出てきた彼は、5,000ドン(0.4ドル)だと言う。少々高いがこの際やむを得まい。私は泊まるホテルが見つかるまでと念を押してバイクにまたがった。

 「おとなしく20ドルの部屋に替えておけば良かったのに……」そんな思いを隠して私は、彼の後ろにしがみつく。

 このホテルを見つけるのも結構手間取ったものだ。はたして今夜は、どうなることやら……。

写真  タンカを切って出てきたのは良いが、外は土砂降り。さてどうしたものかと、思案に暮れる。(ホテルの玄関先にて)
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第5章 ヴェトナム
第5話 ホテル浸水 No.060No.060

 ドンドンドンドン

 けたたましくドアを叩く音に起こされる。何事だ!

 あたりはまだ暗い。廊下に面した、この部屋唯一の窓の外では、懐中電灯を持ってせわしなく歩き回る影が揺れている。

 「荷物をまとめろ!」

 ドアの外の男は、そう叫ぶと他の部屋に向かった。なんだろう?私はテーブルの懐中電灯を取るべく立ち上がった。

 ピチャリ。

 私は水の中に立っていた。浸水してきたのである。水は既にくるぶし辺りまで来ていた。

写真  まさかの浸水。暗闇での手探りの荷造りの手間取ること手間取ること。

 「このホテルは大丈夫かい?」私は昨夜ホテルに入る時、受付の男にそう冗談を言った。

 「大丈夫。ここは高いから。」彼も笑っていた。お互い全くの冗談のつもりであった。まさかそれが本当になろうとは。

 前々日の夜、雨の中、雨漏りのハイエンホテルを出て、行き着いたホテルは、旧市街のメインストリートにあるフーティンホテルであった。

 外に開かれた窓がなく気に入らなかったが、見所に近く立地条件は申し分ない。夜も遅くなり、他になさそうなので、7ドルで泊まることにした。南京虫を心配したが、幸い悩まされることなく朝を迎えることが出来た。

 迎えた昨日も、朝から激しい雨が断続的に降り続いていた。私は通りの店で、しっかりしたカッパを買い、出来るだけ雨の合間を縫ってホイアンの町を見て回った。

 ヴェトナムの中部に位置するこのホイアンの町は、チャンパ王国の時代から、中国とインド・アラブを結ぶ中継貿易の都市として栄えた所で、16世紀にはタイのアユタヤなどと共に日本人町も作られていたという。

 町の西の端には、当時の名残を残す、来遠橋が架けられていた。別名日本橋という屋根付きのこの橋は、1593年に日本人によって架けられたものだそうだ。

写真  カウライヴィエン、別名ジャパニーズ・ケイブ・ブリッジ(日本橋)。日本の鎖国以前はこの橋を境に、日本人町と中国人町に分かれていたという説があるそうだ。

 その橋から東に延びた、チャンフー通りには、瓦にコケや草の生えた古い建物が多く、軒先には提灯も吊るされ、なんとも趣のある町であった。

 米の粉で作った名物のホワイトローズを食べたり、写真を撮ったりと、私の心はヴェトナム戦争のことを忘れ、すっかり観光モードになっていた。

 町の中ほどに、レロイ41という木彫とシルク刺繍の工房があった。入ってみると、漆塗りの小物入れやシルク刺繍の壁掛けが、冗談かと思える安さで掲げられていた。

 ヴェトナムはどうやら定価販売の文化のようである。客との交渉で、そのへんを自由に操るアラブ商人の世界とはずいぶん異なる。これも実直を価値とする儒教の影響だろうか。

 私は手の平サイズの綺麗な漆塗りの小物入れを土産に買った。何と1個1ドルの安さである。それも何の交渉の労無くしてである。

写真  チャンフー通り77番の家。苔むす瓦の家である。間口は狭いが奥に長い。中は土産物屋であった。

 このホイアンの町は、東西にせいぜい1km程度で、雨の合間を縫ってでも、充分歩くことが出来た。

 ところが、一本南の通りは、既に膝上まで水につかり、そこから先はもうトゥボン川まで、一面茶色の水面で覆われ、人々は船で行き来していた。

 市場も所々、くるぶしあたりまで水びたしであったが、人々は活気に溢れていた。そんな活気を楽しんで、ホテルに帰る頃には、あたりは急に、異様なほどの闇に包まれてしまう。

