人は持ち合わせている物語を出来事に投影してはじめて、それが何かを理解出来るようである。

 例えば神話は、そんな役目を担っていたのであろうが、その意味で、戦争にどのような物語をもつかは、具体的政治とは別の次元で重要な事だと思う。

 そう思う時、戦争の善悪が、人権や自由や平等の役所ほど、人々の中に定着していないように思えるのは残念なことである。

 というのも、戦争そのものは、誰しも善とはしないまでも、自由とか神とか祖国とかにくっつけて善悪が揺れる。

 「戦争には良い戦争と悪い戦争がある…」「これは平和の為の戦争だ…」「ジハードに立ち上がれ…」

 共通して言えるのは、目的こそが現実で、手段はまるで絵空事のように描いていることである。

 違う! 事実はその逆だ。目的はあくまで絵空事。手段こそ現実、取り消すことも、やり直すことも出来ない実際、覆水は盆に返らない世界である。

 戦争はそこでの出来事。諸々に関連しあった具体系をギシギシと回してしまう。命を土にまみれた単なる肉片へと変え、社会を破壊し、人のつながりを引き裂き、耐え難い悲しみと恨みを増殖し、また他方では、人に潜む狂気を解き放ち、人たる心を破壊する。

 美しく描いた如何なる目的(絵空事)も、この現実を帳消しには出来ない。出来るのは、スポットライトに目を眩ませ、おびただしい悪事を舞台の闇へと隠すだけ。だから例え「平和のため・祖国のため」と語ろうと、悪事である戦争のこの正体は変えられないのである。

 とはいえ具体的政治の次元では、戦争がこの世からなくなるとも思えない。

 もっとも、個人が仇討ちを放棄したように、国家がその権利を放棄し、国際警察のようなものでも出来て機能すれば話しは別だが、残念ながら、自分達の国は自分達でというのが現状のようである。だから止むを得ない場合があるとは思っている。

 けれどそれは、たとえ相手のある事とはいえ、悪政の末路、究極の悪事であることに変わりはない。だから優先すべきは、するよりもしないこと、拡大より縮小、勝つよりも止めること。如何なる物語を持つかは、光を当てるところを変える。

 またその後の儀式も色を変える。戦死者はその悪事の犠牲者であって、決して英雄ではない。

 先の大戦で多くの戦死者を出しているわが国、「それでは死んでいったものが浮かばれない」と言われるかもしれない。

 けれど私はそうではないと思う。家族もあり夢もある実際の人にとっての戦死は、決して勧善懲悪の娯楽番組のように単純ではないと思う。

 私は彼らに、悪事の犠牲者として花を手向けてこそ、そこに参加せざるを得なかった人々の無念さと、それでも耐えようとした勇気に、敬意を払うことが出来るのだと思う。