旅に出よう ゆれる心に 耳を澄ませて
旅・写真集 No.121
Tuol Sleng (トゥール・スレン博物館) カンボジア 2002.11
【旅に出よう】 第10部 第2章 カンボジア No.164 第7話 恐怖のトゥール・スレン
【緯度経度】に関して
トウール・スレン
Securit Office 21 (S-21)、またの名をトゥール・スレン。高校の校舎を転用してつくられた監獄。ポルポト支配下での激しい拷問と処刑の舞台。
【緯度経度】 11.549492, 104.917672
 
尋問室
尋問室
 
犠牲者写真
1979年、救国戦線とベトナム軍がプノンペン突入した時には、まだ生々しい遺体がベッドに放置されていたと聞く。
 
犠牲者写真
足枷。人々は壁に鎖で繋がれた足枷をはめられた。小さいのは1m程の鉄棒で、4人が繋がれるようにできていた。大部屋では、6〜10mで、両サイドに20から30人がその鉄棒につながれていた。(トゥール・スレンパンフレットより)
 
犠牲者写真
片目をはらした少女の目は、まるで私の心をペンチでつかむように、強く容赦なかった。ポルポト支配下の3年と1ヶ月と20日、2,000人を越える子供が、此処トゥール・スレンに連れてこられ、誰も生きては出られなかった。
 
ポルポト兵士
ポルポト兵士
 「…10歳から15歳の少年少女が、S-21のガードとして選ばれ訓練された。彼らは普通の少年少女としてスタートしたのだが、みるみる冷酷さを身につけ、特に残酷で年上にも何の配慮も払わない人間へとなっていった。」(S-21パンフより)
 
犠牲者写真
此処トゥール・スレンに逮捕された人々は、顔写真を撮られた後、尋問され殺されていった。その数、1,4000人を超えると言う。救国戦線とベトナム軍のプノンペン解放によって生き延びたのは、わずか7名。
 
独房
 かつての教室は、いくつもの独房に区切られていた。
 
独房
…何もしてはいけない。静かに座って私の命令を待て。命令がない時は、静かにしていること。私に何かせよと言われたら、ただちに、何も言わずに、遂行すること。(トゥール・スレン規定より)
 
ポルポト
ポルポト、本名サロト・サル。パリに留学。アメリカの傀儡ロン・ノル政権に対抗して、シアヌーク派とカンプチア民族統一戦線を結成。1975年4月プノンペンを制圧。民主カンプチア政府を樹立、ただちにシアヌークを軟禁状態にし、都市住民を農村へ強制移住させるなど、恐怖の政治を始める。
 
拷問
7人の生き残りの一人ヴァン・ナースさんの絵。左は窓の隙間から垣間見た情景の記憶を元に描いたのだと言う。上映されていたビデオで、実際もそうだったと、当時の看守が証言していた。
 
拷問
水攻めの拷問器具と、それを説明する絵。


 
 彼らの叫び、聞こえますか?じっと耳を傾けて下さい。みんな、必死に叫んでいます。ほんの一部ですが、トール・スレンから帰らぬ人々の写真です。
1970.3.18 ロンノルのクーデター // シアヌーク、クメールルージュ(カンプチア共産党)も含めカンプチア民族統一戦線を結成。米国の傀儡ロンノル政権との戦いを開始。 // ベトナム戦争のカンボジアへの拡大。
1975.4.17 クメールルージュ、プノンペン入城、カンボジア制圧。 // ただちにプノンペン市民200万人を農村へ強制移動。 // シアヌークを軟禁。 // 翌年から次第に粛清がエスカレート // 飢えと病気、それに張り巡らされた監視の目の中で、一言でも不満を漏らせば、人知れず組織に殺されるという恐怖の社会へ。 // ポルポト支配の3年余で、犠牲者は150万人を越えて。
1979.1.7 ヘンサムリン率いるカンプチア救国戦線とベトナム軍、プノンペンを制圧。 // ポルポト、タイ国境へ逃走、ゲリラ戦へ。
1991.10.23 パリ和平協定。国連カンボジア暫定統治機構設立。
1998.4.16 ポルポト死亡とタイ軍発表。各国カメラマン遺体確認。