 というのも、豪雨による停電で、街の明かりは所々で自家発電をする店の灯りのみとなってしまったのである。

 ホテルへの道は一本道で分かり良いのだが、すっかり様子が違ってしまい、私はホテルを通り越して、日本橋まで来てしまう。日本橋付近は既にかなりの広範囲にわたって膝下までの洪水となっていた。

 これは大変と戻りかけると、交差点で川に向かって激しく流れる横の流れに足を奪われてしまう。よろけた私は何とか踏みとどまったものの、膝上まで捲り上げてあったズボンだが、腿までしっかりと濡れてしまった。

 冗談を言ってホテルに入ったのは、そんなズボンを引きずってである。フーティンホテルの敷地は、道路より1メートルほど、なだらかに高くなっていた。「まさかここまでは」ホテルの皆はそう思っていた。

 足に伝わる水の感触の中で、事態を呑み込めた私の頭に閃いたことは、トイレであった。こんな状態ではどこもトイレが全滅であろう。これから非難するにも、もし身内が騒ぎ出したら大変だ。

 幸いこの部屋には洋式のトイレが付いていた。流れようが流れまいがそれは二の次、まず体調を整えなければ、私はトイレに急いだ。

 すると再びドアを激しく叩く音がする。「ウエイト!」私はトイレの中からそう叫んだ。けれどそんな叫びに耳を貸す様子もなく、ひとしきり叩いた後、合鍵を使って入って来る男の声。

 彼らは、なにやら片付ける音をガタガタさせて出て行った。出て見ると二つあったベッドの台が重ねられ、その上にマットが重ねられ、扇風機などの電気製品は、椅子などの上にあげられていた。

 私はそんな中で荷造りをしなければならなかった。昨夜まさかとは思っていたのであるが、虫が知らせたのか、念のためと荷物は全部何かの上に上げて眠った。そこまでは良かったのだが、荷造りの用意まではしていなかった。

 暗い中、手探りでの作業の、もたつくこともたつくこと、自分でもイライラしてしまうほどであった。

 というのもまずカメラはビニールの袋で完全防水しなければならない。更に、乾いた下着は貴重品である、防水対策に時間がかかってしまう。

 また逆に湿った洗濯物もリュックに入れるにはビニールに包まねばならない。そんなこんなで、ようやく荷造りが出来た頃には、ホテルの客のほとんどは既に何処かへ避難していた。

 従業員にどうしたものかと聞けば、ホイタンホテルに行けと言う。とは言っても、前の道は既に川、私は軒先で船の来るのを待たねばならなかった。

 まるで機関銃の乱射のような雨が、トタン屋根を叩きつけていた。

写真  メインストリートのチャンフー通りの一本南は、もう船での往来。そこからトゥボン川までは既に一面の洪水。
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第5章 ヴェトナム
第6話 一路ダナンへ【前編】 No.061No.061
写真  氾濫のトゥボウ川(ホイアン)。歩いて渡ったのは、イメージとしてはこのような感じであったが、当日の写真は、カメラを大事にして無し。所詮私は、カメラマンではなく、カメラマニアであったかと、深く反省。

