ガンジーを読む ――  Ahimsa の意味

Ahimsa、悟りともいえるガンジーの思想の核心を表現するこの言葉は「non-violence」とか「不殺傷/非暴力」などと訳されている。

間違いではないのだけれど、この訳語のイメージを出発点にガンジー観を組み立てようとすると、彼のさまざまな実践、例えば、Brahmacharya (Celibacy・禁欲) とか Aparigraha (non-possession) とか Satyagraha (passive resistance・非暴力不服従) といった彼の試みが、それぞれ独立した思いつきの寄せ集めに見えてしまう。

ところがそうではない。Ahimisa の謎が解けると、全てが一つに見えてくる。全てAhimsaの実践なのである。ここに紹介するのは、そのように彼の自伝を読んだ私のガンジー観である。

従って彼の具体的実践の軌跡には触れていない。というより、その点に関して私はまったく無知であることを告白しておかなければならない。

だからガンジー研究者から見れば、なんとも大胆すぎる想像かもしれないが、一見さまざまに見える彼の試みが、全て一つの心へと像を結ぶことから、もしかして彼の思想の核心に迫ることが出来ているのではと、期待している次第である。

1、Ahimsa (アヒムサ)

Ahimsaとは、語源的には [not + injure] を意味するようで、古くはジャイナ教をはじめ、仏教、ヒンドゥー教で尊ばれる不殺傷の戒律だそうである。

けれどガンジーは、だから守ろうとしたのではないと思う。もしそうだとすると、戒律のコレクションを一つ手にしただけで、生き生きとした彼のさまざまな実践の発想は出て来そうにない。

そうではなくてガンジーは Ahimsa のその向こう、「何故に Ahimsa なのか」というところで、悟ったのだと思う。

悟りとは感情も含め心で理解することであり、頭で理解する知識とは違って、生まれ変わるに等しい。悟った後では、同じ世界も次々と、まったく別の世界に見えて来る。

で、それはどのような?と彼の世界を追体験したくなるのだが、残念ながら我々凡人は、ガンジーと同じように悟ることは出来ない。けれどガンジーの言動のいくつかを結びつけることにより、それを推測することは出来る。

その推測をもとに再構成してみると、「何故に Ahimsa ?」という問いへのガンジーの悟りとは、仏教の言葉を借りて言えばほかでもない「存在は縁起である」という実感の体験だったと思う。

そして Ahimsa とは、それを悟った人の現実社会での行動原理にほかならない。

縁起と言うと「縁起が悪い」などと日常の日本語で使われる「縁起」を思い浮かべる人も多いことだろう。けれどそれと無関係とは言わないまでも、その意味は少々異なる。

それは言うなれば、「この世には自存するものはなにもなく、存在は全て、その関係する他者との依存関係によってなる」といった把握である。

この点の問答が「ミリンダ王の問い」で興味深く紹介されていたように記憶するが、例えば西洋的に表現して「地球上の全ての存在は、お互い密接に関連しあった生態系の一員としてしか存在し得ない」といったエコロジー的表現から類推してもらっても良いと思う。

不殺傷と訳される Ahimsa の側面も、当然ここから出てくる。全ては自分に等しく一体なのだから、他を傷つけることは即ち自分を傷つけていることであり、全体を傷つけていることなのだから。

けれど西洋的エコロジーと違ってむつかしいのは、縁起と見ることは、自我をも消してしまうというところである。

人は生きている以上、自分を維持しなければならない。だからどうしても自分中心、自分ひいきの感情で外界を理解するように進化してきた。

例えば聖書創世記では、人はこの世を統べる為、他の生き物は人に利用される為、という思想で描かれている。

とはいえこういった傾向は、人の外に蓄積されるこのような文化の産物ではなく、進化の過程で身に付けてしまった内からの衝動、言うなれば「人の業」といったものである。

けれどその色眼鏡で捉えた世界は、真の姿ではない、真の自分ではない。ありのままの世界をありのままに捉えるには、自我の目ではなく、存在を縁起としてみることが出来る Ahimsa の目が必要である。

けれどそこに出現する世界は、色眼鏡の色を消し、自分ひいきの感情を消す。思い込んでいた自分の価値が消されていく。

従って Ahimsa は外に向かっては真実をありのままに捉える態度であるが、内に向かっては、自我を蚕食する。だから Ahimsa の実践とは、自我から見れば、その苦痛の実践でもある。

2、「禁欲」は苦行というよりAhimsaの実践

ガンジーは伝記全体を総括した最後の章で、"Identification with everything that lives is impossible without self-purification." と言う。

"Identification with everything that lives " これこそ英訳ではあるが、彼の見る縁起の表現である。個でありながら他者によってなる、個でありながら切っても切れない全体によってなる、そんな上下なき存在共感、そういった Ahimsa の認識である。

そしてそれは自己純化なしにはあり得ないという。ではその自己純化とはどのようなものであろう。彼は続ける。

"To attain to perfect purity one has to become absolutely passion free in thought, speech and action."