 突然私の両脇を抱えていた男達の手に力が入る。何かが我々の足をはらって過ぎたのだ。一瞬よろめいた我々は互いを頼りに、何とか踏みとどまる。

 見合わせる顔に痛いほどの雨が降りそそいでいる。我々は黒雲が昼なお暗く覆う空の下で、360°見渡す限り茶灰色の大海のような中を歩いていた。まるで悪夢の中のよう。

 もりもりとコブをなして流れる濁流は既に臍の高さを超えていた。背のリュックは水没するにまかせていたけれど、前のカメラバッグは救いたかった。

 私はカッパの下のそれを、グイと首まで抱え上げ、その下で両の腕を組んだ。水面との距離は手の平の幅しかない。はたしてこの先……。

 いや事態はカメラどころではなかったのである。リュックの重みは道路の上を歩いている限り、濁流から身を守る重しの役目をする。けれどもし路肩から足を踏み外せばひとたまりもない。

 我々は彼方に傾く電柱を道しるべに、一歩一歩、歩を進めた。ダナンまであと8キロと迫る国道1号線でのことである。

 今朝ホテルの浸水で起こされた私は、昨日は歩いたチャンフー通りを、今度は舟に乗って、路面の見える市場近くまで来た。

 そこには警察が来ていて、それを見た船頭さんは、目を伏せて運賃を請求しようとしない。何か規制でもあるのだろうが、こんな時いくら警察でも野暮な事は言わないだろう。

 私は、1万ドン(0.7ドル)を出し、これでよいかと渡すと、彼は黙って受け取りポケットにしまった。

写真  市場付近の、急ごしらえの船着場。バイクのいる通りが、メインストリートのチャンフー通り。私の泊まっていたホテルはこの通りの西。(前日撮影)

 激しい雨にもかかわらず、急ごしらえの船着場には野次馬の人だかり。そんな人にホイタンホテルの場所を尋ねたのだが、要を得た答えが返ってこない。

 どうしたものかと思案していると、男が声をかけてきた。歳は35歳くらいであろうか、バイクで乗せて行こうというのである。2万ドンでどうかという。

 普通ならせいぜい5千ドンのところである。しかしこの雨、彼は強気で譲らない。私は仕方なくホテルが見つかるまで2万ドンということで手を打った。

 ところが着いたホイタンホテルは、満室で断られてしまう。彼が紹介した次のホテルも満室と言う。旅行者が浸水していないホテルに殺到しているのだろう。仕方がない、最高級のホイアンホテルに行ってみた。

 しかしそこも満室で、ただ一室60ドルの部屋が空く可能性があるが、午後にならなければ分からないというのである。

 60ドルも高いが、午後までわからないというのも困ったものである。待ちましたダメでしたでは、次の手を打つ時間がなくなってしまう。

 さてどうしようと顔を見合わせた私に彼は、「内緒で、私の家に泊めてあげましょう。そうでなければ、ダナンへ行くしかありません。」と提案してくれた。

 泊めてもらえれば有り難い。私は喜んで彼の家まで行った。

 ところがその家は、小さな雑貨屋で、あたかも倉庫のように、いろいろ物が置かれた薄暗い土間の一角に、一つのベッドが置かれていた。

 いつもそこで奥さんと寝ているらしい。もし私が泊まるのなら、奥さんは親戚の家で泊まるという。つまり、私は彼と同じベッドで寝るというわけだ。

 ちょっと待った。雨の中を歩き回って、カッパを着ているとはいえ、ほとんどびしょ濡れであった。気持ちは有難いが、この土間の上では、浸水こそしていないものの、さっぱりと乾いた気持ちというのは望めそうもない。

 それに同じベッドで眠るというのは、たとえ住所が特定できる人とはいえ、腹巻の貴重品が少々心配である。

 私はその気で準備を始めた奥さんを引き止めた。ダナンへ行こう。

写真  胸近くまでの深さ。ホイアン、ニーチュン通り。(前日撮影)

 しかし彼はダナンまで30ドルだという。ダナンまでは約30km、普通ならタクシーで10ドルの距離である。

 そんなに高いのならタクシーにすると歩き始めると、「この雨の中そんなもの走ってはいない」と言いながらついてきた。

 確かに彼の言うとおりであった。バスもタクシーも走ってやしない。「仕方がない、25ドルでどうだ」そう切り出した私に、彼はしぶしぶ了承した。

 それじゃと彼の家まで戻ると、奥さんがもう一枚新品のカッパを彼に差し出した。子供が持ってきたヘルメットは、受け取ろうと手を出しかけた私の前を素通りして、お父さんに渡された。

 その二人の心配そうな顔に私も吾に返る。考えてみれば、前もろくに見えない雨の国道を、バイクの二人乗りで突っ走ろうというのである。無謀に近い。

 「ちょっと待った。」

 私はリュックをバイクの荷台に縛り付けている彼を制して考えた。けれど答えがない。エエイッ仕方がない。祈る思いで意を決する。

 「オーケー」そう言ってバイクにまたがり彼にしがみついた。

 「レッツ ゴー!」

 二人を乗せた赤い川崎オフロードバイクは、唸り声と共に身を震わせたかと思うと、目をまともに開けていられないほどの大粒の雨の中を、一路ダナンへ、水しぶきを上げて走り出したのであった。

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第5章 ヴェトナム
第7話 一路ダナンへ【後編】 No.062No.062

 10分もしないうちに彼は震え始めた。バイクの振動でではない、寒いのである。彼の腹に回した私の手も寒さでかじかむ。

 止まっていると、夏の夕立を思わせる雨も、風を受けて走ると、容赦なく体温を奪うようだ。ハンドルを握る彼の手もかじかんでいるはずだ。そんな手での運転が心配である。

写真  道路はいたるところで冠水。国道もその例外ではなかったのである。(前日のホイアン)

 30分も走ったであろうか、行く手は道路一面を覆う水に阻まれてしまう。バイクを降りた彼は、軒先にたむろする人々の中に入っていった。

 深刻な顔で戻った彼は、「行ける所まで行く。ダメなら引き返すが、その場合半額は出せ。」と言う。OK、OK、そうなればそれくらいは仕方のないこと。

 二人を乗せたバイクは、水の中に入り始めた。深さは車軸を越えていたのではないだろうか。バイクが掻き分ける泥水は、後ろに座る私の、膝近くにぶつかっていた。

 しかしさすがはメイドインジャパン、途中時おり不整脈のような音はしたものの、止まることなく走り続けた。

 どれくらい走ったろうか、今に止まるか、今に止まるかと、ヒヤヒヤしていたのであるが、ついにバイクは路面の見えるところに出る。

「やった」

 私は震える声でそう喜んだのであるが、彼は浮かぬ顔をしていた。それもそのはず、冠水がそこだけで終わろうはずがない。

 案の定しばらく走ると、またまた道路は茶色の水に覆われてしまう。私は先ほど喜んだ分どっと憂鬱になってしまったが、そんな私を残し、彼は辺りの人に様子を聞きにいった。

 しばらくして戻ると、震える唇で、しかし確かな口調で、「行こう」、そう私に言った。

 この頃になるともう、バイクを止めても、彼の震えは止まらなくなっていた。芯まで冷えていたに違いない。しかしその芯が、思いのほか強そうなのに私は、頼りにできる相棒に似た思いを持ち始めていた。

 二人を乗せたバイクは、この第二の難関をなんとか突破し、快調に飛ばしていたのであるが、ダナンまであと8kmと表示のある、この町の外れで、どうにもならなくなってしまった。

写真  どうにもならなくなった、ダナンまであと8kmの地点。写真の奥が、ホイアン方向。

 さすがの彼も、バイクを店の横に停め、乗ろうとはしない。ここで水が引くのを待とうというのである。とは言うものの、水かさは増えこそすれ減ろうはずがない。

 三、四十分もいたであろうか。野次馬の中から戻った彼は、歩いて渡ろうと言い出した。もう一人仲間がいるから、三人で歩けばなんとかなるというのである。深さはどれくらいだと聞けば、「多分」と手を腰の高さで水平にした。