自己純化とは心と言葉と行動、その全てにおいて感情に支配されないことだという。これが Ahimsa に要求される不可欠の必要条件である。先の表現で言えば、自我の目から離れることである。

その状態に至ろうと、ガンジーは工夫を凝らしていろいろと試みる。彼が実践したという Brahmacharia(Celibacy・聖職者の禁欲) も、多少インド固有の歴史性で着色されているとしても、そもそもは、何か既存の宗教的戒律というより、自我感情の克服を意図しての Ahimsa の試みだったのだろう。

また私などはたかが食べ物と思えるベジタリアンへのこだわりも、インド伝統の不殺傷思想のみならず、古き宗教者とは違って、科学的(=物質的)に感情コントロールを試みてみようとした、体質改善の実践だったような記述も見られる。

3、現実の真の姿こそ神

"The only means for the realization of Truth is Ahimsa."

英語で Truth と訳される語は、日本語では「真理」と訳されるが Ahimsa もお決まりの「非暴力」と訳して、既存の訳本のように、ここのところを例えば「真理実現の方法は非暴力以外にあり得ない」と訳したとしたら、はたして意味は通じるのだろうか。

Truth に当たる語も、真理には違いないのだろうが、 Ahimsa から理解しなければ意味が通じるものとはならないだろう。

つまり、存在を自分から見るのではなく、自己中心の感情を離れ、縁起として、他者によってなっていると見ることが出来る時、初めてそこに存在の真の姿が現れ出る。それこそ神の姿にほかならないと言うのである。

彼は続ける。"There is no other God than Truth."と。色即是空と形而上に上っておいて、実は空即是色と形而下を悟る禅の態度に似ている。

ガンジーにとって神はどこか雲の上にいるのではない。妄心を離れて見ることで出現したありのままの存在、その姿、その現実こそ神にほかならないというのである。ガンジーは言う。

"Those who say that religion has nothing to do with politics do not know what religion means."

かくてガンジーはその一生を政治活動に捧げる。けれど彼にとって政治は、階級の利益でもインド人の利益でもない。

それは支配者の自分ひいきがつくり出す歪められた諸関係の是正、 Ahimsa の実践による Truth の実現、そしてそこで神に出会うことへの熱望だったに違いない。

4、無抵抗不服従運動はむしろ積極的抵抗

南アフリカで当初は"passive resistance" と呼ばれていた運動 Satyagraha (サチャグラハ) は、日本語では「無抵抗不服従運動」と訳されるようだが、その名の由来は、英語の呼び方では不十分ということでいろいろ仲間と考えた中「Sadagraha (Sat=truth, Agraha=firmness)」として提案された名前をガンジーが内容をより表にと Satyagraha に変えたのだそうである。

だからガンジー達は単に"passive resistance"というようには考えていなかった。

抵抗と言えば「武器を持って戦う」ことをイメージするとすれば、その対極としてガンジーの手段を"passive resistance"と表現することも出来るかもしれない。

けれどガンジーにとってはむしろ passive ではなく active なものだったに違いない。

というのも、 Ahimsa から見ると、存在は縁起なのだから、互いに他者を存在せしめている関係であり、その一方が関係を拒否すれば他方も存在しえないということである。

そう、Satyagraha は、相手の存在基盤を奪う極めて攻撃的な運動でもあるのである。決していじめられて抵抗できないから、黙っていて影で従わないといった代物ではない。

もっとも、現実の世界での諸関係は複合的で、戦術として何処の関係を拒否することが実現可能で効果的かと、その具体化に苦労したことをうかがわせるが、いずれにせよ関係を拒否するだけでは事は済まない。

というのも、我々は縁起としてしか存在し得ないのだから、一方の依存関係を拒否するには、別の依存関係をつくらなければならないということだ。

Khadi という木綿のインド古来の方法による生産への取り組みは、そういったことの一つではなかったろうか。

つまり Satyagraha とは単に依存関係の拒否ではなく、新しい依存関係への移行でもある極めて創造的な運動なのである。

ところで一つお気づきだろうか。 Ahimsa は自我と対立する。なのに Satyagraha は自己の利益を求めての自我の主張なのではないのだろうかと。

具体的歴史の知識はないのだけれど、そのようなことをうかがわせる章がある。[29:The Rowlatt Bills and My Dilemma] 〜 [33:A Himalayan Miscalculation] の章である。

イギリス支配のローラット法に反対して、1919年 Satyagraha として全国に呼びかけた罷業(hartal)が、パンジャブ州Amritsarでのイギリス軍による市民の大虐殺を頂点にした騒乱に発展したことに関してのガンジーの総括である。

未だその段階でない民衆を闇雲に Satyagraha運動に引き入れたことの間違いを認め、深い反省と、今後そういうことを避けるためにどうすればよいかといった総括を述べている。

私にはこの展開は、多くの犠牲者は出したものの、参加した民衆に否はなく、むしろ更なる前進を呼びかけるべきではないかと Ahimsa を理解するまでは、この章の意味がわからなかった。

けれど Ahimsa の理解を基礎にすると、納得がいく。おそらくガンジーは、人々が積年の怨み辛みを爆発させ、自我感情のぶつかり合いへと事態が展開してしまった現実を否としたのだろう。

何故なら彼にとって Satyagraha は、自己の利益拡大といった分捕りあいの戦術ではなく、あくまで Ahimsa の実践、欲に歪められた諸関係の是正、神の姿としての Truth の実現運動であったのだから。

 引用の自伝は MOHANDAS K. GANDHI AUTOBIOGRAPHY ―― The Story of My Experiments with Truth (Mahadev Desai Dover Publications, Inc.) より
価値マンダラ思考 2009/6/15
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