 オーケー、私は腰につけていたコンパクトカメラと貴重品を外し、カメラバッグの上に詰め込み、彼らにならって草履も脱いだ。

 草履を履いては、水の中を歩けないというのである。靴は濡れるのをおそれて朝からリュックに詰めてあった。

写真  この先がダナン。あと8kmである。恨めしそうにダナン方向を見ているのが、彼。

 はじめはそんなに大変なこととは思っていなかった。ちょっと水溜りを歩く程度に考えていた。けれど30年ぶりというヴェトナム中部の豪雨は、そんなに生やさしいものではなかったのである。

「イタタタッ」

 我々は得体の知れぬトゲの塊を踏んづけてしまう。しかし今や臍の高さの濁流の中である。どうすることも出来ない。

 そればかりか、バランスを崩し、畑へ流されれば、恐らくそこは背を超える深さであろう。痛かろうがその足で踏ん張るしかない。

 その踏ん張った足の裏に、かなりのトゲが刺さったようだ。踏み出すたびにチクチクと痛みが走る。

 しかしそれは、その痛さ以上の恐怖を、私の心に呼び覚ます。我々は下に何が在るかわからない所を、裸足で闇雲に歩いていたのである。草のトゲならまだしも、釘の出たものや、ガラスの破片ででもあったら、大怪我をしかねない。

 大事に靴を守って、足を痛めている姿は、もし観客が見ているとすれば、爆笑の場面であろう。けれど頭に浮かんだのは、喜劇ではなく、救出の寸前で濁流に呑み込まれていくドキュメント番組の映像であった。

 想像していただきたい。大雨が視界を遮り、数十メートルも先は、天も地も区別のつかぬ灰色である。

 視界を遮られるということの、心理に与える意味は、そこで終わりということではない。それは、それが無限につづくという事である。

 その無限の彼方から、もりもりと茶灰色の濁流が押し寄せ、そして、もりもりと流れ去っていく。そんなはてしなくつづく薄暗い大海原に、三人ポツリと取り残されているのである。

 夢に出てきたような光景である。私の腕を抱える彼らの手に力が加わる。

 そんな思いで歩いたのはどのくらいであったろう。私には一時間にも思えたのだが、やっと先に五、六人の人影が見え始めた時の安堵を今も忘れられない。

 対岸に着いた我々は、彼が探してきたバイクに3人乗りして、ダナンの街へ向かった。

 彼の勧める政府経営のホテルへは、冠水の為また手前でバイクを降りなければならなかったが、もはやこの程度は我々にとって水溜りも同然である。

 そこから歩いて、二人がやっと海岸縁のミケイホテルに着いたのは、午後の4時過ぎであった。

 ホテルはとても立派で、部屋は5ドルからあり、私は15ドルの、海岸の見える広々とした窓とテラスのある、素晴らしい部屋に決めた。

 手続きに戻ったロビーで、タバコをくゆらせている彼に私は、値切った額ではなく、彼の言い値の30ドルと、暗くなりかけた今からでは、とてもあの海原を渡っては帰れないだろうと、宿代として5万ドン(3.5ドル)のチップを渡した。

 普段の私なら、考えられない破格の額ではあったけれど、彼の仕事は、充分それに値するように思えた。

 彼は言葉少なに笑顔でそれを受け取ると、まるで特別なことは何もなかったかのように去っていった。

 「やりとげる」、ひょっとしてヴェトナムの人々の間では、そんな言葉が当たり前すぎて、大した意味を持たないのかもしれない。

 30年の戦いを支えた、ヴェトナムの風土だろうか。

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第5章 ヴェトナム
第8話 ダナン脱出 No.063No.063

 何から何までずぶ濡れであった。着ていた物を脱ぎ、バスタブに放り込めば、水が一気に赤茶の泥で染まる。

 とりあえずシャワーを浴びた。温かいシャワーが素晴らしい。タオルを腰に巻いて、まずカメラを調べた。

 カッパの下で抱えていたカメラバッグは、まわりはぐっしょりと濡れてはいたものの、ビニールに包まれた本体は無事であった。

 これさえ良ければ、他のものは干せば乾く。下着を調べてみた。リュックの上の方に厳重にビニールで包んだ一組が何とか無事であった。

 その他全て、棚やテーブルに並べ、衣類は部屋に張った紐に吊るした。

 背を丸めて抜いた足のトゲは、十ヶ所を数え、ヨウチンの染みる切り傷が数ヶ所あったが、化膿でもしない限り無傷に等しい。

 やれやれと緊張の糸が解けると、急にお腹がすいてきた。そういえば朝からほとんど食べていない。ところが、気がついてみると、食堂へ履いていくズボンがない。

 仕方なくバスタオルを腰に巻いたまま、行くことにする。幸いなことにこの雨で、宿泊客はいないようで、食堂は私一人であった。

 3万ドン(約2ドル)のチキンライスは、少し高かったけれど、鳥のモモ肉の乗った、ボリュームたっぷりのもので、熱いスープがたまらない。

 満足満足で部屋に戻って気がついた。明日履いて行くズボンがない。この分では生乾きも無理である。

 何も予定がなければ、それでもかまわないのだが、明日の朝は飛行機に乗らなければならなかった。こんな時格安航空券は困る。ゆうずうがきかない。どうしよう……。

 そうだっ!アイロンで乾かそう!電熱器をアイロンにして。

 私はお湯を沸かしたり、ちょっとした料理が出来る、小さな電熱器を持ち歩いていた。金属板が熱せられ、その上にのせた容器が、温められるという仕掛けのものである。

 これはモロッコの旅で出会った女性に教えられたもので、少々重いという難点はあるものの、それさえ我慢すればとても便利なものであった。

 日本人というのは、結構熱いものが好きなように思うのであるが、私もそのうちの一人で、特に朝などは熱いお茶なりコーヒーが部屋で飲めるというのは大変魅力である。

 この電熱器さえ持っていれば、朝食は、前日にパンでも買って、下手なレストランより、はるかに贅沢に、はるかに安く、済ませることが出きる。

写真  大活躍の電熱器。世界中の電圧に対応し、持ち運ぶときは上の器にすっぽりと入る仕掛け。大変重宝。

 その電熱器にご活躍願おう。この考えは実にうまくいった。濡れたズボンが見る見る蒸気を上げ乾いていく。我がアイディアに自画自賛、鼻歌交じりで作業を進めていた時である。

 「アッアッ」

 最近のファスナーはプラスチックなのである。チュルチュルと半分融けてしまう。少し手前で止めておけば完璧なアイディアも、おかげで台無し。

 縫い合わせるより仕方がない。ファスナー半分の余裕は、なんとか履いたり脱いだりは出来るものの、用を足す時にはズボンを下ろさなければならないはめになってしまう。

 とはいえズボンは気持ちよく乾いて、明日を待つことになった。

 その日の夜は、誰もいないガランとした大きな別館で、カーテンのない大きな窓の向こうの、波音聞こえる闇が、少し恐ろしかった。闇を恐ろしいと感じたのは、子供の頃以来、すっかり忘れていた感情であった。

写真  翌朝のダナン、ミケイホテル前の海岸。まだ黒雲が渦巻いていた。

 翌朝雨は、降ったり止んだりの状態ではあったが、雨脚は弱まっていた。予約のタクシーに乗り込んで、道の状態を聞けば、多分大丈夫とのこと。

 その言葉どおり、一箇所水没はしていたものの、タクシーの通れる程度で、8時45分、無事ダナン空港に着いた。

 ところが空港は大混乱。臨時便を運行してはいるが、一昨日、昨日の人を優先しているという。もし空きがあれば席をとるので、もう一度9時半に、カウンターまで来てくれという。

 とても乗れそうにないように思えたが、こういった場合、私は時間どおりに来たのだから、いくら格安航空券でも、何とか振替便を用意してくれるだろう。

 そう安心して、入り口付近の椅子で待っていると、意外なことに気がついた。大混乱のわりには、それほど乗客が押し寄せていない。どちらかというと、今空港にいる人だけでごった返しているのである。

 恐らく道路が、各所で寸断され、遠くからは来られないのであろう。ひょっとして乗れるかもしれない。その読みどおり10時発臨時便のボーディングチケットを手にすることが出来た。

 安堵の思いで中に進むと、待合室で五人組の日本人に会った。

 「ひどい目に合いましたよ」といきさつを話したら、「それは良かったですよ」との応え。

 ??…何がよいものか!と不審に見つめる私に彼等は、フエは今、陸の孤島となってしまい、ヘリコプターで援助物資が運ばれていると言うのである。

 「もう一日でも遅れていたら、ひょっとして今ごろは……」

 人の気持ちとは妙なものだ。同じ体験でも、それを包む物語によって、白と黒が逆転してしまう。

 ひょっとして私は、危機一髪の手前で、フエ、ホイアン、ダナンと、最悪の事態をすり抜けていたのかもしれない。

 昨日にしてもそうだ。もしホイアンでホテルが見つかり泊まっていたら、とても今朝はここには来られなかったであろう。

 「なんと不運な」と思っていたここ数日が、「なんと幸運な」と思うべきだったような気がしてきた。「恨み」が「ありがたさ」に変わる。事実は何も変わっていないのに。

 そんな思いを乗せて、午前11時、臨時VA3251便は、轟音と共に見る見る加速を加えたかと思うと、ぐいと機首を持ち上げ、ふわりとダナンの空へと浮かび上がった。

 考えてみれば、人生も、このようなものなのかもしれない。

 安心したり、不安に駆られたり、むしろ、この思い込みの方に踊らされているような気もする。この容易に反転しうる物語に。

写真  豪雨によるヴェトナム中部の惨状と、救援活動を伝える新聞。右下は、堤が流され、宙に浮いてしまった線路の上を渡る人。
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第5章 ヴェトナム
第9話 その手は食わぬ No.064No.064

 市内を走るバスなのにビデオが上映されていた。客は私を含めて3人。それでもバスは出発した。

 日本ででは当たり前の光景だが、アジアでは結構珍しい方だ。大概の国ではある程度客が集まるのを待って出発する。ひどい時には、満席になるまでいつまでも待たされることもある。

 けれど中国は違っていた。中国の公営バスは客が居なくても時間には出発した。(もっとも、民営バスは客が集まるまで、ぐるぐる回っていたけれど)我々もそうだが、無駄より決まりに比重を置いて気持ちよしとする価値観はどのあたりから来ているのだろう。

 儒教の伝統だろうか、それとも単に経済的余裕の問題か、あるいは近代ビジネスのなりゆきか、それとも親方日の丸の社会主義のなせるものだろうか。日本人が時間にルーズを嫌がるのは、どれほど前からなのだろう……。

 私はそんなとりとめもないことを考えながら、走り始めたバスに揺られていた。ホーチミン市チョロン地区からの帰り道であった。

 昨日はデタム通りの旅行会社シンカフェの主催するメコンデルタの一日ツアーに参加した。

 うっそうとしたニッパヤシの中を小舟で分け入るこのツアーは、メコンジャングルの雰囲気を満喫出来るにもかかわらず、食事も付いて6ドルと、とても安い。 結構日本人参加者も多くて、旅の話に花が咲いた。

 そのツアーで案内されたキャンディ工場で土産にココナツキャンディをたくさん買ったのだが、他に面白いものはないかと、このチョロン地区に来て見たのであった。

写真  ニッパヤシの茂る水路をくぐって、奥へと進むメコンツアー。気分満点。

 市の中心から西へ5kmのこの地区は、ホーチミン市の華僑の大半が住むところで、フランス映画「愛人・ラマン」の舞台として、御存知の方も多いことであろう。

 地区の西、ビンタイ市場の近くには、200年も前の建物が残っているかと思えば、少し北のフンブオン通りには、30階を越える高層ビルが建っていた。

 私は土産のことはすっかり忘れて、歩き疲れるほどチャイナタウンの雰囲気を楽しんでしまう。

写真  ホーチミン市チョロン地区ビンタイ市場前。市場にはあらゆるものが所狭しと並べられ、活気に溢れていた。

 そんな私を乗せたバスは、チョロン地区を抜け、東の市街を目指していた。時間には律儀に出発したバスではあったが、上映されるビデオに、車掌さんも座って見入っている。

 このあたりは日本と違うところだと思って見ていたのであるが、その彼女、バス停では、乗ってくる年配の人や子供に、いちいち手を差し伸べて引っ張り上げていた。

 この触れ合いも日本とは違う。自然と切符のやり取りにも会話が生まれる。日本の味気ないワンマンカーのアナウンスではない。

 ピカピカノ新車のバスが良いか、少々古くても人の乗っているバスが良いか、意見の分かれるところであろうが、私は出来ればこんなバスであってほしいような気がするのであった。

 けれどこれは、単にバスだけの問題ではなく、生活リズムとも深くかかわっていることかもしれない。

 そんな車掌さんに、ヴェトナムの人々の一端を見せられたように思いながら、市の中心のターミナルでバスを降りた私は、まだ夕暮れには少々時間があったので、その足で、旧大統領官邸前の公園あたりを散歩することにした。

写真  旧大統領官邸の正面、レユアン通りの両側は、広々とした公園になっている。菅笠に天秤棒の女性が少し一服してうどんを食べていた。

 あの4月30日解放戦線の兵士が、ホーチミンサンダルで駆け抜けたであろうその通りを通って、公園に入った時である。十歳位の男の子が、私の前に立ちふさがり、手を差し伸べてきた。

 何の用かと聞いて見ても、こちらを見つめるのみで何も言わない。どうやら何かをねだっているようである。残念だけど答えはノーだ。未来ある子を物乞いに育てるわけにはいかない。

 ところが、避けて通ろうとすると、また私の前に立ちふさがり、今度は私に触ってくる。明らかに遊ぼうとしているのではない。いくら子供とはいえ、不用意に触らせるのは危険である。「ノオ!」私は語気を強めて彼を手で払った。

 と、その時である。私の腰に何かがブランとぶら下がり、揺れている。何だろう?

 なんと私の膝の下で揺れていたのは、私のコンパクトカメラではないか。振り返った私の前には、同じくらいの男の子がもう一人立っていた。

 時間が止まったかのような一瞬の後、はじけるように二人は走り去った。

 彼等は二人組み、一人が私の気を引いておいて、もう一人が、背後から抜き取ったのである。見事にやられてしまった。けれどインドネシアでの教訓が私を救った。

 あれ以来、大事なものは一動作では抜き取れないようにしてある。腰のコンパクトカメラも70cmほどの紐でベルトにつないでいた。そのカメラが、彼の手の中ではなく、私の膝の下にぶら下がって揺れている。

 逃げる彼らに「コラッ」と怒鳴ってはみたものの、少々複雑な気持ちで追いかける気にはなれなかった。勿論そんな行為を許すことは出来ないけれど、彼らもむしろ被害者のようなところがあるようにも思えたのである。

 抜き取られるまで気づかなかったという悔しさと、紐で対策をしていたことへの愉快さと、そして、それが年端もいかぬ子供であったことへの戸惑いは、ヴェトナム社会のもう一つの側面の、にがい現実の味がした。

【第5章 ヴェトナム 完】

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